2013年1月8日

1月8日 塩釜市浦戸諸島・桂島 小泉善雅さん(2) 『うらと海の子再生プロジェクト』


宮城県塩釜市、浦戸諸島・桂島からのレポートです。

味の濃い、良質な牡蠣の産地・桂島は、震災後の早い段階で養殖に必要な資材・施設を復旧しました。これはインターネットを通じた全国からの支援の力が大きいのですが、そのアイデアの発案者が、牡蠣漁師・小泉善雅さんです。塩釜市生まれの小泉さんは、東京での会社員生活を経て、30代半ばで地元にUターン。牡蠣漁師として第二の人生を送ろうとした矢先、震災に見舞われました。

★うらと海の子再生プロジェクト
震災当日は桂島におらず、松島湾内の別の場所で被災した。1〜2週間後、ようやく桂島と連絡がついたのだが、「全部流され、先行きが見えない状態。桂島じゃなく、塩釜(島外)で別の仕事があるならそっちにした方がいい。漁業は無理だ。先行き真っ暗で見通しが立たない」と言われた。ようやく桂島に入れたのは4月2日。ちょうどその頃、システムエンジニアをやっていた兄の無事がツイッターで分かり、ツイッターという存在を知った。それを利用して島の情報を発信しようと考えたのだけど、場所はネット環境の整備されない離島。そんな中、たまたまアメリカのNGO団体(国際NGOオペレーション・ブレッシング・インターナショナル)が支援の要望を聞いてきたので、ネット環境の整備をしてほしいと要請。翌日には発電機とノートパソコンとポケットWi-Fiを持ってきてくれた。兄を呼んでツイッターのアカウントを取り、「うらと海の子再生プロジェクト」をはじめた。とにかく支援金を呼びかけ、牡蠣、海苔、ワカメでお返しをする一口オーナー制度をツイートした。


「うらと海の子再生プロジェクト」の一口オーナー制度の支援金呼びかけで集まった金額は、約1億8500万円(2011年4月〜6月の2か月間、およそ1万3000人)。支援金の多くはすでに漁業資材、設備、かさ上げ工事などに活用されています。そのほか、国際NGOやロータリークラブからの支援を受けた桂島では、小泉さんを含む牡蠣漁師9人は、全員廃業を免れ、漁を続けています。

『うらと海の子再生プロジェクト』
(※一口オーナー制度・支援金の募集は打ち切られています)

2013年1月7日

1月7日 桂島の牡蠣漁師・小泉善雅さん(1)



先週に引き続き、宮城県塩釜市 浦戸諸島、桂島からのレポートです。
牡蠣やワカメの産地として知られる浦戸諸島では、『うらと海の子再生プロジェクト』という漁業再生の取り組みが続いています。プロジェクトの代表は桂島の牡蠣漁師・小泉善雅さん。小泉さんは東京での会社員生活を経て、地元・塩釜にUターン。36歳で牡蠣漁師として、おととし3月に独立した直後に震災に遭いました。

◆住民票を移した翌日に震災。カキ養殖業の資材も家も失う
震災直前に、桂島の漁師たちに受け入れてもらい、牡蠣養殖業をするはずだったが、正式に始めることが出来たのは震災後。木材関係の商社マンを辞めて、地元・塩釜に帰ってきた。自然の中で生きたいという想いがあった。6年前、たまたま知り合った松島の牡蠣漁師の方の下で修業。牡蠣漁師として独立をめざして転々としていたところ、宮城県漁協浦戸支所と繋がり、桂島の漁師として受け入れてもらった。震災直前の3月6日には桂島の漁師の集まりに参加して、新人漁師として紹介してもらったばかりだった。民宿だった家を借りて、牡蠣の漁業体験や海外の観光客の長期滞在も可能なゲストハウスをやりながら、牡蠣漁もできれば面白いのではないかと考えていた。住民票を3月10日に移し、船も譲ってもらったばかりだったが、船は一度も乗ることなくどこかへ行ってしまった。家は全壊で更地に。揃えていた牡蠣養殖用の資材もすべて流された。そうなってしまったのは仕方がないから、とにかく動き回った。


牡蠣漁師として独立した矢先に起きた震災。しかし小泉さんは、受け入れてくれた島の漁師たちへの恩返しと、後継者不足を抱える漁業の再生のため、「うらと海の子再生プロジェクト」を立ち上げ、活動を始めたのです。(続く)

『うらと海の子再生プロジェクト』
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パーソナリティ 鈴村健一

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