満月の扉辻村アズサ

第9話 全てが終わる夜

水嶋に連れられてきたマンションは、この辺りでは高層の域に入る、目立つ建物だった。暗がりで全てを把握しきれたわけではないが、見たところでは15階建てくらいだろう。
水嶋はロビーを真っ直ぐ突っ切ると、迷わずエレベーターに乗り込む。俺もそれに続いた。無造作にボタンを押す。指定された階数は15階だった。エレベーターは緩やかに上昇し始める。
無言のエレベーター内。特に水嶋と喋ることなど、浮かびもしなかった。目の前の現実よりも、渦巻く後悔の念、それから最期に目に焼き付いたマユの泣きそうな顔ばかりが頭の中を支配している。
こんな時になってまで、気のきいたことも何も実行に移せない自分が、たまらなく情けなくて許せなかった。
(あの、時)
俺は自分の心が張り裂けることを恐れた。いや、それは構わなかった。ただ、彼女の前でそういう自分をさらけ出したくなかった。だから、マユの前から逃げ出したのだ。それは多分、自分の安いプライドが駆り立てた行動だったのだろう。
__マユちゃんは、浩輔を傷つける為に嘘をつくような子だった?
瑞穂に問われた言葉。
そんなもの、問うだけ無駄だ。だって答えは決まっているから。
(マユは確かに俺をからかうことが好きな奴だったけれど、他人を傷つけるような嘘をつく子供ではなかった)
そんなことは自分が一番よく分かっている。分かっていた、はずだった。
だけど、俺も余裕がなかった。
言い訳が許されるとすれば、俺もマユに嘘をついていた。そして自分に嘘をついていた。
あのマユを信じるなんて、そんな簡単に出来るわけもない。それは本当の自分の家族への裏切りと同じ行為に思えたからだ。マユはマユで、俺の妹はたった一人で。
たとえ同じ顔で同じ体で、何もかもが瓜二つでも俺の妹のわけがない。マユにかわるものなんて、この世にあるわけがない。
__そう思うと同時に、彼女を信じるという気持ちが芽生えていたことも本当だった。けれどその気持ちは、まだスタート地点に立った状態でのことで、心の底から信じることなど無理に等しかった。
だけど信じたかった。
死んだ妹としてではなくて、これからの時間を分かち合う存在として。
重力に逆らう力が体を包み込む感触に、思考は現実へと引き戻された。軽やかな音をたてて、エレベーターが開く。
不意に水嶋がこちらを振り向き、心配そうに眉をひそめた。
「石島、顔色悪いけど、大丈夫?」
「__気にするなよ」
「そう?」
水嶋は先にエレベーターから出ると、片手で閉まりそうになるドアを押さえながら、出遅れた俺に対し、意味深に微笑みかけてくる。質の悪い笑顔だった。
「ねぇ、やっぱり残してきた妹さんのことが気になるの?」
俺はムッと唇を引き締め、エレベーターから出る。
「うるさい。お前に関係ないだろ」
「まあね」
いちいち神経を逆撫でするような笑い声を水嶋は漏らす。
エレベーターから少し離れた部屋。その扉の前で、水嶋はピタリと立ち止まる。
ベルトに付けていたホルダーの先についている鍵をポケットから取り出す。鍵を開け、扉を開くと、中からはむせ返るほどの匂いが溢れ出した。
「なんだよ、この匂い・・・・・・」
「ああ、この部屋ちょっとホコリ臭くってさ。だからいろいろな芳香剤だとかアロマを置いていたら、結構凄いことになっちゃってね」
「それにしたて、これならホコリ臭いほうがマシだぞ。」
まともに息が出来ないと思った。
俺が知ってる限りの匂いの例えをあげるなら、薔薇とラベンダーとバニラと、それからトイレの芳香剤なんかに使われていそうな、もの凄く人工的な匂いとがブレンドされたようなもの。最低な芳香の不協和音。これでは食事どころか、眠りさえまともに取れないような気がした。
俺が口元を手で覆い、思い切り顔をしかめてやると、水嶋はやれやれと肩をすくめた。
「それじゃあ、換気でもしようか?」
仕方がないなぁ、とでも言いたげな口調だった。
どうしてこんなに不快な臭いの充満している空間でもこいつは平気なんだろう?
俺はただ小さく呻いていることしか出来なかった。

ベランダを全開にして、更に換気扇を回すこと20分。俺の嗅覚が慣れてしまったのか、それともある程度の新鮮な空気が送り込まれたからなのか、ようやく呼吸をしても楽な程度のものとなった。
荷物をリビングの隅に置く。
水嶋から軽く室内を説明された後、シャワーを借りて汚れを落とす。体はサッパリしても、気持ちの曇りだけはどうにもならない。むしろ、その差異によって、頭は現実感を失っていく。
マユのこと、世界のこと、そればかりが脳内を巡って、それ以外のことは考えられないような気さえした。
再びリビングへ赴くと、芳香の残滓に混じってコーヒーの匂いが漂っていた。大きな液晶テレビの画面に、音楽番組が映し出されている。
「風呂空いたぞ」
「うん。__飲む?ブラックだけど」
片手にカップを握りしめ笑顔で振り向いてきた水嶋は、テーブルの上に既に用意していたらしいもう1つのカップを差し出す。コーヒーからは湯気が立ち上っていた。
風呂上がりに冷たいコーヒーなら分かるが、熱いブラックコーヒーはどうなんだろう?とも思ったが、とりあえず頂戴する。
「もっと飲みたかったら、そこから勝手におかわりして良いからね」
水嶋は、対面型キッチンの隅でゴポゴポと唸り声をあげているコーヒーメーカーを指差し、カップをテーブルに置くと、浴室へ消えていった。
コーヒーを一口飲む。苦味が舌の上を滑る。
ソファに腰をおろす。特に自ら何を考えるわけでもなく、ただぼんやりとテレビ画面を眺める。国民的バンドがスタジオから去っていく。それと入れ替わるように、女性シンガーが姿を現した。ミコトだった。あれからも、彼女の人気はとどまることを知らなくて、知名度も評価も右肩上がり。
世間は彼女の澄んだ歌声に耳を傾けては、初恋の痛みだとか別離による後悔だとか明日への希望に感化されていて。
テレビのリモコンを探し、すぐにチャンネルを替える。どーでも良いようなバラエティ番組で留める。
それからどれほど経過したのか、水嶋が浴室から戻ってきた。
「あれ、さっきの番組、終わったの?」
「ああ、いや、チャンネルを替えた」
「音楽番組、あまり好きじゃなかった?」
「好きでもないし嫌いでもない。ただバラエティとか見たい気分だったから」
「ふうん。ま、石島の好きにすると良いよ。僕にとってのテレビって、単なるBGMだからさ」
気楽な服装に着替えた水嶋は、肩にかけていたタオルをソファに放ると、ベランダの窓を閉める。
新鮮な空気は気持ちいいが、この時期の夜風は長くあたると体に悪い。
ベランダを閉め切ると、水嶋は間隔をあけて、俺の隣に座り込む。まだ飲み残しがあったのか、先程口をつけていたカップの中身を飲み干す仕草を見せる。
手持ち無沙汰な俺は、部屋をグルリと見回す。水嶋は、この部屋をホコリ臭かったと言ったが、俺にはそうは思えない。どちらかといえば、かなり清潔なほうではないだろうか。むしろ清潔感が有りすぎて、生活感に乏しいような印象さえある。
だから、俺はなんとなくの気持ちで口を開いた。
「なあ」
「なに?」
「ここって、ずっと前から、こっちの世界の・・・・・・お前の家だったのか?」
訊くと、水嶋は不思議そうに、
「あれ、石島って僕とそんなに交流のない人間だったの?」
と困ったような笑顔で返される。
俺はしかめ面で、
「・・・・・・むしろ興味なかったんだよ。どうでもよかった」
「きっついな〜。うん、そっか。それなら僕の家のこと知らないのもまあ、頷けるかな」
と、彼は何故か1人納得したような口振りで頷き、それから部屋をチラチラと見渡して、
「ここは、こっちに来る際に特別に支給された一時的な生活区域なんだよ」
「そうなのか」
「うん。他の回収班のメンバーは、それなりの考慮の上で、こちらの肉親の家をスペースとして指示されているんだけどね」
「でもそれだと、かなりの混乱を招くんじゃないか?」
俺は自分の身を振り返りつつ、水嶋に訊いた。彼は首を傾げる。
「さあ、どうだろう?まあ、中には君のように激しく葛藤する肉親も出てくるだろうけど、よっぽどな理由でもない限り、たぶん大概の人間は喜ぶと思うよ?本当に蘇っただとか勘違いして」
勘違い。そんな言葉をあけすけと言う水嶋。こいつはなんというか、本当に配慮というものが欠如していると思う。まあ、事情を知った俺の前でだからこそ通用するから、あえてそんな言葉を口にしたのだろうけど。
「・・・・・・でもさ、それから考えると、お前の肉親は?」
「いないよ」
笑みを含みながら、水嶋は即答した。
「いないよ、僕の肉親は。いや、居るには居るけど、今は確か、刑務所の中じゃなかったかな」
「刑務所・・・・・・?」
それは耳慣れたようで、耳慣れない名詞だった。
それから、すぐに記憶がフラッシュバックする。
酷く断片的な映像や言葉の羅列が、思考回路を駆け巡った。

2ヶ月前。じっとりと蒸し暑い雨の日。
水嶋が病死したと、教師の黒沢が沈んだ声で涙混じりに語っていたことを思い出す。水嶋の机には白い花が飾られるようになる。男子もおとなしくなったけれど、それ以上に女子の落ち込みかたは酷かった。その時の俺は知らなかったのだが、水嶋はそのヴィジュアルがウケて女子に人気が高かったらしく、影では王子扱いを受けていたらしい。
だが周りの悲しみは長くは続かなかった。すぐにそれは、好奇の対象へとすり替えられた。
その日から、我がクラスにはその話題には公で触れてはならないという無言のルールが生まれたと同時に、妙な噂が飛び交い始めた。




__知ってる?水嶋クンって、本当は病気で死んだんじゃないんだって。両親に殺されたんだって。
俺の耳にも、それは嫌というほど吹き込まれた。それほど、そんなくだらない【噂】が毎日毎日教室の隅で繰り広げられていた。
__なんか、虐待受けてたらしいよ。
__嘘、マジで?虐待って、あの、いわゆるDVとかそういうの?
__そうそう。あいつってさ、体育に殆ど出席しなかったじゃん。あれって、更衣室で着替える時に、制服の下の痣とかそういうのが見えないようにする為だったんだって。
__えーショックー。王子の綺麗な体に傷がついてたとか・・・・・・。
__でも、今思うとなんかそんな感じしてたかも。病的っていうか、はかなげっていうか?
__でもさ、そうなると、水嶋クンの両親ってどうなんの?
__なんか、私の友達が彼の家の近所なんだけどさ、タイホされたらしいよ。近所の人の通報か何かで。
__嘘。
__ホントホント。
__でもなんでニュースとかにならなかったんだろ?
__そうだよね。なんでだろ?
__学校側はこれ知ってんのかな?
__知ってるでしょ。たぶんあれよ。ウチらを混乱させない為にわざと病死だとか言ったのよ。

噂は噂だろ、と俺は特に気にも留めなかった。くっだらねぇと思った。
だけど__、
「こっちの僕、両親に殺されたからね。両親以外、僕には居ないんだ。血の繋がった親戚だとか、頼れる大人ってものが」
それは真実だったらしい。
俺はどう返せば良いのか分からなくなって、言葉を詰まらせた。
それを察したのか、水嶋はあっけらかんと言う。
「ちょっと石島、そんな反応しないでよ。なんだか、教えた僕に罪悪感が起きるじゃないか。・・・・・・別に良いんだよ、そんな。だって僕には関係ないから」
彼は席を立つと、そのままコーヒーメーカーに歩み寄り、カップにおかわりを注いだ。
「いる?」
と訊いてくるが、俺は首を横に振る。
勢いよく水嶋のカップに注がれるコーヒー。
「あ、僕の分でなくなっちゃった。ごめんね」
「いい、そんなに飲まないから」
フウ、と水嶋は溜め息をつく。
「・・・・・・この間の、先週の金曜日頃かな。君の学校に行ったんだ」
思わずカップを取り落としそうになった。
「は?なんで?」
「こっちの自分が通っていた学校がどういうものなのか、気になったから。学校が閉まるちょっと前くらいに行ったからね。生徒は殆ど居なかったよ。大丈夫」
俺は安堵する。
「・・・・・・自分のクラスの情報なんかは事前に知っていたんだ。僕らは、こちらの自分達の生前の情報や、蓄積された思念のデータを教わる決まりになっているからね。なりすましに必要な情報ってやつを、前もって準備しているんだ。それを元に、君のクラスを覗いた。教室には、白い花が活けられた机があるはずだった。__でも、なくなってたよ」
水嶋の瞳が、微かに揺らいだ。
「廊下の隅っこに、それらしい机がポツンと置かれてた。僕が座っていた席は、教室から追い出されていたんだ」
そういえば、以前、HRの時に黒沢がそんなことを言っていた気がする。
__金曜日には、水嶋の席を片付ける。
彼が死んでから、もう2ヶ月も経過したのだ。当然のことではあるのだろうけれど、水嶋の目にはそれがどう映ったのだろう?
水嶋の、どこか憂いを含んだ表情が、笑顔にすり替えられた。
「でさ、その机の中よく見たら、何か手紙が入ってたんだよね。それも3通。なんだろうな〜って思って開けてみたらさ、僕へのラブレターだった。しかも、席を片付けた時にでもこっそり入れたんだろうね。結構熱烈な内容の。馬鹿だよね、死んだ人間相手にラブレターだなんてさ」
馬鹿だよね。もう一度彼は呟いた。瞳に影が落ちる。悲しげな微笑を目元に浮かべながら、彼はベランダからの景観を無造作に眺め始めた。
ポツリ。呟く。
「ほんと、どうしようもないよね」
俺は彼の横顔を見つめる。
そこには、いつもの、腹の立つ水嶋の横顔はなかった。こんな表情をする彼を・・・・・・いや、俺とおなじ年の人間を、俺はたぶん、見たことがなかった。どう表現したら良いのだろう。
言葉が見つからない。
緩やかに、水嶋の唇が蠢く。
「__たまにね、消えたくなる時があるんだ。どうしようもなくなるんだよね。この世はどこへ行っても袋小路みたいで、希望なんて見つからなくて、絶望だけが無駄にそこら辺に転がっていて。その絶望に触れてしまうと、頭の中にザアッとノイズが巻き起こって、何も分からなくなる。 すると、ただ消えたいって気持ちだけが鮮明に輝いて見えるんだ。・・・・・・君は、そういうこと、なかった?」
急な問いかけ。こいつは突然、何を言い出すんだろう?
戸惑いを見せた瞬間、シリアスじみた彼の横顔は途端に崩れ、盛大に笑いだした。
「なーんてね!」
「・・・・・・なっ」
俺は思わず目をパチクリさせる。
さっきからなんなんだ、こいつは!俺は思わず怒鳴りたい衝動にかられた。それに反し、水嶋は何がおかしいのか、腹を抱えて笑う。
「な、なにがおかしいんだよ!」
「あはは、いや、うん、ごめん。ただ、石島が思ってた以上に面白い反応をしてみせるからさ」
「はああ!?」
どこまでが冗談でどこまで本気の話だったのかは掴めないが、少なくともからかわれたのは明確だ。俺は不機嫌なまま、彼から目をそらし、飲みかけのコーヒーをグイッと勢いよくあおった。

ベッドサイドのテーブルランプの明かりと、カーテンの開け放たれたベランダの窓から差し込む月の光が寝室をぼんやりと照らしている。
俺はベッド、水嶋は床に敷き布団というポジションは、客人の身としてはなんとなく肩身の狭い思いだ。ベッドはフカフカと柔らかく寝心地は良いのだが、あの不快なレベルにまで達した芳香が染みついていて、慣れるまでに時間がかかりそうだった。
それでも、意識はウトウトと微睡む。それほど体は疲れているようだった。眠りの波に沈み込みかけた時、水嶋が静かに切り出してきた。
「ねぇ、石島」
「・・・・・・ん?」
ゆっくりと瞼を開ける。
「君は気にならない?向こうの世界の自分がどうなっているのか、とか」
思考回路は鈍くなっているが、少しだけ目が覚めた。
__向こうの世界の自分?
そういえば、マユや水嶋のことにばかり気をとられていて、そういうことにまで思考の触手を伸ばして考えていなかった。
俺はぼんやりと答える。
「・・・・・・気にならない、といえば嘘になるだろうけど、でも、そこまで気になっていない。でも、聞いていて損はないかもしれないな」
どうせ、明日の夜が過ぎれば、俺は全てを忘れて統合させられるのだから。今のうちに何かを知っていても、損はないだろう。__そう思った。
「そっか」
水嶋が、体をよじらせた。俺は天井を仰いだ姿勢で聞き耳をたてることにする。
「じゃあ、向こうの石島は死んでいるって聞いても、嘘だとは思わない?」
水嶋はサラリと告げた。それは日常会話にでも使われていそうなぐらい、あっさりとした語調だった。だから、その言葉の衝撃が俺を襲うまで、だいぶの時間を要した。
「__なんだって?」
先ほどからかわれたこともあって、俺はなるべく、動揺を表に出さないよう切り返す。それでも、少しだけ声は震えてしまった。
水嶋が笑いを含む気配がした。空気が震える。
「・・・・・・あんまり珍しいことじゃないよ。ほら、昼間言ったよね?こっちの世界では戦争があったんだって。その時に、向こうの君は少年兵として駆り出されていたんだよ。本当に、珍しいことじゃないんだ。君のクラスメートの大半だって、向こうじゃそういう形で命を失っているんだよ。それで、撃たれて死んだんだ」
「・・・・・・そうか」
現実感のない話ではあった。頭がもう寝ぼけていたからかもしれない。衝撃は、最初こそ大きかったが、相づちを打つ頃には俺は静かな眠りの波間に身を委ねていた。瞼の裏側で、自分の言葉が飛び交う。
少年兵?死んだ?嘘だろ?どうして?
銃に撃たれて?けれど睡魔の誘いには勝てなかった。

轟音。悲鳴。衝撃。体が投げ出される感覚。琥珀色の満月。
あの夜の中に、俺は居た。
またいつものように、ぼんやりと夜空を見上げ、途方に暮れている。父さん、母さん、そしてマユ。全てを失った夜。
いつまでもいつまでも、この夢は続く。いつになれば終わるのだろう?いつになれば、朝を迎えられるのだろうか?
__世界が終わったら、俺はこの悪夢から解放されるのだろうか。
それは嬉しいと同時に、悲しいとさえ思った。
どっちが自分の本音なのかさえ分からない。優柔不断な自分が嫌になる。
だけど、こんな虚しい夢はもうごめんだ。届かない温もり、二度と戻れない場所。
許されるのなら、もし叶うなら、この夢の中で自分も一緒に死にたいと何度願っただろう。・・・・・・早く、この世界にも夜明けはこないだろうか。
目覚める自分と交代するように、夢の中の俺は、静かに瞼を閉じた。

浩輔がこのアパートを出ていってから、一週間目の朝。それはいつもと変わりない様子で、マユの上へと訪れた。
窓辺が降り注ぐ眩しい朝の光。柔らかな毛布の暖かな感触と、布団の外に晒された顔にかかる冷たい空気。その温度差は、布団の中をより心地よくさせる。
暦は11月の半ばに差し掛かっていた。もう穏やかな秋も終わる頃だ。
無断で使うのも忍びないと思ったが、布団なしで眠るには寒すぎて、勝手に使ったなと怒鳴られることを覚悟の上、兄の押し入れに詰まっている客人用の布団を拝借して眠る毎日を彼女は過ごした。
浩輔から一方的に叩きつけられた約束。どういった形で応えることが、彼にとっての正解だったのか。答えは決まっていて、もはやそれを実行に移すには、とうの昔に機会を逃してしまっているように思う。そもそも、機会なんて始めから用意されていなかったのかもしれない。
(あたしが、こちらの世界に来なければ、彼を傷つけずに済んだかもしれない)
頭から毛布を被る。丸くなって、彼女はジッと、布団の中に広がる暗闇を見つめながら思った。
全ての元凶は自分だったのではないか。そのことばかりが、グルグルと彼女の頭の中を巡る。この一週間、ずっとこうやって過ごしてきた。
【回収班】として政府に選ばれた身では、いた世界に帰還することは容易ではない。自分達は記録を回収する為の派遣要員であると同時に、人質でもあるのだ。こちらの世界の人間が計画の承認につきつけてきたほんの一部。人員の安全性を試す為のもの。

マユの生きてきた世界の人間は、未確認生物と同等の扱いを受けているのだそうだ。一足先にこちらへと来訪出来る回収班の彼らには、それに伴う厳密な規則とペナルティが課せられている。その規則を侵せば、回収班に選ばれた子供達は存在を消滅させられる、永遠に。だからこちらの世界で、既に死亡済みの子供を利用する必要があったのだという。
(兄さん・・・・・・)
瞼を閉じる。
浮かぶのは、ただ兄の顔だった。
正直、自分は世界などどうでも良かった。
もう一度、兄に会えるなら__それだけで、彼女はこちらの世界へ来ることを望んだ。
だが今では、自分の決断が愚かだったとしか思えない。兄に強情だなどと言ったが、そんな自分は相当に自分勝手な人間だ。回収班として選ばれたからとはいえ、もっと別のやり方を見つけることも出来ただろうに。
マユは自らへの腹立たしさと、兄への申し訳なさに、込み上げてくる涙を呑み込んだ時だった。
__ピンポーン。
チャイムの音が、静かに響き渡った。
(・・・・・・誰だろう?)
マユはのそりと起き上がる。
時計を見れば、時刻は8時を少し経過したくらい。
玄関へと急いだ。
自分のパジャマ姿に少しだけ躊躇を覚えたが、思い切ってドアを開ける。
「あ」
ドアの向こうの人物の声と、同じ母音が重なる。
マユは急いでドアを閉めようとした。我知らず呼吸が荒くなる。嫌な汗が滲む。心臓が早鐘のように左胸を打った。
これ以上、兄の日常を壊すわけにいかない。
けれど彼女の行為は、ドアの向こうの人物の指によって、寸前のところで遮られた。
「マユちゃん待って!」
「・・・・・・瑞穂さん」
ドアの外に立っていたのは、佐伯瑞穂だった。兄の、中学からのクラスメートで、自分にとっては姉のような友人。彼女は、高校の冬の制服に身を包み、片手には鞄を提げて佇んでいた。
瑞穂は、眉の間に小さな皺を寄せて、マユを真っ直ぐと見つめ、柔らかく微笑みながら口を開いた。
「・・・・・・久しぶり」

「どうぞ」
マユは熱い緑茶を差し出す。パジャマ姿なのが少しすまない気もしたが、それよりも、今の現状から目を離すことが出来なかった。
「うん、ありがとう」
瑞穂はソッと微笑み、美味しそうに緑茶を飲んだ。
マユは瑞穂の横顔を眺めながら座り込む。まさか彼女が訪れるとは、予想していなかった。
確か兄と瑞穂が通っているのは、公立高校だ。
以前、兄に教科書と弁当を届ける際に見た限りではそれなりに校則が厳しい印象が伺えたのだが、瑞穂は上手くそれをかいくぐって、顔に化粧を施している。それはパッと見る限りでは、化粧とは分からないほどのナチュラルメイクだ。それがかえって、大人っぽい印象を見る者に与えているように思う。長い髪だって器用に結い上げていて、 真面目な雰囲気を醸しながらもセンスの良さを漂わせている。
「浩輔、まだ帰ってなかったんだね」
湯のみをテーブルに置き、瑞穂は短い溜め息を吐いた。
「ほんと、あいつどこ行ってんだろ?昨日には泊まってた友達の家出て行ったって聞いたから、もしかしたらと思って来てみたんだけど・・・・・・。ていうか、マユちゃん残して良い年した野郎が何をフラフラしてんだか」
「・・・・・・あの、」
「うん?」
瑞穂が、こちらを向いた。マユは一瞬、ビクリと身を竦める。兄の居ない今、勝手に瑞穂と話を進めていいものかという、暗い罪悪感が胸の奥を締め付けていた。
「・・・・・・瑞穂さんは、言わないんですか?」
「え?」
なんのことかと、瑞穂は眉をひそめる。
それを見たマユは、ギュッとパジャマの裾を握り締めながら、俯き加減に言葉を吐き出した。
「『お前は本当に石島マユなのか』って、言わないんですか?」
瑞穂が目を見開いた。その瞳には動揺と緩やかな悲しみが浮かんでいた。
だがすぐに、それは再び瞳孔の奥へと沈み込んでいく。
「言わないよ」
瑞穂は笑った。
「だってどう見たって、マユちゃんはマユちゃんにしか見えないもん」 マユを安堵させる為だけでなく、もしかしたら自分へと言い含める為の最後の砦を壊す為の笑顔だったかもしれない。それでも、この言葉は瑞穂自身にとっても確かな踏み台になった。
「そりゃ、最初は驚いたわよ。だって死んだ友達が蘇るなんて実際、そんなことがあったら、大変だしね」
言いながら、クラスでも有名なオカルトマニアの男子が耳にしたら、絶対飛びついただろうな、とぼんやり思う。
でもね。瑞穂の手が、パジャマを握り締めるマユの手にソッと触れた。
「こうして温もりがある。なにより、あなたはどんな形であってもマユちゃんなんだからさ。もっと自信を持って。ね?」
違う。自分は、この人が知っている石島マユではない。
マユは瑞穂の笑顔を前にして、更なる罪悪感に叩きのめされようとしていた。
__それでも。
どんな形でも、という言葉に、マユは今まで耐えていた涙をこらえることが出来なくなる。胸が熱くなった。体の芯が焼けるように痛む。
心臓が痛い。自分の中の全てが痛みを訴える。涙が、まるでその痛みを少しでも軽減させるように、ブワリと溢れだした。
瑞穂が柔らかな手つきでマユの体を引き寄せ、抱きしめる。
「頑張ったね。辛かったでしょ。でもねマユちゃん。あなたが頼って良いのは、浩輔だけじゃないよ。私や、他の人も、もっと頼って良いんだよ。1人で何かを抱えることは、誰だって辛いんだから。我慢することない」
「どうして、瑞穂さんは、そんなふうに思ってくれるんですか?兄さんは、だって・・・・・・」
「・・・・・・それは、私と浩輔では、背負う悲しみが違うからだよ」
瑞穂はマユの頭を撫でながら、半年前の浩輔の姿を思い浮かべた。
あの時の彼の悲しみは、他人が容易に触れてはならない鋭さを持っていた。全てを憎むように、全てに絶望するように、孤独と悲しみを1人で抱え込むように歩んできた。
そんな彼が、この短い期間でマユという存在を受け入れるのにどれだけ苦労したのだろうか。瑞穂には、予想は出来ても、同じ気持ちに至ることは到底出来なかった。出来るはずもなかった。
どのくらい、マユは泣いていただろうか。
彼女の息が整う頃には、時刻は9時をまわっていた。
「・・・・・・そうだ。瑞穂さん、今日は学校だったんじゃないですか?」
涙を拭い、マユは瑞穂の胸元に埋めていた顔をあげた。
「ん、ああ。あはは、休んじゃった」
瑞穂はポリポリと頭皮をかきながら、あっけらかんとして笑う。
「えーとね、浩輔に会いに来るために、かな。あはは。でも今になると、マユちゃんに会うために来たのかも、私」
瑞穂は悪戯っぽく微笑み、室内を見回し、うへぇと思いっきり顔をしかめた。
「思ったんだけど、男の一人身ってやっぱり嫌ねぇ。不潔〜」
「あ、あたし、掃除しようと思ったんですけど・・・・・・」
「分かってる。勝手に触ったら浩輔が怒るって思ったんでしょ?良いんだってそんなもん。マユちゃんは妹なんだしさ。まあ今日はどうせ暇だし、ちょっくら片付けますかね。さ、マユちゃんも立って立って」
瑞穂はケラケラ笑いながら制服の裾を捲ると、勇み足で部屋の奥へと進んでいった。
マユは瑞穂の背中を見つめながら涙を拭った。

一夜明けた。
簡単に朝食を済ませ、荷造りをする。もうこれ以上、逃げるわけにもいかないし、残された時間は少ない。俺は、アパートに戻る決意をしていた。
アパートに帰って、この世界が終わる前に、都合よく記憶を書き換えられて肝心なことを忘却してしまう前に、マユと向き合い、言葉を交わしたかった。交わさなければならない。ケータイを手に取り、画面を開く。電池の残量は残り少ない。
慌てて荷造りをしてきた為、充電器を忘れてきてしまったのだ。なるべく使わないようにと心がけていたものの、やはり一週間保たせることは難しかったようだ。
アドレス帳を開く。瑞穂の欄で止まる。電話をしようか、それともメールにしようか迷う。
俺は昨日のことを謝りたかった。あれはどう考えてみても、八つ当たりだった。そして瑞穂の言うように、俺は強情な人間だった。少しも変わっていない。あの事故の日から、少しも。心はいつまでもうずくまっていると非難されることも仕方ないことで。
だけど、非難をするということが、どれほど勇気のいる行動なのか。いや、非難というべきではないのかもしれない。瑞穂は昔の俺も知っていて、これまでの俺も知っていて、だからこその、彼女なりの思いやりの言葉だったのだ。
俺はゆっくりとした動作で、メール画面を開いた。
自分の気持ちを指先の銃身に込め、キーに打ち込む。
『昨日はごめん。それから、いつもありがとう。それから』
打ち出しかけた、最後の4文字。すぐにクリアキーで削除し、送り出す。
昨日はごめん。それから、いつもありがとう。

今はそれだけで良いと思った。これ以上添付する言葉は、必要ない。
「・・・・・・ふうん、綺麗なストラップだね」
「うわ!?」
突然、耳元で声がしたと思えば、いつの間にか水嶋が一緒になってケータイを覗き込んでいた。
「お前!プライバシーの侵害だろ!」
「いや〜だって石島があんまり気難しい顔してるものだから、僕はまた、迷惑メールにでも真剣に悩んでいるのかと・・・・・・。そしたらまあ、佐伯さんのことで悩んでいたわけだ。青春だね」
「・・・・・・あのな、お前は人として最低限のルールというものを知れよ」
「うん。そんなことより、そのストラップってさ、どう見ても女物だよね?」
ツン、と水嶋の細い指先が、ストラップをつついた。
指摘を受けて、俺は顔をしかめる。水嶋が好奇の眼差しでジーッとこちらを覗き込んでくる。無言の攻防。長い沈黙。
不意に水嶋が、
「・・・・・・もしかして石島って、意外とこういう可愛いもの好きとかそういう趣味で」
「そんなわけあるか!」
思わず乱暴に反論してしまった。
引くつもりもなさそうな水嶋に対して溜め息をつき、俺は渋々ながら口を開く。
「もともとは、人に贈るやつだったんだよ。だけど、渡せなかったんだ。渡す機会を逃した。だから、仕方なく自分で使ってるんだ」
光を反射しながら繊細に揺れる、ビーズを編み込んだ可愛いらしいデザインのストラップ。明らかに俺が使うのには相応しくない。
「ふうん・・・・・・それって、もしかして、佐伯さん?」
水嶋の疑問に、俺は目を見開いた。
「な、なんであいつの名前が出てくるんだよ」
水嶋は、笑いを弾ませる。

「だって君たち、誰が見たってあと一歩ってところじゃない。見てるこっちがイライラするくらいだけど?」
俺は言葉を詰まらせる。それから、ガリガリと頭を掻いた。
「別に良いだろ、今はそんな話」
「じゃあ、佐伯さんへの気持ち、認めるの?」
出歯亀め。俺は舌を打つ。
「__まあな。けど、よく分からないのも確かだ。大事な存在ってのは否定しないが」
「やっぱり。で、それは佐伯さんへのプレゼント?」
しつこい奴め。俺は込み上げてくるイライラを、歯を食いしばることで呑み込んだ。短い溜め息と共に、それ以上の怒りをやり過ごす。
「__もっと、大事な子だ」
「・・・・・・そうなんだ。そういうの、良いね」
水嶋はどこか、羨ましげに呟いた。
俺はその視線に何故か申し訳なさを感じ、コートのポケットにケータイをしまった。その場に立ち上がる。
「それじゃ、俺はそろそろ行く」
「まあ待ってよ。もう一杯くらい、コーヒーでも飲んでさ」
「・・・・・・ああ」
手に取りかけた荷物を降ろし、溜め息混じりに頷く。
一杯ぐらいなら良いだろう。
コーヒーを渡される。一口飲んだ。思わず、顔をしかめる。なんというか、薄墨のようだと思った。昨日使った豆を、もう一度使ったものだろうか?出涸らし特有の、すえた渋みが口腔を満たした。たまらなくなって、一気に飲み干す。カップを乱暴にテーブルに置いて、俺は美味そうにコーヒーを味わっている水嶋の横顔を睨みつけた。
俺の視線に気づくと、彼はニッコリと微笑む。
「意外と一気に飲んだね」
「お前って、結構ケチな性格してんのな」
「どうして?」
「いや、このコーヒー・・・・・・」
「味、変だった?」
「まあ。それでも、ご馳走になったな」
席を立つ。荷物を片手に、水嶋を見つめる。彼は特に見送るような姿勢も見せずに、飄々とした雰囲気で俺と視線を合わせた。
「いろいろとありがとう。・・・・・・まあ、もし、世界が変わった後に世話になる機会があったら、その時はよろしくな」
「別に、そんなかしこまらなくて良いよ」
水嶋はカップをテーブルに置き、不意に、壁掛けの時計に目をやった。
「そろそろかな」
呟く。
異変は少し後に訪れた。
体と意識が分離する。妙な例えだと思ったが、それ以外に浮かばない。そう思った時に、それは平衡感覚が上手く取れないことによって、意識が体についていけないのだと気づいた。
俺は何かを水嶋に言い返そうとする。だが、体中が麻痺したように動きの全てが緩慢になり、次第に四肢がゆっくりと弛緩していく。瞼が、何か俺とは別の意志によって閉じていく。
(なんだ?どうなっているんだ?)
まだ1時間前に目が覚めたばかりだというのに、体がぐったりと眠りの海に沈んでいく。
思考力さえ奪われていく。
グラリ。自分の体が大きく傾いていくのが分かった。
意識が、暗闇へと投げ出される直前、耳に滑り込んできたのは、
「おやすみ、石島。良い夢を」
水嶋の、冷たい声だった。

電話が鳴った。番号を確認すれば、水嶋直彦が身を置いているマンションからのものだと分かる。
ポケットから音源である携帯電話を取り出し、ボイスチェンジャーを唇に近づけ、通話ボタンを押す。
「もしもし」
自分の唇から紡がれる声が、無機質な機械音となって通される。受話器越しで、水嶋が笑う気配がした。
『こんばんは。ああ、やっぱり、肉声では話してくれないんですね』
「なんの用?」
『いえ、一応伝えたほうが良いかな、と思いまして。__今、僕の部屋に、石島浩輔を一時的に軟禁しています』
石島という苗字に、思わず鼓動が高鳴った。
「石島?・・・・・・何故、そういうことを?分かっているだろう、どういうペナルティかを」
『分かっていますよ』
明らかに笑い声が弾んでいる。おかしくて仕方がないといった様子。
『分かっているから、敢えて、です』
「・・・・・・目的は何だ」
『目的だなんて、大袈裟な。ただ僕は、復讐したいだけです』
応える声は、あまりに平然としていた。
『彼が一番知っている苦痛・・・・・・自分が殺されるよりも、自分にとって一番大事な存在を失うことのほうが、よっぽどの生き地獄だということを』
「・・・・・・石島マユを消すつもり?」
『さあ、どうでしょう。それは最後まで分かりません。ただ彼女には、都合の良い餌になって貰います』
「それで、何故わざわざこちらに連絡を寄越した」
『一応、場所を教えておこうかと思ったんですよ。もしかしたら、良い具合に事が運べそうな気がしましてね。石島浩輔のアパート。そこが一番てっとり早いでしょう。そうだ、一応彼には、僕らの世界の事情を話しておきました。なので、ある程度は話も通じますし、わりと鵜呑みにしてくれますよ』
「何故、わざわざそんなことを伝える?」
『言ったでしょう。復讐だって。それにあなたは僕らの処刑人だ。最後の後始末と、見届け人として必要なので、連絡を』
「・・・・・・」
『恨むなら、審査の甘かった上の人間を恨んでくださいね。未熟な思考の子供達を人材に投与したことが如何に愚かだったか。・・・・・・それでは』
ぶつり。電話は一方的に切れた。
視線を窓へと向ける。強烈な西陽に思わず目を細める。血のような夕陽は、この世界最後の灯火の燃え上がりのように映った。

「それじゃ、またね、マユちゃん」
すっかり清潔感を取り戻した部屋を見回し、満足げな表情で瑞穂は玄関のドアに手をかける。本当ならば、夜までマユと一緒に過ごしてあげたかった。マユと一緒に、浩輔が帰ってくるまで待っていようかとも考える。だが瑞穂の家庭にも事情がある。今日は親にも告げずに学校を無許可で欠席してしまったのだ。無断で門限まで破って帰宅してしまえば、ややこしいことになるだろう。そんなことなど跳ねのけてしまいたい気持ちにも駆られたが、それでマユや浩輔にまで迷惑がかかってしまうことを危惧し、なんとか思いとどまった。
「はい。今日はありがとうございました、瑞穂さん」
マユは丁寧に頭を下げる。それがなんだか、瑞穂の目には愛おしく映った。
もうどんな形でも構わない。マユはマユで、それだけで良い。
「うん、それじゃあね」
「あ、ちょっと待ってください」
マユが慌てて呼び止めた。可愛いらしいワンピースの裾を翻して、自分の荷物をまとめている箇所を漁り、可愛らしいビニール袋を取り出す。
それを笑顔で瑞穂に差し出してきた。
「瑞穂さん、これ、あたしからのプレゼントです」
「え?」
何故?瑞穂は目を丸くして、おずおずと受け取る。この辺りでは、わりと女子中高生に人気のある、有名アクセサリーショップのロゴの入った包みだ。
「あたしの好きなブランドが、今度、ここのお店の人気ブランドと一緒になってアクセサリーを出したんですよ。一度廃盤になったメンズアクセサリーのデザインをリバイバルして、女の子っぽいデザインにいじった感じの・・・・・・・・・気に入って貰えるか、分かんないけど・・・・・・」
「ううん。嬉しい」
瑞穂は小さくはにかんだ。
「私が、本当は贈り物しなきゃいけないのに」
「あたしからのお礼なんで、気にしないでください」
「お礼?」
マユは小さく頷いた。
「瑞穂さんが、ずっと兄さんの傍に居てくれたから、兄さんは兄さんでいられたんです。だから、妹として、お礼」
「・・・・・・・・・そんな、私は__」
「瑞穂さん。これからもずっと、兄さんの傍に居てくださいね」
マユは笑って、頭をさげた。
瑞穂もそれに合わせるように微笑んだ。
「当たり前よ。それはマユちゃんだって同じなんだからね」
これ、ありがと。それじゃあまたね。瑞穂はそう言い残してマユに手を振ると、軽い足取りでアパートを出た。
カンカンカン、と階段を駆け下りる。
地面まで降り立った時、思わず溜め息がこぼれた。
空が、血の滲むような夕陽の色に覆われている。
これほど強烈な色をした空を、瑞穂は殆ど見たことがない。気候の関係か何かで、このような色をしているのかもしれない。瑞穂はぼんやりと空を眺めながら、ローファーの踵を鳴らしてアスファルトの路面を踏みしめる。
フッと甘い香りが鼻先をかすめた。
見回すと、一戸建ての敷地内に、柊の木を見つける。香りの正体は、柊の花だ。金木犀の時期が終わると、秋の終わりへと向けた頃に、この花は咲く。
小さな白い花がポツポツと生い茂るの葉の間で開いている。あんなに小さな花なのにと、香りの強さに瑞穂は驚いた。
花の香りに混じって、換気口からは夕飯の香りが漂ってくる。
一陣の風が吹いた。それと共に、大きな黒い塊が、自分の目の前を通り過ぎていく。それは、黒いコートを着込んだ少年のシルエットだった。柊の香りを塗り潰すような、濃密な芳香が鼻腔をくすぐる。
瑞穂は一瞬あっけにとられていたが、すぐに踵を返して自分の家を目指す。
それから、何気なしに制服のポケットからケータイを取り出す。メールが3件ほど来ている。2件は、クラスメートからの無断欠席に対する心配の声。後でゆっくり返信しよう。そう思いながら、最後の1件へと指を滑らせる。メールを開いた瞬間、瑞穂は息を呑んだ。
(浩輔!?)
差出人には、浩輔の名前が表示されていた。本文を見る。
『昨日はごめん。それから、いつもありがとう』
読み上げた途端、瑞穂は眉を寄せた。入る目の奥から熱いものが込み上げてくるのに気づいた。
(馬鹿!!)
心の中で、精一杯怒鳴りつけながら、瑞穂は浩輔へと電話をかけた。

外はすっかり夕暮れ時になっていた。沈んだ太陽と交代するように、丸い月が東から顔を覗かせている。マユはぼんやりと、窓からその月を眺めながら、心の底から言い知れぬ不安に掻き立てられていた。
今夜、兄が帰って来なければ、自分はどうやって明日を迎えれば良いのだろう。
マユは思う。
もし、自分にチャンスが与えられるとするならば、今度は兄に甘えない自分でいようと。
(あたしは甘えすぎていた。どちらの世界のあたしも、兄という存在にすがりすぎていた。いつまでも小学生のように甘えて、『お兄ちゃん』って呼ぶ度に、あの人を独り占め出来ているような気持ちになって、それにさえ甘えて・・・・・・)
どちらの世界でも、生きる人間の状況は変わらないことが殆どだ。こちらで不幸だからといって、あちらの自分が幸せな人生を送っているとは限らない。
多少の違いはあれど、人間は同じ生き方しか出来ないのだ。
マユの家は、父親の不在が多くて、父親の存在に甘えることがあまり出来なかった。そのせいか、マユは兄に、理想の兄像と父親像を重ねて見つめていた。今に始まったことではないにせよ、兄をどれだけ苦しめたか、またそれに気づこうともせずに自分の気持ちばかり優先していた自分に、彼女は腹が立っていた。

死にたい、とさえ思った。大袈裟かもしれないが、死んで償うべきだろうかとも考えた。もし自分が逆の立場だったら、この状況がどれほどの裏切りになってしまうのか、今になって考えてみれば簡単に思いつくようなことだというのに。
その時だった。彼女の思考を遮断するように、チャイムが鳴り響く。
マユはパッと顔をあげ、玄関に走り寄った。
兄だろうか。そう思い、勢いよくノブに触れる。
「すみません、宅急便です」
静かな、男の声が聞こえる。
マユは大きく落胆した。
「はい、今開けます」
ノブを回し、ドアを僅かに開く。
その瞬間、マユは違和感を覚えた。ゾクリと、背筋を得体のしれない何かが撫でるような感触に身を震わせた。それが、自分の中に備わる本能が告げる警鐘だったということに気づいたのは、目の前に銃口をつきつけられた瞬間のことだった。
「__こんばんは、お仲間さん」
マユは後ずさる。ブワリと、酷い芳香の風が顔を撫でた。
「やれやれ、君たち兄妹って、単純というか・・・・・・他人の言動に対する反応の仕方が素直だよね」
芳香を放つ主の姿を目におさめた瞬間、マユは強烈な恐怖と軽蔑の混じり合う視線で、彼を睨みつけた。
「ま、そこが強い長所なんだろうけど」
ドアの向こう側に立っていたのは、水嶋直彦だった。

思いっきり頬を殴られた。いきなりの鈍い痛みに、俺は自分の意識が急激に覚醒する感覚に身震いし、瞼がほぼ反射的にこじ開けられる。うまく焦点が合わない。
誰かが顔を覗き込んでいるのが分かる。
輪郭のブレがおさまるまで待つこと数秒。目の前の人間の顔がハッキリと映り込む。だが、何故この人がここに居るのか、そこがまず理解出来なかったし、自分の身がどういった状況に置かれているのかさえ疑問に思った。
「石島君、大丈夫か?」
「え・・・・・・・・・ここは、どこ?」
「水嶋直彦のマンションだ」
手短な返答。背中に手を回され、体を起こす力添えをしてくれる。体が鉛のように重たい。頭の中もグラグラしているし、コールタールのようなものが纏わりついているようだ。
「どうして、俺は・・・・・・・・・何がどうなって」
「そういう話は後だ。急ごう」
急かされるが、今の俺には、思考を追いつかせるどころか、体さえ満足に動かすことさえ不可能だった。仕方ない、とばかりに溜め息をつかれ、肩を借りてなんとか体を支える。
「急ぐって?」
「君の妹が危ない。死なせたくなかったら、早く行くぞ」
「だけど__え?今、なんて?」
俺は思わず聞き返した。
「だから、君の妹の命が危ないって言ってるんだ。水嶋が抹消を目論んでいる」
「・・・・・・どうして、水嶋のことを、知っているんですか?」
それ以前に、どうして彼女がここに居るのか、どうしてこのような耳慣れぬ言葉遣いで俺に話しかけてくるのか分からなかった。
だが彼女は、眼鏡越しの綺麗な瞳を冷ややかな微笑に細めると、口紅に彩られた唇を悪戯っぽく歪ませてみせた。
「佐竹先生は、一体何者なんですか?」
「監視役、とでも言っておこうか」
そう答えた佐竹の背中越しから差し込む夕陽の光が、今にも夜の闇に呑み込まれそうになっていた。

駐車場に到着する。白塗りの普通乗用車へと案内され、助手席に乗るように急かされた。
俺は必死に佐竹の言葉を咀嚼しようとする。
__水嶋がマユの存在を、消す?なんの、為に?
運転席に乗り込んできた佐竹は、乱暴にキーを差し込み、更に乱暴にUターンする。遠心力で体が投げ出されそうになった。悲鳴を呑み込む俺を尻目に、車は急発進し始めていた。
「君の家までナビを頼む。水嶋が妹を確保して立てこもりの場所を指定したんだ」
「え、はい。・・・・・・あ、まずはそこの信号を右折して、それから真っ直ぐ行って、三番目の信号で左折してください」
窓の外で、見慣れた風景が急速に流れていく。エンジン音だけが支配する車内。よりによって自分の家__マユとの始まりの場所へ、こんな状況を引きずっていかなければならなくなるなんて、考えてもいなかった。 ようやく佐竹が話を切り出してきた。
「・・・・・・説明が遅れたね。大丈夫だよ、石島君。私は向こう側の関係者だ」
「__先生が?」
説明を乞う声を飛ばして漏れ出た俺の驚愕の声に、佐竹は軽快に笑う。
「と言っても、回収班の子供たちとは違ってね。私のような監視役達は本当になりすましなんだ。仕組みは同じだけどね。既に死亡した人材を投与しているということは。ただ偽名と偽の職務につくことが、彼らと一線を画している。保健医の佐竹由美子は居ない。少しだけ、君の学校関係者全員に一時的な催眠をかけて、潜り込んでいたんだよ。ちょうど、君の妹さんと、水嶋直彦らがこちらの世界へ派遣されたのと同時期にね」
「・・・・・・嘘ですよね?」
「残念ながら本当」
ギュルッ。カーブを曲がると同時に、耳を覆いたくなるようなタイヤの摩擦音が聞こえた。
そんな馬鹿な。いつからそんなことになっているんだ。俺の頭の中には、彼女が言い張る時間軸以前の記憶まで備わっている。これが嘘だというのか。
「私は回収班の子供たちを監視する役目を担っている者。この地区に配属されていた監査官。__ そういった概念で考えて貰っても構わないよ」
「監査官?」
彼女の眼鏡の上を、街灯の光が規則的に滑らかに走っていく。
「だとしたら、おかしいじゃないですか?」
「なにが?」
俺は佐竹の横顔を眺める。体は助手席に完全に預け、唇だけ動かす。
「佐竹・・・・・・先生と顔を合わせた時の、マユのリアクションですよ。もし先生がマユの世界の人間だとすれば、彼女の、あの態度は変じゃないですか。あれが演技だとは、俺は思えないです」
「呼び捨てで良いよ。どうせ先生ではないしね。ああ、佐竹もまあ、偽名だけど・・・・・・この際どうでも良いか。__君は、仮に自分がスパイか何かだとして、監視の対象にわざわざ自分の身分を暴露するの?」
極端な例えだと思ったが、俺は首を横に振る。
「いえ・・・・・・」
「そういう決まりなんだよ。連絡手段も間接的な手段のみで限定されている。こちらは向こう側の情報をある程度は把握しているが、向こう側にはこちらの情報は一切知られていない。ただ、監視役が存在するということだけが知れ渡っている」
「・・・・・・なんのため、ですか?」
「一応の体裁と、保護の為だよ」
佐竹は眉をしかめて続ける。
「我々の世界の人間は、ある種異星人に近い存在だろうからね。そんな奴らと仮に協定を結んだとしても、おちおち安心出来るわけもない。かといって、目の前にそれなりの利得を差し出されて、それに応じないわけもない。君らの世界のお偉い人間が差し出してきた条件は随分と多くてね、回収班の存在も、私のような存在も、そんな条件下で生まれたんだよ。人質としてね」
俺は小さく呻いた。理解出来ないわけではない。
だが話の内容が、水嶋の時以上に、あまりに突拍子過ぎる。
「人質?どうして、人質なんですか?」
「・・・・・・回収班の子供たちには、ペナルティが課せられているんだよ。基本的な道徳が備わっていれば、まずそれを侵すことはない。それに、そんなことをするような子供を、上が選ぶわけがない。道徳的にも能力的にも優れた子供を扱うのだからね。だからまあ、究極の保険といったところだ」
佐竹は溜め息混じりに言葉を吐き出す。信号が赤に変わった。ブレーキをかける。
「そもそも回収班という存在は、この世界の最後を見届ける目的の為に創設された組織。この世界の結末の記憶を回収する。個々の観点でもって回収した記憶そのものとなる。彼らはこの世界の遺産そのものとなり、新たな世界構築の架け橋となる。彼ら回収班はその理由から、記憶の上書きの対象から特別に除外されている。特別、特別、彼らは特別という言葉のもとに身を置いている。調査の為に送り込ませる替わりに、代償は命。この世界の人間に直接身体的危害を加えてもならないし、それはこちらに混ざり込んだ仲間にも同様。 殺害なんてもってのほか。仮に殺してみろ、自分の存在は・・・・・・私達という監査官の手によって抹消される。永遠にだ」
片方の世界の自分が存命していれば、世界が上書きされた際に存在としては残る。
しかし両の世界とも死亡してしまえば、その人間個人の存在そのものは失われてしまう。
それが、世界が明日を迎えると共に実行されるルール。
そこまでのリスクを侵して、水嶋は一体何をしようとしているのだろうか?
考えようとして、途端に頭がクラリとする。自分の頭ではないようだ。
「それにしても、どうして俺は、こんな時間帯まで水嶋のマンションなんかに・・・・・・」
「一服盛られたんだろうね。彼の考えそうなことだ__次は?」
溜め息混じりに即答された。水嶋に勧められた不味いコーヒーのことを思い出す。
「この先の交差点を右です」
再び車は急発進する。重力に体が押さえつけられる。思考が置き去りにされるような錯覚。
不意に視線を落とすと、コートの布越しに、光の点滅を見つける。何だろう?ポケットを探ると、ケータイが顔を出した。
着信履歴が残っている。確認すると、瑞穂からのものだと分かった。
電池の残量を見る。もう1つ分しか残っていない。
かけようか、かけまいか。
数秒の迷い。
「・・・・・・すみません、少し、かけても?」
「良いよ」
佐竹が言うが早いか、俺は瑞穂へと電話をかけていた。
『・・・・・・もしもし?』
3度目のコールの後、控えめな瑞穂の声が鼓膜を震わせた。

その声を聞いた途端、何を話そうとしていたのか、すっかり忘れてしまった。
気まずい沈黙が流れる。
俺が無言だからか、佐竹がチラリと視線を送ってくる気配がする。
唇を噛み締める。歯がゆい気持ちが苛んだ。
無駄な音が世界から消える。俺と瑞穂。お互いの呼吸音だけが耳を支配しているようだった。
ヒュウッと息を吸い込む。
「もしもし、瑞穂・・・・・・」
『うん、もしもし?』
今度の彼女の声には、怪訝な響きが含まれていた。その気持ちは俺も同じだった。自分自身に対して。
「・・・・・・さっき、電話、くれてただろ?」
『うん』
今は世界で一番気を使ってしまう存在のような気がする。返事1つにさえ躊躇ってしまう。
キラリ。薄闇の中で、ストラップが街灯を反射して数瞬光った。
これを渡すはずだった相手。水嶋に問われて、瑞穂よりもその人が大事だと言った。けれどそれは、いわゆる照れ隠しというやつだ。それに、あいつの前で大切なもののことを口にするのは、なんだか癪に障る気がしたのだ。
どちらも大事だ。それぞれに込める意味合いは違うけど、比べることなんて出来ない。
また無言。
俺のアパートまで、あともう少しだ。
何か言わないと。何か。
土壇場でこんなにも女々しい自分に、腹が立つ。
『あのさ、浩輔』
グルグルと渦巻く葛藤を優しく中断させるように、瑞穂が切り出してきた。
「・・・・・・う、ん」
『__ごめん』
「え?」
聞き返す。瑞穂の声が、僅かに震えた。
『私さ、この間結構酷いこと言ったじゃん。いつまでも石頭でどうとかって』
「・・・・・・ああ、それは」
ごめんも何も、本当のことだ。瑞穂が謝ることは欠片もない。
俺はそう思う。
『あれ、後から考えたら、私サイアクだって思ったわ。有り得ないよね。当たり前だよね、浩輔がそういう気持ちのまま生きてること。私はどんなに頑張ったって、浩輔にはなれない。浩輔の痛みや悲しみなんかを理解しようとしても、予想することでしか、分からない。マユちゃんのことを受け入れて、たとえ嘘でもああいう言葉を私に言うのは、本当に難しいことだったのにね。なのに私は、あんなこと、言っちゃった・・・・・・』
それを謝らなきゃって、思って・・・・・・。
最後のほうは、消え入りそうな声だった。
車はもう、アパートの目の前の小さな通りに差し掛かっている。
「瑞穂」
その時の自分の声は、酷く落ち着いていた。
「いつもありがとう」
『え?』
「瑞穂が言ったことだから、俺は自分の身を振り返って、考えることが出来たんだよ。あれから、いろいろなことを考えた。マユのこと、自分こと、いろいろだ。だから決意することが出来たんだ」
唇から、言葉を懸命に押し出す。
「いつも、傍に居てくれてありがとう、瑞穂」
言った。絶対に面と向かって言えない。普段でさえ、電話でも言えないだろうし、メールでだって伝えられない。
瑞穂が息を呑むのが聞こえた。
『・・・・・・・・・あのね、浩輔。私も__』
電子音が、俺と瑞穂の会話を遮った。電池が切れたのだ。
俺は小さく息を吐き出して、真っ黒に沈んだケータイ画面を見下ろした。
顔を上げると、見慣れた細い路地と住宅地と、その中に埋もれるように息づく古くてボロいアパートが見えた。
佐竹が、タイミングを見て言葉を切り出した。
「今のうちに、悔いがないようにすれば良い。どうせ今日で世界が終わるのなら、そうすることが何よりだ。石島君。君は、どんな風にこの世界の最後を見届けるつもり?」
佐竹の静かな問い掛けに、俺は思案し、しかしすぐにそれは無駄な行動だったと思う。考えるまでもない。
答えはすぐ目の前に転がっていた。簡単だった。

車はアパートの敷地内な侵入すると、思っていたよりも静かに停止した。
「急ごう」
佐竹のかけ声と共に、動きの鈍い体を揺すって車から降りる。コートを着込んでいても、刺すような肌寒さは否が応でも服の隙間から侵入してくる。
アパートの敷地内にのめり込むように駐車された乗用車。佐竹はトランクの中から、黒いバッグを取り出した。
「それは?」
「君には縁のないもの」
彼女はコート替わりのように羽織る白衣の中に車のキーを放り込み、ヒールの踵を鳴らす。
「君の部屋は?」
「2階です」
2階の、自分の部屋を指差した。玄関のドアの横にポッカリと空いた四角の小窓から、明かりがこぼれ出ていた。
傍目から見ると、何もない、穏やかな夜の住宅地の風景として溶け込んでいる。
部屋の前に立つ。
「準備は良い?」
「大丈夫です」
「よし」
佐竹は頷いた。
彼女の白い手がドアノブにかかり、ゆっくりと回される。俺は極度の緊張感にブルリと身震いする。ドアの隙間からこぼれる光。佐竹の手によって開かれた入り口の先。
そこに、水嶋と、マユが居た。
「・・・・・・お兄ちゃん!」
マユは悲鳴に近い声をあげ、顔には安堵の笑顔と、それから泣き出しそうな表情を入り混ぜている。駆け寄ろうとしたのだろうが、頭に押しつけられた銃口で小突かれ、それは叶わない。鉄の筒の先に、何か特殊めいた装置が付属している。サイレンサーだ、と、曖昧な知識が教える。佐竹が一歩踏み出し、水嶋を睨み据えた。
「水嶋尚彦。今すぐその子を解放しろ」
彼女のピシャリとした物言いに、水嶋は一瞬キョトンとした表情を浮かべ、すぐに喉を鳴らして笑う。
「ああ、その口振りから察するに、あなたが僕らの監視役さん?どうりで、こちらの人間関係の事前情報には石島の学校関係者として載っているのに、あちらの世界ではお見かけしない顔だと思ったら。情報にもミスリード的要素を混ぜていたわけですか。まさか監査官が女性だったとはね」
「私のことなどどうでも良いだろう。それより、石島マユをどうするつもりだ。そんなことをして、お前になんの得がある」
水嶋は肩を揺らして、クスクスと笑う。
佐竹はチッと鋭く舌打ちをし、不快を露わにした表情で言葉を吐き出す。
「そのわざとらしい笑顔をやめろ。お前には、喜怒哀楽の感情の切り替えというものはないのか」
「ああ、すみません。これ以外の表現の仕方を忘れちゃったんですよ。これで勘弁してください」
それに、と水嶋の視線が、俺へと投げかけられる。俺は身を固くして、それを受け止めた。
「僕が用があるのは、彼女でなければ、あなたでもありません。彼のみです」
冷ややかな、皮肉げな口調。他人を突き放し、見下すような瞳。それは俺の神経を逆撫でし、怒りに火をつけるには充分な表情だった。
「お前!!マユにそんなモン向けて、俺の家を踏み荒らして、そこまでして俺に何の怨みがあるんだ!そんな回りくどいやり方なんかせずに、正々堂々やりゃ良いだろ!!」
こんな風にするくらいなら、ここまでして俺に用があるのなら、そう、昨日の夜だ。昨夜なら、俺だって疲れていて、今みたいに怒鳴る気力すらなかった。そのうえ隙だってあったし、2人きりだった。今以上に俺を脅すような行動だって取れたはずだ。
俺を宥めるように、佐竹が俺の肩にポンと手を置いて、淡々と口を開いた。
「・・・・・・よく、そんなモノを手に入れたね」
ああ、と水嶋は銃身を一撫でした。
「こっちに来てから、その筋の人に頼んで。今の時代はどちらの世界も便利ですね。簡単にこんなモノが手に入るんだから。ま、どのみち武器なんてどうでも良いですけどね。殺すことなんて、カッターナイフでだって出来ますし。ただ、銃のほうが脅しの効果も高いだろうなって思って」
語る彼の声は、本当にどうでも良いことを口にしているようだ。
マユの体はブルブルと震えている。見れば、今にも泣きそうな表情をしているのに、彼女は唇を噛み締めて必死に涙をこらえている。どれだけ怖かったことだろう。見る限りでは外傷はないようだが、それでも銃口を向けられていては、生きた心地もしないことだろう。
俺は沸々と込み上げ、留まることを知らない怒りに体が熱くなるのを感じた。今なら、あいつが銃を持っていようが何をしようが、殴りかかるのを平気な気がした。
無論、今俺が不用意なことをすれば、マユの命が危ないことは分かっている。
「そこまでの覚悟があるなら、ペナルティのことも、全て受け入れる覚悟があってのことなんだろうな」
「ええ。もとより、僕は自分の存在なんてどうでも良い。自分の存在が抹消されるだなんて、素敵なことじゃないですか。こんな世界、生き続けていたって意味がない」
佐竹は嘲笑を唇に浮かべた。
「はっ。つまりなんだ。要するにその行動と目的は、お前の反抗期が起こしたってわけか」
その言葉に、水嶋の顔から、表情が失せた。腹の立つ嫌な笑顔も、そんなものも一切ない、まるで人形のような顔。今までのこと全てが、念の籠もった芝居だったかのように、彼は別の横顔を見せる。
「アンタには用はないって言ってるだろ」
空気が摩擦を起こしたような音が、短く響いた。
佐竹の肩口を黒い塊がかすめる。玄関のドアに小さな穴が穿たれ、佐竹は鼻を鳴らす。
「・・・・・・あざといな。今のが少しでも私の皮膚をかすりでもしていれば、お前は消えたというのに」
「ただ1人で消えるなんて、嫌だ。だから僕はずっとこの瞬間が来るのを待っていたんだ。アンタにも、この女にも、用はない。最初からお前らの存在の重要性なんか、念頭に入れてないんだよ。やろうと思えばすぐに殺せる。それこそ、害虫でも殺す感覚で。けどそんなもの、僕は望んでいない。ずっと焦がれていたこの瞬間が、ようやく巡ってきた」
言葉の切っ先をつきつけ、水嶋は俺を見据え、機械的に唇を動かした。
「石島。君を道連れにすること。それが、この世界へ来訪してきたことへの、僕にとっては本当の意味だ。回収班の義務なんてどうでも良い」

「なんで、俺を?」
水嶋は銃口をマユから、俺へと向ける。解放された途端、マユは全身の力を込めて立ち上がり、水嶋へと体当たりをしようとするが、それは彼に背中を蹴りつけられることで阻止される。彼は畳に倒れ伏したマユの背を、片足で踏みつける。
俺はその光景に、もう怒りを抑えることは出来なくなった。マユに銃口を向けられていないなら、今がチャンスだ。
「貴様ああああ!!」
佐竹が止めようと、白魚のような指先で俺のコートの裾を掴む。そんなものは振り切る。
「そう焦らないでよ、石島」
俺は渾身の力で拳を振り上げ、奴の顔めがけて殴りつける。嫌な音と一緒に、水嶋の体が僅かに吹っ飛んだ。だが彼はすぐに立ち直ると、口元に笑みさえ浮かべて、俺を見上げてくる。
俺は更に2、3発の拳を叩き込んだ。水嶋は、何かが壊れてしまっているのか、痛みに呻くことすらしない。それどころか、体に暴力がのめり込む度に楽しげな表情さえ浮かべる。俺は目の前のこいつがとてつもなく憎らしくて、とてつもなく気持ち悪くて、それなのに、こんな時になって、クラスメートの言葉が脳裏に浮かんでしまうなんて。
__なんか、虐待受けてたらしいよ。
それはこちらの世界の水嶋の話のはずだ。こいつは違う。こいつは、
「__1つ、言い忘れていたけどね」
水嶋の、この状況に不釣り合いなほどに静かな声が舞い降りた。
「どちらの世界でも、人間は結局、同じ生き方しか出来ないんだよ」
勢いがおとなしくなり始めた怒り。俺が最後に叩き込んだ力は、水嶋の顔を大きくのけぞらせた。
自分の荒い呼吸が酷く耳障りだ。頭が急激に冷えていく。すると襲ってきたのは、後悔と疑問だった。思わずマユと佐竹のほうを振り向く。
マユは青ざめた表情で俺を見上げ、佐竹は唇を引き結び静観していた。
__なんで、水嶋は抵抗しないんだよ?
俺は自分の行った行為が果たして正しいものだったのか。そんな思いに苛まれる。
水嶋は、俺の様子を楽しむように、流暢な会話を続けた。
「僕はこうやって、暴力を与えられる運命の下に生まれた子供なんだ。今、こうして石島も証明してくれたよね、これが僕という人間の生き方なんだよ」
悲しい言い分に、俺は動揺した。
「なに、言ってんだよ」
「・・・・・・石島、僕は君に、10日以内に来るようにって言ったよね」
一週間前の、あの日。
「あれは半分、賭だった。君はとても頑固で不器用だけど、優しい人だから、もしかしたら、何も知ろうとしないまま妹のことも受け入れるだろうって。あのまま君が僕の元に来なければ、君は何も知らないまま妹を失っていただろうね。痛みも悲しみもなかったまま」
「お前の生き方と、俺達のこと、何が関係あるんだよ?」
「そうだね。きっと直接は関係ないよ。これは僕の、理不尽な私怨でしかない」
「私怨?」
それを言われても、心当たりはなかった。なにしろ俺と水嶋は、勝手な嫌悪こそはすれ、私怨を生み出すほどの間柄ではなかったのだから。
「簡単に言うと、僕は君のことが大嫌いだったよ」
水嶋はニッコリと微笑む。俺の表情1つ1つを丹念に味わうように眺める。
「こっちの世界の僕も、そして僕も。君が大嫌いだった」
俺はギリリと歯を噛み締める。
「奇遇だな。俺もお前がずっと気に喰わなかったよ」
「あはは。だとしたら僕ら、とんだ両想いだったんだね」
「黙れよ」
水嶋は黙らなかった。
「回収班に選ばれて、こっちの世界の自分の生き方を知った時、失望したよ。どんなに世界が違っても、同じ運命でしか人生を歩めない自分に。それから、君の存在がもっと憎らしくなった。元々うざったらしかった君が、尚一層ね」
彼は乾いた笑みを口元に浮かべる。
「僕が君を嫌いな理由は簡単だよ。僕らは似た者同士だったからさ。似た者同士であって、本質的には違う。似て非なる存在。分かるよね?あれだよ、同族嫌悪ってやつだ。ずっとずっと君が嫌いだった。あちらの世界でも、こちらの世界でも。君を初めて見た時、自分と似てると思った。世の中に絶望している癖して、平気なフリをして。その癖、ふとした拍子に自分が一番不幸みたいな顔してさ。もっとも、君の場合は抱える不運の種類が少し違ったけど・・・・・・そこから興味が湧いた。君なら僕のことを理解してくれるかもしれない。そう思った。他の連中なんて、僕の上辺だけしか見てくれない。みんな、庇護の下に育てられた幸せな連中ばかり。だから僕は君に期待していた。それなのに__」
ヒュウッと、息を吸う音が静かに響く。
あんなに綺麗だった水嶋の顔は、口や鼻から血を垂れ流し、見るも無惨なことになっていた。
「ある時、君と僕は、全然違うってことに気づいた。僕は家族が世界で一番、憎らしかった。そもそも家族なんかどうでも良い。僕にとっての家族は、ただの殺人鬼。毎日毎日、自分たちの理想通りの息子に育つよう、馬鹿みたいなスパルタ教育なんかやって、気に入らなければすぐに暴力。酷い時は、3日ぐらいトイレに閉じ込められたことがあるよ。水も飲めないから、仕方なくそこで水分補給を済ませた。それ以来だよ、綺麗な匂いをまとわなければ、まともに生活することも出来ない。こんなこと、世間からすれば狂人的だなんて言われても仕方ないけど、そうしたのは僕じゃない。あいつらだ。あいつらが憎くて、どちらの僕もいつか両親を殺してやろうって思っていた。その為に、ニコニコして、がむしゃらに勉強して、良い子ぶって、自慢の息子だと思い込ませた挙げ句に殺そうと思った。なのに、君は僕と同じだと思って、僕のことも理解してくれると思っていたのに。そこら辺の奴らと幸せそうな顔して家族の話なんかして、君も結局同じだって分かって。絶望的な顔してる癖に、根本的には幸せを知って生きている。僕と同じ匂いの人間の癖に、無垢な顔で、他の連中に混じって幸せを語っている。__無駄に優等生やっていたお陰なのか、僕は回収班に選ばれた。規則とそのペナルティの存在を知った時、これほど僕の為に用意された都合の良い事はないって、感激したよ。君を殺して、そしたら僕は消えることが出来るんだからさ。こちらの僕は死んだんだ。だったら僕がやるしか ない。これは復讐なんだ。世界の全てに対する復讐。大嫌いな君を__こっちの世界の人間を道連れにして、僕は消える」
俺は、息をすることさえ忘れて、水嶋の言葉に耳を傾けていた。声が、そこでフツリと途切れたことを知ると、俺は、静かに口を開いた。
「・・・・・・今、分かった」
「なにが?」
「どうして、俺がお前のことを嫌いだったのか」
吐き出した言葉は、思っていた以上に毒気を孕んでいた。水嶋は微笑みながら、俺の口から次の言葉が出るのを待ち望んでいるような表情で見上げてくる。
俺は短く息を吐いて、
「お前のその、自己陶酔した不幸面が気に食わなかったんだよ」
俺は奴の胸倉を掴みあげると、勢いよくまくしたてた。
「俺はお前の身に起こっていたことになんて興味ねぇよ!直接関係なんてなかっただろうしな!だけどな、それで他人を羨んで、それでどうするんだよ!どんなに羨んで憎んだって、他人と同じ幸せなんか掴めるわけがねぇんだよ!だからみんなそれぞれ、がむしゃらに生きてんだろうが!俺にはお前の痛みなんか理解出来ねぇよ、それはこの先、誰にだってそうだ。お前の痛みはお前にしか分かることは出来ないんだからな!」
馬鹿みたいな、説教じみた言葉だと思った。
だけど止まらなかった。
これは水嶋だけではない、自分自身への言葉だった。
俺も水嶋と同じ理由で、彼に嫌悪感を抱いていたのかもしれない。自分が家族を失って。勿論、当時の俺は水嶋の家庭の事情も、奴の身に降りかかる不幸も知らなかった。だからこそ、言葉にも、確か形にもならずに、意味の分からなかった嫌悪感の理由が、今になって分かったのだろう。
水嶋はジッと俺を見た。
それから、至極つまらなそうな顔で溜め息を吐いた。
「綺麗ごとなんか、どうでも良い」
瞬間、マユの悲鳴が俺の鼓膜を震わせた。
佐竹の怒号が響き渡る。俺は反応が遅れた。酷い激痛が走った。それは今まで生きてきた中で、一番酷い、肉体的な苦痛だった。深紅の火花が目の前で散り、俺の腕からは握力が失われる。水嶋の胸倉を必然的に離す結果になってしまう。
__なにが起こったんだ。
考えるまでもなかった。水嶋は冷ややかな表情でこちらに銃口を向けている。
今度は断続的に、2、3発連続で発砲された。
自分の体が、面白いくらいのけぞるのが分かる。
俺の体は、畳の上に仰向けに沈んだ。
頭上から、水嶋の声が降ってくる。彼の体が、徐々に石膏のようなものに覆われていく。彼はこちらを覗き込みながら、光を失った瞳で告げる。
「さよなら、石島。君とは、友達になれるって思ってたんだけど」
胸部に衝撃。
「__こんな世界なんか、大っ嫌いだ」
次の瞬間、サイレンサーにも加工されない、乾いた銃声が耳に届いた。
途端、水嶋の体が、まるで氷のように砕け散る。
それが彼の断末魔だったのだろうか。
ゴトリ。大きな塊として残された彼の顔には、悲痛な表情が浮かんでいた。笑顔しか見せなかった彼の、最後に浮かべた表情は、俺が昨夜目にした、彼らしからぬ横顔と同じだった。
今なら、これがどういった表情なのか、理解出来る。
全てに絶望して、全てを憎んで、それでも彼は、誰かに愛されることを望んで、愛することを望みたかった。だけど、自分ではもうどうすることも出来ない歪んだ感情に感染された彼の心は、踏みとどまることが出来なかった。けれど、寸前まで、彼は多分、心のどこかで求めていた。自分を本当に理解してくれる存在を。
でも、俺は思う。
きっと彼は、たとえそんな存在を手に入れたとしても、同じ末路を辿っていたはずだと。それほど、もう手遅れだった。
多分、世界が変わっても、現実が現実である限り、変わらなかったと思う。
キラキラと、キラキラと、彼の破片が、雪のように降り注ぐ。形を留めていた顔も、いつしか砂塵のように風に浚われていった。
その行方を、俺は視線で追う。痛みや憎しみや、数え切れない感情に体は浸食され始めているというのに、俺がやった行動は、それだった。風に巻き上げられたそれらは、そのまま風に乗って、開け放たれた窓から、散っていく。
空には、琥珀色の満月が夢のように浮かんでいる。
クソッタレ。俺は心の中で呻いた。
「・・・・・・やはり、これを使うことになったね」
佐竹の声が遠くで聞こえる。嫌に冷静だった。

精一杯目を動かすと、彼女は無骨な銃を握りしめ、溜め息を漏らしていた。
それから、白衣の中からケータイを取り出し、どこかへ電話をかける。俺には、それが遠くのことのように聞こえ始めていた。 泣き声が聞こえる。誰かが覗き込んでくる。マユだった。大きな瞳からボタボタと涙を流して、泣きじゃくっている。 しきりにごめんなさいと謝っている。
(・・・・・・泣くなよ)
彼女の涙を拭ってやりたい。動かない腕に、苛立ちが募った。
「ごめんなさい、ごめんなさい。あたしが、お兄ちゃんの言うこと、聞かなかったから。お兄ちゃんが帰ってくるまで、玄関開けない約束、したのに・・・・・・こんなに血が・・・・・・・・・嫌だ、嫌だ、嫌だよ・・・・・・」
「石島君、今救急車を呼んだ」
佐竹が俺の傍にしゃがみ込んで、何かを始める。たぶん、俺の状態を見ているんだろうと思った。
マユは、顔をグシャグシャにして、見ているこちらが切り裂かれそうな気持ちになるくらいの顔で、涙を流す。
「違う、あたしが弱かったからだ。ずっと、謝りたかった。ごめんなさい、兄さん・・・・・・ごめんなさい。あたし、強くなるから。もう兄さんに求めない。だからお願い、死なないで。お願い・・・・・・・・・もう、あたしから兄さんを奪わないで」
マユの小さな手が、俺の頬を柔らかく包む。その温もりが、あまりに遠いものに感じた。俺の中で、カチリと何かがハマる音がした。
今更だった。
(向こうの俺が死んだとしたら、マユは、どんな気持ちでこちらの世界へ来ることを決めたのだろう)
そんなこと、考えなくても答えは出ていた。
(どうしてマユは、そのことを俺に言わなかったろう?)
マグマのような感情が、体の奥底から込み上げてくる。だけどそれはすぐに、もう1人の自分によって宥められた。
(言えるわけ、ないだろう。そんなことを、何も知らない俺に説明していたって、きっと俺のことだから、現状はたいして変わっていなかった)
死んだ兄、死んだ妹。
俺達は一緒だったんだ。たとえ形は少し違っていても、同じ立場、同じを悲しみを抱えた、兄妹だったんだ。
(ちくしょう・・・・・・)
もっと、もっと早く気づけることが出来れば。
それ以前に、俺がもっと、マユがありのままを切り出せるような環境を作ってあげれば。
本当に不甲斐ない兄貴だ。
マユの言葉が浮かび上がる。
__ずっと謝りたかった。
(マユ、それは俺も同じだ。もし出来ることなら、今度はもっと兄貴らしいことを、お前にしてやりたい。謝りたい。やり直したい)
瞼が重たくなってくる。
俺は、段々と体温を失い、重たくなってくる自分の体が、死に向かって歩き始めていることを、なんとなく悟った。
ずっと望んでいたこと。死んだ家族の元へ行ける夢。
だけど、今は違う。もうそんな夢は、見ない。
目の前で泣きじゃくるマユの存在の愛しさ。それさえあれば、もう俺は、そんなくだらない夢を見たいとも思わないし、失った家族に会いたいとも思わない。
だから、もし、この世界に神様が居るとするならば
ただ、俺は思う。
この世界が終わったとして、別の明日が待っているとするならば、どうか、少しで良い。水嶋の言うとおり、この世がどこへ行っても袋小路と同じならば、そこら辺に絶望が沢山転がっているとするならば。
少しでも、出口のある世の中になれば良い。少しで良いから、希望が転がっている世界に、なれば良い。
マユ達が泣かなくても済むような世界になれば良い。


そこで、俺の思考は止まった。


だから、これが夢の続きなのか、走馬灯と呼ばれる類のものなのか、俺には分からない。


俺は夕暮れ時の公園に居た。学校近くの公園だった。俺は、見慣れない制服を着込んでいた。外見年齢を見れば、ごく最近__1、2年くらい前ののことだと思う。マユの乗っているブランコを優しく押している。
マユが笑う。俺が笑う。
幸せな風景だった。
けれど俺には覚えがない。小学生以降、マユと公園に行った記憶は俺にはないし、ブランコを押した記憶もない。
不意にマユが、ブランコから飛び降りた。それから笑顔で、俺に向かって手を振る。
マユは何かを笑顔で告げると、そのまま軽やかに身を翻して公園から駆けて行った。
俺は公園に取り残される。誰もいない公園。
ふと、俺と俺の目が合った。
不思議なことだと思った。けど、特別妙だとは思わなかった。
沈黙。
もう1人の俺が、小さく笑って、はにかみながら口を開いた。
『俺の妹を、頼んだよ』
不思議と響く声だった。
『俺の妹は、凄く不器用で、凄く甘えん坊なんだ。だけど、凄く優しくて、本当はしっかり者なんだ』
「・・・・・・・・・分かってる」
分かってるよ。
応えると、もう1人の俺は微笑んだ。
刹那、光がはじけ、俺は闇の中で目を覚ました。
薄闇の中で、デジタル時計の表示する、21時23分がやけに浮かび上がって見えた。
静かなエンジン音。それに混じる両親の談笑。
ミコトの歌声。
隣で、小さな気配が動いた。
「お兄ちゃん」
「・・・・・・・・・マユ」
マユだった。
大きな瞳が、キラキラと輝いて見える。
__旅行帰りの夜のことだった。平凡な、夜のことだった。
俺は、大事なものを失った。一瞬のことだった。
満月の夜のことだ。
マユと、運転席の父さんと、助手席の母さんは、静かに、俺の嗚咽に耳を傾けていた。
「・・・・・・・・・俺ばっかり、生きててごめんな」
涙は止まらなかった。
いつの間にかラジオは止められていた。誰も喋ろうとしなかった。
「ずっと、謝りたかった。俺だけが生き残ってさ。なのに、ロクな生き方も出来ずに・・・・・・」
外灯が、滑らかに車の上を走っていく。
「世界が終わっちゃうんだって。満月の夜が過ぎると、俺は、みんなのことも忘れて、新しい、けど別に新しくない・・・・・・両親と、マユと生き続けていく・・・・・・。まあ、俺、死んじゃったんだろうけどさ・・・・・・」
ヒック。大きく体が揺れた。
「・・・・・・・・・でも、贅沢だよな。俺、こんなになっても、まだ生きたいって願ってる。マユと生きたいって。新しい家族と生きてみたいって」
静寂。静かだ。
ああ、もうすぐ、この夢は切り裂かれる。永遠の明けない夜。
俺が行き着いた先は、結局ここだったのだろうか。
嬉しいはずだったのに、悲しい気持ちが勝っている。
「・・・・・・お兄ちゃん」
不意に、透明な声が、耳朶に触れた。
「あたしは、お兄ちゃんに生きて欲しいよ。あたし達の分までじゃなくて、お兄ちゃんの人生を大事に生きて欲しい」
透明で、儚くて、今にも消えそうな声なのに、それは優しい雨のように俺の心に降り注いで、染み込んで、身を震わせた。
「浩輔、お前はしっかりしているから、大丈夫。向こうの家族に、失礼のないようにな」
父さんの分厚い腕が、緩やかにハンドルを切った。
「私達なら大丈夫よ。みんな結構、楽しくやってるんだから」
母の、明るくも柔らかい声が紡ぎ出される。
派手なクラクションの音。窓の外を、巨大なトラックが通り過ぎていった。
ゆっくりと、空の色が、漆黒から群青。そして黎明の色へと薄らいでいく。
「・・・・・・夜明けだね」
マユの呟く声が合図のように、世界は穏やかな光に包まれた。
それは急激で圧倒的な白い波となって、溢れ出す。
それから、唐突な眠りが訪れた。
柔らかな眠りの波だった。


「おやすみなさい、お兄ちゃん」


最後に、聞こえたのは、穏やかなマユの声だった。

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第9話満月の扉

蒼き賞
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