石丸:中村雅俊さん、今週もどうぞよろしくお願いいたします。このサロンでは、人生で大切にしている“もの”や“こと”をお伺いしておりますが、今日はどんなお話をお聞かせくださいますか。
中村:今日は「杉村春子さんの『女の一生』の台詞」についてです。
石丸:杉村春子さんといえば、文学座を代表する女優さんでいらっしゃいますよね。
中村:そうですね。俺が入った時には一番偉い人でした。それで、俺が研究生で一番下っ端だったんですけれど。
石丸:杉村さんはどんな方でした?
中村:ドラマの撮影現場に杉村先生が居ると、とにかく皆ピリピリしてましたね。例えば、休憩時間があと10分で終わるという時には、杉村先生はもうスタジオに入られてるんですよ。それで助監督が俺の所へ来て、「中村さん、もう杉村先生はスタジオに入っているから、スタジオへ行きましょう」と声を掛けてくるんです。「え〜、まだ時間あるじゃん。え、春子? 待たせておけよ」みたいなことを俺が言ったら、隣のメイク台の鏡を隔てた向こう側に(杉村先生が)居て。
石丸:やばいですね(笑)。
中村:“あら、これはまずいな”っていうようなことがありましたね。あと、急に思い出しましたけど、熱海に橋田壽賀子先生が住んでいらして、皆で行ったことがあるんですよ。俺はその時にすごく酔っ払っていて、杉村先生にパーンと叩かれて、「あなた!」と𠮟られたんです。「何ですか?」と言ったら、俺、タバコの火を絨毯に落としていて焦がしていたんです。そういうこともありましたね。あまり良い話が無くてすいません。
石丸:いやいや、そんなことはありませんよ。中村さんが大切にしている「『女の一生』の杉村春子さんの台詞」っていうのはどういう台詞なんですか。
中村:『女の一生』(昭和20年に森本薫が文学座に書き下ろした舞台演劇。初代主演は杉村春子)は、人生なので良い時も悪い時もあるんですけど、その“悪い時”に杉村先生(演じる主人公)が心の底から叫ぶ台詞があるんです。
「誰が選んでくれたのでもない、自分で選んで歩き出した道ですもの、間違いと知ったら自分で間違いでないようにしなくちゃ」という台詞です。自分の人生を振り返ると、何かを選択して“あら間違い!”ということはよくある話じゃないですか。
石丸:そうですね。
中村:例えば、車を運転していて、“混んでいるから、こっちの方へ行ってみよう”と思って行ったら、こっちが余計に混んでる…みたいな(笑)。
いつも自分が選んだ道が正しいとは限らないし、むしろ間違いかなと思う瞬間ってあるじゃないですか。でも、道が間違いだと知ったら、何らかの努力をして出口を出る時に、“間違いじゃなかった”という風にすれば良いんじゃないかと思うんです。
石丸:そうですよね。すごくポジティブな言葉ですよね。
中村:そうなんですよ。だから、失敗を繰り返すとずっと失敗だけれど、最終的にそれを成功させればそれは失敗じゃない。生き方というのは、そんなに難しく考えず、“間違い? じゃあ、ちょっと頑張って間違いでないようにすれば良いんだから”って考えれば、それはそれで済む気がします。
石丸:雅俊さんの人生の中に重要な言葉として刻まれたんですね。
中村:そうですね。そのようにシンプルに考えて生きていく感じですね。
楽に生きていける言葉なんです。
石丸:さて、中村さん、東日本大震災発生から10年が経ちました。中村さんのお生まれは宮城県女川(宮城県牡鹿郡女川町)で、あの震災でまさに被害を受けたエリアですね。
中村:そうですね。
石丸:地震が発生した時は、どちらで何をされていましたか。
中村:東京でドラマの撮影をしていまして。東京でも(揺れが)凄かったじゃないですか。それで“「震源地はどこだ”?」って話をしたら、女川のすぐ近くだったんですよ。俺らは、「地震があったら津波だ」といつも言われていたので。
石丸:子供の頃から?
中村:ええ。だから、かなり凄い地震だったので“津波は来るな”って思ったんですけど、あれほどすごい津波だとは思わなかったですね。
石丸:そうですよね。あの地震が起きてしばらくして、上空を飛んでるヘリコプターが海や街の様子を映していたじゃないですか。(津波は)ドバーンと来るものかと思ったら、押し寄せて来るものでしたよね。
中村:そうですね。津波で女川の7割近くの家が無くなったんですけど、海岸からちょっと入ったところに20メートル位の丘があって、その丘の上に病院があったんです。震災の時はその病院の1階の天井まで(津波が)来たので、高さ的には20メートル超えしているんですよ。
石丸:そうですか。
中村:本当にびっくりして、震災の1ヶ月後に女川へ行ったんですけど、瓦礫だらけの街を見た時は言葉も無かったですね。あまりにも“変わり果てた”という感じで。
石丸:ご自身が生まれ育った場所が。
中村:瓦礫だらけで、自分の記憶にあった景色が思い浮かばないんですよ。
石丸:女川にいらして、“自分にも何か出来るかもしれない”とか思われれたりしましたか?
中村:“何が出来るんだろう”と思った時に、最終的には「歌」でしたね。ギターを一つ持って色んな避難所へ行ってそこで歌わせてもらって、“歌ってこんなに力があるんだ”って痛感しましたね。
石丸:そうですか。集まってらっしゃった方は、歌を聴いて何かおっしゃってましたか。
中村:語りはしないんですけど、俺が二十歳くらいの時に作った「私の町」という女川町の歌を歌っただけで泣く人が多かったんですよ。
トンネルを抜けて、港が見えて、短いホームがあって、駅を降りてどうだとかっていう、ただ景色を歌った歌なんですけど、津波でもうその景色が無いじゃないですか。
俺の稚拙な歌で(震災前の)女川の景色を皆が思い浮かべて涙してるという光景を見た瞬間に、“歌ってすごいな”って思ったんですね。
“歌を聴いてる場合じゃないよ”という気持ちは心の中にあったのかも分からないけど、歌を聴いているその瞬間だけ、今置かれている厳しい環境を忘れられる気分になるのは、「歌の力」だなって思っています。
石丸:本当にそうですね。その後、何度もいらっしゃったんですか。
中村:そうですね。(震災後に)番組を持たせてもらったのもあって、わりとまめに行く事が出来ました。復興の10年間をずっと見させて頂いた感じはしますね。
石丸:今は(東北は)どんな風になっていますか。
中村:今は日常生活の中に笑顔が増えていますし、どんどん建物が建ったり道路が出来たりしています。これから先は“心の復興”も大切になるので、“歌の出番だな”と思っているんです。
石丸:そうですね。皆さん中村さんを待ってらっしゃるでしょうからね。
中村:いやぁ、どうですかね。でも改めて“どういう歌を歌ったら良いかな”って考えながら選曲すると、“(この曲は)皆に歌ったら、すごく元気を与えそうな歌だ”というような発見がありますね。
石丸:それは歌詞が、ということですか?
中村:やっぱり歌詞ですね。歌詞が皆さんの心に沁みていくようなシーンいっぱい見ましたから。
石丸:聴いてくださる方の心を柔らかくするような歌詞のものを選曲して歌ったり。
中村:そうですね。あと、俺のデビュー曲の「ふれあい」みたいに、普遍のテーマを描いている歌詞というのは、すごく皆さん(の心)に突き刺さる感じがしますね。
石丸:「ひとはみな一人では生きてゆけない」とおっしゃってますものね。あの言葉って、“他の人と手を携えながら行こう”と思う、励ましの言葉に感じますよね。
中村:正にそうだと思います。ターゲット不特定で色んな人たちに当てはまるような歌詞なので、余計に(心に)突き刺さると思いますね。
石丸:ぜひ今後もずっと歌い続けて僕らに勇気をください。お願いします。
中村:そうですね。望まれるならずっと歌い続けていきたいと思います。