石丸:松重豊さん、今週もよろしくお願いいたします。このサロンでは、人生で大切にしている“もの”や“こと”についてお伺いしております。今日はどんなお話をお聞かせくださいますか。
松重:今日はですね、「大切にしない」っていうことですね。
石丸:おっと(笑)。それはどういうことですか?
松重:これまで3週に渡って、「お金」とか「食べ物」とか「女房」とかって大切なものを述べてきましたけど、あえて今は「物に執着しない」ということを心がけるようにしているんですよ。
石丸:それは断捨離的なことですか?
松重:そうですね。「断捨離」って言葉は誰かが言い出したことなんでしょうけども、元々仏教の言葉で「放下著(ほうげじゃく)」という、“捨てちゃえよ”っていうような意味の言葉とかもあるんですよね。物や存在に対して“執着すること”が色んなことを妨げてる、という。ある程度年齢がいくと、周りの人も自分に対して忠告をしなくなってくるじゃないですか。
石丸:確かにそうですね。
松重:若い頃、僕は蜷川幸雄さんに育てられたんで、ハラスメントの嵐ですよね。
石丸:そうでしたね。
松重:物は飛んでくる、罵声は飛んでくる、そんなハラスメントをかいくぐりながら生きてきたんで。でも、はたと気付いた時には、そうやって自分に罵声を浴びせてくれる人も現場でいなくなっちゃうわけじゃないですか。
そうすると自分の中に問いかけるしかなくなるんですけども、やっぱり自然と錆というか垢というか、こびりついたものが取れなくなっちゃうんですよね。自分の癖というか。
だから“自分が経験して獲得したような気になってるものを、どんどん捨てていかないとダメだなあ”って思って、「あ、これやったな」っていう引き出しみたいなものは絶対に持たないって決めたんですよ。
石丸:それは何時のタイミングで決めたんですか?
松重:40(歳)位のタイミングだったと思うんですけど、「この仕事を続けていくという意味」とか「プロの俳優でお金をもらうということ」とかを考えていった時に…この仕事って、一瞬のピークを迎えれば良いだけじゃないじゃないですか。ずっと長いスタンスでゴールが見えないところへ向かって行くんで、俳優の仕事って、はっきり言って“どうやれば良い”っていう悟りの境地なんて絶対来るわけないんですよね。
でも、ある経験則からいろんなものを引っ張り出してきて、“ヤクザだったらこんな感じだろう”“医者だったらこんな感じだろう”“弁護士だったらこんな感じだろう”みたいなことをやりがちなんですけども、それは絶対に良くないと思うし、捨てちゃえっていう感覚が、40代の頃、行き詰った時に出てきたんです。それは京都の撮影所の隣にあるお寺の仏像とずっと向き合ってる時間だったんですけど、何だか知らないけども、“色んな物を捨てちゃおう”っていう気持ちになって。
それで“仏像を見てると気持ちが落ち着くなあ”と思って、特定の宗教に入った訳じゃないんですけども、臨済宗と曹洞宗の2つに座禅教室みたいなのがあるんで、そこに行ったら、「何も考えない」「セリフのことも考えない」「明日の芝居のことも考えない」という時間が非常にリフレッシュに役に立つっていうことに気付いて。その禅の言葉に、“捨てちゃえよ”みたいな言葉とか、“そんなお前、こだわってちゃ仕方ないだろ”みたいな、意外とパンクなことがいっぱい書いてあるんですよ。
石丸:そうですね。
松重:そうすると、「じゃあ要らないわ。今まで取ってあったけど、もう捨てちゃおう。今日の現実の現場と未来のことしか見てない」っていう。
石丸:格好いいなあ。
松重:過去に関しての執着とか、そういうものを捨てた方が楽だって気付いたんですよ。
石丸:そうですか。その仏像と向き合った時にその境地にいかれた?
松重:その時はよく分からなかったんですけど、“仏教って面白いな”“仏教って何だ?”ってよく考えていくと、キリスト教やイスラム教みたいに神がいるわけじゃない。要するに哲学なんで、「あなたの心の中の問題ですよ」って言ってるだけだから、自分の心と向き合うだけなんですよ。それって役者っていう仕事で生きていく上でも拠り所になると思ったんで。
役者って色んな役がどんどん入ってくるじゃないですか。
石丸:そうですね。
松重:人によっては、役作りで殺人鬼やってたら私生活までそっちになっちゃったとかっていう人いるんですけど、“バカじゃないの”って僕は思うんですよ。役なんだから入れ物に徹すれば良いじゃん、(役者は)空っぽの入れ物なんだから、たまたま役が入ってきて出て…って。
その日の朝に弁護士が入ってきて、午後から医者の役が入ってくるみたいにしていけば、その役に囚われることもないし、医者になった瞬間にそこで感じれば良いっていう風に割り切れば、色んなことが分かりやすくなっていったんですよ。「大切にしない」っていう、“その瞬間に生きる人になる”っていう。
石丸:それは素敵ですね。話は変わりますが、昨年、短編小説とエッセイを収録した著書『空洞のなかみ』(毎日新聞出版)を刊行されました。その本にさっき話していた例の仏像の話が出てくるじゃないですか。
松重:そうですね。
石丸:僕はあの本を読んだ時に、“お寺で仏像に出会うことによって、こんなに人生が変わるんだ”と。それはたまたま出会ったって設定だったんですけど、松重さん自身が本当にその体験をされてたらすごいことだなあと思ったんですけど。
松重:そうですね。広隆寺という、太秦の東映の撮影所の真横にあるお寺の国宝の弥勒菩薩像が、お美しい姿でね。そこの前にずっと座れるんですよ。昼間に修学旅行生とかが帰っちゃったら、夕方の閉館まで2人っきりになれるんですよ。
僕、それまで仏像なんて興味も何にもなかったんですけど、癒されるって言葉は気持ち悪いんですけど、何も考えないでボーっと居れるっていうことが“これ何? 仏像って何?”って思って。そこから仏教っていうか、そういうものを哲学として自分の中に取り入れるのは面白いんじゃないかなと思ってかじり始めたんですよね。
石丸:そうなんですね。切符売りのおじさんの話が出てくるじゃないですか。あの方は(実際に)いらっしゃるんですか。
松重:あの人は特に居ないんですけども。僕が俳優としてすごく尊敬する大杉漣さん…漣さんって舞台出身で映画でやられてて、誰からも愛されて、誰からも求められてて、本当に僕らの指針だった人が僕の目の前で急に亡くなられたんです。ちょっと(漣さんを)イメージして“あそこの切符売り場のオッサンとして出てくるといいかなあ”って、「実は弥勒(菩薩)なんだよ」っていうことがあったら、僕の中ではすごく物語として完結するなと思って。あれは大杉漣さんを完全にイメージして僕の中では書いたんですけどね。
石丸:やはりそうでしたか。僕は数回しか無いんですけれど、大杉漣さんとご一緒させてもらった時に“仙人みたいな人だな”と思ったんです。
松重:あの人も男性か女性か分からない、何だろう…中性的な、非常におばちゃん的な優しさと温かさと、本当に色んな広がりを持った方だったんで、だからこそ「300の顔を持つ人」って言われてましたし、色んな役が出来るし、色んなものになれるし、っていうことで、僕にとっての目標というか指針というか。そんな人が急に目の前で亡くなっちゃったっていうことを自分の中でどうかしなきゃいけないっていうこともあって、本にしたところがあります。
石丸:そうなんですね。本の中での「空っぽと無は違うもんなんやで」みたいな京都の言葉が大杉(漣)さんの口から出たと思ったら、納得いくものがありますね。
松重:そういうことです。ありがとうございます。そういう風に読んでいただければ幸いです。
石丸:是非皆さん『空洞のなかみ』を手にとって読んでいただければと思います。またYouTubeのチャンネルで、松重さん自身がその小説を朗読されてますよね。
松重:そうですね。僕がラジオに呼んだりする大好きなミュージシャンの方達も、昨年は(コロナ禍で)ライブハウスが厳しい状況になってわりと時間があったので、「もし良かったら自分で書いた本の朗読をするんだけど、横で伴奏してくれない?」って出演オファーして、(小説の)朗読をする(YouTube)チャンネルっていうもの作ったんです。コロナ禍ならではの試みだと思って、朗読とミュージシャンのフリーセッションっていうことでやったんですよね。それも公開してますので、別にお金を儲けようと思ってないんで、広告とかつきませんから、是非ご覧になっていただければと思います。
石丸:僕も拝見しましたけど、素敵ですね。
松重:ありがとうございます!
石丸:カメラのアングルもすごく良くて、
松重:グルグル回っているやつ。
石丸:あれは物語を想起させるというか。
松重:そうですね。
石丸:是非皆さんこの YouTubeチャンネルもご覧になってください。
松重:ありがとうございます。
※松重豊さんのYouTube公式チャンネルは
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