石丸:米村でんじろうさん、これから4週にわたりどうぞよろしくお願いいたします。このサロンでは人生で大切にしている“もの”や“できごと”についてお伺いしております。今日はどんなお話をお聞かせくださいますか。
米村:今日は「人との出会い」についてです。
石丸:まずは、でんじろうさんのお仕事「サイエンスプロデューサー」について教えていただけますか。
米村:「サイエンスプロデューサー」というのは、私が勝手に肩書として作った造語なんです。“プロデューサー”ということなので、何かをプロデュース、作り出すということで、科学をテーマにして、科学館であれば展示物を作るとか、番組であれば科学番組を作っていくお手伝いとか、そういうサイエンスに関わることをプロデュースしていくということでつけた名前です。
ただ、自分がこうやってラジオにも呼んでいただいてお話しすることがあるので、なんとなく表に出ていますけど、どちらかというと、何かを創り出していく裏方の仕事をやりたかったんです。メイン(の仕事)は、全国に出かけて行って、子供たちのための実験の教室とか、親子参加のサイエンスショーのようなイベントが一番多いですね。
石丸:そもそも、科学と出会ったのはいつ頃なんですか?
米村:僕は子供の頃から科学に興味があったんです。時代もあったと思いますけど、昭和30年代生まれなので、テレビが一般家庭に普及したりとか、日本が高度成長期になったりとか。でも勉強嫌いで宿題はやっていかないし、居残り勉強ばかりさせられて。
石丸:え! そうなんですか。
米村:その結果が、中学校で英語とかで落ちこぼれ、高校でも落ちこぼれ、大学は目指したんだけど、入れてくれずに3浪。
石丸:3浪ですか!
米村:そうです。結構厳しい時代で、ようやく大学に入れても、就職がなかなか出来なくてですね。研究生という形で籍を置いておいて、5年くらい大学を出たり入ったりしながら、でもあんまりやることは無いって感じでした。そうこうしているうちに大学の先生方も心配してくれて…。「自由学園」というところがあったんですけど。
石丸:学校がありますよね。
米村:はい。(東京都)ひばりが丘にあるんですけど、そこの男子部で非常勤の教師を探しているという話があって。(大学の先生が)「お前、行ってみろ」ってことで、そこに行き始めたんです。
石丸:どんな学校だったんですか?
米村:驚くのは、“勉強のための勉強”ではないんですよね。より良く生きるために学ぶのだ、と。「生活の中に学びがある」という教育方針がしっかりと根付いている、独特の考え方。
だから“木工の時間”というのがあったんですよ。木を切って机・椅子とか作っているんです。なぜ作っているのかと言えば、自分達が授業中に使うためなんです。だから、木工の授業というのは、“ただ何かを作る”のではなくて、“自分達が学舎で使うための授業”という考え方。
石丸:目的がちゃんとあるわけですね。
米村:もっとすごいのは、授業に「林業」があるんですよ。
石丸:授業にですか!
米村:「男子部の生徒は1週間枝打ちに行ってるから、今週は休校です」みたいな。なぜ林業をやってるのかと言うと、「学校もいつかは古くなる。その時に自分たちが育てた木で校舎を建て直すんだ」って言うんですよ。
石丸:すごい視点ですね。
米村:その通りにならないにしても、そういう考え方で授業を構成していく。自分が学んできた学校とは全然違うんで、“すごい学校だなあ”って。そこで働いている先生も考え方が全然違うので、“こういう学校やこういう教育があるんだな”ってことにすごくびっくりしました。
石丸:それは、今までの色々な悩みや想いが、その学校で解放されたりとか?
米村:そうですね。僕は学校で劣等感をいっぱい抱いていて、“自分はダメだな、勉強出来ないよな”って、ずっとコンプレックスが強かったんですよね。だから学校って嫌で、学校教育に対するイメージってすごく悪かったんです。その学校へ行ってみて、“こういう学校もあるんだな”ってすごく刺激を受けて、そこで“教師になろうかな”と思ったんですよ。
石丸:その時は、教師として赴任したわけではなく。
米村:そこは非常勤です。大学の先生が(非常勤講師として行ってみろと)言うから、“嫌だな、教えるの好きじゃないんだけどな”と思いながら行ったんですけど、行ってみたら全然普通の学校ではなくて。3年程居たんですけど、いろんな先生との出会いがあって、考え方とか、それまで持っていた学校のイメージが変わって、“僕が先生になっても良いんじゃないかな”という風に、人生観が少し変わってきました。
石丸:素敵な人との出会いがあったわけですね。その後、40歳の時に教師という立場を投げうって独立されたと伺っています。これは何がきっかけなんですか。
米村:都立高校に11年勤務したんですけど、最初は無我夢中で頑張ってやってました。だけど上手くいかないんですね。
石丸:どういうところが?
米村:授業を生徒が聞いてくれない。あと、生徒指導もうまくいかない。大体において自分が指導される位だらしないっていう(笑)。
石丸:そうなんですか(笑)。
米村:“やっぱり学校に向いてないんじゃないかな”っていうのがあって。(生徒を)授業に振り向かせるために自由学園で経験した実験を見せたりやらせたりしたら興味を持つかなと思って、出来るだけたくさん実験を取り入れるようになったんですよ。
石丸:生徒たちはどうでした?
米村:反応が良かったです。いきなり(教室に)行って、「先週ここまでやったから、今日はここからだ。教科書の何ページを開け」って言っても、全く言うこと聞いてくれないわけですね。
“つかみ”と言っては何ですけど、授業が始まる前に何か実験を見せてインパクトを与えてから「さあ授業だぞ」っていう感じのことをやるように。
石丸:“つかみ”が必要だったということですね。
米村:そこだけはつかめたんですけど、本番の授業になると(生徒の気持ちが)離れてしまう…という。それで実験をたくさんするようになり、一時は調子に乗って“つかみ”の方が大きくなっていっちゃって。落語で言う“まくら”の方が膨らんじゃって(笑)。生徒にウケるから楽しくて。
そんな教師時代を過ごしていたんですけど、だんだん気づきました。10年位経ったら、“やっぱり教師に向いてない”ってことが本当によく分かったんです。
石丸:そうなんですか? そんなに面白い実験をなさっているのに。
米村:それはウケるんです。面白い実験は出来るんだけど、教師としての学習指導とか、生活指導とか、進路指導とか、部活の指導とか(は上手に出来ない)。教師って結構大変なんですよね。生徒とのたくさんの出会いがあるから、面白い仕事ではあります。だけど、僕にはそういう指導力が無いことが分かったので、“これは駄目だ。悪い教師にしかならないな”っていうことを悟ってしまって。
石丸:そうなんですね。
米村:そんな時に、“実験が得意な先生がいる”ということで、「テレビ番組の手伝いをしないか」みたいな誘いがあって、その教育番組の手伝いをするようになったんです。そうこうしているうちに番組制作のプロダクションに出入りするようになって、そこにいた佐藤さんというプロデューサーが、僕のアイディアとか企画、実験にすごい興味を持たれて、“こんな先生がいて、いろんな実験やってますよ”みたいな番組を、「まあ、通らないと思うけどね」って(感じで)企画を出したら、通ったんですよ。
それでその番組に出ることになって、これまで教師(という仕事)しか知らなかったんですけど、“科学に携わるのに、科学番組を作るという、こういう仕事もあるんだなぁ”と思ったんですよね。
番組制作に関わる中で、“もしかしたら学校を出た方が自分には向いてるのかもしれない”と気付かされて、“じゃあ、思い切って(教師を)辞めてフリーランスでやってみようかな”と思った矢先に番組が成立したので、4月に辞めて、5月のゴールデンウィークにその番組がオンエアされて、わりと好評だったんですよ。そうしたら「ちょっと実験を見せてくれませんか」「お話を聞きたいんですけど」みたいな問い合わせが来て、今の仕事が動き始めるんです。
“辞めてどうなるかな”と、とても不安だったんですけど、辞めてみたら声をかけてくれる人がいて、仕事が繋がっていって。でもフリーランスですから、突然何ヶ月も仕事が無かったりするんですけど(笑)。でもそのうちにまた声をかけてくださって。頑張っていると仕事が発生したりして、“世の中って、こういう風にして人の巡り合わせで繋がっていくのかな”と思いました。それが教師を辞めて今の仕事に繋がるきっかけでしたね。
石丸:そうなんですね。人の巡り合わせは自分では読めないですけど、周りがそうやって手を差し伸べてくれて、道って開かれていくんですね。
米村:見てくれている人がいたりするんだなと。