石丸:藤岡弘、さん、これから5週にわたりどうぞよろしくお願いいたします。このサロンでは、人生で大切にしている“もの”や“こと”についてお伺いしております。今日はどんなお話をお聞かせいただけますでしょうか。
藤岡:今日は「映画と映像作品」についてお話をしたいと思います。
石丸:藤岡さんの俳優デビューは映画ですか?
藤岡:そうですね。松竹映画でデビューいたしました。
(松竹映画の)ニューフェイスだったんですが、そこで青春映画からスタートしました。
石丸:何歳の時でしたか?
藤岡:まだ19歳か20歳くらいでしたね。
石丸:ピカピカですね。そもそも、俳優を目指されたきっかけというのは?
藤岡:私は愛媛県の松山で育ったんですが、娯楽というと僕にとっては映画が一番魅力的な存在だったんですよね。
石丸:じゃあ、映画館に結構通って?
藤岡:おっしゃる通り、映画を観たさにアルバイトをして、お金が貯まるとすぐに映画を観に行ってました。3本立てとか、深夜興行といって、土曜の深夜から日曜日にかけて夜中にずっと上映していて安く観れるものとかね。
石丸:そういうものがあったんですね。
藤岡:そういうのを狙って観ているうちに、どんどん映画に魅せられてしまって。
石丸:(映画の)何に惹かれたんですか?
藤岡:演じる人の人生に対する向き合い方とか、歴史観や世界観など、いろんな面からワクワクするような、好奇心をかき立てるようなところでしょうか。
サムライ映画も好きだったので、ちょうど黒澤(明)さんの作品とかに魅せられてね。
その当時、日本映画界がものすごく良い時代で、それに引き込まれてしまった。
石丸:ジャンルは問わずにご覧になっていたんですか?
藤岡:もう、“問わずに”です。アメリカ映画はウエスタンものの西部劇がすごかったでしょ。フランス映画なんかも、どんどん入ってきました。(ジャン=ポール)ベルモントとか、ジャン・ギャバンとかアラン・ドロンとかの映画も来てましたからね。
石丸:渋い人達ですね。
藤岡:異国の文化にもすごく影響を受けました。
石丸:そんな中で、“自分も俳優になってみたい”という想いが生まれたんですか。
藤岡:田舎ですから、情報が限られていますよね。
でも映画の中は民族も国境も越えた世界観がどんどん広がっていて、胸にズシンズシンとくるわけです。
いつしか自分の中で、その(俳優になってみたいという)想いがどんどん強くなってきて、自分の狙いがそこに向き始めて、アルバイトをしてお金を貯めて(目的の場所へ)行きたい!”という気持ちになりました。
石丸:目指したのは何処だったんですか?
藤岡:“映画を作っているところの近くまで行きたい”と思ったので、東京を目指そうという気持ちが強かったです。
石丸:映画を観たことが大きな原動力になっているんですね。
藤岡:そこにロマンを感じたんですね。あの頃は、田舎にいると情報も何もかもが非常に狭いんですよね。ところが映画から見る世界というのは、国境も民族も越えたすごいもので、とてつもなく広いわけです。
石丸:それは、昭和何年頃だったんですか?
藤岡:昭和36〜38年くらいですね。
石丸:ちょうど(東京)オリンピック前で、いわゆる高度経済成長で日本中が騒いている頃ですね。
藤岡:そうですね。アルバイトで貯めたお金を持って、1人で夜行列車に乗りました。ワイシャツとジーパンで、ナップサックに洗面道具とカメラと武道着。カメラはアルバイト代で自分で買った中古品で、唯一映像と繋がっているものなので、それを持って。武道着は、私が青春時代からずっと(武道を)やっていたものですから。それだけで東京へ向かいました。
石丸:すごいですね。
藤岡:着いた当時は、上智大学の芝生で寝て。
石丸:え! 野宿ですか?
藤岡:野宿したんですよ。それから友人の下宿をたずねて行って。だから、全てが行き当たりばったりな感じで、何の準備もしないで来ちゃった。
石丸:じゃあ、17、18(歳)くらいの時に、熱意だけで?
藤岡:はい、18ですね。
石丸:“帰ろうかな”と思ったことは無かったんですか?
藤岡:それは全く無かったですね。ただ、怖くて、眩しくて、人の流れは速いし、素敵な女性が歩いているし、車も多いしで、それは田舎とははるかに違う世界でした。
石丸:それこそ映画の中の世界みたいですよね。
藤岡:そう。別世界ですよ。
石丸:話は変わりますが、僕が藤岡さんを初めて観たのは「仮面ライダー」だったんですけれども、これはおいくつの時に?
藤岡:これは25歳です。その前に相当苦労しました。
食うや食わずで、3日くらい食べられなかったこともあったし、バイトしながらなんとか演劇の学校、養成所に入って、そこで勉強しながら、自分の可能性を見出そうと頑張っていました。
その時に、たまたまバイト中に松竹の方にスカウトされて、その人のお力で松竹という映画会社に入れてもらえるような形になって。
石丸:大会社ですね。
藤岡:そこでニューフェイスに入れてもらって、そこでも演劇の学校を紹介されました。だから2か所、学校と養成所を渡り歩いて勉強をしたわけですね。それと、先生に個人的に教えてもらったりしていました。
そうしているうちに、人の力添えもあって、松竹の映画に出演させてもらえるという奇跡のようなチャンスをいただきました。ここで私は体が震えるような経験をしながら、緊張と張りつめた空気感の中で鍛えられました。
石丸:そうやっていろんなチャンスをものにされてきたわけですが、「仮面ライダー」はテレビですよね。映画の世界からテレビの世界にご自分から行かれたんですか?
藤岡:松竹で何本か青春映画で主演をいただきました。その時は(松竹映画としての)路線がありましてね。「チャーミング・カップル」として出て(笑)。でも僕はお坊ちゃん育ちではないし、大自然の中で暴れまくっていた青春時代ですから、そんな好青年みたいなものは抵抗があった(笑)。
石丸:きっとそういう風に見えるんだと思いますよ。
藤岡:ただ、体を使うことに対しては自信があったので、何かアクティブな、自分の体をぶつけていくようなアクション物とかが向いてるなと思っていて。
松竹はそういう路線がなかなか少ないんですが、他社はあるわけですよね。日活とか東映とか大映にしてもね。
石丸:当時は五社協定があったから、出られないんじゃないですか?
藤岡:それを破って挑戦したのが「仮面ライダー」なんですよ。
石丸:すごいことをなさいましたね!
藤岡:オーディションを受けたんですよ。恩のある方から紹介を受けて、又、色々な方の助けを得て、「君に向いているような感じがするから、チャンスにアタックしなさい。挑戦してみないと分からないだろう」と言って押してくれたんですよ。
石丸:一番藤岡さんの魅力が出せるキャラクターでもありますが、先ほども申しました「五社協定」という“他の所(の作品)に出てはいけない”という厳しい掟がこの業界にはありましたよね。
藤岡:それを破ってやったんですよね。
石丸:それはチャレンジだから。
藤岡:話すと長いんですが、トラブルは色々ありました。それが人の出会いの縁によって守られたり、助けてもらったり、まあ、いろんな面がありましたよ。私はそういう規則というか、業界のシステムというか、そういうものに疎かったので、無意識だったんですよね。
石丸:まあ、若さもありますよね。
藤岡:そうですね。
石丸:そういう形で飛び込んで、アクションをフルに発揮できる次のステップに登り始めたんですね。
藤岡:なかなか夢はそんなに簡単に手に入れられなくて、波乱万丈と言ってもいいような、“涙々”の部分もあるんです。でも、そういう思い出したくない過去よりも、先を見ながら夢を追いかける気持ちの方が勝っているので。
石丸:藤岡さんはいろんな道を歩んで乗り越えていらっしゃったんですね。
これから映像を作っていきたいという話を伺ったんですが。
藤岡:映像に魅せられて(映像の世界に)入った私です。やっぱり映像で自分の思い出や歴史を残したい。
今はファミリーがいますから、“子供たちと一緒に思い出を残したいな”という想いですね。
“自分が最初に魅せられた日本のサムライ精神のような伝統的な歴史観のある映画を、子供たちと一緒に作りたい”という想いが、フツフツと湧いてきているんですね。
石丸:もちろん、ご自身も登場されますよね?
藤岡:はい、もちろん。
芸能生活57年、もうすぐ58年目に入りますけど、そこで培って学んだ、諸先輩から薫陶を受けた集大成を残して、たたきつけて子供にそれを託したいというか。“子供に夢を託したい”という気持ちもありながら、“子供との夢を膨らませたい”という想いがあります。
石丸:じゃあ、お子さんが4人共、出演される?
藤岡:できれば。親としての生き様を子供たちの思い出に焼きつけてもらえたら、僕としてはそれが子供に対する良き贈り物になるかな、と。これは私の夢ですけどね。
石丸:ぜひ叶えてください。待ってます!
藤岡:ありがとうございます。