2019/3/10
『おと語り』ではよく“大我”“小我”という言葉が出てきます。
「言葉では理解していても、実際には“小我な自分をどうすればよいか”と悩む人も多いようですね。大事なのは“動機”。その時に自分がどう思ったのかということ。その動機の分析というのも同時にしないと“大我”か“小我”か分からないのです。この世の既成概念というのはあまり役に立たない。これが“良いこと”“悪いこと”というのと“大我”“小我”とは別なのです」という江原さん。
今日は『大我・小我』をテーマに番組をお届けしました。

今夜お届けしたナンバー
◇Layla(Unplugged) / エリック・クラプトン
◇ひとが生まれるとき / 江原啓之



「私は、母一人で頑張っている父の介護の手伝いができればと、この春に同居することにしました。大好きな主人とは別居となり、離れて暮らすのは淋しいですが、両親を助けたいという純粋な気持ちで決めたことです。子どもの進学などで私達はまだ身動きできないので、とりあえず来てもらい、4月の引っ越しまで一緒に住むことにしました。父の介護も手分けし、孫との生活で母は元気を取り戻し、生活も慣れてきた頃だなと思っていた矢先、自分の家に帰りたいと言われました。娘の家で気を遣っているのはわかっていました。でも帰りたいと言われると、私たちの思いは空回りだったのか、有難迷惑だったのかと本当に残念でした。けれど両親の気持ちを最優先に、春まで別々に暮らすことにしました。実際20年ぶりに一緒に暮らす両親とは、生活スタイルもペースも価値観も全然違いました。それも覚悟の上でしたが、両親にとっては息苦しかったようです。“帰りたい”と言われた時、一瞬“助けたいという私の思いは心に響かなかったのか…”と思いました。年老いた両親はいつまでもいないから後悔しないようにと、自分の為もあって助けようと思っていましたが、江原さんの言う“小我”というものではないか…と、気持ちが揺さぶられました。こんな気持ちでどこまで母と上手くやって行けるか不安です」というメールをいただきました。

江原さん
「あなたは分析できている。がっかりするという出来事というのは、みんな誰もが“小我”なのです。この世では、あなたのしていることはとても“善”なこと。だから気の毒にとも思うけれど、そうは実はうまくいかないんです。冒頭の話のように、常識と“大我”“小我”とは違う。この世の中の常識としては、大変素晴らしいこと。けれど、がっかりする思いがあるというのは“良く思われたい”という気持ちもあったのではないか。有難迷惑だとはご両親も思っていないと思うが、自分の環境を変えられるのは、若くても年寄りでも戸惑うのは一緒。あなたは優しい娘だけれど、あなたたち夫婦と子どものことが一番大事。そこが崩れて親の面倒を見ても、本末転倒。優先順位で、自分の責任の一番重いところはどこなのかと考えたら、まず夫と子どもですよね。親の面倒をみることはもちろん素晴らしいこと。けれど、寝たきりの年寄りなら分かるけれど、まだ元気なうちは“夫婦”の単位で、責任主体でいくべき。万が一、事故が遭った時に子どもとして切ないから…というのは“小我”。親の方から“お願い。助けて”と言われたのであれば、話は違う。細かいことを言えば、家族の同居にはたくさん考えることがあるんです。例えばみなさん、年寄りの立場で考えたことはありますか?“お母さん、ちょっとお醤油買ってきて”と言われた時、年金の自分のお金から払うべきか、お金を請求していいかどうかなど、身内でも様々なところで遠慮もあるんです。また、孫へのお小遣いもあげていいのか悪いのかなど、特に金銭がらみで色んなことがある。それに“お母さんたちも、年金から生活費、これくらい入れて”と言われても、常に子どもに合わせた食事を我慢して食べなければいけないなど。けれど、そんな細かいことは言いたくないんです。そんなことを言ったらがっかりさせてしまうとか、みみっちい親だと思われてしまうとか思ってしまうんです。そうであれば、元気なうちは離れていた方がいいなとも思う。お父さんが介護を受けている方なので、お母さんは助かったと思うんですよね。お母さんがお父さんに対して“大変だから、みる者の立場になって”と両親で話し合うのであれば、それを傍観すればいいし、お母さんも“お父さんの為に別に住むわ”というのであればそれもいい。しょっちゅう泊まりに来るとか、それぞれの家のルールを作ればいい。そこでも“大我”“小我”という考え方はすごく役に立つと思うんです。“年老いた両親はいつまでもいないから後悔しないように”というのも“自分”ですから“小我”。“大我”で生きるというのは、相手の自由な選択を尊重することでもあるのです。子育てとも似ている。ある程度は突き放さなければいけないし、いざという時は助けなければいけない。その狭間の中で“どこまでが良いことかな?いけないことかな?”と思うもの。親も同じなのです」


「私の1番の悩みは、どこの職場に行っても誰かと誰かの板挟みに合うことです。どっちにもいい顔をしているつもりもなく、ただ人当たりがよく私ならなんでも聞いてもらえそうだと思われるようです。その為、色んな人から多くの人の愚痴を聞かされます。仕事中も退勤後も連絡が来て、疲弊してしまっています。徐々に距離を置いたりしているのですが、そうすると体調悪いの?など心配されてしまいます。誰かの敵になるよりは、今の中間役の方がマシなのでしょうが、どこの会社でも同じ役割になってしまい、私はどうしたらいいのだろうと思っています。学生時代、辛いいじめにあっていたこともあり、人の顔色を読み過ぎてしまったり、嫌われることを恐れていますが、いつもニコニコして物分かりのいい子でいるのも疲れてしまいました。でもツンとしたとっつきにくい感じでいることもできず…。こんな私にアドバイスをいただけたら嬉しいです」というメールをいただきました。

江原さん
「過去の学生時代の出来事というのが、すごく影響しているのでしょうね。この部分がなければ、自分だけ悦に入っちゃって、自慢話かな?と思ってしまう。“みんなから言われちゃって、聞き役になって辛いんです”という自己憐憫かな、と。けれど過去のことを聞くと、自分が強くなれないんだろうなと思う。もう一段先にいけば、疲れることは大事なんです。疲れてこそ、責任主体・自律に向かう。“ツンとしてとっつきにくい感じでいることもできず…”というのは極端。愛想良く誰にでもへつらうことと、ツンとするという二つではない。自然体で“私、わからない”と言うことも大事だし“それで嫌われても仕方がない”という気持ちも大事。私が書いた『幸せに生きるひとりの法則(幻冬舎)』という本があるので、ぜひ読んでいただきたい。孤高こそ大事。孤立でも孤独でもない。孤高な生き方というのは、一番“大我”で強いのです」


「見返りについてお聞きしたいのです。最初は、善意で行なっているのですが、心30%は見返りを期待している自分がいます。イライラが募り、爆発してパートを辞める羽目になりました。自業自得だと分かっていますが、見返りを期待しないボランティア精神は、どこで培われるのでしょうか?自分の仕事以外はしないようにドライに生きて行った方が、利口なのかもしれません。自律と依存。江原さん以外の哲学の本にも同じ思想がありますが、実戦としては難しく思います。ご意見よろしくお願いします」というメールをいただきました。

江原さん
「そんな難しいことかしら?考え方の整理ができていないだけかもしれませんね。仕事の範疇にボランティア精神はいらない。仕事として手伝う必要があれば手伝えばいいし、手伝えないのであれば“ごめんね!”と言えばいい。できる人と遅い人、仕事には色んな人がいる。『スピリチュアルワーキング・ブック(王様文庫)』という本があるのでぜひ読んでみてください。私の本は、宣伝ではありませんが“処方箋”なのです。自己憐憫になるのは、自分自身をちゃんと分析できていないからなのです」


●江原啓之 今夜の格言
「小我は利己主義な自己愛ということです」
「大我とは利他愛であり、幸せと平和の道なのです」

番組ではあなたからの感想・メッセージを募集しています
◇ 江原さんに聞きたい事
◇ ネガティヴなお便り
◇ HAPPYメール
◇ 厄払いのお便り
◇ 不思議な体験・エンジェルさん目撃談
◇ 演じるさんのコーナー
(私はこう演じました。そしたらこんなに変わりました!エピソードのお便り)
◇ あなたが感動した言葉
◇ 若者からのお便り、みなさん、一緒に考えていきましょう!
◇ 『お笑い』エピソードのお便り
◇ リクエスト
◇ 3月お誕生日の方
◇ Dr.Recella城嶋さんへの質問コーナー
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