PASSENGER DIARIES

EDC 営業日誌(過去のお客様)

2020年10月24日放送

Passenger

小堺一機

浅草(1964)、銀座(1977)、ニューヨーク(1986)

エウレカ・ドライブ・コーポレーション(通称EDC)
本日は、小堺一機さんの思い出の地、1964年の「浅草」、1977年の「銀座」、1986年の「ニューヨーク」をご案内しました。

 

まずは、1964年の「浅草」へ。

小堺さんは、千葉県市川市に生まれ、8歳で浅草に引っ越しました。
浅草は、演芸、映画など、エンターテイメントが溢れる街。
特に1964年当時は映画が全盛で、小堺少年はよく映画館に足を運びました。


※8歳の小堺少年

普段は落ち着きのない小堺少年も、映画を観ている時だけは騒がず集中していたそうです。

ご両親も映画好きで、お母さまとは、短いセリフを言い合う「小津安二郎ごっこ」をやっていた。
映画の話をする時は、小堺さんを子供扱いしなかったというご両親、『ローマの休日』の最後、グレゴリー・ペックが宮殿をコツコツ歩いて去っていくシーンについて、「一機、これが“切ない”っていうんだよ」と教えてくれました。

 

 

続いての旅先は、1977年、銀座にあったスタジオ「銀座テレサ」

平日の夕方、このスタジオから生放送していたTBSテレビの帯番組が『ぎんざNOW!』
この番組はディレクターではなくADの人たちに好きにやらせてみようという実験的な番組で、若者から絶大な人気を得ました。

小堺さんは月曜日の人気コーナー「しろうとコメディアン道場」で5週勝ち抜き、チャンピオンに!そのままレギュラー出演が決まり、芸能界の道が開きました。


※当時の小堺青年

しかし、テレビに出ることに対してご家族の賛同を得られず、「3年だけやらせて下さい」とお父様に頼みました。
「タレントなんてティッシュペーパーみたいなもんだ」と言うお父様に対し、「ハンカチになれるように頑張ります!」と、なんとか説得。
ちょうどその3年後、小堺さんは萩本欽一さんが所属する芸能プロダクション「浅井企画」に入ります。

浅井企画に入ってすぐはまだ、萩本さんには会えません。
関根勤さんと地道に下北沢でライブを続けるうちに、その努力が認められて、ついに萩本さんの家を訪れることになりました。

「ケンカで弱いヤクザが一番前に出ちゃった、ハイ」
・・・これが欽ちゃんから掛けられた最初の言葉だったそうです。
小堺さん「弱いヤクザが出ちゃったんですか?」
萩本さん「あ〜、聞いちゃった、0点。 お前は?」
関根さん「お前ら女房子供はいるのか!って言います」
萩本さん「それは普通の芝居なら60点、コメディだと30点」
・・・衝撃的な欽ちゃんとの出会い、初対面でいきなり洗礼を受けました。


※盟友、関根勤さんとの1枚

 

 

最後の行き先は、1986年の「ニューヨーク」

当時小堺さんは、30歳。
すでに「ごきげんよう」の前身番組、「いただきます」の司会をやっている頃です。

かねてからニューヨークに憧れがあった小堺さんに、ブロードウェイ特番の話が舞い込みます。時代はバブル、飛行機はビジネスクラスで1週間のロケ(撮休日あり)、という今ではあり得ない贅沢な海外ロケでした。

事前に日本でタップを習い、現地でタップマスターのヘンリー・レタンさんに指導してもらい、ロケの最終日、グリニッジ・ビレッジのブレッカーストリートにあった有名ライブハウス「トップ・オブ・ザ・ゲート」でタップを披露!
本場のお客さんを前に、緊張で足がつりそうなりながらも、ステージを乗り切りました。

その後もニューヨークは小堺さんの大好きな街。
来ると必ず訪れるのが、メトロポリタン美術館の屋上庭園。

見晴らしがよく、とても気持ちの良い場所です。

芸能界に入り、会いたい人にはほとんど会えたし、舞台もテレビもラジオもたくさんやらせてもらった、と語る小堺さん。
これからについて、最近関根さんとよく話すのは、
「自分たちは先輩からいろんな事を教わったけど、後輩に教えることができているのか?」ということ。

「お二人の楽しそうな背中を見て、十分に教えてもらっています」
ドライバー川島はしみじみ語りました。

PLAYLIST
  • 「リボン feat. 桜井和寿」
    東京スカパラダイスオーケストラ
  • 「サクセス」
    ダウン・タウン・ブギウギ・バンド
  • 「42nd Street」
    42nd Street Original Broadway Cast Feat. Lee Roy Reams & Wanda Richert
  • 「福笑い」
    高橋優