PASSENGER DIARIES

EDC 営業日誌(過去のお客様)

2021年4月3日放送

Passenger

森田まさのり

本日のお客様は、漫画家・森田まさのり様。
高校在学中に投稿した作品「IT'S LATE」が、手塚賞で佳作を受賞。後に、フレッシュジャンプに掲載され漫画家デビュー。その後、「ろくでなしBLUES」「ROOKIES」「べしゃり暮らし」と立て続けにヒット作を連載。一方、2018年には漫画家・長田悠幸先生とのお笑いコンビ「漫画家」としてM-1グランプリに出場され、準々決勝進出を果たされました!

 

 

〜漫画家人生のはじまり〜

森田先生のご実家はお寺!ご両親は息子が住職の後を継いでくれるものと思っていましたが、森田さんは小学生の頃からずっと漫画家になる夢を抱いていました。「大学に入学したと思って、4年間だけ(漫画家になるための)時間を下さい」とご両親を説得し、高校卒業後に上京。4年以内に連載を持たなければ実家を継ぐという約束でした。
上京後、プロ漫画家のアシスタントに付くことになります。最初は、北条司先生(代表作:シティーハンター、キャッツ・アイなど)のアシスタントを希望しますが、北条先生のところは人数が足りており、代わりに原哲夫先生(代表作:北斗の拳など)を担当者の方に勧められ、そのまま原先生のアシスタントに。森田先生がアシスタントとして「北斗の拳」に関わった期間は、ユダとレイの戦闘シーンからラオウが死ぬまで(「北斗の拳」屈指の名シーン)でした。見開きの「聖帝十字陵」(『北斗の拳』の名シーン)を描かれたのも森田先生だったそうです!コミックをお持ちの方は是非、読み返してみて下さい!
https://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?isbn=4-08-617283-6(北斗の拳)


(当時20歳の森田先生)

4年間で自分の連載を持たなければ実家へ帰る約束をしていた森田先生は、あらかじめ4年計画を立てていました。(1年目:アシスタントをする 2年目:読切を描く 3年目:連載を持つ 4年目:お金持ちになる!)
原先生のアシスタントを1年で卒業し、2年目の1年間で3本の読切作品を描きます。「週刊少年ジャンプ」本誌に初掲載された「BACHI-ATARI ROCK」は、お寺がテーマの読切作品。お父様はお寺の良さを広めてくれる漫画だと思い、大変喜ばれたそうですが、読んでみると内容が思っていたものとは正反対(戒律を破ったら毛を抜くなど…)で、森田先生はお父様からもの凄く怒られたそうです。

 

 

〜ろくでなしBLUES〜

21歳で、初連載の「ろくでなしBLUES」をスタートされます。
https://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?isbn=4-08-617878-8(ろくでなしBLUES)
当初は嬉しい気持ちと同時に、「週刊少年ジャンプ」という大きな看板を背負い、週刊で連載し続けることに物凄くプレッシャーがあったといいます。「週刊少年ジャンプ」では読者アンケートの順位により、打ち切り(連載終了)が決まってしまいます。「ろくでなしBLUES」はアンケートで、1話目は4位、2話目は6〜7位、3話目は15位と不安な順位で、初めの頃は何度か打ち切りの可能性もあったそうです。ジャンプ黄金期と呼ばれている当時の人気競争は凄まじいですね。それでもなんとか打ち切りをまぬがれ、担当編集者の協力も得て、「ろくでなしBLUES」は不動の人気を獲得!漫画は1人では描けない、最初の読者として担当編集者に意見やアイデアを言ってもらうことは嬉しい、と森田先生はおっしゃいます。

 

 

〜漫画を描くこだわり〜

森田先生の絵のこだわりは表情。特に口を描くときは、リアルに喋っているように見せるため、口の形はセリフの最後の文字にすると決めています。(例えば、「待てよ!」というセリフだと「よ」の母音である「お」の形に。) 作業机に鏡を置き、ご自身の顔を見て表情を確かめながら作画。これまで、「ろくでなしBLUES」「ROOKIES」「べしゃり暮らし」の中で様々な人気キャラクターを生み出している森田先生ですが、内心まで鮮明に伝わる表情のモデルは、男女問わず、全て森田先生だそうです!



(森田先生の作画風景)

また、週刊連載の漫画家さんの中には、ペンが勝手に走り、考えていたストーリーとは別の内容を書いてしまう、なんてことがあるそうですが、森田先生曰く、少年誌では、それぐらい勢いがあった方が良い時もあるとのこと。森田先生も、とにかく来週が面白くなりそうに描く!そして、来週の内容は来週考えよう!と勢いまかせで描き上げたこともあったそうです!ちなみに、青年誌になると読者も大人なので、先々のストーリーを決めてから描かれます。

 

 


M-1へ向けて (左)長田悠幸先生(右)森田先生 コンビ名は「漫画家」

〜お笑いへの憧れ〜

80年代初頭、漫才ブームの火付け役となった伝説の番組『THE MANZAI』を観ていて、「島田紳助・松本竜介」「B&B」が大好きだった森田先生。特に島田紳助さんが、漫才を終えてステージから去っていく際に見せる真顔に、儚さとドラマ性を感じ、いつかシリアスとギャグの狭間を描く作品を描きたいと思っていました。その着想が、お笑いをテーマにした作品「べしゃり暮らし」に繋がります。
https://books.shueisha.co.jp/items/contents.html?isbn=978-4-08-877274-5(べしゃり暮らし)
しかし、お笑いをテーマにした漫画には、ある難点があります。それは、漫才のネタを絵と文字だけで伝えるには、読者側の「間」や「センス」も必要になってくるということ。そこで森田先生は、ネタではなく人間ドラマを描くことにしました。また、「ろくでなしBLUES」と「ROOKIES」は、すべて森田先生の想像で描いたものですが(不良経験がない)、「べしゃり暮らし」はしっかり取材を行った上で描くと決めました。その取材で、大阪の芸人御用達の店「たこしげ」へ行った時、そこにいたのが川島さんでした。
川島さんは当時、森田先生の顔を知らず、少し不審な気持ちで受け答えしていたそうですが、取材の終わり際、「これまでどんな作品を描いているんですか?」と質問したところ、「ろくでなしBLUESです」と回答され、気絶しそうになるほど驚愕!周りにいた芸人4人で、ろくでなしBLUESの小兵二のように半ケツになる勢いで、土下座したそうです。

 

 

〜森田先生のコンプレックス〜

森田先生が今までで他人から言われて一番印象に残っている言葉は、15年程前に千原ジュニアさんから言われた言葉。高校卒業後からアシスタントとして働き始め、21歳で連載を持ち始めた森田先生。「ろくでなしBLUES」が完結した翌年には、「ROOKIES」の連載が始まり、高校卒業後から30代半ばまで、とにかく漫画の仕事に没頭されていました。そのため、人間として成熟する時期を、漫画以外の経験をせずに終えてしまったことにコンプレックスを抱いていました。「こんなので漫画を描いていて良いのだろうか」という悩みを千原ジュニアさんとの対談で打ち明けた時、「いや、それでもこういうのを描けるのは作家や思いますよ」と言われました。この言葉を聞いて森田先生は、今まで歩んできた道を肯定されたことがとても嬉しく、帰りのタクシーで号泣されたそうです。


【当時20歳の森田先生(左端)、アシスタントの先輩とのお写真】

 

 

〜森田先生のエウレカ(発見)〜

以前はとにかく絵が上手くなりたいと思っていましたが、ある時、絵の上手さより大事なことがあると気付きます。絵の上手い先輩方はたくさん見てこられましたが、小畑健先生(代表作:DEATH NOTE、バクマン。など)、村田雄介先生(代表作:アイシールド21、ワンパンマンなど)といった、森田先生ですら負けを認めるほど絵の上手い後輩が現れます。その後輩の漫画家さんたちは、上手いだけでなく、ひと目でその人の作品とわかる絵を描かれており、個性を持つことが大事だと改めて気付かされたそうです。


※M-1グランプリ出場時のお写真(左)森田先生(右)長田悠幸先生

もし、もう一度10歳に戻れたら、目指すのは漫画家ではなく芸人!? とにかく面白いと思われたいと森田先生は、面白さでは同世代の井上雄彦先生や冨樫義博先生に負ける気がしないそうです!
芸人としての目標は、M-1かR-1の決勝に出ること!(川島ドライバー曰く、まるで3年目の芸人と喋っているかのような気合いの入り方…!)
漫画家としての目標は、サスペンスホラーの話を描くこと、国民的アニメになるような作品を描くこと、そして、死ぬまで「べしゃり暮らし」を描くこと。

漫画家としてのキャリアが芸人人生を後押しし、芸人としての経験が漫画に活きる。森田先生にしか成し得ない目標に向かって、これからも挑戦は続いていきます。

 

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PLAYLIST
  • 「空に唄えば」
    175R
  • 「週刊少年ジャンプ」
    RADWIMPS
  • 「情熱の薔薇」
    THE BLUE HEARTS
  • 「未来は僕等の手の中」
    THE BLUE HEARTS
  • 「キセキ」
    GReeeeN