PASSENGER DIARIES

EDC 営業日誌(過去のお客様)

2021年9月18日放送

Passenger

小松亮太

本日のお客様は、小松亮太様。
1973年、東京都足立区出身。14歳でバンドネオンを独学で始められ、1998年にCDデビュー。その後は、世界でもトップレベルのバンドネオン奏者として活躍されています。日本でも、数多くのアーティストとコラボされており、大貫妙子さんとは、共同名義アルバム『Tint』で、第57回輝く!日本レコード大賞「優秀アルバム賞」を受賞。また、2018年度から、洗足学園音楽大学客員教授として、後進の育成にも力を入れておられます。

 

 

〜バンドネオンとは?〜

世間一般的に、バンドネオンはアコーディオンと間違えられやすい楽器。実際に、小松さんのコンサートに来られたお客さんのなかにも、演奏後のアンケートで「小松さんのアコーディオンが素晴らしかったです!」と書かれる方がいらっしゃるそうです。バンドネオンとアコーディオンの見分け方のポイントは形。アコーディオンは縦長(持った時の高さは顎の下あたり)の長方形に対し、バンドネオンは正方形(高さは胸のあたり)なのです!


(演奏をされている小松さんのお写真:横幅が最大80cmほどになるバンドネオン。高さは胸のあたりまで!)


(一般的なアコーディオン)

また、バンドネオンとアコーディオンの違いを、「ボタン(が付いている)=バンドネオンで、鍵盤=アコーディオン」と認識されている方も多いそうですが、ボタン式のアコーディオンもあるので、注意が必要です!

バンドネオンの音の特徴は、アコーディオンよりシリアス。その歯切れの良い音色がきっかけで、ドイツで作られていたバンドネオンは、アルゼンチンのタンゴミュージックに欠かせない楽器になりました。小松さん調べによると、ドイツでバンドネオンを開発していた会社の人たちが、世界にプロモーションしたところ、アルゼンチンの方々からの評判がとても良く、多くのバンドネオンがアルゼンチンへと渡りました。ドイツにもタンゴミュージックはあるそうですが、バンドネオンはあまり使用されていなかったそうです。主に使用していたのは、乾杯の音頭として用いた田舎の炭鉱夫の方々。4本の指(親指以外)を垂直に並べ、蛇腹部分を伸縮させると、簡単なコード進行ならすぐ弾けるので、乾杯の音頭に適しており、あまり音楽に精通してない方々にバンドネオンは重宝されていました。そんなバンドネオンの詳細な造りは、右手側に高い音がでるボタンが38個。左手側に低い音が出るボタンが33個。合わせて71個付いています。またボタンの位置は音階通りでは無く、“ド”と“レ”は一番離れています!なので、ギターやピアノを習っていた方、楽器に知識のある方は法則性の違いに戸惑い、挫折される方も多いそうです。


(小松さんが実際に使用しているバンドネオン:右手側には38個のボタンが!)

小松さんが、世界で一番聴かれているバンドネオンの曲ではないか?とご紹介してくださったのは、フランスのカオマというグループが1989年に発表した「Lambada」。
聴いたことがある方も多いのではないでしょうか?実はこの曲、ボリビアを代表するフォルクローレグループであるロス・カルカスのオリジナル曲「Llorando se fue」を無断で盗用した曲だったそうで・・・後に、多額の著作権料を支払うことで決着は着いたそうです。笑 そうしたいざこざはあったにせよ、「Lambada」はバンドネオンの音色を世界に広めた曲となりました。
番組では、「Lambada」を含め、バンドネオンの曲をたっぷりOAしました!気になる方はradikoタイムフリーで是非チェックしてみてください!番組冒頭には、小松亮太さんが生演奏!さらにトークの合間にもバンドネオンの楽曲満載でお届けしました。

 

 

〜バンドネオンの歴史〜

戦前から1960年代には、日本にもタンゴブームがあり、バンドネオン奏者が80名ほどいましたが、ブームが去った1980年代には7人ほどにまで減ってしまいました。現在、日本人プレイヤーは10〜20名ほど。少なくも感じますが、ヨーロッパのバンドネオン奏者は各国10名もいないそうで、日本は多い方だそうです!また、楽器自体も新しく生産されることがしばらくありませんでした。ですが、ここ10年でようやくアルゼンチンの方々が、“タンゴの本場はアルゼンチンだから、ドイツに頼らず自分たちで造ろう!” と動き始めました。良い職人が少しずつ増えてきているものの、1930年代までのドイツ製と比べると、まだ出来はあまり良くないそうです。小松さんが現在使っているのは、1930年代前半のモノ。当時のドイツ製のバンドネオンは丈夫で、音も大きく、さらには見た目もカッコいい!


(小松さんが使用されている、1930年代前半に製造されたバンドネオン)

バンドネオンの生産が滞った原因は「第二次世界大戦」。ドイツでは、バンドネオンの製造工場がストップしました。さらに戦後、主な製造場所であった東ドイツが共産主義国家だったことも要因の1つに挙げられるそうです。現在の技術なら、以前よりも良いモノを造れる気がしますが、当時のバンドネオンのボタンは象牙を使用しています。そのため、ワシントン条約以降は象牙の使用ができず、同じものを造ることは出来ないのです。また、お値段はとても高そうなイメージがありますが、演奏者が少なく、需要があまりないため値上がることがなく、1930年代のドイツ製でも、軽自動車を買うぐらいの値段で買うことが可能だそうです!

 

 

〜小松さんとバンドネオンの出会い〜

小松さんのご両親は、お母様がピアノ・お父様がギターのタンゴミュージシャン。
ご両親の影響もあり、幼い頃から音楽が身近にありました。そんなある日、小松家に“アコーディオン奏者が弾くのを諦めたバンドネオン”が届きます。そのアコーディオン奏者の方は、バンドネオンとアコーディオンの間に、何か関連性・互換性があると思って購入されたそうですが、探れば探るほど、蛇腹楽器ということ以外に共通点が見つからず・・・お手上げ状態に!見た目は似ているが全くの別の楽器だと気付き、手放したそうです。当時14歳の小松さんは、ご両親が共働きということで家に1人でいることが多く、そのバンドネオンで「“ド”はどこを押せば鳴るのかな?」と興味本位で遊んでいた結果、独学で全てのボタンを覚えてしまいました!すると、その様子を見たご両親を含め周りの大人の方々がザワつきだし、「実は、このバンドネオンという楽器を弾ける人は、ほとんどいない。バンドネオン奏者になれば、将来、絶対に仕事があるぞ!」と言って、小松さんにバンドネオン奏者になることを勧めました。その言葉を胸に頑張り続けた小松さん。大人になりバンドネオン奏者として世に出てみると、バンドネオンという楽器自体が珍しすぎて、最初はあまり仕事が無かったそうです・・・笑
バンドネオンの知名度の無さを痛感したのは、名刺を作りに行った時。「バンドネオン 小松亮太」とオーダーしたのに、仕上がりをみるとバンドとネオンの間に点が入り、「バンド・ネオン 小松亮太」となっていました。お店の人が「バンド=革製品を扱うお仕事、ネオン=照明関係のお仕事」という、2つの業種を掛け持っている会社の方だと勘違いされていたようです。笑

 

 

〜デビューまで〜

14歳でバンドネオンと出会い、本格的にプロになろうと決意した小松さんですが、当時はインターネットが普及していない時代。バンドネオン教室などの情報が全く手に入らず・・・本場のアルゼンチンに留学しようと思いましたが、当時、A4のファックスをアルゼンチンに1枚送るだけで4000円もかかり、一時断念。そこで、小松さんが取った策は、ライブで日本へ来日したバンドネオン奏者の楽屋に飛び込みで伺い、アドバイスを貰うこと。東洋人の若者が学びに来たという珍しさもあり、海外のバンドネオン奏者の方は小松さんをとても可愛がってくれたそうです!


(小松さんがバンドネオンを始められた中学時代のお写真)

ライブを行うために、ライブハウスに自ら電話を掛けていた小松さん。しかし、「バンドネオン奏者の小松です。」と伝えても、「バンドネオンって何?」と理解されない日々が続きます。しかし、世界中のバンドネオン奏者を救ったミュージシャンがいました。それは、アストル・ピアソラ。小松さんもライブハウスに電話を掛ける際、「バンドネオン奏者の小松です」と言って出演を断られても、「ピアソラの曲を弾きます」と伝えたら急にOKを頂けた経験もあったそうです!ピアソラがいなかったらタンゴミュージックシーンは終わっていたと語られる小松さん。そんな、アストル・ピアソラは今年生誕100年!残念ながらすでにお亡くなりになっていますが、ピアソラの楽曲は今なお、世界中のバンドネオン奏者によって演奏されています。


(ライブに出演されていた小松さん)

バンドネオン奏者として、ライブを積み重ねていた小松さん。ある時、ソニーミュージックの方に、「今度、小松さんのコンサートにスタッフみんなで行きたいので、何かあれば連絡ください」と名刺を渡されました。突然のことに、小松さんは驚きました。ソニーミュージックのような大手音楽レコード会社の方が、タンゴミュージックやバンドネオン奏者に声を掛けるなんてことは、タンゴブームが去って以降、考えられないことでした。実際に、次のコンサートにソニーの方々が足を運んでくださり、公演後の楽屋でアルバムを出す話になったそうです。その1年半後、本場・アルゼンチンへ行き、大物アーティスト達とセッションすることに。小松さんの人生が大きく変わった瞬間でした。


(今では世界中で活躍する小松さん(中央)。台湾でのコンサートのお写真)

 

 

〜思い出の場所・驚きの体験?〜

小松さんが思い出の場所として挙げてくださったのはタンゴの本場・アルゼンチン。19歳の頃、音楽留学で、初めてアルゼンチンを訪れました。念願の初アルゼンチンで、一番印象に残っているのはUFOを観たこと!笑
1ヶ月の留学期間の最終日、アルゼンチンの首都・ブエノスアイレスで空を見上げていた小松さん。すると、オレンジの光体が、音もなくヒューっと飛んで来て、減速せずに空中でピタっと止まったそうです!この光景を観た瞬間、“アルゼンチンはUFOの名所と言われているが、本当にいるんだ!”と興奮されたそうです。枯葉が落ちるように左右に揺れているUFO。するとだんだん数が増えてきて、最終的には10台ほどになりました!このありえない光景を小松さんは、先輩UFOが後輩UFOに飛び方を教えている、いわば教習所のようなことだなと感じたそうです。笑
ですが、あまりにも堂々と居続けるUFOに飽きてしまった小松さん。首が痛くなり観るのを辞めたそうです。また、「あまり長く居座られると感動が薄れてしまうので、友人に話したくなるようなワクワク感を残すために、もう少し早く消えて欲しかった」と振り返りました。笑 その後も、アルゼンチンの思い出というより、UFOの話を拡げようとする小松さんに対して川島さんは、「UFOの話してるやん!」と鋭い指摘を入れていました。笑

 

 

〜小松亮太さんのエウレカ(気付き)!〜

世界で活躍する小松さんが、演奏家として感じたエウレカは、「日本人の強みと弱み」。日本人の強みは、「行儀が良いこと・準備を怠らないこと・人に迷惑をかけないこと」。つまり、ちゃんとした音楽をまず作ることを意識しています。ですが、逆に言えば「失敗を恐れてしまう」という点が弱みになっていると考えます。一方で、ラテンアメリカのミュージシャンは、失敗を恐れていないので大胆な音楽が出来るそうです。順序立てて、準備を怠らずに行動する日本人と、アルゼンチン人の違いを小松さんは、少年サッカーの練習を見ていても感じたと言います。日本では、パスの練習・シュートの練習・実戦練習(試合)といった形でパートを分けますが、アルゼンチンの練習は実戦練習のみ!本番を繰り返し、“習うより慣れる形“で実力を付けていくそうです。これは音楽の練習でも同じで、アルゼンチンの人たちは、細かくパート分けをせず、一気に曲全体を演奏します。また、ミスした箇所を部分的に練習することはなく、もう一度頭から通して演奏し、これを繰り返します。このようなやり方で、本番までに間に合うのか?と不安になることあるそうですが、優秀な人はしっかり間に合わせてくるそうです。世界各地で演奏経験のある小松さんは、日本人が持つ強みと、ラテンアメリカの人たちが持つ強みをうまく取り入れていきたいと感じています。

 

 

〜小松亮太プレミアライブツアー2021〜

小松さんは今月9月25日、『小松亮太プレミアムライブツアー2021』の関東公演を、埼玉県の「和光 市民文化センター サンアゼリア 大ホール」でコンサートを開催されます。小松さんを中心に、鍵盤式アコーディオン奏者・佐藤芳明さん、ボタン式アコーディオン奏者・青木まさひろさんの、似ているけれど全然違う三者三様の蛇腹楽器を堪能できるコンサートです!さらには、アルバム『Tint』で、第57回輝く!日本レコード大賞で「優秀アルバム賞」を共に受賞した大貫妙子さんをゲストにお迎えします!
気になる方は是非HPをチェックしてみてくださいね!
https://ryotakomatsu.net/liveinfo/742.html

 

radikoのタイムフリーで聴く
PLAYLIST
  • 「リベルタンゴ」
    小松亮太 & 大貫妙子
  • 「ランバダ」
    カオマ
  • 「アレグロ・タンガービレ(インストルメンタル)」
    小松亮太
  • 「ブエノスアイレアンド」
    小松亮太
  • 「愛しきあなたへ」
    小松亮太 & 大貫妙子
  • 「where are you」
    川島明