PASSENGER DIARIES

EDC 営業日誌(過去のお客様)

2021年11月6日放送

Passenger

岩尾望

本日のお客様は、フットボールアワー・岩尾望様。
1975年、大阪府出身。NSC大阪校14期の同期でもある後藤輝基さんと1999年に「フットボールアワー」を結成。2000年に『第21回 ABCお笑い新人グランプリ』で最優秀新人賞、2002年には『第32回 NHK上方漫才コンテスト』最優秀賞を獲得。2003年、『M-1グランプリ』で優勝!その他にも、『上方お笑い大賞』『MBS新世代漫才アワード』『上方漫才大賞』で優勝され、在阪の漫才賞レースのタイトルを完全制覇されています。川島さんの先輩ではありますが、「フットボールアワー」と「麒麟」は結成年でいえば同期!同じ舞台で戦ってきたお二人がドライブに出掛けました!

 

 

〜岩尾さんと川島さんの関係〜

20年以上の知り合いのお二人ですが、じっくり話すのは今回が初めて!もともと岩尾さんは、芸人仲間とご飯に行くことがあまりないそうです。“打ち上げなどで一緒になったことがあるかな・・・?” 程度のお二人ですが、川島さんは過去に、意外なタイミングで岩尾さんを目撃しました。
それは、川島さんが下北沢の居酒屋で、藤井隆さんとカウンターにいた時。人気ロックバンド“ACIDMAN”のメンバーやスタッフの方々が、ライブの打ち上げでそのお店に来て、そのまま個室の方へ進んでいきました。すると、その中に岩尾さんの姿が!!岩尾さんは、ACIDMANのファンであり親交もあるそうで、ライブ後に打ち上げにも誘われたそうです。それを知らなかった川島さんは「あれ?岩尾さんに似ている人がいる!?」と、とても驚き、“プライベートが謎な人だな〜”という印象を抱いたと言います。
また川島さんは、岩尾さんと初めて会った時のことも鮮明に覚えています。「baseよしもと」の劇場で、深夜にネタ合わせをしていた麒麟。途中で川島さんはトイレへ向かい、1つしかない個室に入ろうとすると、鍵がかかっていました。ノックしたところ岩尾さんがアイスモナカを食べながら個室から出てこられたそうです!!笑 「出しながら食べてる・・・!食べるから出るんやん!」 と心の中でツッコミを入れたそうですが、当時の川島さんは、初対面かつ先輩の岩尾さんに対して普通に喋りかけることは出来ず・・・「すみません!」と謝ることで精一杯でした。そして、トイレでロケット鉛筆状態の岩尾さんを目撃して、“天才・フットボールアワーのボケ担当となると、プライベートも奇人なんだ・・・芸人とはこういう世界なのか・・・”とショックを受けたそうです。笑 この話に対して岩尾さんは、「アイスモナカは、袋を開けると置くところがないから、そのままの勢いでトイレに持っていってしまったんじゃない?」と当時のご自身を回想されました。笑
相方の後藤さんについては、後輩の川島さんからすると昔は怖かったそうです。フットボールアワー結成前は、シュールなコント師として少し近寄り難い雰囲気があった後藤さん。フットボールアワーになってからは、ボケからツッコミに変わったということもあり、舞台などでは意識的に明るいスイッチを入れていたと相方の岩尾さんは語りますが、後輩からすると楽屋などではやはり怖かったようで・・・千鳥のお二人と川島さんが楽屋で騒いでいると、何やら視線を感じ、振り返ると、「おい、ちょっとうるさいぞ!」と言わんばかりの目つきで、ギターを抱えた後藤さんが睨んでいたと言います。笑

 

 

〜お笑い芸人へ〜


(“ドレス”時代の岩尾さん)

大阪出身の岩尾さん。小さい頃から、漫才や新喜劇はもちろんのこと、“ザ・ドリフターズ”の『8時だョ!全員集合』や『オレたちひょうきん族』を観て育ちました。
その後、やはり影響を受けたのは、“ダウンタウン”。岩尾さんが、小学校高学年から中学校にかけての時期、大阪でもの凄い人気だったダウンタウンさん。大阪から全国のスターになっていく姿を青春時代に目の当たりにした岩尾さんは、“いつか自分も・・!” と憧れを抱きました。
そして、大学1年の秋にNSCに入学。NSC卒業後は「2丁目劇場」のオーディションを受け始め、1年後には劇場のレギュラーを掴みました。当時は、“ドレス”というコンビを組んでいて、芸人仲間からの評価も高く、テレビにも少し出演していました。NSCの同期である後藤さん(当時は“エレキグラム”のボケ担当)とはこの頃から仲が良く、同期全体で合同ライブなども行っていたそうです。ちなみに、“ロッチ”のコカド・ケンタロウさんもNSCの同期!『爆笑レッドカーペット』世代としてフレッシュ感がありますが、川島さんよりも先輩です。
1999年、若手芸人が主戦場としていた「2丁目劇場」が閉館することになります。岩尾さんは、当時の相方・金重さん(現・カネシゲタカシ)から閉館が決定したのを機に解散の話を持ち掛けられます。漫画家の夢を追いかけていた金重さんの申し出を岩尾さんは受け入れ、ドレスは閉館後に解散することになりました。
1人になる岩尾さんは、今後のプランとして2つの選択肢が頭に浮かんだそうです。1つは、ピン芸人での活動はイメージできなかったため、構成作家になる道。そして2つ目は後藤さんと組むこと。しかし、後藤さんのコンビ、エレキグラムは解散していなかったため、“それは無いか〜”と考え直すことに。しかし、笑いの神様はこの二人を引き寄せます。ドレスの解散を金重さんと話し合った日に、同じ舞台に出ていた後藤さんと、公演終了後にファーストフード店へ向かった岩尾さん。もともとお二人でお笑い談義をよく行っていたそうで、仲の良い後藤さんに、ドレスが解散することを告げました。すると後藤さんから・・・「えっ!実は俺ら(エレキグラム)も解散しようと思ってんねん。それを、今日お前に伝えようと思っててん!」とまさかのお返事が!同じに日に、同じ話を伝えようとしていたお二人。さらに後藤さんは、今後は構成作家としてドレスを手助けする立場になろうかとも考えていたそうです。そんな話を聞いた岩尾さんは、相思相愛の関係と気付きながらも・・・「え〜もったいないで〜」とジャブを入れつつ、「・・・・ほな、どうするの・・・?」と、もったいぶります!笑 後藤さんも同じく・・・「1人でやる・・?それは無いような〜」「二人で組む・・・?・・・・いやいやいやいや!それは無いかぁ〜」と、お互いに告白してフラれることを怖れ、自ら「コンビを組もう!」と告げられない関係がしばらく続きます。笑
そんなやり取りを続けているうちに、2丁目劇場は閉館。そしてドレスは解散。“流石にそろそろ決断しないとやばい!”と思った岩尾さんは、ついに後藤さんに電話を掛けます。ですが、この電話でも岩尾さんはなかなか想いを伝えることが出来ず・・・シビレを切らした後藤さんから「コンビ組もうや!」と言われたそうです。笑
自分から告白するはずが、先に告白されてしまった岩尾さん。承諾する際も、何故かカッコをつけて「・・まぁ別に良いけど・・」と強気に出たそうです。笑

 

 

〜漫才の頂点へ〜


(若手時代の“フットボールアワー”)

フットボールアワー結成後、お二人はそれぞれ前のコンビで行っていたシュールなコントをやめ、本格的に漫才を始めました。芸人仲間からはコント師として評価は高かったものの、もっと広い範囲で認めてもらえるお笑いを目指したそうです。
漫才師としてのお二人の勢いは“とてつもない”ものでした。結成1年目の2000年には『ABCお笑い新人グランプリ最優秀新人賞』を受賞。2002年には『NHK上方漫才コンテスト 最優秀賞』『上方漫才大賞 優秀新人賞』『上方お笑い大賞 最優秀新人賞』を受賞し、若手漫才師に与えられる数々の新人賞を総なめにしました。そんなフットボールアワーの活躍を見たMBS(毎日放送)が新たな大会『MBS新世代漫才アワード』を設立し、「まだこの賞が残ってますよ!」と言われたそうですが、こちらも2003年に優勝。
さらに同年には悲願の『M-1グランプリ』で優勝され、全国に名を轟かせました。結成4年目での『M-1グランプリ』優勝は、霜降り明星の結成5年目よりも早く、結成年数では最短記録を持っております。
また年齢としても、霜降り明星のせいやさんが優勝するまでは、岩尾さんが最年少記録(当時28歳)を持っていました。2004年には『上方漫才大賞』の大賞を獲得し、在阪の漫才賞レースを完全制覇!ここまでの経歴を見ると、フットボールアワーは順風満帆に進んできたように思えますが、岩尾さんにとって2000〜2002年は苦しい時期だったと言います。
結成1年以内で『ABCお笑い新人グランプリ最優秀新人賞』を受賞され、勢いに乗ったフットボールアワー。翌年の2001年に初開催となった『M-1グランプリ』の予選では爆笑をかっさらい、決勝に進みました。しかし、結果は6位。今までの集大成として挑んだ大会だったこともあり、ショックが大きかったそうです。「劇場ではウケるが、一歩外に出たら通用しなかった。」と当時を振り返る岩尾さんは、この敗戦を機に、より広くウケる漫才(M-1に向けた漫才)を作り始めたと言います。その後、第2回大会で準優勝、勢いそのまま、第3回大会で優勝を果たしました。

 

〜岩尾さんのプライベート〜


(愛犬・つくし君とのお写真)

岩尾さんは楽屋であまり喋るタイプではなく、プライベートな情報が少ないミステリアスな方。ドライブも終盤に差し掛かりましたが、「岩尾さんって何をしてる人なの?」と川島さんがアッコさん風に尋ねました。笑
岩尾さんの1日の始まりは、愛犬・トイプードルのつくし君の散歩からスタート。帰ってきたら昼寝をして、再度夕方に散歩に出掛け、スーパーで夕食の食材を購入して帰宅。その合間に仕事をこなすため、シンプルな生活に見えますが、暇な時間がないそうです。コロナ禍によるステイホーム期間中も通常の生活とあまり変わりは無かったと言います。
また、コロナ禍を機に携帯のデータ通信量の上限を1ギガのプランに変更!もともと2〜3ギガしか使用しておらず、ステイホーム期間中は自宅のWi-Fiを利用するため不便はなく、ステイホームが明けた今もプランは戻していないそうです。これには岩尾さんのある発見が関係していました。「携帯はあると無意識に触ってしまう。ギガを減らすことで、必要最低限しか触らなくなる。だから、エゴサーチをすることも無くなり、ツイッターなどで、気分を害する機会も無くなった。2000〜3000円払って(データ通信料)悪口を買っていたと気付いた。」と語る岩尾さん。心を健康に保つ方法を見つけたそうです!しかし、だからといって、携帯に費やしていた時間を何か有意義に使っている訳ではなく・・・楽屋などではとにかく、じっとしているそうです。笑

岩尾さんの人生で思い出深い場所は、イタリアのヴェネチア。初のヨーロッパ旅行で訪れました。水の都と称されるヴェネチアの旅は、どこを見ても映画のワンシーンの様な景色で、とても感動されたそうです。その感動を忘れられなかった岩尾さんは、その後も正月休みで海外へ一人旅行を敢行。独身の岩尾さんは、周りの既婚者の方たちから「独身のうちに楽しんだ方がいい。家族ができると、正月は奥さんの実家など過ごす機会が多くなる。」とアドバイスを受けていました。“行けるのは今のうちか!”と思い、数年は海外旅行に行かれていたそうですが、岩尾さんはある時、“これ〜・・いつまででも行けるな!” という事に気付きました!笑
そうです!岩尾さんは特に結婚の予定が無かったのです!笑
そこからは、無理に海外に行かなくても良いと思い、愛犬のつくし君と国内を車旅!大阪のご実家まで車で帰省するそうです。現在は、サービスエリアにドッグランの施設も増えており、つくし君が楽しめるドライブルートを選んでいます!実家に帰ると、ご両親もつくし君を可愛がってくれます。
しかしある時、岩尾さんがお風呂に入っていると、つくし君は急に飼い主の姿が見えなくなって不安になり鳴き出しました。心配するご両親。それを知らずに岩尾さんがお風呂から出てくると、お母様がつくし君をあやしながら、「ほら!お父さん出てきたよ!」とおっしゃったそうです。笑 この時のことを岩尾さんは、「母親が我が息子に対して“お父さん”と言ったら、もう、孫見せたのと一緒やろ。」と川島さんに自慢げにお話しされていました。笑

 

 

〜思い出深い言葉〜

岩尾さんがこれまで人から言われて印象深い言葉が、桂三度さんと千原ジュニアさんからのお褒めの言葉。
先輩のお二人にそれぞれ別のタイミングで、「『バイキング』という、ニュースを扱う番組でしっかり芸人としてコメントしているのは凄い」という言葉をかけてもらいました。
コメントが難しいテーマが多いなか、バランスの良い意見を述べるだけでなく、芸人としての魂を捨ててない岩尾さん。ダウンタウンさんが抜けた2丁目劇場でスターになった憧れの桂三度さん(元・ジャリズム)と千原ジュニアさん(千原兄弟)に褒められたことは、岩尾さんにとって忘れられない出来事でした。
そして、地道に笑いを追求すれば絶対に誰かが見てくれていると感じた瞬間でもありました。
最後に岩尾さんは川島さんに対し「今、『ラヴィット』が大喜利番組と言われているけど、俺は『バイキング』も大喜利番組と思って挑んでいる。」とおっしゃってくださいました!

 

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PLAYLIST
  • 「Kids Are Alright」
    AIR
  • 「口笛」
    Mr.Children
  • 「静かな日々の階段を」
    Dragon Ash
  • 「赤橙」
    ACIDMAN