PASSENGER DIARIES

EDC 営業日誌(過去のお客様)

2021年12月25日放送

Passenger

蝶野正洋

本日のお客様は、蝶野正洋様。
1963年、アメリカ合衆国シアトル出身、東京育ち。1984年に新日本プロレスへ入門後、アントニオ猪木さんの付き人、海外修行を経て、1989年に凱旋帰国。同期の武藤敬司さん、橋本真也さんと共に“闘魂三銃士”として人気を博します。
1991年には、夏の最強戦士を決める大会『G1 CLIMAX』の第1回大会で優勝。翌年のG1も連覇を果たすなど、この大会を5度制覇(歴代最多優勝回数)。
1994年からはヒールに転身し、世界中で一大ブームを巻き起こしたユニット“nWo”、“TEAM 2000”など様々な人気ヒールユニットを結成され、“黒のカリスマ”としてプロレス界のスター選手に。
また近年は、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』の年末特番“笑ってはいけないシリーズ”で、月亭方正さんへの制裁ビンタ執行役としても多くの方に知られています。
2010年に新日本プロレスを退団されてからは、奥様・マルティーナ・カールスさんと共に設立された、ファッションブランド「ARISTRIST」に所属。
社会貢献活動にも積極的に参加され、救急救命(AED)啓発活動やAIDS予防啓発活動においては、ご自身の参加に加え、イベント・勉強会のプロデュースを手掛けるほか、日本消防協会「消防応援団」、日本AED財団「AED大使」などの肩書もお持ちです。
幅広いジャンルで活躍されるプロレスラー・蝶野正洋さんと、プロレス大好き川島さんが、聖なる夜にドライブへ出掛けました。

 

 

〜制裁ビンタ執行人〜

川島さんは、学生時代からプロレスが大好き。新日本プロレスで人気を博していた蝶野さん、武藤敬司さん、橋本真也さんからなる“闘魂三銃士”の活躍も鮮明に覚えています。川島家の兄弟喧嘩では、蝶野さんの必殺技“STF”(ステップオーバー・トーホールド・ウィズ・フェイスロック)を使用したことも!笑
プロレス界のスター選手であり“黒のカリスマ”の異名を持つ蝶野さんですが、今の若い世代の方々にとっては、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』の年末特番“笑ってはいけないシリーズ”での制裁ビンタ執行役のイメージが定着。昨年行われた「絶対に笑ってはいけない 大貧民GoToラスベガス」では、奥様・マルティーナ・カールスさんと共演し、その進行役が川島さんでした。川島さんも、年末の風物詩になっている蝶野さんのビンタを生で見れたことが良い思い出だそうです!
ビンタ執行役として初めて出演したのは、2007年「絶対に笑ってはいけない 病院24時」。最初に依頼を受けた際は、「出演するのはいいですが、ビンタはしません。」と断っていたそうです。“ビンタ=アントニオ猪木”というイメージがあり、蝶野さんは師匠でもある猪木さんのパフォーマンスをすることはできないとお断りを入れていました。番組の担当ディレクターは「一度、話を持ち帰ります。」と言って、最初の打ち合わせは終了。当日の打ち合わせで最終確認をすることになりました。そして収録当日、「ビンタはしません。という話はいつ出来るのですか?」と蝶野さんは現場のスタッフに確認しますが、大掛かりな番組ということで複数のチームで制作をしていたため、担当ディレクターが近くに見当たらず・・・交渉が出来ないまま本番が始まってしまったそうです。
番組の企画もあまり理解されていなかった蝶野さんは、ご自身の出番前に出演していた “江頭2:50”さんが全くウケていないことに驚き(“笑ってはいけない”設定のため、出演者が笑っていなかったため)、自分が盛り上げるしかないと感じたそうです。そこで、致し方なくビンタを執行!記念すべき番組初ビンタが生まれました。収録後には「もう絶対、ビンタなんかやらないよ。」と、制作チームに伝えたそうですが、何故か翌年もビンタのオファーが・・・。その後も毎年断っているそうですが、結局、執行する流れになってしまい、昨年まで14年連続でビンタをし続けてきました。笑
ですが、蝶野さんも「方正さんとの関係性だから成り立っている」、「他の人には危険だからやらない。」と度々おっしゃられている通り、超人であるプロレスラーが素人の方にビンタをするのは危険が伴います。2007年の初出演時、方正さんより先にエキストラの方をビンタする演出で、初めて素人の方を叩いた蝶野さん。力を加減し、鼓膜が破れないよう頬ではなく首元近くにビンタされましたが、素人の方は衝撃に全く慣れておらず、少しフラついてしまったそうです。力は加減していながらも素人の体がわからないため(プロレスラーとの感覚に慣れているため)“これは危険だな・・”と感じたそうです。方正さんにしか出来ない“受けの技術”。お二人の信頼関係の上で成り立つ“お笑い界の除夜の鐘”。今年の“笑ってはいけないシリーズ”は残念ながらありませんが、いつかまた方正さんとの共演を観たいですね!

 

 


(幼少期の蝶野さん)

〜プロレスラーの道へ〜

学生時代はサッカーをしていた蝶野さん。体を動かすことが得意だったため、何かのプロスポーツ選手として生計を立てていきたいと考えていました。 人生を変えたのは高校卒業後、テレビで観た新日本プロレスの試合。蝶野さんがサッカーをされていた頃は、サッカー日本代表はW杯に出場したことがない時代で、世界との差を感じるなか、テレビに映るアントニオ猪木さんが外国選手をなぎ倒していく姿に刺激を受けたそうです。また、長州力さんや藤波辰巳(現:藤波辰爾)さんの闘志も記憶に残っていると言います。
こうして、それまで接点の無かったプロレスの世界を志すことにした蝶野さんは、20歳で新日本プロレスに入団。同期には、後に闘魂三銃士として共に新日本を引っ張っていく、武藤敬司さん、橋本真也さんがいました。
デビュー戦は入門から半年後。この日は、第1試合で武藤さんのデビュー戦が行われる予定でした。しかし、当時の新日本プロレスは長州力さんなど主力選手が大量に離脱(他団体への移籍・新団体設立など)した時期。ゴタつきもあったのか、当時は前座として捉えられていた第1試合のことには誰も気が回っていませんでした。第1試合の30分程前、上層部の方が重大な事に気付きます。なんと、武藤さんの対戦相手が決まっていなかったのです!そこで急遽、その時アントニオ猪木さんの付き人をしていた蝶野さんに声が掛かります。急いでリングシューズの靴紐を結び、試合の準備を始めますが、突然デビュー戦を迎えることになった蝶野さんは心構えが出来ていません!フワフワした状態で試合開始のゴングを聞いた蝶野さんは、開始3分ほどで逆エビ固めを極められ、「ギブアップ!」。しかし、この試合のレフェリーを務めていた柴田勝久さんが「まだまだ!まだまだ!」と、簡単にギブアップを認めてくれません!この時、蝶野さんはまだプロレスの魅せ方を理解できておらず、“え、ギブアップって言ったのに・・・”と心の中で嘆きます。その後も、柴田レフェリーから「まだまだ!まだまだ!」と言われ、武藤さんに関節を極められ続けた蝶野さん。笑
そんなほろ苦いデビュー戦について、“プロの厳しさを教えてくれていたんだな”と今では感謝されているそうです。

 

 

〜師匠・アントニオ猪木〜

蝶野さんにとって、憧れでもあるアントニオ猪木さんについてお聞きすると、「アントニオ猪木は、常にアントニオ猪木で居続ける人。」とお答えに。新弟子時代から、付き人を2年ほど務めるなど、猪木さんと身近に接してきました。
蝶野さんが付き人をしていた時代の猪木さんは、年齢も40歳を超え、選手として体調が一番悪かった時期だったそうですが、そんな中でも、治療への我慢強さ、練習に対するストイックさはズバ抜けており、痛がる様子は一切見せず、コンディションケアを行われていたそうです。蝶野さんも当時の猪木さんと近い年齢になった時に、“あの人ほど自分を追い詰めることは出来ないな。”と改めて凄さを実感されたそうです。このような努力が、人々の心を掴んで離さないアントニオ猪木さんの人気の要因なのかもしれませんね。
猪木さんの背中を見て育った蝶野さんも、プロレスラーとしてカリスマ的存在に。長いキャリアの中で印象に残っている出来事を2つお聞きしました。
1つ目は、日本中のプロレスファンが熱狂した第1回東京ドーム大会『’89格闘衛星☆闘強導夢』での、“皇帝戦士” ビッグバン・ベイダー戦。ベイダー選手は身長190cm・体重200キロ近い巨漢のレスラーでありながら、華麗な飛び技も出来る超一流選手。蝶野さんは海外からの凱旋帰国試合、さらには初の東京ドーム大会(観客数は53,800人)ということもあり、気合いが入っていました。そして入場曲が流れると、再度、腹の底から気合を入れ直したそうです。その時、アドレナリンが出過ぎたせいか意識が飛んでしまい・・・記憶を取り戻したのは3時間後の東京ドームから帰るタクシーの中!タクシーの運転手さんに「今、どこから出るんですか?」と聞き、「東京ドームですよ。」と言われたことで、意識が無いなか試合を行っていたことに気付いたそうです。試合中のことや試合後に控室に戻ったこと・着替えたことなど、一切記憶が無い蝶野さん・・・。この経験から、気合を入れ過ぎると危ないと学んだそうです。
もう1つ印象に残っていることは、『新日本プロレスの取締役会で、猪木さんに怒られたこと』。2002年に猪木さんに指名され、新日本プロレス現場責任者となり取締役にも就任された蝶野さん。しかし、取締役総会に5分ほど遅刻してしまいました・・・。「すみません。」と謝りながら会議室に入りましたが、その謝り方に問題があったのか猪木さんから「おい蝶野!!謝れここで!!」と、もの凄い勢いで怒られたそうです。付き人時代にもここまでの勢いで怒られたことが無かった蝶野さんは驚きますが、この時のことを「猪木さんに初めて怒られて嬉しかった。」と振り返ります。プロレスラーとしてだけではなく、ビジネス面でも猪木さんに様々なことを教わってきました。真剣に向き合っているからこそ、そして蝶野さんを気に掛けているからこそ本気で怒ってくれた猪木さんに感謝されています。続けて蝶野さんは「それ以降は、絶対に遅刻をしないようにしよう!と心に誓ったんですよ!でも・・・今日守れなかったですね・・・。」とお話に。笑
そう!実は蝶野さん、今回のドライブ収録に30分遅刻!笑 「猪木さんに怒られて以来の遅刻ですか?」と川島さんが質問すると、「もう1回、やっぱり猪木さんに怒られたいなという気持ちが・・・」と、誤魔化していました。笑
無事にお越しくださって良かったです!

 

 


(奥様・マルティーナ・カールスさんとのお写真)

〜奥様の存在〜

これまでの人生で一番影響を受けた人として、お名前を挙げたのは、1991年にご結婚されたドイツ人の奥様・マルティーナ・カールスさん。良いお話が聞けるかと思いきや・・・「僕のやる事なすこと全てを否定してくるんですよ。」とボヤキ気味・・・。
そんな蝶野さんに対し、「アドバイスですよね!」と川島さんはすかさずフォローを入れ、まずはお二人の馴れ初めを伺うことに!笑
若手レスラーの武者修行としてドイツに滞在していた蝶野さんは、講演会終わりのホームパーティでマルティーナさんに出会います。アタックしたのは蝶野さんの方から。花を持って何度もデートに誘ったそうです。
当時は、ドイツ語もダンケシェーン(ありがとう)と、ビッテシェーン(どういたしまして)ぐらいしか分からなかったそうですが、蝶野さんの愛の熱量でお二人は交際することに。そして、1991年にご結婚。結婚後、蝶野さんは“黒のカリスマ”として絶大な人気を博していくことになるのです。
また、人生で1番印象深い言葉もマルティーナさんから言われた言葉・・・「あなたのSorryはSorryになってない」・・・。1日に最低5〜10回怒られるという蝶野さんは、怒られる度に「I’m Sorry〜」と謝り続けていましたが、奥様からこの言葉を投げかけられてしまったそうです。笑 「じゃあ怒られた時はどうすれば良いのか?」と蝶野さんが聞くと、マルティーナさんは「花ぐらい持って帰ってくるでしょ!」とアドバイス!しかし、花の効力も次第に弱くなり、要求されるお詫びのランクはどんどん上がっていき・・・最終的には車をプレゼントしたこともあるそうです!

 

 

〜蝶野正洋さんのエウレカ(気付き)〜

蝶野さんのエウレカは、“妥協すること、崇拝すること。”
奥様との出会いからたくさんの事を学んできた蝶野さん。“女性は男性への理想が高く、男性は女性に頼りすぎている”と考えておられます。夫婦で上手く過ごして行くためには、妥協することも大切だと気付いたそうです。今年で結婚生活は30周年ですが、5年前の結婚25年目以降、蝶野さんはマルティーナさんを崇拝されています。常に反発心があると、喧嘩になってしまう。しかし、崇拝することで、素直に謝ることが出来るそうです。蝶野さんは奥様のことを・・・「神だと思っている。今の私の神は(アントニオ猪木ではなく)マルティーナです。」とお答えになりました!

最後に蝶野さんは、ドライブの良さをこのように語ってくださいました。「車の中というのが、唯一自分に与えられた自由な空間。好きな曲を流し、1人で楽しめる大切な空間ですね。すぐに家に帰らず、少し遠回りをして心を落ち着かせています。」
川島さんからの「奥様とのドライブも良いですよね?笑」という質問には、「いやっ・・その時はやっぱり、家内の車では家内のルールがありますので・・・」と言葉を濁してお答えに。笑
長い夫婦生活、やはり1人で深呼吸する時間も大切になりますね!

 

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PLAYLIST
  • 「Last Christmas (Metal Cover)」
    Leo Moracchioli
  • 「マッチョ・ドラゴン」
    藤波辰巳
  • 「Happy Xmas (War Is Over)」
    John Lennon & Yoko Ono
  • 「行け!タイガーマスク」
    新田洋