PASSENGER DIARIES

EDC 営業日誌(過去のお客様)

2022年3月19日放送

Passenger

黒沢かずこ

本日のお客様は、森三中の黒沢かずこ様。
1978年、茨城県出身。1998年にNSC(東京校)に入学し、そこで出会った大島美幸さん、村上知子さんと、お笑いトリオ『森三中』を結成。
デビューして早々、『進ぬ!電波少年』や『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで‼』などで脚光を浴びます。その後、個人としては“アドリブで歌って踊るネタ”で活動の幅を拡げ、トリオとしても『世界の果てまでイッテQ!』など人気番組に多数出演。
本日は、女性お笑いトリオのパイオニア的存在の森三中・黒沢さんと、同学年で少し先輩の川島さんがドライブに出掛けました!

 

 

〜川島さんとの関係〜

ドライブ冒頭、川島さんが「どうぞ、宜しくお願いします。」と挨拶すると、「おねがいします・・・。」と、聞き取れないほどの小声でお返事された黒沢さん・・・。理由を伺うと、久しぶりに川島さんと2人きりで話すため、急激に人見知りしてしまったそうです。笑 「1対1のラジオで人見知りしたら絶対ダメですよ!!笑」と、川島さんにツッコまれて、緊張がほぐれたところで、まずはお二人が初めて会った時から振り返ることに。
今から20年ほど前、東野幸治さんと中川家さんが司会を務めていた『土曜ドカンッ!!』という関西の番組で共演したお二人。同学年でしたが、芸歴が半年後輩の黒沢さんは、半年とはいえ“先輩後輩の関係”をとても意識されており、なかなか川島さんと話すことが出来なかったそうです。この時、すでに東京のテレビ番組に出演し始めていた森三中ですが、『土曜ドカンッ!!』で、関西芸人さんたちのしゃべりの勢いに驚いたと言います。この番組では森三中のみが関東芸人で、楽屋でも共演者には話しかけづらい状況・・・そんななか、唯一、話しかけやすかったのは、川島さんの相方、田村さんでした。当時はまだ、『ホームレス中学生』を出版される前。そこで初めて、田村さんの壮絶な生い立ちを聞いたそうです。“家がなくなった。”“お昼ご飯の代わりに公園で水を飲んでいた。”といった苦労話を、笑いながら明るく語る田村さんに森三中の3人は興味津々!その姿を川島さんは微笑みながら横で見守っていたのだとか。昔は、人見知りが激しかった川島さんと黒沢さん。もともと人に興味はあるものの、それをうまく表現できなかったお二人でしたが、川島さんは家族が出来てから、黒沢さんは40歳を機に、人見知りを克服することができたそうです。


(6歳時のお写真)

エンジンが掛かってきた黒沢さんは、ここで突如、川島さんへの愛をぶつけ始めます!川島さんは、2020年に藤井隆さん主催のレーベル『SLENDERIE RECORD』から発売されたアルバム「SLENDERIE ideal」に参加し、そこでフジファブリックの名曲「若者のすべて」をカバー。黒沢さんは発売前に、同じくアルバムに参加していた椿鬼奴さんの家で一足先にアルバムを聴き、川島さんが歌う「若者のすべて」にどハマりしたそうです。
リリースから2年ほど経ち、今回、川島さんと会うということで、前日に久しぶりこの曲を聞いてきた黒沢さんは、急に声を張り上げ、「やっぱ、メッッチャいい!今までお笑い芸人が出した曲の中で1番かもしれない!」と褒め言葉を送ります。これには川島さんも、「こんなに褒めてもらえるなら、自分が落ち込んでいる時に会いたかった。笑 もったいないくらい嬉しいです。」と感謝を述べました。続けて黒沢さんは、「今を生きるこの時間。みんなに聴いてもらいたい。共有したい。川島さんの“若者のすべて”・・・聴いてください。」と、音楽番組風に曲紹介までしてくださいました。笑

 

 


(ダウンタウンさんの大ファンになり始めた13歳時のお写真)

〜お笑いの世界へ〜

茨城県のひたちなか市出身の黒沢さん。ご実家は、地元で人気の食堂を経営されていました。
お笑いの世界を目指したキッカケは、モノマネ四天王(清水アキラ・ビジーフォー・栗田貫一・コロッケ)への憧れ。なかでもコロッケさんが一番好きだったそうです。小学生の頃から友達の前で中森明菜さんなどのモノマネを披露していましたが、レパートリーが増えず、“これではプロになれない・・・”とモノマネ芸人への道は早々に断念。
そんな時に見たのが、ダウンタウンとウッチャンナンチャンが出演していた伝説のバラエティ番組『夢で逢えたら』でした。この時、小学6年生だった黒沢さんは“大人のお笑い”に触れ、また、初めて“コント”という存在を知りました。そして中学時代からダウンタウンの大ファンに。14歳の時には“私は人志と結婚するんだ!”と思い込んでいたそうです・・・!また、友達にも熱烈なダウンタウンファンがいて、その人とダウンタウンに関わる放送作家についても語り合うほど、コアなお笑いファンでした。

高校を卒業して1年後の1998年、東京NSCに入学。実は黒沢さん、高校卒業からNSC入学までの間に、放送作家のセミナーに通っていました。ストレートに芸人ではなく、放送作家を目指した理由も、愛しの松本さんが関係しています。
松本さんの本『遺書』には、“女性芸人は、男性と同じことをしても笑いが起こりづらいことがあるので難しい”といった内容が書かれていました。『遺書』がバイブルだった黒沢さんは、“女性芸人が難しいならスタッフとしてお笑いの世界に入ろう”と放送作家を志したのでした。そこで通ったのが、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』の制作会社が主催していたセミナー。そこでは、企画書の書き方やコーナー案出しをレクチャーしてもらいましたが、“リサーチ”と呼ばれる、下調べの作業もされられました。現在のように、インターネットで調べる時代ではなかったため、資料のあるライブラリーまで行かなければならず、リサーチに時間がかかります。
そんな日々が続くなかで、“このままでは放送作家になるのも時間がかかる”と焦りを感じた黒沢さんは、木村祐一さんが芸人から『ダウンタウンのごっつええ感じ』の放送作家になったことを参考に、一度芸人になってから放送作家に転身する道を目指します。
そしてNSCに入学しますが、そこでも苦難がありました。授業の初日、ご実家の茨城県から片道3時間かけて学校に向かいましたが、5分遅刻してしまいます。すると、NSC側から「遅刻する人は入れません。」と言われ、入学金を払っているにも関わらず、それ以降の授業を一切受けさせてもらえませんでした。ちなみに、同期のロバート山本さんも似たような被害を受けていたそうで・・・山本さんは“上履きを持ってきなさい。”と言われて、スリッパを持っていったことが原因で、授業への参加が認められませんでした。笑 今ではそんなことはないそうですが、当時のNSCはとても厳しかったそうです・・・。


(NSC時代の森三中)

黒沢さんは、NSCに反省の手紙を書くなどしましたが、授業を受けさせてもらえない日々が2週間ほど続きます。そこで、“行動を起こすしかない”と考えた黒沢さんは、学校の前で、“次に自動ドアから出てきた人にとりあえず話しかけてみよう!”と決意。その時、自動ドアから出てきたのが、現在の相方である村上さんでした。「すみません。NSCに入学予定だったんですけど、ちょっと入れなくなりまして・・・今どんな状況か教えてくださいませんか?」と尋ねたところ、村上さんは「良いですよ!」と快く承諾してくれて、近くのファーストフード店で、二人で終電まで話したそうです。人見知りだった黒沢さんが、初対面の人とここまで意気投合するのは珍しいこと。
そんな奇跡の出会いの後、NSCが、同じような状況で授業に参加できない人があまりにも多かったため、『申し開きの会』を開いてくれることに。そこで、黒沢さんは、当時の校長から「姉ちゃんお笑いやりたいのかよ!姉ちゃん手紙書いてきたな・・・何書いてるかよく分かんねぇよ!」と強く当たられます。また、その場で辞めたら入学金も返すと言われ、そこで辞めていく生徒もいたそうですが、黒沢さんは「すみません!やりたいです!」と、ひるまず立ち向かいます。
夢のためという理由もありましたが、実はもう一つ理由が・・・それは、NSCの校長がダウンタウンのマネージャーさんだったから。黒沢さんは心の中で、“ダウンタウンさんといた時と全然態度が違う!いつか今田さんと東野さんのラジオでチクってやる!”と思いながら、強気を保つことができました。笑
そして、なんとかNSCに改めて入ることが出来た黒沢さん。最初は、社会人向けの授業時間が遅いBコースを選んでいましたが、村上さんのいる昼間のAコースに切り替え、そこで大島さんとも出会い、“森三中”結成へと繋がります。

 

 


(「電波少年的15少女漂流記」には、いとうあさこさんも参加されていました!)

〜デビュー後〜

1998年に結成した森三中ですが、2000年には早くも、『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!』の人気企画「ハイテンション ザ・ベストテン」に出演!もともと“ガキ使”の作家志望だった黒沢さんの想い入れは強く、オーディションを通過するために大島さんを必死にプロデュースしたと言います。そして、大島さんが注目を集めたことで、森三中はブレーク!ガキ使の中で、森三中がメインの企画(大島さんが浜田さんに恋をしたという設定で、求愛する企画)も組んでもらえました。
しかし、計4回行われたこの企画のうち、1回目と2回目は黒沢さん不在。実はこの時、黒沢さんは『進ぬ!電波少年』の「電波少年的15少女漂流記」という企画に参加中で、半年ほど無人島で生活していました。帰国後、3回目の収録でようやく合流できた黒沢さんは、松本さんとの収録に、“あっ、人志だ〜”と心の中ではファンに戻っていたそうです。笑
この収録で、黒沢さんにとって忘れられない出来事が起こります。それは、“異性を感じさせない女性が好き”という浜田さんの設定に対して、“大島さんが全裸で男性サウナ室に入る”というシーンを撮り終えたあとでした。次のシーンまでの合間に、松本さんが「オモロかったな。」とおっしゃった一言が遠くから聞こえてきたのです!“女性芸人は難しい”と書いてあった『遺書』が人生の教科書だった黒沢さん。女性芸人を続けていくことに、まだ葛藤がありました。しかしこの時、松本さんが「オモロかったな。」と褒めたことで、女性芸人として活動をすることに自信が持てるようになったのでした。続けて黒沢さんは、「今思えば、サービスの言葉だったと思う。だけど、あえて共演者の前で口に出してくださった時、“やっぱ人志、超優しい〜”と思った!」と、幸せそうに当時の心境を教えてくださいました。

森三中は、まず大島さんに注目が集まりブレークを果たし、村上さんも今田耕司さんから“村上様”とイジられてフィーチャーされ、黒沢さんも、2009年ごろから“アドリブで歌って踊るネタ”でそのキャラクターを開花させます。もともと“歌って踊る芸”は持っていましたが、自分から積極的に人前で披露することは無かったそうです。
そんな宝の持ち腐れ状態の黒沢さんを救ってくれたのが藤井隆さん。東京の新喜劇で藤井さんとご一緒する機会も多かったそうですが、黒沢さんは、舞台の序盤、若手が出る場面で毎回違う曲を歌ってボケていました。当時のマネージャーさんからは、新喜劇は育てていくモノだから、毎回違う歌では無く、1曲を歌い続けて定着させたほうがいいと言われます。しかし、大阪と東京の新喜劇では座長や雰囲気も異なり、多少の“違い”がありました。黒沢さんも自分を表現するため、また大阪と東京の“違い”を考えた上で、様々な曲を歌っていたと言います。そんな悩みを抱えながら舞台に立ち続けた黒沢さんは、何が正解か分からない状態でした。そんな時、藤井さんが「今回はどんな歌を歌われるんですか?」と、突然声を掛けてくださったそうです。この言葉を聞いた黒沢さんは、先輩の藤井さんが、若手の出番も毎回チェックしてくれていたことへの嬉しさと、“毎回違う曲でも良い!”と認めていただいた感覚があり、とても救いになったと言います。その後も、藤井さんには可愛がっていただき、藤井さん扮する“マシュー南”がMCの『Matthew's Best Hit TV』では、「クレア黒沢」として番組に席を作ってくれました。そこで、藤井さんの進行を間近で見ることができ、芸人として様々なことを学ばせていただいたと感謝されています。

 

 

〜解散危機〜

ずっと仲のいいイメージがある森三中の3人ですが、過去に解散危機があったそうです!
2004年、テレビ朝日の『ガチンコ視聴率バトル』という番組に出演し、10組の芸人たちがそれぞれ作成したVTRで視聴率を競うという企画で見事優勝した森三中は、ご褒美として特番の冠番組を頂けることに!冠特番はトーク番組で、自分たちがMCで番組を回す、夢の様なシチュエーションに3人は心を躍らせていました。しかし結果は、とても苦い経験となってしまいました・・・。実際に収録が始まると、自分たちが思い描いていたように上手く番組が回らず焦る3人。スムーズな進行が出来ず、トークでも何一つ上手く返すことが出来ないまま時間が過ぎていきます。その状況に、黒沢さんは“もう嫌だ、嫌だ・・・”と涙が出そうになり、ふと横を見ると大島さんの目にも涙が・・・。そして大島さんは、「怖いよ〜、嫌だよ〜」と言って、先に泣いてしまいました!すると、その涙につられて黒沢さんと村上さんも「嫌だね〜」と3人とも本番中に号泣!笑 自分たちの“不甲斐なさ”を痛感し、その後、「もう辞めよう〜」と芸能界引退を3人で話し合ったと言います。
いきなり辞めると迷惑が掛かるため、“頂いている仕事が終わったら辞めよう”と決心。しかし、その後も仕事が途切れることなく、次第に続ける気持ちが芽生えて、解散は免れたそうです。憧れの冠番組が、解散危機の原因だったとは驚きですね!
ちなみに特番では、3人ともお気に入りだった可愛い衣装を着ていたそうですが、トラウマとなってしまい、その衣装は2度と着ないことにしているそうです。笑
意外な解散危機のお話でしたが、この経験があったからこそ3人の絆が深まったと黒沢さんはおっしゃいます。各番組でお互いが長所を生かせる環境を作り合い、誰かが落ち込んでいるときはフォローし合える関係が、森三中の揺るがぬ人気の秘訣かもしれませんね!

川島さんから見て、森三中の3人は“ボケもツッコミも超えた存在”。黒沢さん自身、“自分のジャンルって何かな?”と考えていたそうですが、川島さんは「カタカナで“クロサワ”というジャンルじゃない?」と言い、独自のジャンルを確立していると伝えます。年齢とともに、ボケ・ツッコミの立場があやふやになるのは麒麟も同じで、漫才中はツッコミの田村さんですが、プライベートでは真逆・・・。「田村がツッコむと言うから、僕がボケるという契約だったのに、僕のボケを超えるバカだったから・・・もう無理ですよ!」と笑いながら打ち明けていました。
また、田村さんは、『ホームレス中学生』の印税を周りの人のために使っていたそうで、唯一、自分のために買ったのは、25万円のクロムハーツのベルトだけ!ですが田村さんは自分が金属アレルギーだったことを忘れており・・・お腹が赤く腫れしまうという結末。笑 そんな天然で優しさ溢れる田村さんは、最近ツッコむことができないらしく、周りがボケても「大丈夫!大丈夫!」と、優しさで受け止めてしまうそうです。笑

 

 

〜黒沢さんのエウレカ(発見・気付き)〜

ドライブも終盤に差し掛かり、今までの人生で見つけたエウレカ(発見・気付き)を伺いました。すると、「確定申告の時期だったじゃないですか〜」と、突然言い始める黒沢さん。川島さんも戸惑い「“確定申告はお早めに”というエウレカですか?」と思わず聞いてしまいましたが、お話には続きがあったそうです。笑 確定申告のため、領収書を整理していた時に、あるメモが出てきたそうです。(↓実際のメモの写真)

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
20代は がむしゃらに
30代から勉強できるかんきょう(環境)にある
30代は、尊敬できる大人から近くで学ぶ事ができる チャンスがある
そして、40代で楽しんで
50代で、家族とすごし
60代で、甘えて生きる。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
いつ書いたかメモなのか詳細は覚えていないそうですが、おそらく誰かがおっしゃっていたことを、黒沢さんが30代の時にメモしたものと推測。このメモを発見した黒沢さんは、“すごく良いことを書いているな”と思い、“こんなこと書いていたんだ!”と過去の自分に対する発見もあったそうです。このメモに書いてある通り、“40代は楽しみたい!”と抱負も語っていただきました。

今後の夢は、“ヒット曲が欲しい!”とおっしゃる黒沢さん。「CDは何枚か出していますよね?」という川島さんからの問いに、黒沢さんはハッと!何かを思い出し、話があらぬ方向へと進みます。「私、自分のことをアーティストだと思っていたんです。でも、そこが崩れたせいで、今は何だか分かんないんですけど・・・」と突然のカミングアウト!「ん?」と戸惑う川島さんをよそに、黒沢さんはそのまま、“自分をアーティストだと思い始めた経緯”を説明し始めます。

だいぶ前に親戚の方がお亡くなりになられ、お通夜に参列した黒沢さん。お通夜の後、黒沢さんはふと、“故人と一緒に作ってきた時間を共有したい”と思われたそうで、親戚のご家族に「私、ちょっと1曲歌っていい?」と相談しました。すると故人の妹さんは喜び、「“かっちゃん(黒沢さん)”が歌ってくれるって!」と、親戚一同を、ご遺体を囲むように、棺桶の近くに集めてくれました。
黒沢さんは「では、失礼します。」と言って、いざ曲を歌おうとした時・・・あることに気付きます。それは、自分の曲の中に、ヒット曲が無いこと!笑 「え?何を歌おうとしたの?」と川島さんは誰もが抱く疑問を投げかけますが、「私は自分の曲を歌おうと思ったんです。でも、気付いたらヒット曲が無かったんです。」と謎の返答をする黒沢さん・・・。咄嗟に、オリジナルソングの「バイバイしないで」を歌おうかと思ったそうですが、場所はお別れを惜しむお通夜。悲しいですが、お別れをしなくてはいけません。そこでネタで使っていた「キューティーハニー」を歌うか悩んだそうですが、替え歌にして歌っていたため、却下・・・。笑
「ウッ・・ウウッ・・ンン」と言葉を詰まらせながら、何を歌うべきか悩む黒沢さん。その姿を見て、黒沢さんが感極まっていると思った親戚一同は、固唾を呑んで見守ります。そんな沈黙の攻防が続くなか、ついに黒沢さんが歌い始めます!短い時間で頭をフル回転させ、口から出た言葉は・・・・・・・「六本木には外国人多い〜♪」。 言ったそばからご自身でも“お通夜で何歌っているんだろう?”と思ったそうですが、親戚はあまりにも訳の分からない光景に唖然としているのか、真剣な眼差しで黒沢さんを見つめ続けます。そんな状況でやめる訳にはいかなくなった黒沢さんは被せるように、「六本木には外国人多〜〜い〜♪」と、ビブラートをかけて乗り切る作戦に!笑
しかし、この歌詞ではやはり難しい・・・。当初の予定では、ヒット曲を歌い上げ、みんなが感動する終わり方を想定していた黒沢さんは、急遽プランを変更!笑 故人が好きだったものを教えてもらい、即興ソングを制作することに!好きなものが「パソコン、唐揚げ、テレビ。」と聞き、バラード調の曲を思い付いた黒沢さんは、何を血迷ったのか「唐揚げ〜食べすぎると〜・・・・“死んじゃう〜”」と、歌いそうになったそうですが、((ヤバい!!死んでる!!)))と直前で気付き・・・、((ヤバい!!この先どうしよう!!)))と、数コンマの間に切り替え、咄嗟に出てきた歌詞は、「(唐揚げ〜食べすぎると〜・・・)ん〜〜〜良くないかも知れないけど〜美味しいよね〜」と歌い上げ、その後も「パソコンも〜楽しいし〜・・・」と、そのままの流れで歌い続けたそうです。
この段階でご自身も本当に恐ろしくなったそうで・・・最後は棺桶を両手で掴み「助けてくれ〜〜〜」と故人に助けを求めて終えたという黒沢さん。笑 その場がシーーーーーンとするなか、故人の妹さんが「お兄ちゃん・・・・良かったね・・・。」と締めてくださり、親戚一同は一言も発することなく元いた場所へ戻っていったそうです。
その時を振り返って、「お亡くなりになられた方も優しくて面白い方だったから助けてくれたと思うし、“かっちゃん。あれ・・どうなのよ・・・笑”と天国でツッコんでくれた気がする。2人の時間が最後に作れて嬉しいと思ったと同時に、“自分はアーティストじゃないんだ、ヒット曲が欲しい”と心の底から感じた」という黒沢さん。
やはり、黒沢さんのジャンルは“クロサワ”な気がしますね!笑

 

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PLAYLIST
  • 「Cling Cling」
    Perfume
  • 「若者のすべて」
    川島明
  • 「Everything」
    MISIA
  • 「六本木心中」
    アン・ルイス