PASSENGER DIARIES

EDC 営業日誌(過去のお客様)

2022年10月1日放送

Passenger

秋元康

本日のお客様は、作詞家の秋元康様。
1958年、東京都生まれ。高校2年生の時に放送作家としてデビュー。その後、様々なラジオ・テレビ番組をご担当されるほか、とんねるずのブレーンとしても有名に。また、作詞家としては、稲垣潤一「ドラマティック・レイン」、長渕剛「GOOD‐BYE青春」のヒットに始まり、おニャン子クラブなどのアイドル曲を手掛け、30歳の時に、歌謡界の女王、美空ひばり「川の流れのように」を作詞されます。2005年には、アイドルグループ『AKB48』を発足され、総合プロデューサーとしてご活躍。その後も坂道シリーズなど、アイドルグループを次々と立ち上げ、世間にアイドルブームを巻き起こします。
そんな誰もが知る“稀代の天才”秋元康さんと、川島さんが、「土曜日のエウレカ」2周年を記念して特別なドライブに出掛けました。

 

 

 

〜放送作家〜

秋元さんがプロデュースされているアイドルグループのメンバーとは度々共演している川島さんですが、秋元さんにお会いするのは初めて!まずは、川島さんが物心付いた時から“先生”と呼ばれている秋元さんの経歴を振り返ることにしました。秋元さんが放送作家デビューされたのは高校2年生の時。当時聞いていた、せんだみつおさんのラジオ番組『燃えよせんみつ足かけ二日大進撃』に、台本を書いて送ったことがきっかけでした。しかし、“放送作家になりたい!”という夢を持っていた訳ではなく、“こういうのだったら自分でも書けるんじゃないかな?”という、趣味程度の感覚だったそうで、「本当に何にも考えてなかった。」と振り返ります。ですが、その台本の完成度の高さから秋元さんは番組から声を掛けられ、放送作家として参加することに。高校生にして放送作家としてラジオ局を出入りすることになった秋元さんは、その若さから注目が集まり、局内の様々な人から声を掛けられます。次第に担当番組が増え、大学生の頃には、学業よりも放送作家としての仕事が忙しくなっていたと言います。大人気番組『ザ・ベストテン』の作家を始めると、音楽関連の仕事が広がり、コンサートの演出・構成、洋楽の訳詞、作詞、コマーシャルの演出なども手掛けるようになりました。

 

 

〜とんねるずとの出会い〜

放送作家として活躍の幅を広げ始めた時に出会ったのが盟友・とんねるず。『モーニングサラダ』という、西城秀樹さんと伊藤つかささんが司会を務める情報番組に秋元さんが携わっていた時、番組内で若者に向けたお笑いコーナーを設けることになり、白羽の矢が立ったのがとんねるずでした。当時のとんねるずは、スターへの登竜門でもあったオーディション番組『お笑いスター誕生!!』で結果を残しており、秋元さんはプロデューサーから話をしてくるように頼まれたそうです。そして、実際に会った時の印象がとても面白く、番組に出演する意思もあったので起用することに。その後まもなくしてバラエティ番組『オールナイトフジ』が始まり、とんねるずはスターへの階段を駆け上がります。『オールナイトフジ』にとんねるずを推薦したのは秋元さん。当時、番組で一番若いディレクターだった現・フジテレビの代表取締役社長の港浩一さんに、「こういう二人組がいるんだけど、レギュラーでどうだろう?」と提案すると、「面白いですね。やりましょう!」と賛同してもらい、とんねるずの起用が決まったそうです。そんな秋元さんは当時のとんねるずについてこんな風に語りました。「やっぱり面白かったですよ。それまでのお笑いは、低姿勢でお客様を傷つけるようなことはしなかった。だけど、とんねるずって言うのは背の低い方の憲武が身長177cmあり、貴明が184〜185cmあるわけですよね。なんかこう威圧的で、しかも、元・サッカー部と野球部じゃないですか。運動系で“てめぇら、ああしろ、こうしろ”とかって言う芸風が今まで無かったので、不思議な面白さがあったなと思うんですよね。」
その後、秋元さんはとんねるずのブレーンとして、番組はもちろん、音楽活動も手掛けるようになります。 秋元さんが作詞家として活動を始めたのは、とんねるずに出会う少し前。稲垣潤一さんの「ドラマティック・レイン」や、長渕剛さんの「GOOD-BYE青春」がヒットしたことで、作詞家としての知名度を得たあと、とんねるずをアーティストとしてプロデュースすることになりました。

 

 

〜先見の明〜

秋元さんはこれまでに、おニャン子クラブの全楽曲の作詞、AKB48グループ・坂道シリーズの総合プロデュースなど、数多くのアイドルを世に送り出してきました。
素人だった人がスターになっていく姿を数多く見てきた秋元さんは、AKB48を発足させた時、既にブレイクする感覚があったと言います。当時のことを、「AKB48 は、2005年の12月にデビューしたんですけど、まだ劇場がガラガラの時に“君たちは将来、東京ドームを満員にして紅白歌合戦にも出るし、レコード大賞も獲るよ。”って言っても誰も信用しないですよね。でもそれは、そういう経験がないからですよね。僕はずっと、とんねるずとかいろんな人がスターになっていくのを見てるから、“いや皆(AKB48)もそうなるんだけどなぁ〜”と思った。」と語り、“この人はこうやったらブレイクするな”という感覚を経験から会得していたのです。
また、人や番組には、ブレイク前に兆しがあると言います。1番若手の放送作家として携わった『ザ・ベストテン』を例に挙げると、司会の久米宏さんが「矢沢永吉さんは、きょうは○○の為にお越しいただけませんでした。」と言った時、秋元さんは“これは絶対当たるな!”と思ったそうです。その理由は、今までのテレビで「来てくれない」ということを言う番組は無かったから。登場口をカメラで映しながらも出てこないという演出や、正直に来ないことを発表することが斬新だったと振り返ります。『夕やけニャンニャン』でも、ある時、メンバーの誰かが、「今日、新田恵利ちゃんは中間テストの為、お休みです!」と言ったの見て、“これは当たる!”と思ったそうです。テレビを観ている中学生・高校生も、ちょうど中間テストがあったはずなので、その”リアル感”がとても良く、また、テレビ全盛の時代に平気で学業を優先したことに、“番組を舐めてるだろ!笑”と感じながら、それが斬新に見えたそうです。この、視聴者の予想を裏切り“予定調和を壊す”という発想をもとに、秋元さんは、新しいエンターテイメントを生み出し続けます。

 

 

〜川の流れのように〜

秋元さんは、美空ひばりさんの「川の流れのように」を作詞されたことでも有名ですが、なんと作詞された時、まだ30歳だったそうです!レコード会社の人と雑談中に、「色んなアイドルをプロデュースされてきましたが、次は何をやりたいですか?」と聞かれ、「やっぱり日本で最大の歌姫・DIVAである、美空ひばりさんの詞を書けたら本望じゃないですか。」という話をしたそうです。すると、その方がひばりさんに話をしてくださり、ひばりさんも“(秋元康という存在は)何か知ってるわよ。”とおっしゃり、オファーを受けました。秋元さんは、『不死鳥パートII』という題名のアルバムのプロデューサーとして、収録予定の10曲を制作されます。その中で、シングルカットする曲は、インパクトのあるものにしたいという想いから、「ハハハ」という曲にする予定でした。しかし、レコード会社の方から「ひばりさんが“川の流れのように”を、シングルカットしたいとおっしゃってる。」と連絡が。秋元さんは、良い曲だと思いつつも、“シングルカットするには弱い”と思い、散々反対したと言います。すると、レコード会社の方から「実は、ひばりさんは今まで一度もスタッフに(シングルカットに関して)“これが良い”と言ったことはない。いつも“お任せするわ。”っておっしゃっていたのが、今回だけはこだわりがあるそうで・・・何とかなりませんか。」と相談を受けます。これを聞いた秋元さんは、「そこまでおっしゃるなら、是非、ひばりさんの意を汲んで、“川の流れのように”をシングルカットしましょう。」と、当初の予定から変更することを決めました。
レコーディングの際には、“これまで歌い直しを要求されたことがない美空ひばりさんに、秋元さんが歌い直しをお願いした。”という情報がありましたが、これは事実と異なるそうで、「もちろん、レコーディングを何回かやってる中で、“このテイクが良いですね。”とか、“ここはもう一回こうしましょう。”と言った記憶はありますけど、“こういう風に歌ってください。”って言うことではないですね。」と説明してくださり、現場で目の当たりにしたひばりさんの凄さについて話し始めます。
当時、秋元さんも多忙だったため、普段は、レコーディングの当日に作詞を FAX で送るということが多かったそうですが、ひばりさんの場合は、「2週間前に10曲全部下さい。」と依頼が。“ひばりさんに言われたからには失敗できない”と、秋元さんは2週間前に10曲揃えて渡しました。すると、美空ひばりさんは、2週間ずっと曲を練習されたうえで、レコーディングに来られたと言います。通常、歌の上手い方でも1曲のレコーディングに4〜5時間は要するそうですが、ひばりさんは、ファーストテイクから完璧。努力を決して怠らないからこそ、歌い直しを要求されることがないのです。その姿勢を見た秋元さんは”プロの姿”というのを学んだと言います。「例えば、僕らは誰かが5分遅刻しても“大丈夫、大丈夫。”って言うじゃないですか。それは、自分も5分遅れる可能性があるから人を責めない。でも、ひばりさんは絶対許さないわけですよ。なぜなら、自分を徹底的に追い込むから。あれだけの人が、10曲を完璧にしてレコーディングに臨まれるから、ミキサーも誰もミスれない訳ですよ。それくらいの厳しさがプロにはあるということ。」と語り、こんなエピソードも教えてくれました。
1988年4月11日、東京ドームで行われた伝説のコンサート『不死鳥/美空ひばり in TOKYO DOME 翔ぶ!! 新しき空に向かって』で、ひばりさんは全40曲を披露されましたが、歌詞を1箇所も間違えなかったと言います。普段、テレビで歌うときは1コーラスだけの場合が多く、プロの方でも、コンサートの際、2コーラス目・3コーラス目の歌詞を間違えたりすることが多々あるそうですが、ひばりさんは完璧にこなされます。
さらにはこんな思い出も。レコーディングの時、ひばりさんから「この“川の流れのように”って言い歌詞ね。人生っていうのは確かに曲がりくねったり真っすぐだったり、流れが速かったり遅かったり、川の流れのようなモノなの。そして、皆それぞれの川がある。だけど秋元さん、最後は同じ海に注ぐのよ。」と言われたそうです。この時、秋元さんは深い意味で捉えていなかったそうですが、アルバム発売からほどなくして、ひばりさんは天国へ。その後、改めて言葉の意味を考えた秋元さんは、「あの時、人生を振り返っていらして、自分の人生を“川の流れのように”で終わりたいと思われたのかなって。実は1年以上前からやろうとしていたプロジェクト(『不死鳥パートII』)だったけど、途中でひばりさんが倒れて、延期になったんですよ。その後、“元気になったのでやりますよ!”とおっしゃったので、僕らスタッフはみんな“完璧に体が治った”と思っていた。だけど、おっしゃっていたことを考えると、“やっぱりあの時も体調は悪かったのかな”っていうのはすごく思いますよね。」と振り返ります。
秋元さんは、ひばりさんと仕事をされて以降、肩書きを“放送作家”から“作詞家”に変更されました。

 

 

〜秋元さんからの質問〜

秋元さんから川島さんへの質問は、「これからのテレビはどうなるか?そして、今テレビで活躍している川島さんにとってのテレビって何なんだろう?」ということ。秋元さんは今が端境期だと感じています。つまりネットに行くのか、テレビなのか。YouTuber みたいな表現方法もあるなかで、出演する側の川島さんがどういう風に思っているのか聞きたいそうです。
川島さんはYouTubeをやっておらず、テレビ以外でやっていることは、“麒麟”として劇場に立つことぐらい。とんねるず・ダウンタウン・ナインティナインなどを観て、お笑いの世界に入ったということもあり、テレビが一番好き。YouTubeなどでもすごい映像はあるけど、テレビほどお金や人を掛けたりすることは難しいのかな?と思い、これからもテレビでやっていきたいと語ります。
一方、テレビとネットの大きな違いは共同作業にあると考える秋元さん。テレビは多くの人が関わって一つの番組が成立しますが、YouTubeは、“やりたい企画”を、自分達ですぐにコンテンツ化できます。秋元さんは、チョコレートプラネットのYouTubeを観て、“やりたいことがそのまま出来る時代になった”と衝撃を受けたそうです。 これに対して川島さんも「もちろん細かいルールはあるんでしょうけど、規制が無く、源泉そのままを流してるっ感じですね。」と話し、お二人は、その“源泉”が、今、面白いコンテンツになっていると感じています。また、昔は“YouTube とテレビ、どっちが生き残るんだ?”という感じがありましたが、今の若手芸人は上手く共存の方法を見出していると川島さんは分析しています。「ラジオの感覚に近いのかもしれないですけど、テレビで良かったこと・駄目だったことをYouTube で話したり、テレビをフリにしたYouTubeを撮ったりしている。そういった事(裏話や反省会)があるので、セットでみると結局テレビも面白くなる。」と話し、共存関係を築いていると捉えます。
また、お二人はテレビの最大の武器は生放送だと考えており、川島さんは秋元さんへ“生放送で大事なことは何か?”を尋ねます。「全てのテレビ、全てのエンターテインメントに言えることだと思うんですけど、予定調和を壊すっていうことがどれだけ出来るかだと思うんですよね。例えば、オールナイトフジで言えば、やっぱりみんなの記憶に残っているのは石橋貴明がカメラを倒したこと。その“何が起きるんだろう!?”っていうハラハラ・ドキドキをみんな楽しむんだと思うんですよね。“こういう段取りのはずだったのに、こうなっちゃいました・・・”みたいに、こぼれる部分がやっぱり生放送の面白さだと思うんです。」と秋元さんは語ります。さらに、「我々は、常に批判と紙一重な所にいるんです。だから“批判されないように”ということだけを意識すると絶対に新しいものは出来ない。」とおっしゃいます。『ザ・ベストテン』や『夕やけニャンニャン』で得た経験を生かし、常に新しいチャレンジを試みてきた秋元さんだからこそ言える言葉ですね!

 

 

〜秋元康さんのエウレカ!(発見・気付き)〜

秋元さんが、“人生とは何だろう?”と考えて、導き出したエウレカは、“人生とは目撃すること”だということ。
秋元さんは、1964年の東京オリンピックをお父様と観た思い出があり、昨年の東京オリンピックも目撃することが出来ました。また、“ON砲と呼ばれた王貞治・長嶋茂雄の現役時代”、“アントニオ猪木VSモハメド・アリの世紀の一戦”など、「あの時、あれを観たんだよ〜」と言える目撃体験こそが、人生にとって、とても素敵なことだと考えています。そんな想いから生まれたのが『AKB48劇場』。「前田敦子があそこで踊ってたんだ!」と言える環境を残したいという想いがあったのです。「色んな目撃体験をみんな大切にした方がいい。今しか見られないものを見た方がいい。自分の中で最後に残るのは記憶しか無いわけだから、それはすごく大事だと思うんですよね。」とおっしゃいます。
そして、芸能界で仕事をしていると憧れの人と仕事をすることもあります。川島さんは今年の3月に高校生の時から憧れていた菅野美穂さんと共演。秋元さんも、美空ひばりさんや、矢沢永吉さんと仕事をされた時は大いに興奮したそうです。また、ちょっと話は飛びますが、こんな不思議な出来事も!
ある時、マンションのエレベーターに財布が落ちていることに気付いた秋元さん。“届けないといけない!”と思い、財布を開けたら吉田拓郎さんの免許証が出てきたそうです。笑 ワンフロアに2世帯しかないマンションでしたが、引っ越ししたばかりで隣人が誰かは知りませんでしたが、高校時代に憧れていたフォークの神様・吉田拓郎と知って大喜び!財布を届けに行くと、奥様の森下愛子さんが出てきたのも嬉しかったそうです。笑
「吉田拓郎さんの財布を秋元康さんが拾ったんですか!?」と川島さんも驚いていました。笑
最後に、秋元さんの夢を伺うと、「“こうなりたい!”とか、“ああなりたい!”とかは全くない。」とお答えに。AKB48の総選挙を例に、その理由を教えてくれました。AKB の総選挙は、発表の30分前には集計が終わっていて、先に結果を頂くそうですが、秋元さんは見ないそうです。なぜなら、ファンの皆さんと一緒に、“誰が勝つのかな?”とドキドキしたいから!その感覚と似たようなモノで、常にドキドキを探している秋元さんは、「明日、自分は誰と会って、何にドキドキするんだろ?っていうのが今一番の楽しみであり、夢です。」と、最後に語ってくださいました。これからも、“予定調和を壊す”エンターテイメントで、我々を驚かせてくれそうですね!

 

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PLAYLIST
  • 「恋するフォーチュンクッキー」
    AKB48
  • 「雨の西麻布」
    とんねるず
  • 「セーラー服を脱がさないで」
    おニャン子クラブ
  • 「川の流れのように」
    美空ひばり
  • 「川の流れのように」
    美空ひばり
  • 「ファンキー・モンキー・ベイビー」
    CAROL