PASSENGER DIARIES

EDC 営業日誌(過去のお客様)

2023年7月15日放送

Passenger

大林素子

本日のお客様は、大林素子様。
1967年、東京都小平市出身。
中学からバレーボールをはじめ、バレーの名門・八王子実践高校に進学。
高校在学中に全日本の代表に選ばれます。1986年、日立の実業団チームに入団後は、182cmの長身を活かし、日本代表のエースアタッカーとしてソウル、バルセロナ、アトランタと3大会連続でオリンピックに出場!1995年には日本人初のプロ選手としてイタリア・セリエAでもプレーされるなど、日本女子バレー界を牽引します。1997年に現役を引退後は、タレントとしてテレビ等で幅広く活躍。2001年にはつんく♂さんのプロデュースで、アイドルユニット『デカモニ。』として歌手デビューを果たし、さらに、昨年には両A面シングル『陽だまりダイアリー/愛する人と歩きたい』で、“大林素子”名義で初のCDをリリースされました。今回は、バレーボール界のレジェンドであり、大のお笑い好きとしても知られる大林さんの人生に迫るドライブです!

 

 

〜お笑い好き〜

大のお笑いファンの大林さん。川島さんも若手時代に“大林さんが各劇場に出没している”という情報をよく耳にしていたそう。大林さんは、大阪のバレーボールチームでプレーしていた頃、休みの日には“なんばグランド花月(NGK)”や“baseよしもと”といった劇場に通っていました。川島さんも舞台上から見たことが多々あり、客席にいる大林さんはいろんな意味で“頭一つ抜けた存在”だったと言います。笑
そして今回、川島さんには真相を確かめたい都市伝説があるそうです!
当初は関係者席を用意してもらってお笑いライブを観ていた大林さんですが、しばらくすると自腹でもライブを観に行くように。その際、背の高い大林さんは、後ろの人が見づらくなることを考慮し、自分の席とその後ろ2列の席も買うという噂が広まっていたそうです。この噂について大林さんは、「2列は買わない!笑」と否定しつつも、最終的には一番後ろの立見席で観ることにしていたと、真相を教えてくださいました。
また、大林さんがNGKに通っていた20年前は、若手お笑いブームでチケットが全然取れなかった時代。大林さんは、中田カウス師匠の計らいで、本来は若手芸人が先輩のステージを間近で勉強するためのスペースである下手の舞台袖でライブを観させてもらったこともあったそうです。また、公演の合間には吉本興業のオフィスで休憩させてもらったり、吉本社員の方と行動を共にしていたことも多く、「(バレーボールの現役引退後)本当は吉本に入りたかったです。」と振り返るほど!笑
大林さんの、お笑い愛はホンモノですね!

お笑いにハマったきっかけはドリフターズ。ドリフ世代で、子供の頃からお笑いが大好きでした。ドリフの観覧にも行ったことがあるそうですが、バレーを始めると状況が一変。練習や試合で忙しく、就寝前の1時間だけテレビを見て気分転換するという日々を送ることに。その限られた時間で、お笑いを見るとリフレッシュでき、気持ちが楽になったと当時を振り返ります。大林さんにとって、お笑いは“オアシス的存在”だったのです。

 

 

~バレーボールの道へ~

“お笑い好き”の一面がありつつも、大林さんと言えば、やはり元バレーボール日本代表の絶対的エース!ここからは、大林さんの選手人生を振り返っていきます。
大林さんがバレーボールと出会ったのは中学1年生の時のこと。幼少期はアイドルに憧れていましたが、小学6年生で身長がすでに170cmあり、周りに比べて背が高かったため、いじめに遭い、引きこもっていた時期がありました。そんな中、TVアニメ『アタックNo.1』を見て、背が高い方が有利なバレーボールに興味を持ちます。


(幼少期の大林さん!)

そしてバレーボールを始めますが、元々運動をしていなかったこともあり、周りに付いていけず、練習をサボってばかりだったと言います。しかし、全員が試合に出るタイミングがあり、大林さんも出場。試合はボコボコにやられ、ミスを連発・・・とても恥ずかしい思いをしました。この試合について、「監督があえてサボっていた私を出したんですよ。」と回想し、嫌になって辞めてしまう可能性もあるなか、監督は一か八かでやる気にさせる賭けに出たのでは…と話します。その結果、悔しさをバネに大林さんは“もうこんな思いはしたくない、絶対上手くなってやる!”という意気込みで必死に練習に取り組むようになり、徐々に才能が開花していくのです。

 

 

~直談判~

大林さんが住んでいた東京都小平市は当時、実業団トップチーム『日立』の本拠地でした。大林さんは、山田重雄監督や中田久美さんなどが所属していたこのチームに憧れを抱き、いつしか“私も入団したい!”と思うようになります。“どうしたら入れるんだろう…?”と考えた末、大林さんは“自分を知ってもらおう!”と、山田監督にファンレターを出します。最初は選手宛に書いたそうですが、“選手宛のファンレターは1日に何百通も来るから、なかなか読んでもらえないだろう・・。でも、山田監督宛のファンレター無いんじゃないか?”ということで、監督宛てに手紙を出すことに!笑 すると、その作戦が成功し、数日後、監督から自宅に電話が掛かってきます。監督から「一度体育館にいらっしゃい。」とお誘いがあり、小平市立第二中学校バレー部員一同で日立の練習を見学させてもらうことになりました。そこで、数年後のロサンゼルス五輪で銅メダルを獲ることになる、日立在籍の江上由美さんや中田久美さんといったメンバーの練習風景を生で見ていたところ、監督から「大林さん、せっかく来たんだからついでに練習しなさい。」と、大林さんだけ練習試合に参加することになったそうです。
当時の日立は12人中10人が日本代表のメンバー。そんな豪華メンバーの中で、緊張で上手く体を動かせるわけもなく、ご自身でも“ひどい出来だった”と感じるパフォーマンスでしたが、そのメンバーの中にいるだけで嬉しく、興奮しながら有名選手とハイタッチをしていました。ただ、大林さんが空振りをしてしまった時に中田久美さんに睨まれたそうで…「あの時はすごく怖かったです。」ともおっしゃっていました。笑(のちに誤解だったことが分かるそうです)
そして、その日の帰り際、大林さんは山田監督から“大きなお土産”をもらいます。それは、「今日、大林さんのプレーを見せてもらったけど、正直まだ使えない。でも、もし君が本当にオリンピックに行きたかったら、明日から日立の練習に来なさい。そしたら次のオリンピックに出られるかもしれないよ。」という言葉。
そこから中学を卒業するまで毎日、大林さんは、中学の部活終わりに日立の練習に参加するというバレー漬けの日々を送ることで、著しい成長を遂げます。「この期間がなければ今の私は無いです。」と話す程、大林さんにとっての人生の転機となったのです。

 

 

~日本代表へ~

中学3年生の時点で179cm と、現在の川島さんと同じ程の身長だった大林さんは、バレーボールの名門・八王子実践高校へ進学。高3のときに日本代表メンバー入りを果たします!


(八王子実践高校時代の大林さん!)

そして高校卒業後の1986年、憧れの日立に入団。その後、1988年のソウル五輪、1992年のバルセロナ五輪、1996年のアトランタ五輪と3大会連続でオリンピックに出場されますが、その中で大林さんにとって思い出深い大会は、1988年のソウル五輪。
このときは4位という結果に終わり、その後の2大会(バルセロナ・アトランタ)でもメダルを獲得することは叶いませんでした。その前のロサンゼルス五輪で日本代表は銅メダルを獲っていたこともあり、“メダル獲得の歴史を途絶えさせてしまった…”という自責の念に駆られたそうです。1992年、バルセロナ五輪で5位という結果に終わった際には、“このままずっと戦っていてもメダルは獲れない…”と世界との差を痛感します。他国のメダリストは皆プロ選手ということもあり、イタリアに渡り、日本人初のプロバレーボール選手としてセリエAでプレーすることを決断。日本バレー界が、大きく動いた瞬間でした。日本人バレー選手もプロになれると証明し、オリンピックで3大会連続エースとして日の丸を背負った大林さん。日本バレー界への貢献は計り知れません!

 

 

~おしゃれ改革~

プレー以外でも、大林さんが日本のバレーボール界を変えたエピソードが!
元々、“コートではすっぴん”“髪の毛は伸ばしてはいけない、染めてはいけない”“ネイル無しが当たり前”“ジュエリー禁止”などなど、厳しくルールが決められていたバレーボール界。大林さん曰く、当時の日本代表には“チャラチャラするな”“おしゃれより戦え!”“綺麗にすることが悪”といった雰囲気があったと言います。
そんな中、大林さんは“髪の毛を高い位置で結ぶと、髪の毛がネットに触れてしまう”という理由で禁じられていたポニーテールを解禁!“『アタックNo.1』の主人公・鮎原こずえになりたい!”という思いもあり、大胆にもポニーテールにしたのだとか!これはもちろん実力があったからこそできたこと。おしゃれをして自分のモチベーションを上げ、ちゃんと結果を出すことで周りを納得させました。このことがきっかけで、バレーボールの世界に華々しい、カッコいいといったイメージが根付き、のちの日本代表チームにも影響を与えることになります。

 

 

~CDデビュー~

番組事前アンケートで伺った大林さんの『キャリアにおけるマイ大事件』は、「CDデビューできたこと」!
元々、幼少期にアイドル歌手になりたいという夢を抱いていた大林さん。身長が高いことで「お前なんか無理だ!」と言われてしまうことがあったため、長い間その夢を封印していました。選手引退後、芸能のお仕事で可能性を探りましたが、CDデビューのお話はなかなか来ず…。「結局、向こうから来ないんです。自分で行動するしかない人生なんです。」と振り返る大林さんは、2001年に自らつんく♂さんにアタック!当時“ミニモニ。”が流行っていたので、「“デカモニ。”も作ってくださいよ!」と直談判したのだとか。すると、大林さんのアイデアをもとに、4人組ユニットとしてデビューさせようというテレビ番組の企画に発展!しかし、他のメンバーは集まらず(身長175cm以上の女性を対象としたグループだったため、なかなか集まらなかったのだとか…)、結局“デカモニ。”は、事実上、大林さんのソロプロジェクトに!『大きな私の小さな恋』というタイトルでCDをリリースされました。ちなみに、ジャケット写真は大林さんが1人4役を担当されています!笑
ただ、これは1枚限りの企画。また歌いたいという思いを抱き続けていた大林さんは、ついに昨年、念願叶って山形県南陽市の『みちのくレコード』から『陽だまりダイアリー/愛する人と歩きたい』という両A面CDをリリース!こちらはデカモニ。ではなく『大林素子』名義で発売。こちらも、映画の仕事で縁ができたみちのくレコードの方に「CD出したいんです!」と直談判して実現したのだそう。大林さんにとって、ここがゴール地点というわけではなく、あくまで“夢のスタートライン”。実は第2弾もすでに決まっているそうで、今年のうちにはリリースしようとプロジェクトが進行中なのだとか!楽曲は公募によるコンペで決まるそうで、現在楽曲の応募を受け付けているそうですよ!


(昨年リリースされたCD『陽だまりダイアリー / 愛する人と歩きたい』のポスター!)

 

 

~暗黒期~

番組の事前アンケートで、『芸能界キャリアにおける暗黒期』について「今。」という回答が…。「もう私、全然売れてない。」「(テレビの仕事も)だいぶ少なくなりましたね。」とおっしゃいますが…川島さんは「それは絶対無いですよ!常に第一線というイメージ。」と言い、続けて、お笑い芸人が大喜利で大林素子さんの名前を出している場面を定期的に見ることもあって、「暗黒期は無いでしょう!」と力強く話していました。

ここで、逆に大林さんによる川島さんの分析が飛び出します!
大林さんは、川島さんはここ数年で“バラエティ番組の芸人枠”から“国民的な人”に変わり始めたと感じています。こういった分析は意識してしているわけではなく、様々なお笑い芸人を活動初期から見てきているために、その変化に敏感なのだとか。
そんな大林さんが“この子は売れないとおかしい!”と思うお笑い芸人を伺うと…「ひと通り売れてきました。」とお答えに。主に2000年代前半までにデビューしたお笑い芸人と度々飲みに行ったり、濃密な時間を過ごしてきた大林さんは、「思いを捧げてきた方々が売れましたね。」と話しますが…「残るはザ・ギースとラブレターズ」なのだとか。
2組はずっと応援している、もはや身内のような存在。実は、この収録日の夜もこの2組と大林さんの5人で飲み会が控えていて、楽しみにされていました!
この2組が羽ばたいて行ったらもう思い残すことは無く、あとはドキドキせずにお笑いを楽しみたいとおっしゃっていました。
(5人の楽しそうな様子は、大林素子さんのInstagramで確認できますよ!)

 

 

~大林素子さんのエウレカ!(発見・気付き)~

大林さんのエウレカは、「夢や目標を叶えるためには、やっぱり動いていく。」ということ。自分で行動することが大事だと言います。山田監督へのファンレター、つんく♂さんへのアプローチなど、直談判で夢を叶えてきた大林さんならではのエウレカですね!


(舞台にも度々出演される大林さん。あの蜷川幸雄さんとの2ショット!)


(歴史好きの大林さんが最近お気に入りの“土方歳三Tシャツ”がこちら!)


(土方歳三が大好きな大林さん!実は現在、土方歳三ゆかりの地・会津若松と東京の2地域移住5年目だそうで、会津若松市観光大使も務めています!)

 

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PLAYLIST
  • 「東京VICTORY」
    サザンオールスターズ
  • 「MUSIC FOR THE PEOPLE」
    V6
  • 「アタックNo.1」
    大杉久美子
  • 「熱くなれ」
    大黒摩季
  • 「愛する人と歩きたい」
    大林素子
  • 「はじまっていく たかまっていく」
    サンボマスター
  • 「デカモニ。ジャンケンぴょん!」
    デカモニ。