Yuming Chord
松任谷由実
2022.07.01.O.A
♪Onair Digest♪

今日のコードは、「Yuming 50th Anniversary Special対談」!
日本のポピュラー音楽業界を切り開いてきた小室哲哉さんと、私、松任谷由実が、タブーなし!のトークをお届けしていきます。


■今週のChordは“Yuming 50th Anniversary Special対談”

小室:どうも、小室哲哉です。今日は、もうすぐユーミンがデビュー50周年を迎えると聞きまして、お祝いに駆けつけました。おめでとうございます!

ユーミン:ありがとうございます!

小室:50年。すごいですね。

ユーミン:でも、小室さんだって、40年ぐらいでしょ?もうちょっと?

小室:そうですね。セミプロみたいな時期を入れたら、45年ぐらいになると思いますね。

ユーミン:どちらにしろ、あっという間ですよね。

小室:はい。この場所にいられるだけでも、本当に奇跡です(笑)。

ユーミン:素晴らしいです。何か、「小室さん」って言うと、私にとっては不思議なので・・・でも、「小室君」って言うのもおこがましい感じがするわけ。だから、「てっちゃん」で。

小室:コアなファンの人は「てっちゃん」って呼ぶので(笑)。

ユーミン:じゃあ、コアなファンに成り代わって(笑)。
今日は、私のデビュー、1972年7月5日、シングル「返事はいらない」という曲をリリースした日なんですけど、その頃、てっちゃんはいくつだったかな?

小室:調べると、13歳の時ですね。住んでいたのが東京の府中市なんですけど、中1だったと思います。

ユーミン:どのぐらいから音楽を作り始めたの?

小室:僕は、14歳、中学2年の頃ですね。中学2年の音楽の時間に先生から褒められたことがあって、それで、“作曲家になろうかな”と。“歌っている真ん中の人”じゃなくて、“作曲家になりたいな”と。

ユーミン:まったく同じだ。私も14歳の時に“作曲家になりたい”と思ったの。

今日は「Yuming 50th Anniversary Special対談」ということで、改めて、私からご紹介しましょう。ゲストは小室哲哉さんです。
てっちゃんとラジオでこうしてお話しするのは、この番組の前にやっていた『松任谷由実 Sweet Discovery』の2011年2月27日放送、それ以来で、直にお会いするのは11年ぶりなんですよ。あれからさらに、音楽をめぐる状況も、世界の状況もめまぐるしく変わったけど、てっちゃんご自身が、激動の人生で。それと“世の中とのリンク”というか、今、思うことはある?

小室:今から思えば、この11年間で、音楽の売り方、売れ方みたいなものがどんどん変わってきて、どんどん1曲の価値が薄まっていって。

ユーミン:そうですね。90年代は、CDがものすごく売れて、ものすごく売れなくなった。

小室:今考えると、その薄くなった分、自分も薄くなっちゃった・・・というような。

ユーミン:私の方は全然、生乾きで、ずっとあがいてるよ。

小室:でも、必ず波はあるから。

ユーミン:あのね、色々、まわりの業界の人に、「シティ・ポップの次に来るのは小室サウンドだよ」って言いまくってるの(笑)。

小室:ありがとうございます(笑)。

ユーミン:でも本当に、あのダンサブルな感じというのが、(今の時代に)欲しい。

小室:今、「シティポップをサンプリング」とか色々言われていますけど、あの頃の方たちは、本当に楽器が上手いですからね。そこが長持ちする秘訣で、今、また流行ってるのかなと思います。そういう方たちに、ユーミンもトラックを作ってもらっていたでしょ?とてつもないミュージシャンの方たちに。

ユーミン:そうですね。私の歴史を紐解くと、荒井由実でデビューした3作は、キャラメル・ママ、ティン・パン・アレー系のセッションだったんだけれど、『14番目の月』という4枚目のアルバムから、ミュージシャンがガラッと変わったんですよ。初めてLAからミュージシャンを日本に呼んで、リーランド・スカラーという人と、マイク・ベアードという人が来て、あとは日本のミュージシャンで、違うセッションで録ったんだけど、「これがあったから今の私があるな」っていう、すごく貴重なアルバムとして、今、自分で認識してます。
私は、この『14番目の月』のアナログ盤の帯に、自分でキャッチコピーを書いたんですけど、それが「郊外(Suburb)の風と光をあなたに贈ります」っていうのだったの。

小室:素敵ですね。「府中市をこんなに素敵に描いていただいてありがとうございます」という感じで、ちょっと聴いてみたいと思うんですけど、いいですか?

ユーミン:お願いします!

小室:荒井由美さんで、「中央フリーウェイ」。


m2 中央フリーウェイ
荒井 由実

ユーミン:『Yuming Chord』、今日のゲスト、小室哲哉さんが選んでくれた私の曲、1976年11月リリースのアルバム『14番目の月』から「中央フリーウェイ」をお送りしています。
この曲は後に知られるようになるんだけど、私の場合はずっとアルバム・アーティストという形でやってきて、シングルはそんなに出してないんですよ。「ヒット曲」って、後で言ってもらう曲が多くて。
小室さんは、もろ“ヒットメーカー”として90年代を駆け抜けたわけじゃないですか。その時、(ヒットメーカーであることに対する)意義とか、思った?

小室:もともとTM NETWORKはグループなんですけど、一応、ジャケットとかにも必ず「Produced by Tetsuya Komuro」みたいに書かせてもらっていたんですけど、憧れていたのが、洋楽でも、プロデューサーだったんですよね。
トッド・ラングレンとか、トレヴァー・ホーンとか、プロデューサーに憧れていたので、どこかで一度、ちょっとグループをお休みして、プロデュース業に専念したいと思って、90年代の頭から(徐々にプロデュース業に活動をシフトして)、94年に完全にお休みさせてもらって、「プロデュース業に専念しよう」っていう感じになったんですけれども、とある番組で、「小室君、いるんだったら出なきゃダメだよ」とか言われて、いきなり生で出させられたんですよ。そこからまた崩壊してしまったんです。

ユーミン:“プロデュースの人”から?

小室:“ほぼ、オン・ステージからオフ・ステージの人になった”って勝手に思ってたのが、また引き戻されて、オン・ステージになってしまって。で、そこから両方やらなきゃならなくなって。

ユーミン:でも、両方やることで、その「プロデューサー」という立場が脚光を浴びるようになるわけじゃないですか。てっちゃんの功績です。

小室:“仕上げることの責任”っていうのもあって。ただ曲を作って「はい、あとお願いね」とか、歌詞も「これ書いたからお願いね」でよかったものが、プロデューサーは頭から終わりまで、仕上がり、納品まで全部1人で見てなきゃいけなかったりする。“全方位見てなきゃいけない”っていうことの恐ろしさというか・・・当たり前にやってましたけど、すごい量はやってましたね。

ユーミン:J-POPにダンスミュージックを持ち込んで大衆化したのが「小室サウンド」と言えると思うんだけど。

小室:その前に、ユーミンのアルバムは、毎回リリースされる直前まで、テレビとかラジオとか街中とかいろんなところでプロモーションが展開されて、“アルバムなんだけど、すごい商品を売るんだな”という感じの現象を見ていて。
その(大々的なプロモーションの)結果として、例えば「ユーミンだったら必ずミリオン(100万枚)を達成しなければいけない」という使命がある、というか・・・。

ユーミン:「アルバムアーティストだ」っていう誇りを持って、「クオリティーを落とさないぞ!」というところにしがみついてましたね(笑)。“しがみつく”というか、作る時は楽しいんだけど、いったん外に出て行くと、風圧はすごく受けますよね。てっちゃんも、“風圧対象”じゃん(笑)。

小室:まあ、そうですね。風に乗っているのかなと思いきや全然違っていて、“竜巻に巻き込まれる”みたいな感じになっていたので、何も逆らえなかったですね。
「春よ、来い」だったかな?ミリオンいきましたよね。

ユーミン:そうですね。数字的には、1回下がりかかった時に、高推移のところで再ブレイクした、みたいな時期ですね。

小室:あれも、良いミリオンの出方だな、と。すごく素敵な上がり方だったことを覚えています。
僕も、何曲かそういう“良い上がり方”をした曲があるんですけど。

ユーミン:ユーミン:てっちゃんの場合は、さまざまな人がいて、それぞれがヒットするわけじゃないですか。ご自身がパフォーマンスをするという形じゃなくても、そういう“良い売れ方”というのは、プロデューサーとして、手応えを感じていた?

小室:感じていました。夏休みに、子供向けのアニメの映画の主題歌を作って、それは(歌ったのは)篠原涼子さんだったんですけど、みんな映画を観て、エンドロールまで聴き終わったら、帰りにパパやママに「(CDを)買って」って言って、買っていってくれて。
初回の枚数が2万〜3万枚ぐらいだったんですけど、それが子供たちのおかげで最終的に1位になって、200万枚までいった、という。
僕はそれが一番嬉しい売れ方のスタイルでしたね。アメリカっぽいというか、ビルボードっぽいというか(笑)。

ユーミン:私が初めててっちゃんのサウンドに逢って衝撃だったのは、用賀中町通りの大きいTSUTAYAに行ったら、「BOY MEETS GIRL」がかかってたんですよ。“なんだ、これは!”と思って。

小室:どこをそう思ったんですか?

ユーミン:あのね、「どこが」って言えないところが、やっぱりヒット曲のマジックですね。


m3 BOY MEETS GIRL
trf

ユーミン:『Yuming Chord』、お送りしているのは、私が選んだ、衝撃のてっちゃんサウンド、小室さんの1曲、「BOY MEETS GIRL」。
実は私、プライベートで、ディズニーワールドとキーウエストの方に旅をしたの。で、マイアミに寄ったんです。そうしたら、スタジオとホテル付きのカフェみたいなところで、ちょっと昼休憩していたら、「今、このスタジオに日本のアーティストがずっと泊まって使ってるよ。見ていかない?」って言われて。でも、ちょうどその人はご飯に行っちゃったところだって言うので(会えなかったけれど)、それが小室さんだったんですよ。覚えがあるでしょ?マイアミのスタジオ。

小室:そうですね。「日本の人が訪ねて来ていたよ」っていうのは聞きましたね。

ユーミン:“すごいな、こういうところで研究をしているんだ”って。

小室:マイアミ・サウンド・マシーンの方たちを使っていたんですよ。その頃からアメリカに住み始めていたというのもあったんですけど。

ユーミン:でも、大ブレイク前ですよね。だから、ここで色々、ジャングルとか(音楽の)研究をしてたんだなって。

小室:そうですね。“グルーヴ感”ですかね。ユーミンの音も、初期の頃からずっとすごいミュージシャンの方が演奏されているので、やっぱりグルーヴが、今聴いても、どれもすごく良いんですよね。

ユーミン:ありがとうございます。
7月5日、私のデビュー50周年メモリアルデー直前ということで、お忙しい中お祝いに駆けつけてくださった小室さん、今日は“てっちゃん”と改めて話をして、50年からさらに先へ、歩みを止めずに音楽を作り続ける決意を新たにしました。

小室:ありがとうございます。


今日は「Yuming 50th Anniversary Special対談」として、小室哲哉さんをお迎えしてお届けしてきました。
2人にしかわからない領域の話にも触れましたし、11年前に直接会った時よりも、さらに“悟りが開けている”というか。
同業者でも、他のジャンルの先人でも、あんな感じの人には会ったことがないなぁ。何かね、あの柔和さ・・・柔和であり、でも、とっても刺激的なひと時でした。

そして来週も引き続き、小室さんと共に、音楽への愛全開のトークをお送りしていきます。ぜひ、聴いてくださいね。

そして、いよいよ残すところあと3公演となった、『松任谷由実コンサートツアー“深海の街”』。
来週、7月5日火曜日、私のデビュー日・当日は姫路公演があって、8日金曜・9日土曜の神戸公演2Daysをもって、千秋楽を迎えることになります。

最後まで無事に、唯一無二のステージをお届けできるよう、万全の体制を整えて、みなさまをお待ちしています!
なお、新型コロナウィルスの感染状況をふまえて、スケジュールほか、最新の情報を随時、アップデートしていきますので、公式サイトで確認してみてください。

そのほか、私の最新情報や近況は、私の公式ホームページツイッターインスタグラムなどでお知らせしています。
ぜひ、チェックしてみてくださいね。
私の公式ホームページには、「Yuming 50th Anniversary Specialサイト」もオープンしていますので、そちらへもぜひ、アクセスしてみてくださいね。



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