「ことば」に魅せられた幼少期、そして大好きな先生との出会い
歌集『サラダ記念日』で社会現象を巻き起こした歌人の俵万智さん。今回は、俵さんの原点ともいえる幼少期から、短歌との出会いについて伺いました。
◆ 本好きだった少女時代と物理学者の父
「子供の頃は、今とあまり変わらず、本が好きで運動が苦手な少女でした。近所にたくさんの本を持っているおばさんがいて、その家に入り浸っては毎日のように本を借りて読んでるような子供でした」と語る俵さん。
お父様は世界で(当時)一番強い磁石の発明者でもあった物理学者。「父のおかげで勉強がとても好きな子供になった」と俵さんは語ります。夜遅くまで机に向かうお父様の背中を見て育ち、「子供はいいなあ、好きなだけ勉強ができて」というお父様の一言が、勉強は素敵なことなのだと教えてくれたんだそう。
テストで100点を取ると「100点か。100点というのは自分が知ってることしかテストに出なかったっていうことだから、そんなにお父さん嬉しくないな」と言われたことも。この言葉のおかげで、90点や80点でも「自分のまだ理解できてないことがそこで見つけられるんだから」と前向きに考えられるようになったそうです。
◆ 14歳の転機、言葉への意識
俵さんにとって第一の人生の転換期は14歳の時。お父様の仕事の都合で、生まれ育った大阪から福井に転校された琴でした。そこで初めて自分が大阪弁を喋っていることに気づき、友達を作るために福井弁を話すことの大切さを感じたのだとか。
「言葉っていうのは人と人とを結びつける本当最初の一歩が言葉なんだなっていうのを感じて、言葉に対する興味とか関心が強く芽生えた」と、振り返ります。
◆ 渡邉先生との出会いと短歌クラブ
高校時代、国語の教師、渡邉先生のことが大好きだった俵さんは、先生が主催する短歌クラブに入部。ですが、当時から恋の歌など思いが溢れる歌ばかり作っていた俵さんに、先生は「向いてないんじゃないかな」と一言。
それでも、友達の短歌を読んで「これはこういう歌じゃないか」と批評するのは上手だと褒められたのが嬉しかったのだとか。
◆ 佐々木幸綱先生との出会い、そして「心の音楽」
早稲田大学に進学した俵さんは、恩師の佐々木幸綱先生と出会い、その作品に大きな影響を受けます。
「滑らかな肌だったっけ若草の妻と決めてたかもしれぬ」
佐々木先生のこの歌に出会い、「現代短歌ってこんな風にこう今を生きてる表現手段なんだ」と改めて知り、意識的に短歌を作り始めたそう。
卒業後、『サラダ記念日』が社会現象となり、少し戸惑っていた俵さんに、佐々木先生が送ってくれた「君は心の音楽を聴くことができる人だから、何があっても大丈夫」という言葉は、自分自身の内面と向き合う大切さを教え、大きな支えになったとお話しくださいました。
来週は、『サラダ記念日』出版当時のお話、伺います。