アシタのアタシきつね

第8話

「瑠美子より」

ふぅと溜息ついてあたしは、黒の水性ペンのキャップを閉める。
カチッと乾いた音を確認して、薄汚れた机に放ると、
書いた手紙を綺麗に三つ折にし、汚れぬように封筒の中に入れた。
あとは、あのボックスに入れて、蓋をして、椅子に座って腕を組み、
ボックスをジッと見つめる。
水色と青とが等間隔で並んだ模様で、淵には丸みを帯びた鉄が施されている箱。
雑貨屋やホームセンターに行けば、どこでも手に入るような箱だ。
でもそれは、あたしにとっては命と同じくらい大切な大切な「宝箱」。

何故なら、これは「尚人」が「あたし」にくれた唯一の贈り物。

そう、「贈り物」なのだ。
「プレゼント」などという安っぽい響きは似合わない。
箱を静かにそっと撫でると、またもやサラリと乾いた音を立てる。
この箱は、「尚人」でも「瑠美子」でもないけれど、間違いなく二人の心の断片が入っている。
その心の断片は、写真や手紙や品物として「形の有る物」として、箱の中で静かに息づいているのだ。
心でありながら、こうして形取っているのである。

人間は、「身体」と「魂」で出来ていると、あたしは思う。
身体とは、魂の入れ物であり、魂を縛りつける監獄だと感じる。
「死ぬ」ということは、その呪縛から解き放たれることなのだ。
私たちは肉体を持つことで、「痛み」「苦しみ」、そして「制限」される。
肉体には、限界があるのだ。
だから、魂が肉体を捨てたとき、初めて「自由」になれる。
あたしは「死」と云うのは、「進化」なのだと思う。
しかし人間という生き物は「死」を恐れ、そして絶対的に訪れる、その平等なものから逃げようと必死になる。
ただ彼らは「死への恐怖」を錯覚している。
「死」が恐ろしいのではない。
「死ぬ過程」が恐ろしいのだ。
死ぬ直前、肉体は魂を繋ぎとめようと必死に痛みを起こす。
喘ぎ、もがき、引きつり、絶望し、懇願し、死に至る。
本当は死の直前の状態が、恐ろしいのだ。
でも、それを通り越せば肉体から解き放たれ「魂」だけの純粋な存在となる。
天国や地獄といったような、此処とは別の世界に逝く。

……そうでも思わなければ、あたしは、死を恐れて逃げ出しているだろう。

尚人は、新しい世界に逝ったのだ。
無くなった訳じゃない、虚無に還った訳じゃない。
そんな風に思わないと正気ではいられない。

あたしも、新しい世界に逝くんだ。

死ぬことは、少し怖いけれど、あたしはこの世界に居たくはないのだ。
尚人の居ない、この世界に。
狂おしい程の愛が、あたしを「死」へといざなうのである。

瑠璃と一緒に。

一年前から、ずっと考えていたことだ。
あたしは、瑠璃と一緒に死に、新しい世界に旅立つ。
何故なら、瑠璃はあなたとあたしの、「二人」の心の断片、愛の形、その結晶だから。
この箱とは、形が少し違うけれど、それは「物」か「者」の違いであって、
二人の心の断片であることに変わりはない。

だから、連れていこうと思っていた。
そう。
つい、さっきまでは。

あたしは、部屋の隅に置かれた姿見に自らを映す。
疲れきった身体の内に、瑠璃の面影を見る……いや瑠璃に、あたしの面影を見る。
よく見ると、ぱっちりとした目と長い上睫毛は、あたしにそっくりだ。
そして、口元と耳は、尚人にそっくり。
あたしの壊れて錆びた脳内に、瑠璃の顔がくっきりと浮かんで、寂しくなる。
自分から瑠璃を追い出しておいて、なんて馬鹿なんだろう。
行動も、言動も、厚化粧の顔も、白々しい演技も、本当に惨めだ。

「出てけっ!独りで生きてみろ!!帰ってくんな!!!」

飲み屋勤めなのに、ビールやチューハイなんかで酔えるもんか。
本当に、悲しくて虚しい演技。
それでも、瑠璃は騙され、あの夜の闇の中に出て行ってくれたのだ。
その時のあたしは、安堵と共に寂しさが、胸の内からさざなみのように込み上げて、喉元にせりあがってくるが、涙は、もう流れなかった。

独りで生きてみろ!!

瑠璃は生きて欲しいと心の底から思うあたしは、なんだか酷く矛盾していて、
可笑しくて、それでいて自分が「母性」を持っていたことに驚く。
一年も前からの決意は、一体どこに消失してしまったのだろうか?
鏡の中の自分の口元が、少し上がって馬鹿らしくなる。
きっかけは、そう。

あのワンピース。

瑠璃を身ごもる少し前まで着ていた、あの白いワンピース。
今着るには遅れているから、部屋着として、ちょっと前に瑠璃にあげた服である。
そして、買い物から帰ったあたしを出迎えに来た瑠璃を見て、あたしは驚いた。
正直、本当に正直。

「美しい」と思ってしまった。
瑠璃の中に、あたしの影を見た。

そこから、あたしの固かったはずの決意は歪み始め、「これでいいの?」と疑問を持つ。
その歪みを割れ目に変えたのは、「尚人」。
死んだはずのあんただったんだ。

瑠璃が持ち出した写真の中のあんたは、楽しそうに笑って中指を立てていた。
その時、聞こえたんだよ、あんたの声が。

「瑠璃に手出すんじゃねぇ」

って。
あたしは、思わず写真を落としてしまった。
そうよ、あたしは……あたしは……。

瑠璃の中にいるあんたを感じずにはいられなかった。

瑠璃には、あんたとあたしの血が流れ、あんたとあたしに似た顔立ちで、あんたとあたしそっくりな性格して、あんたとあたしの愛が詰まっていた。

あんたとあたしの瑠璃を壊すことは、あたしには出来ない。
もし、あたしがあんたのところへ瑠璃と逝っても、あんたは、この写真みたいには
笑ってくれないだろう。
そのとき、あたしの世界はピシピシと音を立てて裂け始めた。

瑠璃を殺すことは、あんたとの愛を壊すことだ。

そして、「瑠璃と一緒に死ぬ」という一年かけて築いた計画は、
「計画」として幕を閉じた――。

「そう、じゃぁ瑠璃ちゃんは巻き込まないことにしたのね?」
若山恵美は、あたしの唯一の理解者である。
恵美は、同僚で7歳年上ではあるが、気の合う親友である。
大きな息子が二人居て、夫とは下の子が生まれる前に離婚したらしい。
やはり子どもが二人もいると、経済的に苦しいのだろう。
夜はスナックで、昼間は工場で働いている。
あたしには仕事を掛け持ちするほどの体力がないので、恵美は凄いと常々感じる。
また、あたしの気持ちをよく解ってくれるし、否定もしないので、
相談は恵美に限るのだ。

そして恵美は、あたしが死ぬことに対して、賛成も反対もしなかった。
ただ、瑠璃に対しては柔らかくではあるが反論した。

「恵美にお願いがあるの」
電話線をくるくるといじりながら、あたしは言った。
「やっぱ瑠璃には、生きて欲しいから」
「そう。私に出来ることは少ないけれど、なんとかするわ」
恵美の声は淡々としていて無機質で、今何を思っているのか解らない。
「ありがとう」
あたしは、小さく呟く。
「いいわよ、上の息子はもう一人暮らしを始めたし、下のも勝手にやってるから」
「ありがとう」
あたしは、そう云うしかなかった。
「貴方は、死ぬの?」
「生きてるなんて、辛いだけだから」
「そう。寂しくなるわね」


少しだけ話して、さよならをして電話を切る。
たった2分38秒のこと。
しかしながら、恵美には感謝しなければいけない。
瑠璃が生きていく以上、金は必然的に掛かるし、迷惑だって掛かってしまう。

でも、あたしは「死ぬ」のである。

無責任だと思う。
母親を放棄し、世界を放棄し、自分を放棄して悔い改めることのない自分。
瑠璃の為に生きたなどと言い訳をしたくなる自分。
あの人を追って、新しい世界に旅立つのと嬉々として語る自分。
情けなくて、無価値で、惨めで、最悪な変人。
ムキになりかけて、馬鹿みたいに瑠璃に「変人」と叫んだ自分が一番の変人だ。
それでも、そう思っていても、あの人が居ない今日には耐えられない。
明日、のうのうと生きている自分が許せない。
誰になんと罵られようが、あたしはこの身体を捨てる以外、解決方法はないと思う。

だから、あたしは「死ぬ」のである。

あたしは、食べ終わった惣菜のパックや缶を片付けて、キッチンへ向かう。
机に置きっぱなしだった電話の子機を、充電ホルダーに置く。
ねぇ瑠璃、電話汚いんだけど。
あたしは、溜息混じりに微笑む。
黒くて、滑らかな電話に何かを拭いた白い線が走ってる。
「拭くならちゃんと綺麗に拭きなさいよ」
自然と声が出て、ほとんど物のない冷めた部屋に響く。
しかし、この深い夜に包み込まれた家の中に瑠璃は居ない。
あたしは、白い線を丁寧に袖で拭いながら思う。
あの子、電話する人なんて居たんだ。
彼氏かしら、友達かしらなんて母親らしいことを考える。

瑠璃、幸せになってね。

出来れば、お父さん……尚人みたいな馬鹿がいいわよ。
とても扱いやすいから。
人は靴に性格が出るわ、あんたの年頃の子は特に。
ちゃんと見極めなさい。

瑠璃、あんたは「アロエ」みたいだったわね。
手紙にも書いたけれど、あんたってホントとげとげしてる。
すごく不器用で、上手く人と付き合えないとげとげ。
でもね。
アロエって美味しいよね。
しかも身体に良いの。
胃腸にも良いし、傷や火傷だって治してくれる。
中身は、いいヤツなのよ、アロエって。
ほんと、瑠璃みたいね。
あ、妊娠中は食べちゃ駄目みたいよ。

隣に姿は無いけれど、いつだって心の中には尚人と瑠璃とあたしが手を繋いで笑ってる。
それだけで充分。
あたしには、瑠璃の命を刈り取る資格なんか無い。
確かに、一緒に逝きたかったけれど、もう寂しくなんかないわ。
だって、尚人に逢えるもの。

瑠璃、生きなさい。

瑠璃が生きる道は、整えた。
瑠璃が死ぬ道は、閉ざした。
あたし、もう思い残すことなどない。

さようなら。
また逢えるといいね。

あたしは、キッチンの戸棚から包丁を取り出す。
これまた、どこにでもある家庭用包丁。
瑠璃が研いだのか、皮肉にも刃の状態はすこぶる良い。
鈍い銀色が蛍光灯に反射して光る。
そして、あたしはリビングに移動する。

すぅと深呼吸をして、目を閉じると途端に視界は真っ暗になる。
そんな当たり前のこと解っていたはずなのに、どうしてか手がカタカタと震える。
あぁ、今あたし、死ぬのを恐れている。
それでも包丁は、ゆっくりと胸へと進み、服の上からやんわりと感じることが出来る。
さぁ、逝こう。

ふっと息を吐いて、いっきに胸に突き刺す。

鋭い痛み。
       身体を駆ける。
   痛い。
倒れる。
     頭に衝撃。
吐血。
     痛い。
         助けて。
 瑠璃。 
         尚人。

白い天井が見える。
飛び散った血が見える。
尚人が見える。
どうして困った顔をしてるの?
あ、前に書いた手紙、机の上に置きっぱなしだ。
ごめん、瑠璃。人のことおっちょこちょいなんて言えないね。
尚人。
尚人。
やっと逢えた。
体中の空気がふわりと抜けて、痛みがなくなって、力がなくなる。
世界もなくなる、離脱する。
あたり一面ぼんやりぼやけて、全てにさよならする。

ねぇ、尚人。
世界って真っ白なんだね。

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第8話アシタのアタシ

蒼き賞
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