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ON AIR BLOG / 2017.07.19 update


今日のトピックスは「ノーベル平和賞作家、劉暁波(りゅう・ぎょうは)さんについて」 毎日新聞 外信部デスク、堀山明子さんに解説していただきました。

Q:ノーベル平和賞を受賞した中国人の作家、劉暁波(りゅう・ぎょうは)さんが13日、死去したことが国際的に波紋を呼んでいます。61歳だったそうですが、死亡した経緯やその後の処遇について、中国政府の対応に問題があったという声が相次いでいるようですが、何があったのですか。
A:劉さんは、中国民主化運動の象徴的なリーダーでした。2008年には中国共産党の一党支配を批判し、憲法改正や選挙による民主体制の実現を求める「08(れいはち)憲章」の起草を主導したことが国家政権転覆扇動罪にあたるとして、2010年2月に懲役11年の刑が確定し、投獄されました。その年にノーベル平和賞を受賞し、授賞式には獄中から「私を言論弾圧の最後の犠牲者にしてほしい」とメッセージを送りました。

問題となっているのは、まず獄中での処遇です。5月31日の定期健康診断で異常が見つかり、肝臓がんの全身転移が確認されました。末期がんになるまで放置されていたのではないかという疑問です。病院に移された後、ドイツやアメリカなどが治療の受け入れを表明しましたが、中国政府は出国を許可しませんでした。亡くなった後、わずか2日後に火葬され、海に散骨されました。これに対し、劉暁波さんの支援者は、遺族はかつて住んでいた北京に遺体を戻すことを希望していたと主張しています。


Q:どうしてそんなに早く散骨したのですか? 中国政府は遺族の意向を無視して勝手に動いたのですか。
A:中国政府は遺族の意向に沿って、火葬・散骨したと、記者会見をして発表しました。また、葬儀の様子を撮影した写真を外国メディアに公開もしました。丁重に弔ったことを伝えようとしたのだと思います。写真には、妻の劉霞さんも確かに葬儀に参列している姿が映っていました。ただ、やつれはてていて、火葬や散骨を本当に望んでいたのか、ネット上ではかえって疑問視する声が広がりました。北京に遺体が戻され墓を建てられたら、そこが民主化運動の聖地になる可能性があるので、中国政府は散骨を急いだのではないかという見方が出ています。葬儀の後、劉暁波さんの兄が記者会見し、散骨を希望したと語りましたが、会見の場に妻は同席しませんでした。心身ともに弱っていて出席できなかったということです。

Q:本当のところは劉霞さんに聞かないと分からないのに、それができなくて世界中がもどかしい思いでいるということなのですね。そこまで追い詰められる前に、夫婦で中国を出国するという道はなかったのでしょうか。
A:劉暁波さんは、中国の民主化を求めた1989年の天安門事件の際、当時はアメリカで客員教授をしていたのですが、わざわざ帰国して運動に参加し、逮捕されました。その頃、多くの活動仲間は海外に亡命しましたが、劉暁波さんは中国国内で戦うことを選んだ数少ない活動家の一人です。2007年にBBCのインタビューに、中国にとどまる理由について次のように答えています。 
「中国の改革、自由な中国に向って進むプロセスは、長く曲折した道なのだと私は常に考えてきた。多くの運動が失敗に終わっても、あちこちから湧き上がる民間の自発的な覚醒は、弾圧で抑え込めるものではない。あらゆる分野において、積み重ねる段階というものがあり、蓄積されてひとたび臨界点に達すれば、それが中国の体制のある部分を変革することになる」つまり、海外からの圧力ではなく、中国国内の市民の変革の力を信じていたのです。だから弾圧され続けても、臨界点に導く一人の民として身を投じることを選んだのだと思います。


Q:最後の言葉は伝えられているのですか?
A:妻の劉霞さんに「幸せに暮らしてほしい」と言ったそうです。最後まで当局の監視下に置かれていたので、民主化への明確なメッセージは言える状況になかったと考えられます。劉霞さんは、劉暁波さんのがんが見つかる前から体調を崩し、夫婦で出国することを望んでいて、生前に劉暁波さんも妻の病気治療のために中国を離れることに同意していたそうです。「幸せに暮らして」の意味は、中国から出ていいよ、というメッセージだったとも考えられます。今後は劉霞さんの出国を中国政府が認めるかどうかに、国際社会の関心が移っています。


道半ばでこの世を去った劉さん。最後はどんな思いで逝ったのか。 *おとなり中国は世界第2位の経済大国。と同時に日本とは大きく違う、共産党主導の社会主義国でもある、ということも こういうニュースを聞くと改めて思い知らされます。

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