挫折した杉山愛さんを立ち直らせた母の一言(2018/01/06 放送)
2018年最初の放送は、元プロテニスプレイヤーの杉山愛さんをお迎えしました。
1975年生まれの杉山さん。テニスを始めたのは4才の時だったそうです。
「いろいろスポーツがすごく好きな子供だったので、体操教室行ったり、10ヶ月ぐらいの時に“親子でスイミング”に行ったり…それは私、記憶にないんですけど(笑)…あとはフィギアスケートとかクラシックバレエとか、綺麗なコスチュームに魅せられて、やりたいなと思ってやらせてもらったんですけど、やっぱり一番テニスが楽しかったんですね。もっとやりたい!ってなっていって」
「小学校2年生の時にたまたま本格的なテニス・アカデミーが、家から車で15分ぐらいのところにできまして。そこに通うと同時に、ほぼ毎日、学校終わりに3時間から4時間ぐらいの練習量を費やすようになって…」「小学生から高校生まで100人近い子たちがいる中でやってたんですけども、私の中ではそこに遊びに行く感覚でやってたので、毎日楽しかったですね」
順調に実力を伸ばしていった杉山さんは、13才の時に初めて全国大会で優勝し、15才で日本人初となる世界ジュニア・ランキング1位に。
「13才で全国大会で優勝することによってナショナル・チーム入りさせてもらって、そこから海外遠征が始まったんですね。で、海外の国際大会にどんどん出場して。で、勝っていったりしてあれよあれよという間にランキングが上がっていった、っていう印象だったので、特に15才で1番になってもあまり実感が沸かないといいますか、当時はそんなに、よし1番取ったぞ!っていう達成感はなかったですね」
「15才の時の海外の選手を見てみると、フランスのメアリー・ピアス(マリー・ピエルス)という選手とか、ブルガリアのマグダレナ・マレーバっていう選手がいて、彼女たちはジュニアをやらずに一般の方に出てプロで活躍してたんですよ。なので、そういうのを知ってると、ランキング上1位なんだけど実質ナンバーワンじゃないな、っていう感がけこうあったので。じゃあ私もジュニアはもう卒業して一般に行こう!っていうような感じで、すぐに頭は切り替えてましたね」
そして、17才、高校2年生の時にプロになることを宣言した杉山さん。その頃、大会への出場手続きなどはすべてお母様がやってくれていたとか。
「当時は今のように情報が溢れてなかったので、直接トーナメント・ディレクターに連絡をとって、エントリーとかもファックスで送ったりする時代でしたので、今とは全然違うんですよね。それも母が全部やってくれました。ホントに大きな存在でしたね」
プロ生活の前半はとにかく楽しくて、若さの勢いで行けたという杉山さんですが、8年が経った25才の時に大きな挫折を経験したそうです。
1975年生まれの杉山さん。テニスを始めたのは4才の時だったそうです。
「いろいろスポーツがすごく好きな子供だったので、体操教室行ったり、10ヶ月ぐらいの時に“親子でスイミング”に行ったり…それは私、記憶にないんですけど(笑)…あとはフィギアスケートとかクラシックバレエとか、綺麗なコスチュームに魅せられて、やりたいなと思ってやらせてもらったんですけど、やっぱり一番テニスが楽しかったんですね。もっとやりたい!ってなっていって」
「小学校2年生の時にたまたま本格的なテニス・アカデミーが、家から車で15分ぐらいのところにできまして。そこに通うと同時に、ほぼ毎日、学校終わりに3時間から4時間ぐらいの練習量を費やすようになって…」「小学生から高校生まで100人近い子たちがいる中でやってたんですけども、私の中ではそこに遊びに行く感覚でやってたので、毎日楽しかったですね」
順調に実力を伸ばしていった杉山さんは、13才の時に初めて全国大会で優勝し、15才で日本人初となる世界ジュニア・ランキング1位に。
「13才で全国大会で優勝することによってナショナル・チーム入りさせてもらって、そこから海外遠征が始まったんですね。で、海外の国際大会にどんどん出場して。で、勝っていったりしてあれよあれよという間にランキングが上がっていった、っていう印象だったので、特に15才で1番になってもあまり実感が沸かないといいますか、当時はそんなに、よし1番取ったぞ!っていう達成感はなかったですね」
「15才の時の海外の選手を見てみると、フランスのメアリー・ピアス(マリー・ピエルス)という選手とか、ブルガリアのマグダレナ・マレーバっていう選手がいて、彼女たちはジュニアをやらずに一般の方に出てプロで活躍してたんですよ。なので、そういうのを知ってると、ランキング上1位なんだけど実質ナンバーワンじゃないな、っていう感がけこうあったので。じゃあ私もジュニアはもう卒業して一般に行こう!っていうような感じで、すぐに頭は切り替えてましたね」
そして、17才、高校2年生の時にプロになることを宣言した杉山さん。その頃、大会への出場手続きなどはすべてお母様がやってくれていたとか。
「当時は今のように情報が溢れてなかったので、直接トーナメント・ディレクターに連絡をとって、エントリーとかもファックスで送ったりする時代でしたので、今とは全然違うんですよね。それも母が全部やってくれました。ホントに大きな存在でしたね」
プロ生活の前半はとにかく楽しくて、若さの勢いで行けたという杉山さんですが、8年が経った25才の時に大きな挫折を経験したそうです。
「その時は、ダブルスは世界1位も獲得した絶好調の年だったんですけども、自分のいちばん大切にしているというか、ホントにプライオリティを置いていたシングルスで絶不調に陥ってしまって…。もうテニスが嫌いになって、コートに立っていると涙が出て、結果も出ていない時期もありましたので、テニスを初めて辞めたいというふうに思ったんですね」
「ボールが飛んでくるのが怖いとか、打ち方がわからない、っていうところまでいっちゃったので、もう重症でしたね」
「当時は(シングルスとダブルスで)まったくプレースタイルが違ったんですね。ダブルスは、サーブ&ボレー、リターン&ボレーっていうネット勝負なのに対して、シングルスは、サーブをしてグラウンド・ストロークという、フォアハンドを打ったり、バックハンドを打ったりのストロークで組み立てていくという。まったく違うスタイルだったからこそ、こういうことが起きてしまったなっていうふうにも思うんですけど」
「振り返っても、自分の人生は、ダブルスで38個のタイトルに対して、シングルスは6個なので、“ダブルス・スペシャリスト”とかって海外では言われるぐらい、ダブルスが成績は良かったんですけれども、自分の中ではプライオリティは常にシングルスにあったんですね」
そして、挫折した杉山さんを立ち直らせてくれたのは、お母様だったとか。
「こんなに上手くいかないんだったらやってても意味がないと思うから辞めようと思うんだけど、っていうふうに言ったら、母が、でもここで辞めちゃったら他の何をやっても上手くいかないんじゃない?って言われて。で、さらに母が『あなたテニスやりきれたの?』って聞いたんですね、私に」
「で、その時にハッとさせられたというか、プロ、プロって口では言ってたけど、プロになりきれてなかった甘さというか、そういったものに気付かされて、やりきれたか?っていったら全然やりきれてないな、って思ったんですね。で、『やりきれてない』って言ったら、『じゃあ、やりきらなきゃ、じゃない?』って母に言われて、そうだなって」
「『でも、やりきるって決めて、頑張ろうって決めても何をやっていいのか見えないんだけど、ママには見える?』って聞いたら、母が『見えるわよ』って簡単に言ってくれて。それで、この人に見えるんだったら…ということで、母にコーチをお願いして、もうすべてゼロから作り直したという感じですね」
ちなみに、杉山さんのご両親は元々、趣味でテニスをやっていた方たちだったそうです。
「当時は聞く余裕もなかったので、引退してから『あの時何が見えたの?』って母に聞いたんですね。そしたら『あの時はあまりにもあなたらしさを失ってたから、どうやったらあなたらしさを取り戻せるかっていうのが見えてた』って。で、『あなたらしさを取り戻したらもう大丈夫って思った』って言うんですよね」「いやぁ、ホントにありがたかったですね、あの時の一言は」
来週も引き続き、杉山愛さんをお迎えします。お楽しみに!