城彰二さんが語る“マイアミの奇跡”と西野監督(2018/05/26 放送)
今週は、元プロサッカー選手の城彰二さんをお迎えしました。
1975年6月生まれで、もうすぐ43才になる城さん。子供の頃にサッカーを始めたきっかけをこう振り返ってくれました。
1975年6月生まれで、もうすぐ43才になる城さん。子供の頃にサッカーを始めたきっかけをこう振り返ってくれました。
「幼稚園から小学校4年生までずっと野球をやってたんですけど、サッカー部に人が足りなかったのと、ちょっと身長がデカかったというだけで、サッカー部の先生に誘われて。で、その時断ったんですけど、先生がユニフォームをくれたんですよ。『9番のユニフォームをお前にあげるから』って言われて、その物欲しさに『やります!』って言っちゃったんですよ(笑)。完全に流されました」
北海道出身の城さんは、中学2年生の時に名古屋の学校へ転校。
「北海道から名古屋に行ったのはサッカーが上手くなりたいということで。強豪校だったんです」「自分の意志です。自分の意志で『上手くなりたい』『北海道だったらたぶん絶対に成功しない』っていうふうに言って。そしたら親父が『じゃあ行け』ということで」
さらに、中3の時にお父様の故郷である鹿児島へ移りますが、それにはこんな裏事情があったそうです。
「もう時効だと思いますけども、中学校の義務教育の時に僕(名古屋で)ひとり暮らししてたんですよ。両親も行くと思っていたら、僕だけ行かされたんですよ(笑)。自炊もしたことない、掃除・洗濯もしたことない自分が一人で生活させられて…」
「やっぱり悪いことをすればバレますから。ちょうど2年生の夏休みの時に校長先生に呼び出しをくらいまして、強制送還ということで(笑)」
実は、城さんが名古屋に行った後に、家族は北海道から鹿児島に移っていたそうですが、当時は携帯はもちろん部屋にも電話がなく、城さんはそのことを知らなかったとか。
「だから、名古屋で航空チケットもらって『帰りなさい』って言われた時に、鹿児島っていうから『僕どこに飛ばされちゃうんだろう?』って思いながら…それで鹿児島に行きました」
城さんが鹿児島で入った加治木中学校のサッカー部は強豪だったわけではなく、当初は部員13人のうちサッカースパイクを持っているのがわずか2人だったそうです。
「そこで僕はやめようかなと。こんなんじゃ無理だなと思ったんですけども、ただ一人だけその中学校に凄い選手がいたんですよ。横山(博敏)くんっていって、彼も後にJリーガーになるんですけど、コイツとだったらできるなっていうことで、2人で切磋琢磨して…」
「で、人数をどんどん増やさないといけないということで増やして。それでホントのサッカー部が結成されて。みんな切磋琢磨しているうちに強くなっていって、最後の大会は九州大会まで行っちゃったんですよ」
「凄いチャレンジでした。ホントにゼロから始めたサッカー部がそこまで行けたというね。でも、本当にみんなも一生懸命がんばりましたし。だから、サッカーって力が集まれば大きなことを成し遂げられるんだな、って初めて感じました」「自分だけじゃないなっていうね。やっぱり周りの力も必要だし、周りと一つになることが大事だっていうのを学びましたね」
そして、高校は強豪の鹿児島実業、高校卒業後はJリーグのジェフユナイテッド市原に入団した城さん。あの前園真聖さんは高校時代の2つ上の先輩なんだそうです。
「鹿児島実業は、先輩方…前園さんとかが横浜フリューゲルスというチームに入っていたので、そっちのラインが非常に強かったんです。で、監督に『お前もフリューゲルスに行け』と言われたんですよ。でも、僕はフリューゲルスには行きたくないと。ジェフに行きたいということでジェフにお願いしました」。
城さんがジェフ市原を選んだ理由は、Jリーグのフォワードは激戦区で、フリューゲルスだとなかなか試合に出られないと思ったからだとか。
「いろいろサッカー年鑑を見ていくと、たまたまジェフのフォワードで新村さんっていう方がいて、その方が大学4年連続得点王で鳴り物入りで入ったのに、その年は2点しかとってなかったんですよ。で、それを見て『あ、自分はここでいける』と思ったんです。ホントに安易な考えです」「とにかく試合に早く出れるようなところに行きたいっていうことで」
城さんと言えば、96年のアトランタオリンピックにおいて日本代表が1対0でブラジル代表を破った、いわゆる“マイアミの奇跡”の立役者の一人です。
「あの時は僕たちも勝てると思ってませんでした。ただ、あの時の監督は今の代表監督の西野さんですから。西野さんは凄く分析をする人で、ミーティングの時に、ブラジルの弱点はないって言われたんですよ(笑)。でも、ブラジルの唯一の弱点はゴールキーパーとセンターバックの連携が悪いと。だから、そこにボールを入れられたらチャンスになるって言って、それが“マイアミの奇跡”のゴールが生まれた瞬間なんですよ」
城さんは、西野監督についてこんなこともおっしゃっていました。
「士気を上げてくれますし、しかも聞いてくれるんですよ。僕たちの意見をまずしっかりと聞いて、それを受け止めてから、じゃあ勝つためにはこうしなきゃいけない、ってことを論理建てて言われるんですよ。そうすると、僕たちも納得しちゃうんですね。じゃあこれで頑張ろうって」
では、電撃解任された前監督のハリルホジッチさんは…?
「ハリルさんはちょっと聞かなかったっぽいですね」「まぁ、実は前々からあったみたいですね。そういう選手間のコミュニケーション不足だとか、そういうのがありつつ、結局ズルズルズルズル…なかなか解任もできずに…ということだったみたいですね」
ただ、解任のタイミングについては、城さんも疑問があるようです。
「その判断がやっぱりちょっと遅かったっていうのが…協会も監督と上手くコミュニケーションをとってなかったっていうことが露呈してますからね。協会としてどういうふうに判断するのか、っていうのがちょっと後手を踏んでしまったので。だから、こういう騒動になってしまったし」
また、城さんは今後の日本代表についてこんなことをおっしゃっていました。
「私の意見としては、協会はちょっと監督に任せすぎなんですよ。なんでも監督に任せて、監督の好きなようにしてもらって、結果が出ればいいけども結果が出なければダメ、みたいな。そうじゃなくて、日本の指針を出して、それに合う監督を連れてきてやっていかないと、ちょっとこの流れは変わらないんじゃないかなと思いますけどね」
「あとは『日本ってこういう戦い方。こういうのが素晴らしい。世界に通用する部分だ。だから日本はこう戦おうね』って指針を出すと、育成してる人たちも『日本代表にはこういう選手が必要なんだ。じゃあこういうふうに子どもたちを育てよう』ってなるんですよ。これってイタリアとかスペインとか、ドイツも含めていろんなところはみんなそうなんです」
「でも、日本って4年ごとに監督のサッカーが全部変わるので、『何を育てればいいのかわからない』っていう声も出てるんですよ。だから、もっともっと日本人らしい戦い方だったり、日本の協調性だったり、助け合いだったり、そういったものを指針に出して、4年、8年かけて。それで世界と戦っていった方が、僕は経験者としていいと思います」
来週も引き続き、城彰二さんをお迎えします。お楽しみに!