プロゴルファーの丸山茂樹さんがアメリカに渡ったわけとは?(2018/07/07 放送)
今週は、プロゴルファーの丸山茂樹さんをお迎えしました。
3才からゴルフに触れていたという丸山さんが、真剣に取り組むようになったのは9才の時。ゴルフが好きだったお父様に、真剣にやりたいから誕生日プレゼントとしてフルセット買って欲しいとお願いし、そこからはゴルフに没頭して生きてきたそうです。
「地元のみんなの協力もあると思うんですよね。東京都内だと難しいとは思うんですけど、僕なんかは千葉県の市川市ってとこで育ったので、練習場も環境も凄く良かったし。練習場のオーナーの方とも父親が仲が良かったりとかして。なんか特別みなさんが思うような、贅沢なスポーツ云々…っていう感じじゃなかったですね」
「今の若手の選手とかを見てても、別にお父さんが凄い大金持ちの人ばっかりじゃないんですよ。例えば、石川遼のお父さんだって銀行マンの方だし、普通の会社員ですから。で、松山英樹のお父さんも会社員ですし。大社長の息子ばっかりが頂点を極めているわけじゃなくて。今なんかは、出だしの一歩は中古のクラブなんかも凄くいいのを売ってるし、安くもなってると思うんです。だから、ホント(お金持ちしかできないという)その印象をいい印象に変えたいなって」
ちなみに、恵さんのお父様もアマチュアながら九州オープンに出たりするほどの大のゴルフ好きで、恵さんは毎朝練習に励むお父様の姿を見て育ち、実際に自分でやってみてゴルフの難しさがわかったとか。
丸山さんが初めて大会に出たのは、ゴルフを本格的に始めてから2年後、小学校6年生の時だったそうです。
「父親にある新聞社の大会があるから行ってみないかって言われて、いやぁ自信ないなぁと思ってたら、なんと2日間終わったら44ストローク差でぶっちぎりの1位だったんですよ、私。100何十人いる中で。いや、これまさか俺って日本一上手いのかな?って、ちょっとその勘違いから始まったんです」
「で、中学に入って、佐藤さんっていう尊敬する人がいたんですね。川岸(良兼)さんの前に。その人を見た時に、いやこんなもんじゃ駄目だと。同級生以下は背中触らせないけど、あの人の背中タッチしなきゃと思ったんですよ。で、さらに努力して。その時は横から下は見なかったんです。上しか見てなかった。川岸さんと佐藤さん、この2本立てなんです。(それまで挫折は)全くないです」
高校は、ゴルフの名門として知られる日本体育大学荏原高校に進学した丸山さん。西川哲さんと伊澤利光さんという先輩2人に「お前が来たら必ず高校日本一になれるんで手伝ってくれ」と誘われて行ったそうで、実際に個人でも団体でも日本一になったとか。
丸山さんのゴルフ人生においてお父様の存在は大きかったようで、感謝の気持ちをこう語ってくれました。
「(子供の頃)親父に、お前、なんか勉強向いてないから、とりあえずこれは凄く合ってんじゃないかと。もうやめらんないんですよ。どんどん新たなことができるようになってくるから、向上してる自分がたまらなく気持ちいい」
「僕が9才、10才でゴルフを始めた時に、父親は40才ですか…ま、ある意味、親父が一番ホットな時に、毎日のように僕とずっと一緒にいてくれたわけですよ。僕が思うには、あれ?なんだろうこいつ、どんどん上手くなるな!っていうのが、お父さんも楽しかったのかって」
3才からゴルフに触れていたという丸山さんが、真剣に取り組むようになったのは9才の時。ゴルフが好きだったお父様に、真剣にやりたいから誕生日プレゼントとしてフルセット買って欲しいとお願いし、そこからはゴルフに没頭して生きてきたそうです。
「地元のみんなの協力もあると思うんですよね。東京都内だと難しいとは思うんですけど、僕なんかは千葉県の市川市ってとこで育ったので、練習場も環境も凄く良かったし。練習場のオーナーの方とも父親が仲が良かったりとかして。なんか特別みなさんが思うような、贅沢なスポーツ云々…っていう感じじゃなかったですね」
「今の若手の選手とかを見てても、別にお父さんが凄い大金持ちの人ばっかりじゃないんですよ。例えば、石川遼のお父さんだって銀行マンの方だし、普通の会社員ですから。で、松山英樹のお父さんも会社員ですし。大社長の息子ばっかりが頂点を極めているわけじゃなくて。今なんかは、出だしの一歩は中古のクラブなんかも凄くいいのを売ってるし、安くもなってると思うんです。だから、ホント(お金持ちしかできないという)その印象をいい印象に変えたいなって」
ちなみに、恵さんのお父様もアマチュアながら九州オープンに出たりするほどの大のゴルフ好きで、恵さんは毎朝練習に励むお父様の姿を見て育ち、実際に自分でやってみてゴルフの難しさがわかったとか。
丸山さんが初めて大会に出たのは、ゴルフを本格的に始めてから2年後、小学校6年生の時だったそうです。
「父親にある新聞社の大会があるから行ってみないかって言われて、いやぁ自信ないなぁと思ってたら、なんと2日間終わったら44ストローク差でぶっちぎりの1位だったんですよ、私。100何十人いる中で。いや、これまさか俺って日本一上手いのかな?って、ちょっとその勘違いから始まったんです」
「で、中学に入って、佐藤さんっていう尊敬する人がいたんですね。川岸(良兼)さんの前に。その人を見た時に、いやこんなもんじゃ駄目だと。同級生以下は背中触らせないけど、あの人の背中タッチしなきゃと思ったんですよ。で、さらに努力して。その時は横から下は見なかったんです。上しか見てなかった。川岸さんと佐藤さん、この2本立てなんです。(それまで挫折は)全くないです」
高校は、ゴルフの名門として知られる日本体育大学荏原高校に進学した丸山さん。西川哲さんと伊澤利光さんという先輩2人に「お前が来たら必ず高校日本一になれるんで手伝ってくれ」と誘われて行ったそうで、実際に個人でも団体でも日本一になったとか。
丸山さんのゴルフ人生においてお父様の存在は大きかったようで、感謝の気持ちをこう語ってくれました。
「(子供の頃)親父に、お前、なんか勉強向いてないから、とりあえずこれは凄く合ってんじゃないかと。もうやめらんないんですよ。どんどん新たなことができるようになってくるから、向上してる自分がたまらなく気持ちいい」
「僕が9才、10才でゴルフを始めた時に、父親は40才ですか…ま、ある意味、親父が一番ホットな時に、毎日のように僕とずっと一緒にいてくれたわけですよ。僕が思うには、あれ?なんだろうこいつ、どんどん上手くなるな!っていうのが、お父さんも楽しかったのかって」
「ある意味、父親がいなければ僕はここまで来れなかったかなって。仕事の時間も変えてくれて。ま、自営だったからできたっていうのもあると思うんですけど、ホントに僕に全部スケジュールを合わせてくれました」
そして、丸山さん自身も今は父親。アメリカに渡った2000年に向こうで生まれた丸山奨王(しょうおう)さんは、それ以来ずっとアメリカで育ち、ゴルフも6才の時からやっているとか。奨王さんは、今年5月にアメリカのジュニアゴルファーの賞『バイロン・ネルソン・ジュニアアワード』を受賞しましたが、この賞はゴルフの成績に加えて学業も大事なんだそうです。
「うちの奥さんは現実的な人で、僕がゴルフ1本槍で来たんで、うちの息子はそんな簡単にゴルファーになって成功するなんていう夢のような話はない、現実的に考えたらきちんと勉強もしておいた方がいいよと。それで、学業もそこそこ頑張ってきたんで」
「学業をちゃんとやって、ゴルフは二の次でいいと思ってやらしてたので、練習しろ、とかも一切ないです。教えはしました。ただ、練習量は僕の100分の1です。全然練習してないです。もう勉強が忙しくて、1週間に1回ぐらいしかクラブを持たない、そんな感じです。(頭がいいの)かもしんないですね。誰に似たんだ?みたいな。ママですね(笑)」
奨王さんはこの9月から大学に進学してゴルフ部にも入るそうですが、丸山さんは息子さんがプロになるかどうかに関してはこんなことをおっしゃっていました。
「そこの大学で4年間、どんなことがゴルフでできるか、っていうこと次第ですね。オールアメリカンっていうのがあって、全大学から12人がランキングで選ばれるんですが、この12人に4年の間で一回でも入れなかったら、ちょっとプロは考えなさいって言ったんですよ」
丸山茂樹さんご本人がプロになったのは、大学を卒業してすぐの1992年。その頃はちょうど“ジャンボ尾崎”こと尾崎将司さんの時代でした。
「ジャンボさんがちょうど僕の22才年上なんですけど、僕がデビューしたのが22才で、23才で初優勝。ジャンボさんはその45,6の時から50勝してますから。僕が日本ツアーにいた8年間っていうのはジャンボさんの背中を触るのが大変でした。みんなわかってないんですよ、ジャンボさんの凄さを。僕は尊敬してたからこそ、モノマネをしてジャンボさんの名前を…」
「僕のゴルフ人生の自慢ですよね。90年代の尾崎将司さん、90年代の後半から2000年代にかけてのタイガー・ウッズ、ここと一緒にいれたっていうのはホントに宝です」
日本では97年に年間最優秀選手賞に輝いた丸山さん。この年は4勝して1億6千万近く稼いだそうですが、それでも尾崎さんに5千万近く差をつけられていたとか。
「元々、世界に視野を置いていたことは確かなんですけども、やはり尾崎さんが強すぎて、背中を触るのがやっと。何をしたらジャンボさんより“目立てる”んだろう?と。そのためには尾崎さんが苦手なところで頑張ろうということで、海外しかないなと」
「で、98年にたまたま『プレジデンツカップ』の代表に選ばれて、そこでMVPを獲らしていただいた時に、周りが『マル、お前は絶対にアメリカツアーに来い。お前ならやれる』と。で、99年にスポット参戦で6試合に出て、シードを取れたんですよ。それが凄く自分の中でラッキーだったなって。そこが自分の人生の分岐ですよね。その分岐点に差し掛かったところで、ポンッといけたんです」
「もう丸山茂樹は日本で忘れられてもいいと。アメリカでなんとか椅子取りゲームから始めて、地道に頑張ろうと」
来週も引き続き、丸山茂樹さんをお迎えします。お楽しみに!