- 開催スケジュール
- 2014年度開催
- 2月1日 <AIR-G'(FM北海道)>
- 3月1日 <FM 新潟>
- 3月8日 <FM 沖縄>
- 2013年度開催
- 2月2日 <FM 高知>
- 2月9日 <TOKYO FM>
- 3月9日 <K-mix>
- 2012年度開催
- 1月26日 <Kiss FM KOBE>
- 2月2日 <FM 福岡>
- 2月10日 <HFM (広島FM)>
- 3月2日 <FM ぐんま>
- 3月10日 <FM 青森>
- 3月17日 <FM 福井>
- 2011年度開催
- 1月14日 <RADIO BERRY (FM 栃木)>
- 1月22日 <FM 岩手>
- 2月4日 <FM 長野>
- 2月11日 <FM 長崎>
- 3月10日 <FM 滋賀>
- 3月17日 <FM 愛媛>
- 2010年度開催
- 1月22日 <FM佐賀>
- 2月5日 <FM山口>
- 2月12日 <Radio80>
- 2月26日 <TOKYO FM>
- 3月12日 <FM青森>
- 3月21日 <FM福井>
- 2009年度(過去)開催
- 12月5日 <FM OSAKA>
- 1月17日 <FM とやま>
- 1月30日 <μFM(FM 鹿児島)>
- 2月7日 <FM 岡山>
- 2月20日 <TOKYO FM>
- 3月14日 <Boy FM(FM 山形)>
- 2008年度(過去)開催
- 2月1日 <FM山陰>
- 2月7日 <FM AICHI>
- 2月15日 <FM徳島>
- 2月22日 <TOKYO FM>
- 3月1日 <Date fm (FM仙台)>
- 3月8日 <FM大分>
- 講演会を試聴する
- 野口健 講演会(4分抜粋)を試聴できます。
- ※試聴には「Windows Media Player」でお聞きください。

-
インターネットに繋がる携帯端末でもサンプル音声を試聴可能です。
※機種によって試聴できない場合がございます。 - ※サンプル音声では氷河湖が東京ドーム13個分と話していますが、現在(2007年度発表)は32個分です。
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コラム [ 2009年度以前 ]
2009年1月28日 今年もこの時期が来たね。
先日1月21日にヒマラヤ遠征も無事終わり、各地の講演会にまた全国を駆け巡ることになりました。この時期に来ると、このコスモ アースコンシャス アクトの講演会が続くんです。2001年からの実施でしたよね?このコスモ アースコンシャス アクトでの講演会、辛いときもあったんです。

昨年の東京での講演会で
ヒマラヤから帰ってきたばっかりの時に、講演会が入っていたんだけど、急遽体調不良で入院してしまい、ドタキャンしたときもあったんです。そのときは本当に申し訳ないことをしたな〜と思い、後日体調を万全にしてからもう一度その場所に行って講演したんです。そのときの会えた人たちの優しさが本当に嬉しかった。いまもね、そのときの想いを感じながら講演に臨んでいるんです。

真剣に聴いて下さっています。
今年は6会場、この講演会以外でも講演を実施していますが、やっぱり私の活動を支援・ご理解いただいているコスモ石油を始め、各FM局の方々には本当に本当にお世話になっています。
このコスモ アースコンシャス アクトの活動でクリーン・キャンペーンin Mt.FUJIという活動がある。僕も毎年参加しているんだけど、各都道府県のFM局のパーソナリティとリスナーが一同に集まり、富士山の麓、不法投棄などのゴミを回収清掃をするんです。富士山清掃をした翌日には、富士山の本当の自然の中をトレッキングする。ここまではふつうのプログラムなんだけど、ここからFM局のパワーがあって、みなさん地元に戻るでしょう。地元に戻って番組の中で富士山で体験したことを話してくれる。それを聴いた人たちに富士山の現状が伝わって、それを繰り返していくうちに、富士山の清掃活動に日本全国から人が集まるようになったんです。これも、「富士山から日本を変える」のスローガンをもとに活動したことが、全国にいち早く広まったことはこの活動にあると言っても過言ではないと感じています。


講演会中の手振りは見所の1つです。
この講演会も、全国各地で実施していたら、毎年多くの人が聴きに来てくれるようになって、今回2月22日の東京開催が2,000人でしょう?他の6会場合計で10,000人弱の人に聞いてもらえることは、聞いていただいている人たちから私がパワーをもらっていることになるんです。それが、次のヒマラヤ遠征に繋がっていったりするんです。今年もみなさんからのパワーをもらって、4月からのヒマラヤ遠征に備えます。
鳥取・愛知・徳島・東京・仙台・大分のみなさん、ぜひ楽しみに待っていて下さい。
2009/1/28 野口健
昨年の東京での講演会で
ヒマラヤから帰ってきたばっかりの時に、講演会が入っていたんだけど、急遽体調不良で入院してしまい、ドタキャンしたときもあったんです。そのときは本当に申し訳ないことをしたな〜と思い、後日体調を万全にしてからもう一度その場所に行って講演したんです。そのときの会えた人たちの優しさが本当に嬉しかった。いまもね、そのときの想いを感じながら講演に臨んでいるんです。
真剣に聴いて下さっています。
今年は6会場、この講演会以外でも講演を実施していますが、やっぱり私の活動を支援・ご理解いただいているコスモ石油を始め、各FM局の方々には本当に本当にお世話になっています。
このコスモ アースコンシャス アクトの活動でクリーン・キャンペーンin Mt.FUJIという活動がある。僕も毎年参加しているんだけど、各都道府県のFM局のパーソナリティとリスナーが一同に集まり、富士山の麓、不法投棄などのゴミを回収清掃をするんです。富士山清掃をした翌日には、富士山の本当の自然の中をトレッキングする。ここまではふつうのプログラムなんだけど、ここからFM局のパワーがあって、みなさん地元に戻るでしょう。地元に戻って番組の中で富士山で体験したことを話してくれる。それを聴いた人たちに富士山の現状が伝わって、それを繰り返していくうちに、富士山の清掃活動に日本全国から人が集まるようになったんです。これも、「富士山から日本を変える」のスローガンをもとに活動したことが、全国にいち早く広まったことはこの活動にあると言っても過言ではないと感じています。
講演会中の手振りは見所の1つです。
この講演会も、全国各地で実施していたら、毎年多くの人が聴きに来てくれるようになって、今回2月22日の東京開催が2,000人でしょう?他の6会場合計で10,000人弱の人に聞いてもらえることは、聞いていただいている人たちから私がパワーをもらっていることになるんです。それが、次のヒマラヤ遠征に繋がっていったりするんです。今年もみなさんからのパワーをもらって、4月からのヒマラヤ遠征に備えます。
鳥取・愛知・徳島・東京・仙台・大分のみなさん、ぜひ楽しみに待っていて下さい。
2009/1/28 野口健
2009年1月27日 シェルパ基金
シェルパ基金の生徒達とのお食事会
アイランドピーク登頂が無事に終わり、カトマンズに1月16日に戻った。19日、私がやっているシェルパ基金の子供達とカトマンズ市内にて交流会を行いました!
学校が冬休みに入っているため、地方に里帰りしている子供もいるが、大半は、交流会に出席してくれた。久しぶりに元気な子供たちと再会できて嬉しかった。
金色に輝く絹はカターと呼ばれラマ教では感謝や別れの際にシェルパより頂く
みんなからネパールの国歌斉唱が行われた
カタと呼ばれている絹は、チベット仏教の習慣で、尊敬の念を示す際や、別れの際などに相手の肩にかけてその意を示すものとして知られている。
そのカタを子ども達にかけてもらえたことが嬉しく光栄でした。
わたしには15人の子供がネパールにいる。わたしが彼らの父親役です。勉強だけではなく、これからの将来について、様々なことに対し相談に乗ってあげたい。一人の女の子はまるでおたふく風邪のように頬っぺたが腫れてしまっている。もう2〜3年にも及び原因不明とのこと。心配ですが、再度検査する予定となっています。
シェルパぱ基金の子供たちですが、頬っぺたが固く腫れあがっている。原因不明ですが、2年ほど前から・・・・。
関係者に子供たちの健康状態について訪ねる
----------
どもども、野口健講演会事務局のそるとこと塩澤でございます。
このシェルパ基金ですが、野口さん、シェルパ基金と共に、マナスル基金という基金を立ち上げ、支援をしております。
講演会の会場でも、ぜひこの基金の募金箱を設置させていただきますので、ぜひご協力をお願い申し上げます。
See You Again!
2009年1月26日 次に繋がったアイランドピーク
1月14日、午前4時、アイランドピーク最終キャンプを出発!ダワタシ・シェルパ、ニマ・タシ・シェルパ、平賀淳カメラマン、そして私と合計4人。アイランドピークは私にとっても思いで深いピークで、私が初めてヒマラヤの頂に登ったのはこのアイランドピーク。1993年の4月で、同年6月にマッキンリーに挑戦し登ったのだが、その直前にアイランドピークで高所順応をかねてトレーニングを行っていたのだ。あの時は若干19歳。若かったなぁ〜 いつの間にか35歳になってしまいました。
アイランドピーク・ベースキャンプを目指して

アイランドピークに向かって一歩一歩進む
あの時はアイランドピークの最終キャンプで高山病に苦しめられ一睡も出来ず、頭痛と吐き気で、バファリンとパンシロンを同時に飲んでいた記憶がある。そして山頂直下の両サイドがスパッと切れ落ちているナイフブリッジにビビり、歯がカタカタと音を立てて震えていた。経験と共に高度感には慣れてくるものだが、あの頃はまだ高所恐怖症だったのかもしれない。
極寒のアイランドピーク
そして極めて印象的であったのが、極度に緊張すると、男性のあの部分、つまり「息子殿」でありますが、稜線上でおしっこをしたくなり、引っ張り出そうと探してみるものの、いつもの定位置にいない。寒さでポトリと落ちてしまった?と思いきや、後ろの方に回り込んでいてチョコンと、まるでドングリのように縮こまっていた。よく犬が怯えると、腰が引けシッポを丸める、いかにも貧弱で気弱なポーズをとりますが、吾輩の息子殿もまさしく「それ」であった。「なんだ!その情けない姿は!それでもお前は俺の息子か!」と怒鳴っていたものの、こちらもこちらで緊張のため歯をカタカタといわせていたので、まったくもって説得力がなかった。結局、カエルの子はカエルってことなのでしょうねぇ〜。
とにかく最初のアイランドピーク登頂は大変でした。登頂後、フラフラになりながら最終キャンプにたどり着いたら、テントが撤収されていてない。ゴロンと横になりたかったのに・・・。ベースキャンプまで下ればポーターがお茶を沸かして待っていてくれているのだろうと、それだけを楽しみにベースキャンプまで下ったら、なんとベースキャンプまで撤収されていた。「なんたるポーター連中だ!」と一人ブチ切れているのだが、どんなにブチ切れたところでタクシーが迎に来るわけでもない。歩いて登った分、自身で歩いて降りるしかないのだ。これが山登り。喉もカラカラに、フラフラになりながらチュクン村のロッジに到着。我々を置き去りにして、とっとと下っていたポーター達の姿を探してもいない。おかしいなぁ〜とキッチンを覗いたら、なんとチャン(ドブログ)を飲んでベロベロに。そして僕の顔を見つめるなり、「ボラサーブ(だんな様)、サミット(登頂)おめでとう!ボラサーブのサミット、とてもハッピーさ。こうしてチャンで祝っているところ」とよくもまあ〜シャーシャーと・・・。だいいち、登ったかどうか確認する前に下って行ったのに、登頂祝いなど出来るはずもないじゃないか!とムッとしたが、しまいにはシェルパダンスまで披露し全身でハッピーさを表現してくれるのには参った。嬉しそうな彼らの表情を眺めていたら「まっ いいかぁ〜」と気がついたら一緒にチャン飲んで踊っていた。いやはや、そんなものです。

アタック前夜、テント内にて読書

午前4時山頂アタック開始
あれから16年、あの時の出来事を1つ1つ思いだしながら、こうして再びアイランドピークの頂を目指している。シェルパのダワタシは98年のエベレスト挑戦時からずっと一緒。エベレストに6度登頂しているベテランシェルパだ。ニマ・タシは勢いある若手シェルパ。それにしても、厳冬期のヒマラヤは寒い。またこの日は風が強く頬っぺたがチクチクと痛い。指先も感覚がなくなり、手を擦り温めた。「早く太陽よ!出てくれ!」と祈る気持ちで日の出を待ち望んでいた。午前6時30分、ようやく待ちに待った太陽が。氷壁を一手一手確実に登り、最後の稜線に出たが、今度はローツェ南壁方面からの冷たい風が容赦なかった。強風でロープが中に浮いてしまうほどで、顔面が寒さで引きつってしまい言葉が発しづらい。アイランドピークの最後の稜線は両サイド、スパンと切れ落ちているので平賀カメラマンに「転ぶなよ。アイゼンひっかけるなよ。落ちたら落ちるぞ!」とアドバイスにならないアドバイスをしていた。なにしろ登るだけで大変なのに撮影が加わればなおのこと。しかも平賀カメラマンが凄いのは写真撮影にビデオ撮影のダブル。これを両方確実にこなすカメラマンはめったにいない。
山頂直下の稜線をつめる

平賀カメラマンとダワタシ・シェルパが氷壁を登り終え稜線に到着した
アタック中に眼下にイムジャ氷河湖が見えた。この2年間、急激に拡大してきたイムジャ氷河湖の存在を世界に訴えてきた。時に一昨年の「第1回・アジア・太平洋水サミット」に向けてネパール・ブータン・バングラディシュに出かけ直接、首相や担当大臣にサミットへの参加を呼びかけた日々を思い出していた。考えてみれば清掃活動も温暖化による氷河融解問題、それからシェルパ基金にマナスルでの学校建設と、僕の活動はヒマラヤから始まっている。ヒマラヤを中心に事が回っている。

アイランドピーク上部から見えるイムジャ氷河湖
午前9時過ぎ、アイランドピークに登頂!登頂を知らせようと衛星電話から事務所に連絡を入れたが、寒さで口の動きが鈍く声を出すので精一杯でした。アイランドピーク自体はけっして難しいピークではないけれど、こうした小さな挑戦でも1つ1つを大切にすることが大切。大きな山であろうが小さな山であろうが、同じようにしっかりと山と向き合うこと。それがなによりも大切な事です。
アイランドピーク山頂でダワタシシェルパとニマタシシェルパ
山頂から魚眼レンズで撮影・後ろはロンツェ峰

こちらも山頂から魚眼レンズ撮影。バッグにアマダブラム峰がみえる
アイランドピークの頂で私は次の目標をしっかりととらえていた。この春、再びヒマラヤで大きな挑戦が控えている。今度こそ、「頂きに」という気持ちがある。30代半ばにもなれば、「やりたいこと」と「やらなければならないこと」とのバランスを求められるもの。前回は「やらなければならない」であったので、今回は「やりたいこと」に専念したい。

疲労した体にこの塩分補給が実に効く。私もいつからか虜に・・・
アイランドピーク・ベースキャンプを目指して
アイランドピークに向かって一歩一歩進む
あの時はアイランドピークの最終キャンプで高山病に苦しめられ一睡も出来ず、頭痛と吐き気で、バファリンとパンシロンを同時に飲んでいた記憶がある。そして山頂直下の両サイドがスパッと切れ落ちているナイフブリッジにビビり、歯がカタカタと音を立てて震えていた。経験と共に高度感には慣れてくるものだが、あの頃はまだ高所恐怖症だったのかもしれない。
極寒のアイランドピーク
そして極めて印象的であったのが、極度に緊張すると、男性のあの部分、つまり「息子殿」でありますが、稜線上でおしっこをしたくなり、引っ張り出そうと探してみるものの、いつもの定位置にいない。寒さでポトリと落ちてしまった?と思いきや、後ろの方に回り込んでいてチョコンと、まるでドングリのように縮こまっていた。よく犬が怯えると、腰が引けシッポを丸める、いかにも貧弱で気弱なポーズをとりますが、吾輩の息子殿もまさしく「それ」であった。「なんだ!その情けない姿は!それでもお前は俺の息子か!」と怒鳴っていたものの、こちらもこちらで緊張のため歯をカタカタといわせていたので、まったくもって説得力がなかった。結局、カエルの子はカエルってことなのでしょうねぇ〜。
とにかく最初のアイランドピーク登頂は大変でした。登頂後、フラフラになりながら最終キャンプにたどり着いたら、テントが撤収されていてない。ゴロンと横になりたかったのに・・・。ベースキャンプまで下ればポーターがお茶を沸かして待っていてくれているのだろうと、それだけを楽しみにベースキャンプまで下ったら、なんとベースキャンプまで撤収されていた。「なんたるポーター連中だ!」と一人ブチ切れているのだが、どんなにブチ切れたところでタクシーが迎に来るわけでもない。歩いて登った分、自身で歩いて降りるしかないのだ。これが山登り。喉もカラカラに、フラフラになりながらチュクン村のロッジに到着。我々を置き去りにして、とっとと下っていたポーター達の姿を探してもいない。おかしいなぁ〜とキッチンを覗いたら、なんとチャン(ドブログ)を飲んでベロベロに。そして僕の顔を見つめるなり、「ボラサーブ(だんな様)、サミット(登頂)おめでとう!ボラサーブのサミット、とてもハッピーさ。こうしてチャンで祝っているところ」とよくもまあ〜シャーシャーと・・・。だいいち、登ったかどうか確認する前に下って行ったのに、登頂祝いなど出来るはずもないじゃないか!とムッとしたが、しまいにはシェルパダンスまで披露し全身でハッピーさを表現してくれるのには参った。嬉しそうな彼らの表情を眺めていたら「まっ いいかぁ〜」と気がついたら一緒にチャン飲んで踊っていた。いやはや、そんなものです。
アタック前夜、テント内にて読書
午前4時山頂アタック開始
あれから16年、あの時の出来事を1つ1つ思いだしながら、こうして再びアイランドピークの頂を目指している。シェルパのダワタシは98年のエベレスト挑戦時からずっと一緒。エベレストに6度登頂しているベテランシェルパだ。ニマ・タシは勢いある若手シェルパ。それにしても、厳冬期のヒマラヤは寒い。またこの日は風が強く頬っぺたがチクチクと痛い。指先も感覚がなくなり、手を擦り温めた。「早く太陽よ!出てくれ!」と祈る気持ちで日の出を待ち望んでいた。午前6時30分、ようやく待ちに待った太陽が。氷壁を一手一手確実に登り、最後の稜線に出たが、今度はローツェ南壁方面からの冷たい風が容赦なかった。強風でロープが中に浮いてしまうほどで、顔面が寒さで引きつってしまい言葉が発しづらい。アイランドピークの最後の稜線は両サイド、スパンと切れ落ちているので平賀カメラマンに「転ぶなよ。アイゼンひっかけるなよ。落ちたら落ちるぞ!」とアドバイスにならないアドバイスをしていた。なにしろ登るだけで大変なのに撮影が加わればなおのこと。しかも平賀カメラマンが凄いのは写真撮影にビデオ撮影のダブル。これを両方確実にこなすカメラマンはめったにいない。
山頂直下の稜線をつめる
平賀カメラマンとダワタシ・シェルパが氷壁を登り終え稜線に到着した
アタック中に眼下にイムジャ氷河湖が見えた。この2年間、急激に拡大してきたイムジャ氷河湖の存在を世界に訴えてきた。時に一昨年の「第1回・アジア・太平洋水サミット」に向けてネパール・ブータン・バングラディシュに出かけ直接、首相や担当大臣にサミットへの参加を呼びかけた日々を思い出していた。考えてみれば清掃活動も温暖化による氷河融解問題、それからシェルパ基金にマナスルでの学校建設と、僕の活動はヒマラヤから始まっている。ヒマラヤを中心に事が回っている。
アイランドピーク上部から見えるイムジャ氷河湖
午前9時過ぎ、アイランドピークに登頂!登頂を知らせようと衛星電話から事務所に連絡を入れたが、寒さで口の動きが鈍く声を出すので精一杯でした。アイランドピーク自体はけっして難しいピークではないけれど、こうした小さな挑戦でも1つ1つを大切にすることが大切。大きな山であろうが小さな山であろうが、同じようにしっかりと山と向き合うこと。それがなによりも大切な事です。
アイランドピーク山頂でダワタシシェルパとニマタシシェルパ
山頂から魚眼レンズで撮影・後ろはロンツェ峰
こちらも山頂から魚眼レンズ撮影。バッグにアマダブラム峰がみえる
アイランドピークの頂で私は次の目標をしっかりととらえていた。この春、再びヒマラヤで大きな挑戦が控えている。今度こそ、「頂きに」という気持ちがある。30代半ばにもなれば、「やりたいこと」と「やらなければならないこと」とのバランスを求められるもの。前回は「やらなければならない」であったので、今回は「やりたいこと」に専念したい。
疲労した体にこの塩分補給が実に効く。私もいつからか虜に・・・
2009年1月21日 「アイランドピークにむけて 〜ヒマラヤでの高所順応編〜」
ヒマラヤ登山のような高所での活動に必ず必要なのが高所順応。一気に標高を上げればどんなベテラン登山家でも高山病にやられてしまう。いわゆる低酸素障害です。エベレストでもよく慌てて山頂を狙って急激に登りポクッといく人を見かけたりする。急いで登れば命取りとなる。少しずつ登り、時に何往復もしながら、登ったり、下ったりと、この繰り返しで低酸素に体を慣らせていく。だからエベレストに登るのにザット2ヶ月間は必要となるのです。

さて、今回のアイランドピーク挑戦はその順応する時間が極めて限られていた。これは完全に僕の初歩的なミスでしたが、日本出発が遅れた分、予備日がほとんど無くなってしまった。そして追い討ちをかけるかのように悪天候でエベレスト街道の玄関口ルクラ村行きの飛行機が一日遅れで飛んだこと。自然は人間に合わせてくれないのだから、時間的に余裕をもって挑戦しなければならないのに、40回ほどヒマラヤに通ってきた奢りなのか、気の緩みなのか、「まあ〜なんとかなるよな」的な気持ちであったのも確か。この大いなる勘違いによって仲間の何人かが命を失い、また僕自身もギリギリのところでなんとか九死に一生を得て生還したことがあった。一概に言えないけれど、山の事故の大半は人災だと思っている。えてして判断ミスによって事故が起こるからだ。つまりは究極の自己責任が求められる世界です。

おい!平賀!寒いから早く撮影してよ!

おっ!この渋さ、高倉健さんに近づいてきた!
アイランドピークを目指すキャラバン中にこれらの事を1つ1つ思いだし、「あ〜俺も勘違いヤローだ」とちゃんと自覚できた事が唯一の救いだった。時間の余裕がないなか、通常、順応の為に二泊するナムチェバザール村を一泊にし、変わりにクムジュン村で一泊。そこからパンボチェ村へ。4300メートルのディンボチェ村には連泊し、二日目は裏山のナガゾンピーク(5100メートル)に登るつもりであったが、便秘がひどく下剤を飲んだら今度は効きすぎて止まらなくなり、脱水症状となったのか、立ちくらみなど具合が悪くなり、一日一人寝袋の中でお腹を摩りながら横になってはトイレに駆けつけていた。
これで貴重な高所順応の機会を1つ潰してしまった。この便秘ですが、かれこれ3年ほど前から始まり、徐々に重症となり、ついに自力で排便するのが困難となった。そこでコーラックさんと出会いここまでなんとか生き延びてきましたが、便秘というものは実にシンドイです。
「腹の中に居るのは分かっている。観念して出てきなさい」とトイレの中で踏ん張りながらお腹に向かって声を上げるのだが「シーン」と立てこもっている。「無駄な抵抗はやめなさい。あなた方は完全に包囲されている!」ともう一度忠告する。それでも進展がない場合、最終手段としての実力行使。コーラック部隊を投入させるのだ。半日後には腸がグルグルと音を立て、立てこもり犯をギュギュとねじりながら粉砕する。この腸のギュルギュル攻撃の震動は凄まじく、時に唸り声を上げてしまう。立てこもり犯との交戦が続き、そこでついに壊滅された立てこもり犯がいてもたってもいられずついに投降するわけだが、この攻防の繰り返しは大変です。特に高所では体力の消耗が激しい。限られた高所順応日が一日潰れてしまった。
そしてアイランドピークまでのキャラバン最後となるチュクン村へ。朝一、ディンボチェ村を出発し11時過ぎチュクン村到着。昼食をとり、すぐにチュクンリー(5500メートル)という裏山に登る。最初で最後の高所順応登山である。ここで最低限の高所順応を済ませたい。一歩一歩登りながら後頭部が重たくなっていく。ただ、山頂付近に到達した時の、あの目の前にドカンと現れるローツェ南壁の威圧感にしばし圧倒され頭痛を忘れていた。平賀カメラマンが張り切って「野口さん、撮影しますよ!」と、「その岩の上に立ってください」と一人元気。風が強く寒くて仕方ない。「おい、淳、もう寒いから下ろう」と。それでも「余裕のあるうちに抑えておいた方がいいですから。ハイ、あっちの方を眺めてください。あっ!いいですねぇ」といつもの調子である。ついつい乗せられてモデル気分である。豚もおだてられれば木に登る。まぁ〜そんなものなのかもしれない。

チュクンリー山頂で撮影するふりをする平賀カメラマン

やはり、足は長かった
チュクンリー登山を終え、チュクン村の山小屋に戻ったら韓国人の団体客がダイニングを占領していた。30〜40人はいたであろうか。驚いたのが中学・高校生の修学旅行とのこと。修学旅行でエベレスト街道までやってくる。日本ではあり得ないだろう。大韓航空が週2回カトマンズまで飛んでくるようになったのが影響しているのだろうが、エベレスト街道は韓国人トレッカーだらけ。韓国人トレッカーは黒い衣服を好み皆が皆、全身黒ずくめで、その集団を見たシェルパ達は「カラスの群」と表現していた。
韓国人トレッカーには若い人が多い。日本人トレッカーといえばオーバー60。中高年を越えたいわゆる高齢者が目立つ。75歳でもエベレストに登る時代だから、また特に日本の高齢者は足腰が強い。さすが戦後の日本を立て直しただけあって精神的にもタフです。

渋めに演出してみましたが、似合いますか
それはそれで大変結構なことですが、問題は日本の若者たちです。男だか女だか分からない男が増えた。ナヨっとしていて、ピンタの一発でも食らわせようものなら泣き出しそうな男が多い。そして実に内向的。世界を見ようとしなくなっている。最近では世界を旅するよりも国内の温泉宿に泊まり一日中温泉に浸かってポケーとしている学生諸君が増えたとか。温泉旅館の女将さんが「私たちはそのような学生をポケー族と呼んでいますが、学生さんのお客さんが増えました。本当に一日中、温泉でポケーとしているんですよ」と話していた。
まあ〜どうでもいいような話ですが、ただ1つ懸念すべきは学生含め若者たちから、エネルギー、独自性なるものを感じなくなっていました。それでいて口だけはペラペラと達者。小学生に「将来何になりたいの?」って聞けば「公務員がいい。だって倒産しないもん」と即答される時代だから無理もないのかもしれないが・・・。ヒマラヤにやってくる韓国の子どもたちが私にはとても逞しく見えたと同時に、うかうかしているうちに日本はあらゆる面で周辺諸国に追い越されてしまう、いや、もうすでにそうなりつつあることに危機感をひしひしと感じていた。
日本の子供たちにもヒマラヤを経験させたい。人生観が変わるだろうなぁ〜と韓国の子供たちを眺めながら感じていた。
次回はアイランドピーク登頂についてレポートします。
さて、今回のアイランドピーク挑戦はその順応する時間が極めて限られていた。これは完全に僕の初歩的なミスでしたが、日本出発が遅れた分、予備日がほとんど無くなってしまった。そして追い討ちをかけるかのように悪天候でエベレスト街道の玄関口ルクラ村行きの飛行機が一日遅れで飛んだこと。自然は人間に合わせてくれないのだから、時間的に余裕をもって挑戦しなければならないのに、40回ほどヒマラヤに通ってきた奢りなのか、気の緩みなのか、「まあ〜なんとかなるよな」的な気持ちであったのも確か。この大いなる勘違いによって仲間の何人かが命を失い、また僕自身もギリギリのところでなんとか九死に一生を得て生還したことがあった。一概に言えないけれど、山の事故の大半は人災だと思っている。えてして判断ミスによって事故が起こるからだ。つまりは究極の自己責任が求められる世界です。
おい!平賀!寒いから早く撮影してよ!
おっ!この渋さ、高倉健さんに近づいてきた!
アイランドピークを目指すキャラバン中にこれらの事を1つ1つ思いだし、「あ〜俺も勘違いヤローだ」とちゃんと自覚できた事が唯一の救いだった。時間の余裕がないなか、通常、順応の為に二泊するナムチェバザール村を一泊にし、変わりにクムジュン村で一泊。そこからパンボチェ村へ。4300メートルのディンボチェ村には連泊し、二日目は裏山のナガゾンピーク(5100メートル)に登るつもりであったが、便秘がひどく下剤を飲んだら今度は効きすぎて止まらなくなり、脱水症状となったのか、立ちくらみなど具合が悪くなり、一日一人寝袋の中でお腹を摩りながら横になってはトイレに駆けつけていた。
これで貴重な高所順応の機会を1つ潰してしまった。この便秘ですが、かれこれ3年ほど前から始まり、徐々に重症となり、ついに自力で排便するのが困難となった。そこでコーラックさんと出会いここまでなんとか生き延びてきましたが、便秘というものは実にシンドイです。
「腹の中に居るのは分かっている。観念して出てきなさい」とトイレの中で踏ん張りながらお腹に向かって声を上げるのだが「シーン」と立てこもっている。「無駄な抵抗はやめなさい。あなた方は完全に包囲されている!」ともう一度忠告する。それでも進展がない場合、最終手段としての実力行使。コーラック部隊を投入させるのだ。半日後には腸がグルグルと音を立て、立てこもり犯をギュギュとねじりながら粉砕する。この腸のギュルギュル攻撃の震動は凄まじく、時に唸り声を上げてしまう。立てこもり犯との交戦が続き、そこでついに壊滅された立てこもり犯がいてもたってもいられずついに投降するわけだが、この攻防の繰り返しは大変です。特に高所では体力の消耗が激しい。限られた高所順応日が一日潰れてしまった。
そしてアイランドピークまでのキャラバン最後となるチュクン村へ。朝一、ディンボチェ村を出発し11時過ぎチュクン村到着。昼食をとり、すぐにチュクンリー(5500メートル)という裏山に登る。最初で最後の高所順応登山である。ここで最低限の高所順応を済ませたい。一歩一歩登りながら後頭部が重たくなっていく。ただ、山頂付近に到達した時の、あの目の前にドカンと現れるローツェ南壁の威圧感にしばし圧倒され頭痛を忘れていた。平賀カメラマンが張り切って「野口さん、撮影しますよ!」と、「その岩の上に立ってください」と一人元気。風が強く寒くて仕方ない。「おい、淳、もう寒いから下ろう」と。それでも「余裕のあるうちに抑えておいた方がいいですから。ハイ、あっちの方を眺めてください。あっ!いいですねぇ」といつもの調子である。ついつい乗せられてモデル気分である。豚もおだてられれば木に登る。まぁ〜そんなものなのかもしれない。
チュクンリー山頂で撮影するふりをする平賀カメラマン
やはり、足は長かった
チュクンリー登山を終え、チュクン村の山小屋に戻ったら韓国人の団体客がダイニングを占領していた。30〜40人はいたであろうか。驚いたのが中学・高校生の修学旅行とのこと。修学旅行でエベレスト街道までやってくる。日本ではあり得ないだろう。大韓航空が週2回カトマンズまで飛んでくるようになったのが影響しているのだろうが、エベレスト街道は韓国人トレッカーだらけ。韓国人トレッカーは黒い衣服を好み皆が皆、全身黒ずくめで、その集団を見たシェルパ達は「カラスの群」と表現していた。
韓国人トレッカーには若い人が多い。日本人トレッカーといえばオーバー60。中高年を越えたいわゆる高齢者が目立つ。75歳でもエベレストに登る時代だから、また特に日本の高齢者は足腰が強い。さすが戦後の日本を立て直しただけあって精神的にもタフです。
渋めに演出してみましたが、似合いますか
それはそれで大変結構なことですが、問題は日本の若者たちです。男だか女だか分からない男が増えた。ナヨっとしていて、ピンタの一発でも食らわせようものなら泣き出しそうな男が多い。そして実に内向的。世界を見ようとしなくなっている。最近では世界を旅するよりも国内の温泉宿に泊まり一日中温泉に浸かってポケーとしている学生諸君が増えたとか。温泉旅館の女将さんが「私たちはそのような学生をポケー族と呼んでいますが、学生さんのお客さんが増えました。本当に一日中、温泉でポケーとしているんですよ」と話していた。
まあ〜どうでもいいような話ですが、ただ1つ懸念すべきは学生含め若者たちから、エネルギー、独自性なるものを感じなくなっていました。それでいて口だけはペラペラと達者。小学生に「将来何になりたいの?」って聞けば「公務員がいい。だって倒産しないもん」と即答される時代だから無理もないのかもしれないが・・・。ヒマラヤにやってくる韓国の子どもたちが私にはとても逞しく見えたと同時に、うかうかしているうちに日本はあらゆる面で周辺諸国に追い越されてしまう、いや、もうすでにそうなりつつあることに危機感をひしひしと感じていた。
日本の子供たちにもヒマラヤを経験させたい。人生観が変わるだろうなぁ〜と韓国の子供たちを眺めながら感じていた。
次回はアイランドピーク登頂についてレポートします。
2009年1月14日 「アイランドピーク(6160M)登頂記録」
アイランドピーク山頂にて 平賀カメラマンと
1月10日、クムジュン村(3790m)〜パンボチェ村(3958m)
1月11日、パンボチェ村〜ディンボチェ村(4350m)
1月11〜12日、ディンボチェ村ステイ
1月13日、チュクン村(4743m)〜アイランドピーク最終キャンプ(5500m)
1月14日、最終キャンプ午前4時出発〜アイランドピーク午前9時登頂〜チュクン村13時30分着〜ディンボチェ村16時30分着
1月15日、ディンボチェ村・午前9時20分〜ナムチェバザール村17時20分着
明日はルクラ村に下る。
アタック前夜 夕食風景
アイランドピーク アタック中
アイランドピーク稜線上にて
登頂コメント
「さすがに厳冬期のヒマラヤは寒かった。今回の遠征は日数的に余裕がなく、限られた時間内に高所順応をなんとか間に合わせ登頂できた事が良かった。アイランドピークは決して難しいピークではないが、それでもこうして1つ1つ着実に結果を残せた事に意味があると思います。このアイランドピーク登頂が次の冒険に繋げたい。野口健」
「今回の登山遠征の撮影では、気象条件に恵まれ、これまでにないロケーションを記録することができた。特に、眼下に迫る8000M峰のローツェは圧巻で、遠方には、マカルー、昨年の春、登頂を果たしたメラピークが眺められるなど、ヒマラヤのまさにパノラマの景色に、ここまで辿りつけたことの喜びを噛みしめることができた。と同時にアルピニスト、野口健さんの凄まじいまでの登頂記録をぜひ、ホームページで堪能してほしい。平賀淳」
アイランドピーク山頂直下

