- 開催スケジュール
- 2014年度開催
- 2月1日 <AIR-G'(FM北海道)>
- 3月1日 <FM 新潟>
- 3月8日 <FM 沖縄>
- 2013年度開催
- 2月2日 <FM 高知>
- 2月9日 <TOKYO FM>
- 3月9日 <K-mix>
- 2012年度開催
- 1月26日 <Kiss FM KOBE>
- 2月2日 <FM 福岡>
- 2月10日 <HFM (広島FM)>
- 3月2日 <FM ぐんま>
- 3月10日 <FM 青森>
- 3月17日 <FM 福井>
- 2011年度開催
- 1月14日 <RADIO BERRY (FM 栃木)>
- 1月22日 <FM 岩手>
- 2月4日 <FM 長野>
- 2月11日 <FM 長崎>
- 3月10日 <FM 滋賀>
- 3月17日 <FM 愛媛>
- 2010年度開催
- 1月22日 <FM佐賀>
- 2月5日 <FM山口>
- 2月12日 <Radio80>
- 2月26日 <TOKYO FM>
- 3月12日 <FM青森>
- 3月21日 <FM福井>
- 2009年度(過去)開催
- 12月5日 <FM OSAKA>
- 1月17日 <FM とやま>
- 1月30日 <μFM(FM 鹿児島)>
- 2月7日 <FM 岡山>
- 2月20日 <TOKYO FM>
- 3月14日 <Boy FM(FM 山形)>
- 2008年度(過去)開催
- 2月1日 <FM山陰>
- 2月7日 <FM AICHI>
- 2月15日 <FM徳島>
- 2月22日 <TOKYO FM>
- 3月1日 <Date fm (FM仙台)>
- 3月8日 <FM大分>
- 講演会を試聴する
- 野口健 講演会(4分抜粋)を試聴できます。
- ※試聴には「Windows Media Player」でお聞きください。

-
インターネットに繋がる携帯端末でもサンプル音声を試聴可能です。
※機種によって試聴できない場合がございます。 - ※サンプル音声では氷河湖が東京ドーム13個分と話していますが、現在(2007年度発表)は32個分です。
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コラム [ 2009年度以前 ]
2009年1月14日 アイランドピーク(6168m)に登頂!
2009年1月9日 ヒマラヤとベ○ースターラーメン
冬のエベレスト街道はシーズンオフでトレッカーや登山隊も少なくとても静かです。ちょっと風が強く寒いですが、人間っていう生き物はちゃんと環境に適応するようになっているんですねぇ。ヒマラヤではよく仲間たちに「けんさん、寒さに強いですね」と驚かれる。確かに7000mぐらいまでは薄いダウンジャケットで登ってしまうことがある。別にやせ我慢しているわけじゃないですよ。しかし、これが日本に帰ってくるとストーブの前から離れられなくなる。特にコタツが大好きで一日中マン丸になって入っていたい。そしてこれがまたよく東京で風邪をひくんです。
左奥のピークがエベレスト
なかなか決まってますねぇ
「ヒマラヤで大丈夫だった人がどうして東京でそんなにしょっちゅう風邪をひくの」と言われたりしますが、そんなこと聞かれたって意識的に、または意図的に風邪をひいているわけじゃないので分かりません。ただ1つ言える事は日常生活にはいくらでも避難場所がある。寒ければ室内に逃げ込んでしまえばいいのだ。故に寒さに対して腹をくくれない。覚悟を決められない。だからすぐに風邪をひくんじゃないかなぁ〜と。気持の問題でしょうか。
ヒマラヤ遠征が始まってしまえば暖かいところが少ない。特にテントの中は火器を使用して時は暖かいもののすぐに酸欠になるので火を止める。火を消した瞬間にキーンと冷える。標高にもよりますが、テント内でもマイナス10〜20度まで下がったりします。朝起きたら寝袋の口の周辺が吐く息によってバリバリに凍っていたりする。寝袋の中でマン丸になっていても寒いものは寒い。時に体を擦り、またモジモジと寝返りをうっては体を温めるものの限界がある。ヒマラヤ遠征がスタートし前半はその寒さに堪えますが、一月もするとどうあがいても暖かいところがないわけで、つまり寒さに対して諦めてしまうんでしょうね。寒さを受け入れるしかないわけです。自然の中で生きていくということは受け入れるということです。
冬のヒマラヤは大気が不安定
シェルパ族最大の村・ナムチェバザール
日ごろ、私たちは人間の都合に合わせて生活している。時に自分の都合であったり、相手の都合であったり。その調整の日々が日常生活です。しかし、相手が自然となると決してこちらに合わせてくれない。いかなる状況下に於いても人間が自然に合わせなければならないだ。登山に於いては自然と戦うという気持ちは落とし穴となる。
よく欧米人の中には自然に対して「制覇」だとか「征服」だといったような表現をされる方を見受けしますが、自然は制覇するものでも征服するものでもないし、そもそもそんな大それた事などできません。ヒマラヤの大自然の中にいると人間の存在がいかに小さいかが分かるものです。それだけに人間同士がチビチビと争い、戦争を繰り返している姿が滑稽にさえ感じるものです。
撮影しながらテクテクとゆっくり歩く
けっこう足が長い?
今日はナムチェバザール村からクムジュン村へ移動。明日はパンボチェ村を目指します。平賀カメラマンは「ケンさん、エベレストがよく見えますよ!今日は撮影日和ですね」とハイテンション。撮影しながらゆっくりと登るのでこれが高所順応にいい。一気に登ればどんなにヒマラヤ登山のベテランであろうがポクっと逝ってしまう。慎重に標高を稼がないと危ない。
久しぶりにエベレストと再会した瞬間に「あ〜俺は帰って来たぞ!」と思わず大きな声を出していました。やっぱり僕にとってエベレストは特別な聖地。昨年はこの聖地を踏みにじられた。だから本気で怒っていた。
最低でも一年に一度は里帰りしないと落ち着かない。このエベレスト街道にももう40回弱訪れています。よく美人は三日で飽きると言われますが、エベレストは何十回見ようが一切飽きない。飽きないどころかその度に新たな発見があります。これは凄いことです。
余談ですが、僕には「美人は三日で飽きる」と言われている意味が全く分かりません。許されるのならばいつまでも眺めていたいものです。たまに街中で眺めすぎて不審者扱いされスタッフに「野口さん、もっとさりげなく見てくださいよ」と注意されたので仕方がなく、指の間から眺めていたらもっと怪しかったそうだ。かといってサングラスかけて見るのは潔くないし。見たいものは堂々と見たいわけで、見るなといわれたらもっと見たくなってしまう。あ〜困ったものです。
そして今日の記事のタイトルであります「ベ○ースターラーメン」ですが、平賀カメラマンは「ベ○ースターラーメン」命でいつ何時においてもベ○ースターラーメンを持ち歩いている。カメラよりもベ○ースターラーメンを手に持っている時間のほうが長かったりして。どれだけ好きかと言うと、わざわざエベレストの山頂にまでもってきて、山頂でポケットから取り出しているので、「こんな所で食べるつもりか!」と驚いてみていたら、なんと自分で自分にカメラを向けてベ○ースターラーメンと一緒に記念写真を撮っているではないか。一緒に登った相方の僕よりも先にベ○ースターラーメンと記念写真を撮る彼の精神構造を分かりかねたが、ただ1つだけ分かったのは彼がベ○ースターラーメンを心から愛しているということである。確かに平賀カメラマンからよく分けて貰って頂くが、あの昔から一切変わらない味は飽きなくていいですね。いつの間にか僕までベ○ースターラーメンが好きになり気がつけば自身で買うようになっていました。
ベ○ースターラーマンと平賀カメラマン
今日はそんな平賀さんとベ○ースターラーメンをヒマラヤバックに愛のツーショットを撮影してやりました。なかなかの腕前でしょ。これでも中学・高校生時代は写真部です。卓球部に写真部に、そして大学からは山岳部、これ完全に裏街道まっしぐら?
2009年1月8日 クムジュン村にて 野口健
2009年1月8日 【野口健】いよいよキャラバン開始 ヒマラヤで考えること
1月6日、天候が回復しルクラ便が飛んだ。一日の待機で済んでラッキー。中には一週間ほど待機するケースもある。次の問題は帰りの1月18日、ルクラからカトマンズに降りるフライトだ。ここで足止めを食っちゃうと1月21日の帰国予定日が危うくなる。なにしろ1月22日には九州で講演会が待っているのだ。何が何でも帰らなければならない。1月18日に晴れる事を祈る。


いよいよルクラ村へ
今回は日本出発が遅れたので時間的な余裕がまったくない。6日からキャラバンを初めて15日までにはアイランドピークに登頂し、17日までにルクラ村まで下ってこなければならない。これもヒマラヤ行きを躊躇し出発を遅らせた私の責任。せめて平賀淳くんを巻き込まないように気をつけたい。

ルクラ村到着

エベレスト街道にはいくつもの吊り橋がある
6日はパクディン村泊。7日はシェルパ最大の村、ナムチェバザールに到着。やはり運動不足なのかな、体が重たい。アイランドピークにアタックするまで体を軽くしておきたい。このような時に痛感するのは日々のトレーニングの重要性だなぁ〜。もう若くないんだし、もっとまめに体を動かさないと。分かっちゃいるんだけれど、この繰り返し。「反省だけなら猿にでもできる」なる言葉はよく耳にしますし、その通りなのだろうと思います。ただ、ここで1つ疑問が発生。そもそも論として猿は本当に反省するのだろうか・・・?
例えば、「触ったら痛かったからもう触らない」というのは果たして反省という概念なのだろうか?反省というよりももっと感覚的なものじゃないかなぁ〜と。反省というのは思考的な要素が絡んで発生するような気がしてならない。だとするならば猿は本当に反省するの?
なにもヒマラヤで考える事でもあるまいか。

ナムチェバザール村に到着
ナムチェバザール村では相棒のアン・ドルジ・シェルパと再会。彼の山小屋にお世話になる。昨年は彼と一緒に合計4ヶ月間ほど氷河湖の調査を行った。
「日本人はエベレストの氷河が急激に溶けている事に対して無関心ですが、ヒマラヤは世界で最も高い場所です。人間の体に例えれば頭になります。もし頭が高熱に侵されたら体全体の調子が悪くなるでしょう。それと同じでエベレストが温暖化によって熱くなっているのは地球全体の異変です。日本人にもけっして他人事ではないはずです」とはアンドルジの言葉である。私は「第1回アジア太平洋水サミット」「環境大臣会合特別シンポジウム」の場で、またIPCCのパチャウリ議長や福田総理(当時)にこのアンドルジの言葉をそのまま伝えた。
また彼は毎年、夏には日本の山小屋で研修を行いネパールの山小屋においても日本同様に環境配慮型山小屋運営を目指している。

アン・ドルジさんとの再会
若かった頃の石原慎太郎氏に目元が似ていて、我々の間では「ヒマラヤの慎太郎」と呼ばれている。そういえば、ルクラ村に住んでいるナワン・ユンデン・シェルパの奥さんが小沢一郎氏に似ていて、こちらは「ヒマラヤの一郎」と呼ばれている。「奥さん」というのがいかにも悲劇的?ではありますが、いずれにせよこちらの慎太郎、一郎は本家と違って?仲が良い。

街道沿いの親子
ネパール入りしてからとにかく良く寝ています。おかげでだいぶ復活してきました。三十路を過ぎると一にも二にも睡眠。睡眠さえ取れていればなんとかなるもの。昨年の秋ごろからの寝不足がきつかった。日々のスケジュールをこなしながらその隙間で原稿書きに追われた。1つは文藝春秋に掲載された「僕のレイテ遺骨収集記」。内容が内容なだけに100%本気をだしました。一方的な感情論になってしまっては逆に読者が引いてしまう。かといってデータだけでは現場で感じたあの世界が伝わらない。そのバランスが実に難しかった。私なりに精いっぱい書かせて頂きました。ただし、あの現場を文章によって100%そのまま再現できたかといえばNOであり、現場に勝るものはないと痛感させられました。
そして次に追われたのが今年の2月7日に日経新聞から出版する新書の原稿だ。日経新聞で2年間連載させて頂いた記事をまとめ、さらに原稿用紙で200枚近くを書き加えた。これがなかなか大変で、講演会場までの移動中(新幹線や飛行機の中)、出張先にホテル、打ち合わせと打ち合わせの間、とにかく使える時間を全て使って書ききった。最終的な締め切りが12月27日でなんとかギリギリ間に合わせる事ができた。
原稿を収めたら心底ホッとしたのか、解放されたのか、その日はポケーと一日脱力感に襲われた。忙しさを言い訳にしたくなかった。また、「ヒマラヤ氷河の融解による氷河湖決壊問題」や「戦地に取り残された御遺骨の実情」から「ツバルの海面上昇問題」「難民問題」「漂着ゴミ問題」などこの数年間、世界各地で感じてきたことが自身の中で過去の出来事になる前に、また書き残せるうちに、現場で見てきた事を形に残して伝えるのが義務であろうと、使命感に燃えていたのも事実。故に大変でしたが、充実していた日々でもあった。ただ、仕事以外の限られた時間の全てを次ぎこんだためブログ更新まで手が回らなかった事をお詫びします。
原稿を収めてから慌ててヒマラヤ遠征の準備を開始。せっかく久々に日本で正月を迎えたのに初詣も叶わず、また紅白歌合戦も見られなかった。赤、白のどちらが勝ったのかな?

マニ車を回す 回すとお経を読んだことになる

ラマ教のお経が彫ってある岩
エベレスト街道に入って二日目になりますが、昨年の北京オリンピック直前と比較すればだいぶ穏やかになりました。あの北京オリンピックはやはり異常事態であった。なにしろ、中国は形振り構わずネパール側に圧力をかけ、公安などをネパール側に越境させこのエベレスト街道に配置させたとシェルパ達が怯えていた様子を我々はその現場で目にしていた。エベレスト(ネパール側)のベースキャンプにまで中国大使館の館員が監視を目的に張りつき連日のようにエベレスト上空には軍用機が音を立てて旋回していた。すべては中国の聖火隊がエベレスト山頂に聖火を上げるためにだ。
ベースキャンプではフリーチベットと書かれた旗を持っていただけで強制的にエベレストから追放されたアメリカ人登山家。そして中国隊がチベット側から登頂に成功するまでは反対側ネパーからですら6000m以上を超えてはならないとお達しがあり、もし6000m以上に登れば射殺すると6400mにあるキャンプ2には武装した軍隊までが派遣されていた。たかがオリンピックの聖火隊如きでありながら、エベレストで起こっていた全ての事が異常事態であった。
ここまでやるのかと、中国の覇権主義には心底驚き、危機感と同時に怒りが沸々と煮えたぎるのを明確に自覚していたが、あれから少し時間がたってみて、振り返ってみれば、受け取り方が少し膨らんだ。中国による対外強硬路線は「対国外政策」というよりも、「対国内政策」であったのだろうと。
特にチベット問題が盛り上がればチベットに限らずウイグル、また内モンゴルなどに飛び火していくだろう。中国が最も恐れたのはそこではないか。したがってあれだけ国際社会から非難されようが中国は一切緩むことなくチベットを弾圧し多くのチベット人を殺し投獄した。中国に逆らって独立運動などしようものならばこうなるぞ!と見せしめ的な要素がなかったか。
また究極な格差社会が招いている人民の不満をどのように抑えていくのか。岡本行夫氏は「中国では農民として生まれたら最後、社会保障も医療保障も失業保険もない。都市への移住の自由もない。9億人の農民の犠牲の上に、4億人の都市住民の繁栄がある」と中国の格差社会について語っておられたように、中国は外から見れば覇権主義が象徴するような巨大な国力、強さを抱かせるが、実は蓋を開けてみれば極めて不安定な内政事情を数多く抱えている。
北鮮やロシアも度々使う手法ですが、強い中国を示すことで中国共産党の正当性を人民に伝え維持していこうとの狙いではないだろうか。つまり以前のように中国共産党が人民をコントロール出来なくなっている証かもしれない。中国はルーマニアのチャウシェスク政権の如く内側からのエネルギーによって変わっていくのかもしれない。あのエベレストでの中国の行いが中国の行き詰まり、焦りを現しているとするのならば、中国は時間の問題で変わるかも。そう思えば怒りに燃えた昨年のエベレストの出来事にも微かな希望、可能性が見え隠れしてくる。


ブログ執筆中
ちょっとプラス思考すぎたでしょうか。ヒマラヤの夜は永い。ついつい様々な事をグダグダと考えてしまう。考える時間がたっぷりとあるから、このブログの原稿もその分だけやたらと長く、またくどくなる。
明日からクムジュン村、もしくはパンボチェ村まで上がりますが、今回は衛星通信機材を持ってこなかったので、ブログのアップはナムチェバザール村まで(ナムチェバザール村にはインターネットカフェがあるので)。ただし衛星携帯電話はあるのでアイランドピークに登頂しましたら事務所に連絡しますのでブログ・HPにてお知らせ致します。
それでは、明日からは思考を切り替え、最大限、気をつけながらアイランドピークの頂を目指してきます。アイランドピークの登頂を次の冒険に繋げるためにも。
2009年1月7日ナムチェバザール村にて 野口健
いよいよルクラ村へ
今回は日本出発が遅れたので時間的な余裕がまったくない。6日からキャラバンを初めて15日までにはアイランドピークに登頂し、17日までにルクラ村まで下ってこなければならない。これもヒマラヤ行きを躊躇し出発を遅らせた私の責任。せめて平賀淳くんを巻き込まないように気をつけたい。
ルクラ村到着
エベレスト街道にはいくつもの吊り橋がある
6日はパクディン村泊。7日はシェルパ最大の村、ナムチェバザールに到着。やはり運動不足なのかな、体が重たい。アイランドピークにアタックするまで体を軽くしておきたい。このような時に痛感するのは日々のトレーニングの重要性だなぁ〜。もう若くないんだし、もっとまめに体を動かさないと。分かっちゃいるんだけれど、この繰り返し。「反省だけなら猿にでもできる」なる言葉はよく耳にしますし、その通りなのだろうと思います。ただ、ここで1つ疑問が発生。そもそも論として猿は本当に反省するのだろうか・・・?
例えば、「触ったら痛かったからもう触らない」というのは果たして反省という概念なのだろうか?反省というよりももっと感覚的なものじゃないかなぁ〜と。反省というのは思考的な要素が絡んで発生するような気がしてならない。だとするならば猿は本当に反省するの?
なにもヒマラヤで考える事でもあるまいか。
ナムチェバザール村に到着
ナムチェバザール村では相棒のアン・ドルジ・シェルパと再会。彼の山小屋にお世話になる。昨年は彼と一緒に合計4ヶ月間ほど氷河湖の調査を行った。
「日本人はエベレストの氷河が急激に溶けている事に対して無関心ですが、ヒマラヤは世界で最も高い場所です。人間の体に例えれば頭になります。もし頭が高熱に侵されたら体全体の調子が悪くなるでしょう。それと同じでエベレストが温暖化によって熱くなっているのは地球全体の異変です。日本人にもけっして他人事ではないはずです」とはアンドルジの言葉である。私は「第1回アジア太平洋水サミット」「環境大臣会合特別シンポジウム」の場で、またIPCCのパチャウリ議長や福田総理(当時)にこのアンドルジの言葉をそのまま伝えた。
また彼は毎年、夏には日本の山小屋で研修を行いネパールの山小屋においても日本同様に環境配慮型山小屋運営を目指している。
アン・ドルジさんとの再会
若かった頃の石原慎太郎氏に目元が似ていて、我々の間では「ヒマラヤの慎太郎」と呼ばれている。そういえば、ルクラ村に住んでいるナワン・ユンデン・シェルパの奥さんが小沢一郎氏に似ていて、こちらは「ヒマラヤの一郎」と呼ばれている。「奥さん」というのがいかにも悲劇的?ではありますが、いずれにせよこちらの慎太郎、一郎は本家と違って?仲が良い。
街道沿いの親子
ネパール入りしてからとにかく良く寝ています。おかげでだいぶ復活してきました。三十路を過ぎると一にも二にも睡眠。睡眠さえ取れていればなんとかなるもの。昨年の秋ごろからの寝不足がきつかった。日々のスケジュールをこなしながらその隙間で原稿書きに追われた。1つは文藝春秋に掲載された「僕のレイテ遺骨収集記」。内容が内容なだけに100%本気をだしました。一方的な感情論になってしまっては逆に読者が引いてしまう。かといってデータだけでは現場で感じたあの世界が伝わらない。そのバランスが実に難しかった。私なりに精いっぱい書かせて頂きました。ただし、あの現場を文章によって100%そのまま再現できたかといえばNOであり、現場に勝るものはないと痛感させられました。
そして次に追われたのが今年の2月7日に日経新聞から出版する新書の原稿だ。日経新聞で2年間連載させて頂いた記事をまとめ、さらに原稿用紙で200枚近くを書き加えた。これがなかなか大変で、講演会場までの移動中(新幹線や飛行機の中)、出張先にホテル、打ち合わせと打ち合わせの間、とにかく使える時間を全て使って書ききった。最終的な締め切りが12月27日でなんとかギリギリ間に合わせる事ができた。
原稿を収めたら心底ホッとしたのか、解放されたのか、その日はポケーと一日脱力感に襲われた。忙しさを言い訳にしたくなかった。また、「ヒマラヤ氷河の融解による氷河湖決壊問題」や「戦地に取り残された御遺骨の実情」から「ツバルの海面上昇問題」「難民問題」「漂着ゴミ問題」などこの数年間、世界各地で感じてきたことが自身の中で過去の出来事になる前に、また書き残せるうちに、現場で見てきた事を形に残して伝えるのが義務であろうと、使命感に燃えていたのも事実。故に大変でしたが、充実していた日々でもあった。ただ、仕事以外の限られた時間の全てを次ぎこんだためブログ更新まで手が回らなかった事をお詫びします。
原稿を収めてから慌ててヒマラヤ遠征の準備を開始。せっかく久々に日本で正月を迎えたのに初詣も叶わず、また紅白歌合戦も見られなかった。赤、白のどちらが勝ったのかな?
マニ車を回す 回すとお経を読んだことになる
ラマ教のお経が彫ってある岩
エベレスト街道に入って二日目になりますが、昨年の北京オリンピック直前と比較すればだいぶ穏やかになりました。あの北京オリンピックはやはり異常事態であった。なにしろ、中国は形振り構わずネパール側に圧力をかけ、公安などをネパール側に越境させこのエベレスト街道に配置させたとシェルパ達が怯えていた様子を我々はその現場で目にしていた。エベレスト(ネパール側)のベースキャンプにまで中国大使館の館員が監視を目的に張りつき連日のようにエベレスト上空には軍用機が音を立てて旋回していた。すべては中国の聖火隊がエベレスト山頂に聖火を上げるためにだ。
ベースキャンプではフリーチベットと書かれた旗を持っていただけで強制的にエベレストから追放されたアメリカ人登山家。そして中国隊がチベット側から登頂に成功するまでは反対側ネパーからですら6000m以上を超えてはならないとお達しがあり、もし6000m以上に登れば射殺すると6400mにあるキャンプ2には武装した軍隊までが派遣されていた。たかがオリンピックの聖火隊如きでありながら、エベレストで起こっていた全ての事が異常事態であった。
ここまでやるのかと、中国の覇権主義には心底驚き、危機感と同時に怒りが沸々と煮えたぎるのを明確に自覚していたが、あれから少し時間がたってみて、振り返ってみれば、受け取り方が少し膨らんだ。中国による対外強硬路線は「対国外政策」というよりも、「対国内政策」であったのだろうと。
特にチベット問題が盛り上がればチベットに限らずウイグル、また内モンゴルなどに飛び火していくだろう。中国が最も恐れたのはそこではないか。したがってあれだけ国際社会から非難されようが中国は一切緩むことなくチベットを弾圧し多くのチベット人を殺し投獄した。中国に逆らって独立運動などしようものならばこうなるぞ!と見せしめ的な要素がなかったか。
また究極な格差社会が招いている人民の不満をどのように抑えていくのか。岡本行夫氏は「中国では農民として生まれたら最後、社会保障も医療保障も失業保険もない。都市への移住の自由もない。9億人の農民の犠牲の上に、4億人の都市住民の繁栄がある」と中国の格差社会について語っておられたように、中国は外から見れば覇権主義が象徴するような巨大な国力、強さを抱かせるが、実は蓋を開けてみれば極めて不安定な内政事情を数多く抱えている。
北鮮やロシアも度々使う手法ですが、強い中国を示すことで中国共産党の正当性を人民に伝え維持していこうとの狙いではないだろうか。つまり以前のように中国共産党が人民をコントロール出来なくなっている証かもしれない。中国はルーマニアのチャウシェスク政権の如く内側からのエネルギーによって変わっていくのかもしれない。あのエベレストでの中国の行いが中国の行き詰まり、焦りを現しているとするのならば、中国は時間の問題で変わるかも。そう思えば怒りに燃えた昨年のエベレストの出来事にも微かな希望、可能性が見え隠れしてくる。
ブログ執筆中
ちょっとプラス思考すぎたでしょうか。ヒマラヤの夜は永い。ついつい様々な事をグダグダと考えてしまう。考える時間がたっぷりとあるから、このブログの原稿もその分だけやたらと長く、またくどくなる。
明日からクムジュン村、もしくはパンボチェ村まで上がりますが、今回は衛星通信機材を持ってこなかったので、ブログのアップはナムチェバザール村まで(ナムチェバザール村にはインターネットカフェがあるので)。ただし衛星携帯電話はあるのでアイランドピークに登頂しましたら事務所に連絡しますのでブログ・HPにてお知らせ致します。
それでは、明日からは思考を切り替え、最大限、気をつけながらアイランドピークの頂を目指してきます。アイランドピークの登頂を次の冒険に繋げるためにも。
2009年1月7日ナムチェバザール村にて 野口健
2009年1月6日 【野口健】カトマンズ・卓球の日々
1月5日、今日はカトマンズからエベレスト街道の玄関口ルクラ村に向けて飛ぶ予定であったが、ルクラ村が霧に覆われていてキャンセルとなった。6時間も飛行場で粘ったけれどダメだったぁ〜。昨年の秋ごろ、ルクラ村に着陸しようとしたイエティー航空が着陸に失敗。パイロット一名を除いた全員が死亡するといった事故が起きたばかり。山岳地帯の飛行とあって無理は出来ない。素直に諦めてホテルに戻る。

我らが定宿にはトレーニングルームと卓球台がある。カトマンズ入りしてから卓球の日々。平賀淳くんも昨年ここで卓球をした時は実に下手っぴであったが、いつの間にか上達。実は私、人生で初めて新聞に紹介されたのは登山ではなく卓球でした。小学生の頃から卓球を始め高校時代は卓球部の部長。高校時代に対外試合(2年間)で全勝し地域新聞に紹介されていました。それだけ卓球大好き人間でしたから、カトマンズまでやってきても卓球台を見つけると血が騒ぐんですねぇ。きっと山登りよりも卓球の方が得意ですよ。しかし、トレーニングルームのトレーナーと試合をしたら全然勝てない。左右に振られ玉についていけない。高校時代ならあんなへなちょこカーブなどスパンと一気にスマッシュし決めていたのに・・・。


気がついたらかなり本格的にむきになり、後から淳君が撮影した写真を見たら吾輩の目がまるでピンポン玉のようにマン丸なっていた。俺はむきになるとあんなお目目になるんですねぇ〜。知らなかった。高校を卒業してから15年? そのブランクは大きかった。こうなったら卓球台買って修業しなければ。


そして卓球が終わってからは筋トレ。今日は半日、たっぷりと汗をかいて遊びました。明日早朝に再び飛行場に向かいますが、無事に飛んでくれるといいのだが。明日また飛ばなければ卓球日になります。それにしても、あのコロコロとしたトレーナに一勝も出来なかったのがなんとも実に悔しい。クソー

2009年1月5日 野口健
我らが定宿にはトレーニングルームと卓球台がある。カトマンズ入りしてから卓球の日々。平賀淳くんも昨年ここで卓球をした時は実に下手っぴであったが、いつの間にか上達。実は私、人生で初めて新聞に紹介されたのは登山ではなく卓球でした。小学生の頃から卓球を始め高校時代は卓球部の部長。高校時代に対外試合(2年間)で全勝し地域新聞に紹介されていました。それだけ卓球大好き人間でしたから、カトマンズまでやってきても卓球台を見つけると血が騒ぐんですねぇ。きっと山登りよりも卓球の方が得意ですよ。しかし、トレーニングルームのトレーナーと試合をしたら全然勝てない。左右に振られ玉についていけない。高校時代ならあんなへなちょこカーブなどスパンと一気にスマッシュし決めていたのに・・・。
気がついたらかなり本格的にむきになり、後から淳君が撮影した写真を見たら吾輩の目がまるでピンポン玉のようにマン丸なっていた。俺はむきになるとあんなお目目になるんですねぇ〜。知らなかった。高校を卒業してから15年? そのブランクは大きかった。こうなったら卓球台買って修業しなければ。
そして卓球が終わってからは筋トレ。今日は半日、たっぷりと汗をかいて遊びました。明日早朝に再び飛行場に向かいますが、無事に飛んでくれるといいのだが。明日また飛ばなければ卓球日になります。それにしても、あのコロコロとしたトレーナに一勝も出来なかったのがなんとも実に悔しい。クソー
2009年1月5日 野口健
2009年1月5日 【野口健】カトマンズにて「ヒマラヤに学校を作ろうプロジェクト」の発表を行う
1月4日、カトマンズ市内にてマナスル基金についての記者会見を行った。マナスル基金とはマナスル峰の麓にあるマナ村に学校建設を行うプロジェクトだ。2006年にマナスル峰に清掃活動で出かけ村人に学校建設を約束してから2年目。ようやくヒマラヤでの学校建設プロジェクトがスタートした。

記者会見には校長先生のビルバートル氏も加わり「50年前に初めて日本隊が私たちの村に来た時には、私たちの神様であるマナスル峰に登ってほしくなかったので村人と登山隊との間にトラブルがあったと祖父から聞いている。あれから時間がたって今度は日本人が私たちの神様(マナスル)をきれいにしにやってきた。最初は村人たちは日本人が何をしに来たのか意味を分かっていなかったが、マナスルの清掃活動だと知って大歓迎になった。村人は日本の国旗を作っては村中に掲げた。それだけ嬉しかった。それからケンと一緒にサマ村の清掃をおこなった。ケンがサマ村に学校を建ててくれることになり、日本とマナスルの関係の懸け橋となることと思う」と話していました。

完成予想図を手にするビルバードル校長
嬉しかったのは日本でマナスル基金を発表してから多くの問い合わせがあったこと。中には「マナスル峰に日本隊が初登頂したことで私たちは勇気をもらった。当時、日本は貧しかった。でも日本人がマナスル峰に初登頂したことで国中が盛り上がった。マナスルは私たちにとっての青春でした」と退職金の一部からご寄付くださった方もいらした。また企業からは渡辺解体興業株式会社の渡邊龍一社長からも「ヒマラヤでの学校建設には夢があります。私たちも支援します。学校が建ちましたら私たちも一度サマ村に訪れてみたいです」と、本当に多くの方々に支えられて、この「ヒマラヤに学校を作ろうプロジェクト」がスタートしました。本当にありがとうございました。

記者会見の様子
ヒマラヤでは「シェルパ基金」「エベレストを中心とした清掃活動」「氷河湖決壊対策」等々、様々な活動を行ってきましたが、その中でもこの学校建設には夢があります。教育を受ける事によって世界が広がる。ネパールに限らず発展途上国の人々は援助慣れしていて誰かが助けてくれると指をくわえて待っている傾向が強いですが、教育を受ける事によって視野が広がり、自分たちに何が出来るのか自らアイディアを打ち出してほしい。
3月中旬には私もサマ村に入って村人と一緒に建設作業を行いたい。明日からエベレスト街道の玄関口であるルクラ村に飛び、アイランドピーク(6160メートル)の頂を目指してキャラバン開始です。日本を離れて第二の故郷であるネパールに帰ってきてホッとしたのかなぁ〜 肩の力がスーと抜けてリラックスしています。毎年、この時期にヒマラヤで過ごしますが、一年間頑張ってきた事への自身に対するご褒美です。やっぱりネパールに帰ってきてよかった。
2009年 1月4日 カトマンズにて 野口健
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事務局のそるとこと塩澤でございます。
この学校建設のための「マナスル基金」及び「シェルパ基金」への募金活動も、この講演会で実施させていただきます。皆さまのご協力をお待ちしています。
詳細は後ほど記載させていただきますね。
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記者会見には校長先生のビルバートル氏も加わり「50年前に初めて日本隊が私たちの村に来た時には、私たちの神様であるマナスル峰に登ってほしくなかったので村人と登山隊との間にトラブルがあったと祖父から聞いている。あれから時間がたって今度は日本人が私たちの神様(マナスル)をきれいにしにやってきた。最初は村人たちは日本人が何をしに来たのか意味を分かっていなかったが、マナスルの清掃活動だと知って大歓迎になった。村人は日本の国旗を作っては村中に掲げた。それだけ嬉しかった。それからケンと一緒にサマ村の清掃をおこなった。ケンがサマ村に学校を建ててくれることになり、日本とマナスルの関係の懸け橋となることと思う」と話していました。
完成予想図を手にするビルバードル校長
嬉しかったのは日本でマナスル基金を発表してから多くの問い合わせがあったこと。中には「マナスル峰に日本隊が初登頂したことで私たちは勇気をもらった。当時、日本は貧しかった。でも日本人がマナスル峰に初登頂したことで国中が盛り上がった。マナスルは私たちにとっての青春でした」と退職金の一部からご寄付くださった方もいらした。また企業からは渡辺解体興業株式会社の渡邊龍一社長からも「ヒマラヤでの学校建設には夢があります。私たちも支援します。学校が建ちましたら私たちも一度サマ村に訪れてみたいです」と、本当に多くの方々に支えられて、この「ヒマラヤに学校を作ろうプロジェクト」がスタートしました。本当にありがとうございました。
記者会見の様子
ヒマラヤでは「シェルパ基金」「エベレストを中心とした清掃活動」「氷河湖決壊対策」等々、様々な活動を行ってきましたが、その中でもこの学校建設には夢があります。教育を受ける事によって世界が広がる。ネパールに限らず発展途上国の人々は援助慣れしていて誰かが助けてくれると指をくわえて待っている傾向が強いですが、教育を受ける事によって視野が広がり、自分たちに何が出来るのか自らアイディアを打ち出してほしい。
3月中旬には私もサマ村に入って村人と一緒に建設作業を行いたい。明日からエベレスト街道の玄関口であるルクラ村に飛び、アイランドピーク(6160メートル)の頂を目指してキャラバン開始です。日本を離れて第二の故郷であるネパールに帰ってきてホッとしたのかなぁ〜 肩の力がスーと抜けてリラックスしています。毎年、この時期にヒマラヤで過ごしますが、一年間頑張ってきた事への自身に対するご褒美です。やっぱりネパールに帰ってきてよかった。
2009年 1月4日 カトマンズにて 野口健
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事務局のそるとこと塩澤でございます。
この学校建設のための「マナスル基金」及び「シェルパ基金」への募金活動も、この講演会で実施させていただきます。皆さまのご協力をお待ちしています。
詳細は後ほど記載させていただきますね。
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