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20.05.07
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宮城県女川町 未来に語りつぐ 震災の記憶


「宮城県女川町 未来に語りつぐ 震災の記憶」


宮城県の女川町。海と里山に囲まれた自然豊かな町を、2011年3月11日、大きな津波が襲いました。町民の8%にあたる827人が亡くなり、町内の家屋の8割以上が流出。津波の高さは20メートルを超えたと言います。

そんな女川で、震災の記憶を次の世代に語り継ごうと活動する若者たちがいます。
それが、「女川・いのちの石碑プロジェクト」。“1000年後の命を守ろう”と、町内で津波が到達した21の浜に石碑を立てて津波の恐ろしさを未来に伝えよう、という取り組みです。



2020年3月1日。宮城県女川町の大石原浜では、いのちの石碑の完成披露が行われました。


プロジェクトのメンバーは、震災当時小学校6年生だった子どもたち。いまはみんな、21歳、22歳になっています。プロジェクトメンバーの阿部由季さんはこのように話します。

「まず1000万円集まったことが凄過ぎて。周りの方々にたくさん支援していただきました。この石碑が3月11日のことを思い出すきっかけにもなるでしょうし、地域の方々はもちろん、小学生中学生も目にするので、中にはまだ生まれてなかった子もいるのでこれを見て、地震、津波の恐ろしさ、地震が来たら逃げなきゃいけないと思ってもらいたい。1000年後の命を守るという遠い話ですけど、私たちも自分の子どもや孫とかに語り継いでいって、同じ思いをしないでほしいと思っているので、この石碑が少しでも役に立てればいいなと思っています。」


子どもたちの指導にあたってきたのは震災当時、女川第一中学校で教鞭をとっていた阿部一彦先生。メンバーの活動を、9年間見つめ続けてきました。

「1000年後のいちのを守る。このことについて先日子ども達は言っていましたが、21基建って終わりと思う方もいると思いますが、私たちにとっては違います。21基を建てて、そこからがスタートなんです。っていう話を聞いて、本当にそう思っているんだろうなと感じる9年目でした。この子たちはたぶん死ぬまで活動を続けるだろうし、おじいちゃんおばああちゃんになって活動しているのを見て、次の子供、孫たちが続けるだろうなと思います。」

メンバーの一人、木村圭さんはこのように話します。
「1000年後、“一人でも”ではなく“一人の命も”失わないよう活動を続けたい」この強い思いは、必ず次の世代に伝わるのではないでしょうか。

そして10数名いるメンバーはそれぞれ、就職をしたり大学へ進学したりしています。その中の一人、伊藤唯さんは大学生でダンサー志望。東京で暮らしています。
また、木村圭さんは京都で建築や環境デザインの勉強をしています。


伊藤唯さん「ダンサーになりたいと思ったきっかけは東日本大震災なんですけど、ダンスで人を笑顔にしたい、夢を与えたいという想いから今もダンサーになるという夢は諦めてないです。誰しも辛いことや苦しいことは生きていく上で絶対にあると思うんですけど、震災を経験したらどんな苦しいことも乗り越えられるんじゃないかと思って、自分が今生きていられる以上、自分のやりたいことや夢とかは、何かを犠牲にしてでも一生懸命やっていかなきゃいけないんじゃないかなって震災に気づかせてもらったので、自分の芯を曲げずにやっていきたいと思っています。」


木村圭さん「京都で建築や環境デザインの勉強をしています。小学6年生で震災を経験して震災後9年経っていますけど、女川の街がどんどん変わっているのに私たちの気持ちがついていかない。よく街の復興は進んでいるけど心の復興が進まないとよく言われるんですけど、そういう心と街というのが繋がっているんじゃないかなと私は感じていたので、そういう街づくりを勉強したいなと思って今の大学に進みました。
女川の震災からの街づくりに何か貢献できるのであればそういうのに取り組みつつ、私たちが小学生中学生の時に町の人たちが聞いて支えてくれたように、中学生小学生の考えることの実現を支えるような社会を作っていけたらうれしいなと思います。」


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Hand in Hand.宮城県女川町の復興と若い世代の取り組みをご紹介しています。
次に女川の駅前商店街「シーパルピア女川」でわたしたちを迎えてくれたのは、今年成人式を迎えたばかりの佐藤柚希くんです。柚希くんは高校卒業後、女川町役場に就職し、女川の観光PRや震災を語り継ぐ活動を行っています。

そんな柚希くんが案内してくれたのは、女川の震災遺構「旧女川交番」です。



「震災前にあった交番が津波で横倒しになって、引き波でもともとあった場所から海の方へ流されて今の場所にずれてきました。この交番を震災遺構として残そうということで先日、完工式が開かれて、周りのパネルを見ながら一般の方が見学できるようになりました。なかなか文字とか写真だけだと当時の凄さって伝わらないのかなと思うんですね。伝える側となった身としては。僕達も避難した時は津波を見ていないので、どういうことが起きたらこういう状態になるんだろうと今でもなかなか信じられない思いです。そういった中で伝えやすいのは何なのかと考えた時に、話すよりは現物を見てもらった方がわかりやすいですよね。これからの復興、生まれ変わる女川を楽しみにして観光に来て頂いた方には、ひとつの学びの場所としてこれを見てもらえればいいのかなと思っています。」


『女川は流されたのではない 新しい女川に生まれ変わるのだ
人々は負けず待ち続ける 新しい女川に住む喜びを感じるために』

佐藤柚希くんは震災から2か月後の2011年春。当時小学校6年生の時に書いた詩が女川の高台に“横断幕”としてかかげられ、震災で落ち込む町民を励まし続けてきました。

「高校に入るまで卒業後のことは全然考えていなくて、いざ就職を考えた時に、もちろん詩の存在は地元で働きたいなという決め手の一つではあったんですけれども、やっぱり周りが宮城県外に出てしまうとか、県内にいても女川ではない場所で就職をするとかという友達がどうしても多くて、なんかちょっと面白くないなというか、一人二人くらいは地元で活躍できる人間がいてもいいんじゃないかなと思ったんです。それで高校2年生の時から地元の役場で仕事をできるようになりたいなということで、チャレンジをして今に至るという感じです。
社会人になってからの年月が経っていないので、今はどちらかと言うとプレッシャーの方が強いですね。本当にいざ自分が30歳とか40歳になった時に、今後の街の状況を支えたりするような能力ってあるのかなというのはちょっと不安なところではあります。ただ一緒に仕事をしている上司の人とか、いろんな人たちの姿を見て、もちろん自分もそうなんですが、町の若い世代の人たちが今後支えていかなきゃいけないんだろうなというのは如実に感じるところです。それも踏まえて、今の業務を積極的に頑張って、いろんな知識を身につけなければいけないのではというのはすごく感じています。不安も半分ですけど、それに対しての期待も半分ありますね。」



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