
あれから10年、復興が進む福島を行く~南相馬を再びサーフィンの町に!
全国各地の災害被災地の「今」と、その土地に暮らす人たちの取り組みや、地域の魅力をお伝えしていくプログラム、「Hand in Hand」。今回のテーマは、
シリーズ、「あれから10年、復興が進む福島を行く~南相馬を再びサーフィンの町に!」。
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南相馬市は、国の重要無形民俗文化財にも指定されている「相馬野馬追」というお祭りで有名ですが、実は、世界大会が行われたこともある日本有数のサーフスポット、「北泉海岸」もあるんです。震災前には年間約10万人ものサーファーや、多くの海水浴客で賑わっていたといいます。地域の皆さんの自慢でもある南相馬の海。その海をこよなく愛し、45年間に渡ってサーフィンを続けている、地元のサーフショップ、「Sun Marine」のオーナー、鈴木康二さんです。
東日本大震災による津波と原発事故の影響で、海水浴場が長く閉鎖されていましたが、市の調査で海水の放射性物質は数年にわたって検出されず、安全性が確認できていることと、津波で損壊した海岸施設が復旧して、災害時の避難路が確保できたことから、去年7月、9年ぶりに海開きを迎えました。そして事故後初めてとなる全国規模のサーフィン大会も開かれるなど、着実に復活への歩みを進めています。
コロナ禍の今年もビーチはオープンしていて、私たちが訪ねた8月下旬の週末も、
多くのサーファーや海水浴に訪れた家族連れで賑わっていました。
そんな北泉海岸をホームビーチにするのが鈴木康二さん。この日も朝6時から海に入っていた鈴木さんが、海から上がってきた直後にお話を伺いました。
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高橋:(この北泉の海岸は鈴木さんにとってはどういう場所ですか?)
鈴木:商売でサーフショップをやっているもんですから、毎日サーフィンをやったり、今日もスクールをやりながら海に入ってたんです。生まれは隣の鹿島区というところなんですけど、そこに右田浜というところがあって、そこに自宅兼サーフショップがあって、昔はそこでサーフィンをしていたんですけど、だんだん海岸の侵食とかで波も良くなくなって、北泉が最近よくなってきたんで最近はずっと北泉でやってます。
高橋:(子供の頃とかはどんな風に遊んでいたんですか?)
鈴木:右田浜というのがここと同じく海水浴場だったんですけど、小さい時はそこに入って朝から晩まで海で泳いで遊んでたという感じですね。
高橋:(じゃあもうずっと海に入っていらっしゃったんですね)
鈴木:そうですね。60年くらい海に浸かっています。サーフィン歴は45年です
高橋:(45年!すごいですね。主にこの南相馬の海岸でやられているんですか?)
鈴木:そうですね。右田浜というところとこの隣に烏崎というところがあるんですけどそこと北泉の海でコンディションの良い場所で入っている感じです。まあ年間で360日ぐらいチェックに来て200日くらい入る感じですね。
高橋:(ただやっぱり震災の被害というのはすごくあったんですよね)
鈴木:この辺はものすごい被害があって、自分が住んでいた右田浜でやっぱり70~80人位が亡くなっている感じですね。ここも全滅で、隣の萱浜というところそこも相当亡くなっている人がいます。ほとんど家は全部流されて、基礎しか残っていないくらい全部流されています。うちもお店兼自宅だったんですけど、綺麗に流されて何一つ残っていなかったですね。
高橋:(鈴木さんはその時はどちらにいらっしゃったんですか)
鈴木:自宅兼ショップでその日3月11日もサーフィンをして、自宅に帰ってウエットスーツを干して、店番をしてたという感じです。揺れが来て、サーフボードは倒れるわテレビは倒れるわで、そのうちに放送で7mの大津波がくるみたいな感じだったんですよ。とりあえず避難しようといって、もう何も持たずに、すぐ戻ってこれると思ったんで、飼ってた犬を連れて避難したんですよ。そうしたら避難先で後から来た人がもう何もないよと言っていて。その後原発の事故があって、もう流された場所に戻ることもなく避難したという感じですね。
原発事故のあと、地域の住民は、市が用意したバスで新潟県などへ避難することになりましたが、犬を飼っていた鈴木さんはバスに乗れず、自家用車で東京にいたお嬢さんのもとへ避難。その後、川崎、仙台を経て、同年6月に南相馬市に仮設住宅が出来たことから、地元へ戻ってきました。
震災から3か月後、放射能汚染の不安もあるなか、南相馬へ戻ってきた鈴木さん。当時の気持ちを伺いました。
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鈴木:一応気にはしてたんですけど、やっぱり除染する前だったんで放射能は高かったんですけど、それでも生活するのにはそんなに問題ないというのと、海も検査して、この辺は放射能はたいしたことなかったんです。風向きがちょうどこの辺はかわした感じだったんですね。だからそんなに放射能自体の影響というのはなかったです。小高はかなり近いので小高の人は戻ってこなかったですけど、原町と鹿島区の人たちは意外に戻っていきましたね。
高橋:(震災後、海を離れてどのくらいして海をまた見ましたか)
鈴木:結局自宅が海のすぐそばだったので、仙台にきたころからちょこちょこ帰ってきては海を眺めに行ったんですよ。その時にぼーっと海を見てたんですけど、周りはすごい瓦礫の山で、もう何もなくて全然景色が違ってるんです。でも海は全然変わってないんですよ。夏の6月7月で天気の良い日ですごく波もいいし、何か見てるうちにムラムラと波乗りしたくなってきて、それでウエットスーツを作って入ろうとしたら家族から猛反対を受けたんです。
高橋:(それはどういう理由で反対だったんですか)
鈴木:やっぱりこんな時に不謹慎だという感じじゃないですかね。福島のサーフィン連盟も最低でも1年くらいは喪に服すという意味でサーフィンは禁止しましょうみたいな流れだったんです。でも商売をやっている人が1年自粛してサーフィンをやらないで何すればいいのという感じだったんです。ここは野馬追っていう行事があるんですけど、たまたま隣の人が野馬追に出場している人で、その人は家族ほとんどなくして一人ぼっちになって、でも自分が野馬追に出て復活するというのが亡くなった家族も望んでいるんじゃないかって、それが美談として取り上げられたんですよ。それを見て市役所の人にやっちゃダメなんですかって聞いたんですよ。そうしたら、やっちゃだめだというのはないから自己責任でお願いしますというような言い方だったんですよ。でとりあえずやると決めて、家族の反対を押し切って、俺がやればみんな戻ってきて、それで昔のような海になるかなと思って始めたんです。それが7月ですね。
高橋:(ご自宅もお店も海に奪われたという部分があると思うんですけど、それでもやっぱり海は嫌いにならない?)
鈴木:それくらいじゃ嫌いにならないですね。
“むらむらっときた”鈴木さんは、震災から4か月後の7月、誰もいない海に、周囲の反対を押し切って一人で入りました。浜には瓦礫が山積みとなっていましたが、海の中は震災前と変わらない、美しい海だったと、当時を振り返っていました。そしてその時、胸には、“俺がやればみんな戻ってきて昔のような海になる”という、強い気持ちを秘めていたということ。
それから8年後の昨年7月に、北泉海岸は海開きを迎えることができました。今では、サーフィンスクールも開いている鈴木さんの元には、若手からベテランまで多くのサーファーたちが教えを求めてやってきていています。取材に訪れた日もみんなで並べてボードを浮かべ、いい波をつかもうと励んでいました。
そしてその中には、県外から南相馬へやってきた移住者もいます。お話を伺ったのは、医師でサーファーの石原秀一さんです。
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高橋:(サーフィンを始めて何年目ですか)
石原:5年目に入ります。いま61歳です。友人が学生時代からサーフィンをしていて、ここの北泉というところがサーフィンの聖地だということで、サーフィン教えてよと言ったら師匠をまず訪ねろと言われて、それがきっかけですね。
高橋:(今南相馬何年目ですか)
石原:今7年目ぐらいですかね。震災後からお手伝いには来てたんですけど、こっちに完全に移るようになってからは7年目ですかね。
高橋:(何かきっかけがあったんですか)
石原:一つは医療過疎の問題があって、それで来させていただいたんですけれども、どうせ東京から来た先生なんだから半年から1年すれば帰っちゃうんでしょみたいな感じで言われてたんですけれども、そういう風に言われてなんとなく悲しくて、で5年を過ぎたくらいから患者さんからずっといるんだなとやっと思われたかなという感じはありましたね。
高橋:(不安とかはなかったんですか)
石原:僕自身は全くなかったんですけど、私の周囲の連中が危ないからやめろとか、かなり非難もされましたし、批判もされました。でも来てみたら皆さん良い人達ばかりで、たまたまそういうふうに恵まれたのかもしれませんけれども、でもまさかこんなにハマるとは思わなかったですね。東京から出たことがないので、まず田舎に住むというのは無理なんだろうなと思ってたんですけれども、意外とこのスローライフがはまっていて、これ何もしなかったら多分いられなかったんじゃないですかね。サーフィンがあるから多分いられたんだと思いますね。ぶっちゃけすごくいいですよ。ときどき東京に行く用事があっても帰ろうって思っちゃいましたね。
高橋:(もう帰ろうというのは南相馬なんですね)
石原:そうですね、はい。
ぶっちゃけ住み心地がすごくいいという石原さん。サーフィンを通じて仲間を得たことが、長く住む大きな理由になっているというお話でした。今ではご覧のハマりようです(笑)。
「Hand in Hand」、今日のテーマは、シリーズ「あれから10年、復興が進む福島を行く」~
「南相馬を再びサーフィンの町に!」。
震災の4か月後には海に入ったという鈴木康二さん。そして翌年11月には、津波で流されたサーフショップ「Sun Marine」を、少し内陸に場所を移して再開させました。北泉海岸から車で10分、「Sun Marine」に場所を移して、お話の続きを伺いました。
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高橋:(田園を超えてきたら可愛いお店があって「あ、ちょっとハワイじゃん」と思って中に入ってみると、所狭しとサーフグッズが置いてあって、可愛いって一言目に入っちゃったんですけど、今私たちがいるサンマリン、お店を再開したということでちょっと場所を移動してきましたが、震災があってその翌年の11月にオープンって、すごいたくさんの想いがこもってるんじゃないですか)
鈴木:サーフショップとは言ったものの、ちょっとした自分の隠居部屋というんですかね、本当にもう自分の好きなようにレイアウトして、隣の憩いの場みたいになっているんですけど、さっきいた連中を集めてサーフィンのレッスンというか、海ではできない指導をここでやったり、サーフボードの修理なんかもそっちでやってるんですけど、若い人たちがサーフィン上手くなるにはどうしたらいいんですかと言って、「こうした方がいいよ。ああした方がいいよ」ってワイワイやるのが楽しいという感じですね。
高橋:(でも震災があって去年の海開きの間、お店は開いてるけれど海は開いていない状態で鈴木さんに会いに来る人って沢山いらっしゃいましたか)
鈴木:新しくサーフィンを始めるという人が少なくて、でもさっきいた連中というのは去年とか今年に始めた人達なんで、サーフィンが新鮮で楽しくてしょうがないという感じだと思うんですけど、サーフィンをやっている人の子供が今日もいたじゃないですか。前はああいうのを見てなかったですから、嬉しいですね。うちの孫なんかも海水浴に来て、海の水ってしょっぱいんだっていうのを知らなかった子供達が、砂まみれになって泳いで波をバシャッと。ここの波高いじゃないですか。それが魅力というか、自分たち小さい時はサーフボードはなかったですけど、波に体で乗ったりとか、浮き輪で波に乗ったりして一日中遊べたという感じだったんです。すごい嬉しいですね。
高橋:(次の3月で10年になりますが、海にも人が帰ってきているなという感じはありますか)
鈴木:南相馬市としてサーフツーリズムということで、サーフィンで町おこしのために大きい大会を誘致したりして、それで活性化させてもらっています。自分達が中心になって街と一体になってやってるんですけど、まあ福島原発というのは今後もずっと伝えられていくとは思うんですけど、それはもう過去の話で、実際の海とか街はもう再生しているという実感みたいなのはあります。
南相馬市はいま、“サーフツーリズム”を通じて、交流人口を増やしたり、地域経済の活性化を目指したりしています。鈴木さんもまさにその一端を担っているわけですが、愛してやまない南相馬の海を楽しみ、その楽しみをひとりでも多くの人と共有することが、交流人口や地域経済だけでなく、南相馬の海の安心安全の発信にもつながるのだと思います。
そして9月6日には、鈴木さん主催のサーフイベント「Sun Marineカップ」が、北泉海岸で開催されました。コロナ禍で全国の大会が軒並み中止になるなか、“全国のサーファーたちに明るい話題を提供したい、地域を元気づけたい”と、開催を決行。なんと30回目の記念大会でもあったんですが、それを祝うように波の状態も良く、全国から集まった約70名のサーファーが技を競ったのだそうです。
「Hand in Hand」、福島県の東部の町の復興の歩みと「今」を伝える、シリーズ、「あれから10年、復興が進む福島を行く」。今日のテーマは、「南相馬を再びサーフィンの町に!」でした。
「SUN MARINE」オフィシャルページ
今日は南相馬の海の魅力に焦点を当てましたが、南相馬では、歴史・文化がたくさん残っていて、馬と人が共に暮らす文化が根付いているんです。冒頭でもお伝えした「相馬野馬追」は、400頭もの馬に甲冑姿の侍がまたがり、行列や競馬を披露する勇壮なお祭りで、国の重要無形民俗文化財にも指定されています。時期によっては、朝日を浴びて波に乗るサーファーと砂浜を走る馬が
同時に見られることもあるそうです。魅力いっぱいの南相馬。ぜひチェックしてみてください。
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さ、ここでプレゼントのお知らせです。今回は、鈴木康二さんのサーフショップ、「Sun Marine」のオリジナルステッカー7種が1枚になった「ステッカーシート」を、3名様にプレゼントします。
ご希望の方は、下記のクイズの答えを書いて、メールフォームからご応募ください。
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Q:10月になり、運動するにはちょうど良い季節になりました。
ところで、人への健康影響が確認されている被ばく線量は、
一度に100ミリシーベルト以上であると考えられています。
それでは、100~200ミリシーベルトの被ばく線量によるがんリスクは、
運動不足と比べてどうでしょうか。
以下から正しいものを選んでください。
①運動不足より高い
②運動不足と変わらない
③運動不足より低い
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下記サイトにヒントがあります。
https://www.fukko-pr.reconstruction.go.jp/2018/fukushimanoima/game/?quiz=11
ぜひ答えの番号とともに今回の感想やご紹介した南相馬市の皆さんへの応援メッセージも添えてプレゼントにご応募ください。頂いた応援メッセージの一部は、復興庁の(Hand in Handレポート)でも、個人情報を伏せてご紹介させて頂きます。是非たくさんのエールをお待ちしています。
今回の取材の様子は、動画でもご覧頂けます。
下記「タブレット先生の『福島の今』」にアクセスいただき是非ご覧ください。
https://www.fukko-pr.reconstruction.go.jp/2018/fukushimanoima/
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次週の「Hand in Hand」は、熊本からのレポート。「熊本地震から4年半ぶり!国道57号線開通にわく南阿蘇の今」と題してお送りします。来週もどうぞお楽しみに。