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22.03.10
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「連れて帰りたい」 海に潜り捜し続ける、高松康雄さんの思い


「この海の中のどこかにはいるんだろうな。
なんとか連れて帰りたいなとは思うんですけどね。
海に潜ることで、妻の近くに行けたのかなぁとも思うし。」

東日本大震災から、まる11年。あの日から少しずつ姿を変えてきた町の片隅で、変わらずずっと大切な家族を捜し続けている方たちがいます。

冒頭の言葉を語るのはその中のお一人、宮城県女川町で津波に巻き込まれ行方がわからなくなった妻を捜す、高松康雄さん(65歳)です。

この時期水温は7度。水深40mまで潜るため捜索以外でも月に2〜3度潜る練習は欠かせないという高松さん。決して容易ではない海の捜索、それでも続ける理由を尋ねると「妻から最後に届いたメールの言葉があったからだ」と話します。


高松康雄さんの奥様、祐子さんは当時銀行で働いていて、2階建て、高さ10mの銀行の屋上に避難したところに津波が押し寄せ犠牲となりました。屋上に避難した行員13人中12人が犠牲となり、そのうち8人は行方不明のままです。

今回のインタビュアーは、TOKYO FMで3月11日の特番番組を担当する作家・いとうせいこうさん。この番組との共同取材で高松さんにお話を伺いました。

―――311当日、高松さんご自身は?

「妻の母親を内陸の石巻日赤病院に連れていっていました。海の近くで妻が仕事していたのですが、銀行の人たちと一緒だし、避難場所になっていた高台の病院(女川町立病院)が標高16mのところにあったので、そこに逃げていれば大丈夫だと思っていました。次の日、瓦礫を乗り越えながらその高台の病院へ行ってみると、病院から銀行が見下ろせる位置関係なのですが、そこで「みんな銀行の屋上にいたけど流された」と教えてくれて。流されたのかな・・・と。」

―――それまで携帯に連絡などは?

「一度だけメールが来たんです。3時21分 津波が岸壁を超え始めた頃です。『大丈夫?帰りたい』それを見て、無事なんだろうなと、やっぱり病院に避難して『帰りたい』と言ってるんだろうとその時は解釈していたんですが。」

―――銀行の下から奥様の携帯が見つかったという記事を読んだんですけど

「銀行員が女川支店に来て片付けなどをしていた時に、支店の駐車場だった場所で瓦礫の中から携帯を見つけたんです。さっき3時21分にメールが届いたと言ったのですが、3時25分にもう一通送信しているんです。これは届かなかったんですが。その打ちかけのメールは、『津波すごい』という一言でした。あとで見たら。いよいよ切羽詰まって送信したのか句読点もなく。」

―――メッセージが続くと生きている手触りがあるからいなくなったという実感がないですよね

「そうですね、震災直後はまだどこかに生きているかもしれないと思ってあちこち行ってみたんですけど。段々時間が経つにつれて遺体収容場所もまわりはじめましたが、遺体がないことが逆に安心材料だったりして。」

―――そこから潜って探す、ということにすぐいくのですか?

「直ぐではないです。どんどん瓦礫が片付けられていくのに全然見つからない。そうすると、やっぱり津波で流されたら海かな・・と思いますよね。」


高松さんは震災から3年後の50代後半で潜水士の資格をとり、地元のダイバーが主宰する捜索チームの一員に加わり、今も月に一度女川湾に潜り捜索活動を続けています。

「潜りたい、見つけられるようになりたいと思って、ネットでダイビングショップを検索したらハイブリッジが出てきて。」

―――どの辺りを潜っているのですか?

「捜索は港から出て、水深40mぐらいまで潜って瓦礫の山を探します。やはり遺体が発見できないというのは瓦礫に巻き込まれて上がってこれない可能性が高いと言われているので、まず瓦礫を探してその辺りを。捜索は月に1回のペース。練習でその他に2〜3回潜っています。水温は今7℃ぐらい。大丈夫ですよ(笑)」


―――お子さんたちは何と言ってますか?

「最初は何も言わずに始めちゃったんです。(なんとなくお父さん出ていくなーと)なんか洗濯物がちょっとおかしいな、みたいな。(厚いゴムみたいなのがあるな)今まであまり着たことないようなものが洗濯物にあるな、みたいな。(それは気づいていますよ、お父さん潜る気だなって。)実はな、という話をして。(お母さんを探したいのは同じ気持ちですものね)」

―――今はまだ位牌があるわけではない?

「葬儀はあげたので位牌はありますが、お墓にはメガネが入っているだけ。あとは携帯が見つかったんですけどダメだろうと思って一緒にお墓に納めたんだけど、お墓を作り直す話があった時に携帯だけ取って家に持って帰って。(どこに置いてある?)ベッドの頭の上。(やっぱりそうか〜。一番近くですね。一緒に寝ているんですよね)はい。(電源は入れることはある?)あります。乾かしたら電源が入るようになって。それでメールの送信履歴が見れたんです。(見ちゃいますよね)そうですね。」

―――これ、続けていくおつもりですよね?

「そうですね、身体が動く間は。「帰りたい」っていう最後のメールがあったので連れて帰りたい。(それがある限り高松さんは潜るしかないですね。だって奥さん言ってるんだから)今でも帰りたいんだろうなと。まだまだやめられない。できるなら、ここに居るって教えてほしい。お迎えに行きたい。他の行方不明者の方いっぱいいるのでご遺骨とか持っていたものを帰してあげたいと思いますね。(自分だけのためじゃないですもんね、確かに。)」



女川の海に潜り捜し続ける、高松康雄さんの思いをお伝えしました。
あの震災によって今も行方が分からない方は2500人以上いて、その一人一人に帰りを待ち続ける家族がいるということ。改めて高松さんにお会いして感じました。

そして今回一緒に女川へ取材に行った作家のいとうせいこうさん。「東北モノローグ」というタイトルで河北新報や雑誌に連載中です。

Hand in Hand。来週は南相馬市小高区に新しくオープンしたばかりのサウナについてお伝えします。

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