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22.10.01
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石巻市大川、父の形見の船でシジミ漁に挑む、只野英昭さん


今回のテーマは、「石巻市大川、父の形見の船でシジミ漁に挑む、只野英昭さん」。

東日本大震災による津波で、児童74人(4人は行方不明)教職員10人、合わせて84人が犠牲となった大川小学校。只野さんは当時5年生の哲也くん、3年生の未捺ちゃん、二人の子供を大川小に通わせていましたが、未捺ちゃんは津波の犠牲となり、津波に飲まれながらも助かった哲也くんは、「奇跡の子」と、当時大きく報道されたので、ご記憶の方も多いのではないでしょうか。

また英昭さんの父・弘さんと、3月11日が誕生日だった妻のしろえさんも津波の犠牲となり、6人家族だった只野さんは、母と自分、そして哲也くんの3人となりました。

あれから11年余り。英昭さんは長年勤めていた地元の会社を辞め、父が生業としていたシジミ漁を受け継ぎました。その経緯と英昭さんが胸に秘める思いとは。




只野家は主に農業と北上川でのシジミ漁を生業としていましたが、4代目である英昭さんは地元の会社に勤務。震災後は会社勤務を続けながら、大川小学校で起きた悲劇・・・津波が迫るなか、命を守る行動が取られなかった事実を語り継ぐ、「大川伝承の会」メンバーとしても活動してきました。

その旧「大川小学校」、北上川の河口から4キロほど内陸の川沿いにあって、校舎は津波の被害を受けた当時の姿をそのまま残していますが、周辺は公園として整備され、去年夏には敷地内に「大川震災伝承館」も完成。多くの方が足を運ぶ震災遺構となっています。

そんな現在の様子を見ながら、只野さんにお話を伺いました。

◆◆

只野)建物自体は震災後のままですが、けっきょく震災遺構と言いますが、正確に言うと復興庁の予算の公園化の一環で整備したもので、石巻市が震災遺構と言っているだけ。震災遺構は本来で言えば建物を示す表現なんですが、建物には全然お金をかけずそのまま残しましょうという考えのようなのでこういう状態です。周りがこれだけ変わっちゃうと“違うものになっちゃいましたね”という人もいますし、あとは語りの方で上手く説明すればいいのかなと。

高橋)いま「語り」とおっしゃいましたが、11年経って、こういう活動を続けている思いとは?

只野)11年にもなると当時を知らない子供たちが多いのと、やっぱり忘れてきているところが少なからずあったり、いちばん危険性をはらんでいる場所であるわけですから、そこはしっかり学校防災に結びつけて悲劇を繰り返さないように伝えていくかというのを、いかに震災遺構として形あるものとして残したものを、当時はどういう状況で被災したのかとか。悲劇を繰りかえさないようにするにはどのようにしていけばいいのかという学びにつなげるために、どう語りをしていくのかと模索しているような状況です。

高橋)こういう悲しい出来事が起きたことだけでなく“だから繰り返さないでね”と自分事にしてもらうのは、すごく難しいんでしょうね。

只野)難しいんでしょうけど、とは言え語るのも当事者になってから語るなら誰でもできるんですよね。でも当事者にならなくても認識が持てるか持てないか、それで死ぬかで変わってくるわけです。当事者になって欲しくないなと。俺がここで語りを始めるきっかけとなったのは、全国各地から色んな人が来て色んな人が話をしているのを校舎の中で掃除をしてる時に聞かせてもらってたら、“なんで目の前の山に登らなかったんだろう?”という人や、一部ですが中には“山、急だもん。仕方なかったよね”という声も現にあったんです。その認識があったままその人を帰したらマズイわけですよ。その人は少なからず、同じ遺族、被災者になる恐れがあるんです。その人にはなんとか気づきとして“そうじゃないんですよ”というところを学んでいってもらうことを考えています。

2018年撮影。大川小で語り部をしていた只野英昭(右)さんと哲也さん(左)
普段から授業の一環で校舎の裏山に登ることはあって、“なぜ山へ逃げなかったのか?”という当時の現場の判断への疑問は今なお晴れていません。地震発生から約50分後、教師と生徒たちは、近くの新北上大橋のたもとへ避難を始め、そこを川を遡上してきた津波が襲いかかりました。

只野さんの長男の哲也くんはその時、慌てて来た道を引き返し、裏山へ駆け登る途中、津波にのみこまれましたが、山肌に打ち上げられて奇跡的に助かりました。

その後、中高では柔道部に所属。高校では主将も務め、3年生で部活を引退した後、英昭さんも参加する「大川伝承の会」に加わって、語り部を手伝うようになりましたが、“津波に遭いながら生還した児童4人のうちの1人”として何かとメディアに注目される哲也くん、きっとこれまでの11年の間には悩む時期もあったんじゃないかと思いますが、英昭さんは父としてどう向き合ってきたのか。そんな父子の歩みについてもお話を伺いました。

◆◆

只野)思春期ですから本人は往々にありました。一昨年あたりがピークでひどくて、“俺じゃなくてもいいんじゃないか?”、“メディアの取材は「ノー」”と言ってたんですが、去年の夏に、あいつ原爆ドームに行ったんです。そしたら色んな年配の方の説明や語りを聞いたときに、“ちゃんと伝えるためには、伝承するためには『覚悟』が必要なんだよ”とはっぱかけられたんですね、それを言われてから、“やっぱり俺はちゃんとやらないといけないんじゃないか”と腹くくったみたいで、今年の2月には卒業生の仲間を集めて『Team大川 未来を拓くネットワーク』という団体を立ち上げて、代表としていま動いてます。それこそ高知県の黒潮町に行って講和したり、当事者としてできるのは何か? というのをあいつなりに考えて動いているのかなと。しっかり防災の意識をつなげていこうとしているのかなと俺には見えますけど。

高橋)すごい11年ですね。

只野)ホント! 簡単に言うとあの日までに生きてきた11年から、同じ11年が経っているんですね。すごい11年をあいつは生きているんですよ。それはまあ無駄じゃなかったんだろうなと。

高橋)その成長というのはお父さんから見て逞しいなと思われます?

只野)あれやれ、これやれ! という事は基本言わず、放置プレーだったんですが、まあ俺が頑張ってやっているのを見ていればちゃんとやるだろうなと思ってやってきたつもりだったんです。そうやって俺も育ってきたし。

高橋)今の哲也くんをお母さまや妹さんが空から見ていたら“頼もしいな!”と思われるんじゃないですかね?

只野)俺はよく言うんですが、最初はカミさんに怒られると思います。“あんなに哲也に頑張らせて”と。そう言われても仕方ないと思うんで。でもやってることは間違っていなかったんで、だから最終的には“お疲れさん”と言われるだろうなと、そう思っています、ずっと。最初怒られるのは覚悟してます(笑)

高橋)いつも怒られていたんですか?

只野)口ではかなわなかったですね〜


息子哲也くんの成長を嬉しそうに語る英昭さんでしたが、今年23歳になる哲也くん・・・哲也さんは、同世代の仲間と共に、任意団体「Team大川 未来を拓くネットワーク」を設立。悲劇を教訓に変え、命を守るための活動を展開しています。

哲也さんが大きな一歩を踏み出すと同時に、英昭さんも新たな一歩を踏み出しました。
それが、“父の跡を継ぎ、シジミ漁師になる”ということ。

この決意と思いについて伺いました。

◆◆

高橋)今、大川小学校の近く、北上川の河口、すぐそこは海ですね。

只野)現状、シジミ漁師を6月から始めていて、震災後、なんとか見つけて使えるように直した船、一艘、係留しているのが、その船です。

高橋)ちょっと青っぽい船ですかね。震災後、見つかったというのは? この船の歴史を教えていただけますか?

只野)正確に言うと俺とほとんど歳が変わらないです。40年以上は経っていると思います。俺がたしか低学年の時に買った船です。親父が買って使っていた船をまた直して使っている状況です。

高橋)お父様がシジミ漁師さんだったんですね。震災の時はどうなったんですか?

只野)船は5艘あったんですが、いちばん最初に見つけたのがこの船です。6月の初めだったと記憶しています。新北上大橋の上流、1キロくらいのところにありました。ここから4〜5キロ先の上流です。

高橋)見つけたとき、いかがでした?

只野)よもや形として残っているとは思ってもみなかったです。よく残ってたなという話ですよね。

高橋)シジミの話を聞いて、私、シジミの産地と知らなくて、北上川ってたくさん獲れる地域なんですか?

只野)今は少なくなっていますけど、自分が若かりし頃は朝だけで700キロくらいは獲っていたと思います。今は10分の1も獲れていないです。環境が変わっている部分もあると思いますし、あとは獲り方だと思います。ただ獲りゃいいという獲り方をしたら減っていくだけなんで、次の年に繋げるような獲り方をしないと。そこはすごくウチの親父はうるさかったんです。だからウチの方があんまり減らなかったんです。対岸は全然獲れなくなっちゃって。後を考えないで獲り続けるとそうなっちゃうと散々教えられていたんで。そこは今から俺がやっていかないといけない。

高橋)シジミ漁師になったのは、ここ最近とおっしゃっていましたが、その前までは会社に勤められていた?

只野)製紙会社に勤めていて、5月いっぱいで退職して、漁師1年目です。

高橋)どうして今、漁師になろうと思われたんですか?

只野)定年してから出来ないことでもないんですが、あと10年経ったときに俺の身体がどれだけ動くかというのが一つと、10年経ってからスタートしたってどれくらいの漁師になれるかっていう不安もあったのと、そんな贅沢するわけではなく飯食ってくくらいの生活、収穫量は大体確認できていたんで、じゃあ10年後にやるより今から始めて定年してからの10年じゃなくて、その先までしっかりやれるように早い段階からやっていけば長くやれるのかなって。

高橋)いつかは、お父様がやっていたシジミ漁を継ぎたいな、やりたいなという事は思われていたんですか?

只野)じつは震災の年に会社を辞めようと思っていました。1月に辞めて漁師になって、農家もやっていたんで勉強しないと、と。60歳になってからやれよ! と言われてもこっちも困るので、だったら早いうちにちゃんと学んでいってと。なので震災の年の1月に辞めようと思っていました。でも震災が起きて。この辺もめちゃくちゃになって家も無くなったわけですから。いま住んでいるのは市の中心部ですし。ただ(漁の)権利は持ち続けて、いつかやれるだろうという望みはあったので、11年経ってやってみようかなと思いました。

高橋)どうですか? (漁師)1年目は大変ですか?

只野)昔を思い返しながら、親父に船や漁具を預けられてやったのを思い出しながら。ただやるにしても船が一艘しかないものですから、今ある現状の装備でどう収穫するかというところを暗中模索しながらやっているのが現状です。

高橋)船に乗りながら、親父、こうやってたな、と思い出しながら、な感じですか?

只野)お袋も、親父と一緒に選別とか仕事していたので、今は、お袋が川の先生です。

高橋)お話されている顔が楽しそう。楽しんでやってらっしゃいます?

只野)毎日ケンカですけどもね(笑)。でもそれも張り合いがあって。お袋もあと何年できるか分からないですけれども、一応、4代目としてしっかり確立して、いずれ息子の哲也が・・・やるかやらないかは別として・・・どうしようもねぇ〜という時の保険としてとっててあげてもいいのかなと思ったんで。

高橋)お話聴いていると、これからの只野さんの人生の基軸じゃないですが、シジミを獲ることと、語り部をしていくという事が、2本柱となっていくんですかね?

只野)そういう形になっていこうかなと考えています。今は1年目の1年生なので、語り部は二の次、三の次とさせてもらって、(語り部の)依頼は、午後と夕方にしか受けないようにしているんですね。午前中はやっぱり忙しいんで。あとは依頼されてない時でも今日みたいに休漁の時は終日、学校に行って“依頼されない語り部”を始めるというのが俺のスタンスなんで。あといま倉庫を建てようとしているんです。シジミが傷まないうちに近くで選別とかパッケージングとかそういう作業はこっちでやって、それこそ学校から200メートルくらいしか離れていないところがあるんで、仕事を終わらせたら、歩いて語り部をやれたらと思ってます。






シジミ漁師として新たな一歩を踏み出した只野英昭さんのお話。

いまは地元での販売だけですが、いずれは流通に乗せたりネット販売したり、ということも考えていらっしゃるという事でした。

みそ汁は具として食べる、酒蒸しもイケる! というこの大ぶりなシジミ。ぜひ味わってみたいものです。

漁の合間を縫って、とくに午後は大川小で語り部活動も続けるということなので、もしも現地で只野さんを見かけたら声をかけてみてください。「大川伝承の会」メンバーの中でもひときわ体格のいい方なので、すぐにわかると思います!

「Hand in Hand」、「石巻市大川、父の形見の船でシジミ漁に挑む、只野英昭さん」でした。

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