明日エクスプレス村咲絢香

第2話

「三橋莉菜(みつはしりな)を取り戻しに行かないか?」

二階の窓から現れた少女の言葉は頭の中に吸収されずに、ただ表面を流れていった。締め切られた屋内に強風が吹きつけて、鍵がかかっていたはずの窓が開き、そこから見知らぬ少女が入ってきて……。一度におかしなことが起こりすぎている。
 何だ、これは。
「平悠希(たいらゆうき)で間違いないな。今からお前に……」
 誰だ、こいつ。
 未だ、頭が働かない悠希を気にもせずに、少女は一人で話し始める。まるで、言葉が通じない外国人と話をしているようだ。
 腰まで真っ直ぐ伸びた長い黒髪に、白い肌。切りそろえられた前髪から覗く、大きな瞳。何を話しても、人形のように少しも表情を変えない彼女が、より一層恐ろしく感じる。
 ドンッという大きな音で現実に戻る。少女が床を思い切り踏みつけたようだ。
「聞いているのか」
 差し伸べた手を戻して腕を組み、悠希の顔を覗き込む。
 ここではじめて、悠希は自分が震えていることに気が付いた。なぜだかわからないが、目の前にいる人物を自分が怖がっていることは事実だった。
 生唾を飲んで、浅く息を吐く。
「だ、誰だお前。莉菜をどこへやった!?」
 平静を保とうと努力したが、声がわずかに裏返ってしまった。
「先にものを訊いたのは私」
「名乗りもしないで?」
 落ち着け、落ち着け、落ち着け。
 立ち上がろうと腕に力を入れても、体が持ち上がらない。震えているのだ。仕方無く、床に座り込んだまま上目遣いで睨みつけた。動揺しているのを気取られぬように目に力をこめる。
 しばらく睨み合いが続いた後、先に折れたのは彼女の方だった。
「ミクだ。時間調律師をしている」
「時間、ちょうりつし?」
 唇も上手く動かない。
「私は、今から23年後の未来から来た」
 そうか、新手のカツアゲか。
「……へぇ。そう」
 多少馬鹿にした返事を聞いて、少し頭にきたようだ。
「やっぱり話を聞いてなかったのか。仕方ない、もう一度話す」
 23年後の近未来、人類は時空間を移動することが出来る技術を手に入れた。過去や未来へ飛んでその時代のものを見られるようになり、それを活用して歴史を記録したり、未来に起こるはずの環境問題や凶悪犯罪などを未然に防げるようになっていた。しかし、多数の人間が過度に時空間を移動したために歪みが生まれ、過去・現在・未来が繋がらなくなってしまった。そこで生まれたのが『時間調律師』だった。彼らの使命は、もともとあった時空間を取り戻すこと。時空移動したことで変えられてしまった歴史を正したり、それによって変わってしまった未来を元にもどしたりすることが、主な仕事だ。ただ、『時間調律師』は、あまり一般的ではなく、かつては科学者も時空間を移動できたというが、今では時空を移動できるのは彼女たちだけらしい。
「それがあんた?」
「そうゆうことだ」
「若いのに、苦労してんだな」
「…………」
 頬がわずかに引きつるのを、悠希は見逃さなかった。凝視していなければ気付かないくらいの小さな変化だ。何気なく口から出た言葉に、ここまで沈黙されるとは予想だにしていなかった。
「本題に入る。三橋莉菜は無断で時空を移動し、時空を歪めていた。それによって、時空間の保護・修復のため、この時空間から消された」
 徐々に取り戻していた落ち着きも、この言葉で一気に吹き飛んでしまった。ミクは静かに目を伏せた。
 それによって? ということは、やっぱりお前らが莉菜を消したのか?
「消したのは私じゃない。最初にも言ったはず。三橋莉菜を取り戻しに来た、と」
 三橋莉菜を取り戻しに行かないか……ミクは確かにそう言っていた。
「莉菜は、戻って来られるのか?」
 思わず大きな声で尋ねていた。ミクはそれに驚くことなく、深く頷いた。莉菜は戻って来られる……。初対面の人間をこれだけ信じたいと思ったのは初めてだった。
「ただ、取り戻したとしても、ここにいた三橋莉菜とは違う人間になっているかもしれない」
「莉菜を助けられるなら、何でもする」
 ミクを遮って当然のように答えた。
 年下の悠希は、いつも莉菜に助けてもらってばかりだった。その明るさに、気配りに、笑顔に何度救われただろう。度々振り回されることもあったが、今思うと楽しかった日常だ。莉菜と過ごした日々は、悠希にとってかけがえのない宝物だった。
 ミクは床に落ちていた莉菜の赤いマフラーをそっと拾い上げると、悠希に差し出した。
「これは、大事なものだろう?」
 裾に付いているタグには、明るい青色で『RINA M.』と書かれている。
 そう、莉菜はここにいたんだ。確かにいた。
 マフラーを受け取ってぎゅっと握りしめると、悠希は立ち上がった。体の震えはもうない。
「今から1989年7月29日に飛ぶ。とりあえず、靴は履いたほうがいい」
「どうして?」
「行けばわかる」
 床に散乱した物の中から高校指定の中靴を取り出し、急いで履く。そして、莉菜のマフラーを腰に結びつけた。莉菜の存在の証をいつでも身に付けていられるように。
「来い」
 ミクは既に窓の桟に足を掛けていた。
 まさかとは思うが、ミクが二階の窓から来たということは、再びここから出ていかなければならないのか。もしそうならば、当然、悠希もここから出ることになる。
 そんな悠希の心配をよそに、ミクは悠希の手首をがっちり掴むと、そのまま窓の外へ飛び出した。
「ちょっ、待って……うわっ」
 道連れだ、と悠希は声に出さずに叫んだ。

 しっかり瞑っていた目を開けようと思ったのは、予想した痛みではなく、小鳥の可愛らしい鳴き声が聞こえたからだ。目を開けたら家の庭ではなく、森の中にいた。なるほど、だから靴は履いた方がいいのか。
 のどかで、静かで、どこかひんやりとしている。見上げると、天を覆うようにひしめき合う葉の間から、どんよりと鈍色に曇った空が見える。木を這う蔓や倒木に苔を見ていると、森に住むものの生命力の強さを感じられる。
 大きく息を吸う。冷たく、清らかな森の空気は、体の中を綺麗に洗い流してくれるようで気持ちがいい。
「ここが1989年7月29日の……場所は知っているんじゃないか?」
 そう言われて辺りを見回しても、記憶に引っ掛かることはなかった。幼い時にカブトムシやクワガタを採りに行った森は、こんなに傾斜が急じゃなかった気がする。気に入っていた白樺の木も、ここにはない。
「わからないか。ここは……」
 さくっと土を踏みつける音がした。二人のどちらのものでもない、誰かの足音が聞こえる。ミクは反射的に倒木に身を潜める。悠希もそれにならった。
 足音は段々近づき、近くの大木の前で止まったようだ。そこから動く気配もない。何をしているのかが気になったが、ミクは首を横に振る。
 すると、すすり泣く声が聞こえてきた。おそらくそこにいるのは女性だろう。怪談みたいな展開になってしまうのかとびくびくしていたが、そのうち女性は声を上げて泣き始めた。
 聞いている方が、辛くなってしまうような悲痛な泣き声。今まで溜め込んでいたさまざまな思いを一気に放出する様なそれは、川の水をせきとめるダムに似ていた。二人は顔を見合わせるわけでもなく、ただ俯いて聞いていた。ミクは染み入るように目を伏せながら。
 どれくらいの長い時間、その人は泣いただろうか。そう思っていると、女性は走り去ってしまった。途中、転ぶような音も聞こえたが逃げるように去っていった。
 そこからすぐ動き出せるわけがなかった。二人は黙ってかすかな足音を探した。
 女性が去っても、ミクは動こうとしなかった。重い空気を押し上げるように、悠希はそっと立ち上がった。女性がいたと思われる辺りに目をやると、白いタオルに包まれた何かが置いてある。
 そっと近づいた悠希は愕然とした。同時に全てを悟った。白いタオルには、赤ん坊が包まれて置き去りにされていたのだ。
 先程の女性はこの子の母親だろう。置き去りにした母親を責める気持ちが湧いたが、すぐに消えた。きっと、そうしたくなかったに違いない。そうでなければあんな泣き方をしない。まだ乳児のこの子をここに置いていくのは、さぞ苦しかったことだろう。
 悠希は静かに赤ん坊を抱き上げた。やわらかくて温かい。
「ひとつ、悲しいお知らせがある」
 ミクは赤ん坊を大事そうに、優しく見つめた。
「この子は、三橋莉菜だ」
 頭の中ではさまざまな言葉が飛び交うが、実際に口からは何も出なかった。
1989年? 莉菜が生まれたのは1991年の4月だ。今は高校3年生で、18歳で……。
その様子を見て、ミクは返答を求めず、女性が去った方へと歩き出した。悠希も赤ん坊を抱いたまま、よたよたと遅れてついていく。
「三橋修二郎と三橋良子は、三橋莉菜の本当の親じゃない。加えて言うと、里親だから親権も持っていない」
「……俺とも血は繋がってないってことか」
 ゆっくり、自分にも言い聞かせるように話した。
「さっき、三橋莉菜は時空間の保護・修復によってこの時空間から消えたと説明したが、最初から整理して話そう。三橋莉菜は1989年4月8日に生まれ、7月29日にここに捨てられた。そして3日後、誰にも見つからずに亡くなる。本当ならば」
 最後の部分をわざと強調させたのは、彼女なりの優しさかもしれない。
「しかし、不思議なことに三橋莉菜は生きている。自分が助かるであろう時空間へ自分で飛んだ、そうとしか考えられない。普通なら、そんなことは出来ないはずだが。で、飛んだ先が」
「1991年の4月8日……か」
「そう、2年後へ飛んだ。その時空間なら自分が生き延びられるからだ。偶然、山に登った三橋夫妻が置き去りにされた赤ん坊を見つけて拾った。本人がそれに気付いているかはわからないが」
 よくわからないことがあり過ぎて、頭が痛くなってくる。
「……結局、俺は何をすれば?」
「ここは三橋宅近くの山の中だ。もう少し下れば三橋宅だ」
 その言葉通り、ものの5分で山を下り、出た道に沿って歩いていくと、記憶と似たような景色が広がる。あるはずの家がないなどの違いはあったが、たしかにここは家の近所だ。
「三橋莉菜は1989年から1991年に飛んだために、時間調律の対象となった。ということは、その時空間の移動をする前に三橋夫妻と出会ってしまえばいい。そうすれば対象には引っかからないはず。まあ、少しばかり年をとってしまうけど」
 2年戻るって事は、20歳か。
 三橋宅のグレーの屋根が、周りに立っている木の隙間から見えてきた。
「じゃあ、頼みにいけばいいのか。拾ってくださいって」
 玄関の前で止まり、ミクは振り向きざまに言い放った。
「ここに、この子を置いていく」
 ミクの目は真っ直ぐと悠希を見据えていた。一片の曇りもない、真っ直ぐとした目で。 それが逆に、悠希にとって腹立たしく思えた。何も悪いことはしていない、むしろその行為が正しいとでも訴えるようで。
 あの母親と、同じことをしろって?
 あの場面を一番近くで見ていたので、それがどんな思いでの行動か、悲しいや苦しいの一言では表せないほどのものであるか、悠希は知ってしまった。
「時間調律師は、許可された人物としか接触してはいけないことになっている。時間を調律する時、更に時空間を歪めてしまわないようにするために。だから、私は赤ん坊に触れることも、三橋夫妻に会うこともできない。加えて、お前は時間調律師でも何でもない。お前に出来ることは、この三橋莉菜をここに置いていくこと、それだけだ」
 赤ん坊――莉菜は、この状況に不釣合いで、こちらの胸が痛むほどに、赤い頬をして幸せそうに眠っている。顔を近づけると優しくて甘い、乳児特有の匂いがした。
 ふと、莉菜の顔とバスタオルの間に、何かが挟まっているのが見えた。赤ん坊を起こさないように、慎重に取り出すと、それは白い封筒だった。封がされていなかったので中身を覗くと、紙――『莉菜』と書かれていたメモが入っていた。
「母親の最後の愛、かもな」
 その言葉は、悠希の心に重く深く突き刺さった。
 自分は『自宅から通える高校に行きなさい』という親の反対を押し切って、わざわざ下宿までして、行きたい高校に通わせてもらって、したいことをして、自由な生活を送っている。それは親の思いやりであり、愛である。それはきっと、自分がその親の子供である限りずっと続いていくのだろう。どれだけ年を取ってもずっとだ。
 しかし、この赤ん坊の莉菜にはそれがない。三橋夫妻にここで出会わなければ、それを知らずに死んでしまうのだ。
 悠希は自分のいる時空間の莉菜ではなく、今、目の前にいるひとりの人間である莉菜を助けることしか頭になかった。
 この子にも幸せになる権利はあるはずだ――。
 悠希は莉菜を抱きしめ、そのぬくもりを1度だけ噛み締めると、少しだけ進んだところにそっと置いてチャイムを押した。

 もとの時空間に戻ってきた今でも、二人の間には異様な空気が漂っていた。誰が悪いわけでもない。ただ、この感情はどこにも向けることのできないものだ。どこに向けても良いことは何もないということを、どちらもわかりきっていた。
「三橋莉菜は戻っているはずだ。確かめてみればいい」
 この空気に耐えられないのか、ミクは変に饒舌だった。しかし、悠希は何一つ返事をする気になれなかった。
「そういえば、関川健仁(せきかわたけひと)と話していたな。私がここに来る前に。こういうことも相談できるなら、相当仲がいいんだな」
 何が言いたいのだろう、と思いながら莉菜の部屋へと向かった。ミクは既にここを去ろうとする素振りを見せていた。
「まいど。はじめましてん」
 扉を開けて出ようとすると、見知らぬ青年が友好的な笑顔で迎えてくれた。あまりににこやかな笑みを見せるので、この辺りにこんなに若者がいただろうか、と思い返してしまった。こんな田舎だと、若者は進学や就職のために地元から出て行くのである。スーツ姿ということは、近所の帰省してきた息子か?
「ワ、ワタルさん」
 ミクがあらかさまに驚いたようすだ。ミクの知り合いということは、こいつも未来から来たというのだろうか。しかし、彼女の驚き方があまりにも異常だ。早くも額から汗が流れ出している。
「ちょ、どけてくれ。ミク、仕事サボるのもええ加減にせえよ。ちゅーか、えっらいことしてくれたな」
 男が詰め寄ると、同時にミクが後退りする。ワタルさんと呼ばれていた男はいまだ微笑んでいたが、その声音はドスのきいた低いものだった。
「思ったより早かったですね、ばれるのは」
「新人のお守も楽とちがう。けどなぁ……」
 次にこの男が何をするかは目に見えていた。悠希はそれを阻止するべく動いたが、遅かった。気付いたときには、ミクが咳き込みながら床に倒れていた。男はミクの腹に蹴りを入れたのだ。
「先輩はなめるもんとちがうで」
 男は悠希に向き直ると、何もなかったようににっこりとした。初対面のミクも怖かったが、こいつには違う怖さが漂っていた。
「遅れましてん、わしはワタルっちゅうもんで、こいつとおんなじ時間調律師をしとります。どうぞ、よろしゅうたのんます」
悠希に向ける表情と、ミクに向ける表情の豹変ぶりに困惑した。が、あまりにも好意的な笑顔に乗せられて「こちらこそ」と悠希が口を開きかけたとき、思い出したように男が言う。
「ちなみに言うと、三橋莉菜ちゃんはわしが消した」
 開いた口が塞がらないとは、こういうことか。悠希はそう思った。

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蒼き賞
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