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THE ONE 音楽界の偉人を毎週1人ピックアップ。アーティストの持つ世界をみつめます

2011年2月20日(日)
CRAZY KEN BAND
「インターナショナル・プレイガール」
CRAZY KEN BAND
インターナショナル・プレイガール / CRAZY KEN BAND
「タイガー&ドラゴン」のヒットで、多くの人に知られるようになった横山剣さん。「東洋一のサウンドマシーン」と名乗る彼らの音楽は、ロック、ブラックミュージック、ラテン、アジア音楽、そして・・・歌謡曲とありとあらゆる音楽がミックスされ、彼らにしか出来ないオリジナルな世界を作り上げています。また、多くのミュージシャンからもリスペクトされる横山剣さん。彼の魅力は、どこから生まれてくるのでしょうか?
『イイ曲を作って、それを最高の形で納品するのが天職。だからオレは“作曲屋”なんだと思います』クレイジーケンバンドは、そんな、横山さんの頭の中にある「脳内音楽」を、誰もが聴ける形にするサウンドマシーン・・・。横山さんの頭の中にメロディが流れはじめたのは、小学生のとき。両親の不仲で、家庭内がゴタゴタしている頃でした。音楽の先生に、「頭の中に音楽が鳴っている」と訴えてもわかってもらえず、テープレコーダーにアカペラで録音したのが、作曲屋として始まりでした。脳内音楽は次から次へと鳴り響き、学校の音楽室や、団地の集会所のピアノを見よう見まねで弾き、作曲の楽しさに目覚めていきました。譜面の読み書きができないため、鍵盤に記しをつけ、自分なりにノートに書き取るといった、皮膚感覚の作曲。それでも、作曲に没頭することだけが、当時の横山さんの救いでした。祖父母の家に預けられた時は、夜が早く、消灯のスイッチの音が悲しく聞こえ、いよいよ両親が離婚するという時は、両親が横山さんの腕をひっぱり、取り合いになるという、悲しい想い出もありました。母子家庭となり、まわりの偏見に辟易としていた5年生の頃。横山さんは、露店を開く、中古のレコード屋さんを手伝うようになります。ビールケースの中に、和洋中、いろいろなジャンルのレコードを並べてあるだけのお店。ここで、横山さんは、マイクを握って、寅さんのような口上で、実演販売をまかされます。音楽を流して、即興で替え歌を歌うこともあったといいます。報酬はお小遣い程度でしたが、キズがついた不良盤のレコードを段ボールいっぱいにくれることもあり、これが、横山さんの作曲屋魂を燃えあがらせます。キズがついたレコードは、当然、針が飛ぶので、同じフレーズを何度もループしてしまいます。横山さんは、そこに目をつけて、繰り返し部分をカセットテープに録音して、それをバッグに歌をのせて、曲を完成させたりもしていたそうです。こうした経験によって、後のクレイジーケンバンドが持つさまざまなジャンルが融合したサウンドを手にしていったのです。
「ロサンゼルスの中華街」
CRAZY KEN BAND
ロサンゼルスの中華街 / CRAZY KEN BAND
プロの作曲家になることを決め、高校へ進学した横山さん。しかし、長続きせず、いくつかの高校を転々とし、結局は自主退学。地元横浜ではケンカを売られることも多く、警察のお世話になって、お母さんが頭を下げている姿を、何度となく見てきたといいます。親不孝で、中途半端な自分に腹が立つことも多かったという青春時代。でも、そんな横山さんが、最終的にドロップアウトしなかったのは、やはり作曲への熱い思いがあったからでした。他はどうでも“作曲だけは!”という気持ちから、ガソリンスタンドや古着屋など、さまざまな仕事に就きながら、空いた時間で、作曲活動。誘われるままに、バンドのメンバーになり、ライブ活動をはじめたのも、この頃。二十歳で、舘ひろしさんが脱退した“クールスRC”に加入し、レコードデビューしたこともありましたが、これも3年ほどで脱退し、迷走の日々が続きました。バンドが続かない原因はいろいろありましたが、一番は、横山さんの脳内音楽を、限られたメンバーで表現することが難しかったから。
『バンドは、音楽を実現させるための、ひとつの手段でした。バンドをやるために音楽があるわけじゃない。その優先順位を履き違えると、バンドが“しがらみ”に変わるんです。』そして、横山さんは、こう決意します。『自分が自分のパトロンになって、自分の音楽活動を支援しよう』
34歳の時、横山さんは一般の企業に就職しました。音楽をやめるのではなく、生活の基盤を作って、好きな音楽をやるために。それから、会社をやめるまでの8年間が、横山さんにとっての修業時代でした。仕事は、横浜の港で、輸出用の貨物をチェックする検査官。スピードと正確性が要求される、責任とプレッシャーのある仕事です。それでもカラダを動かしていると、自然とメロディが浮かんできて、作曲がはかどったそうです。週末は、現在のクレイジーケンバンドの創設メンバーとライブ。貯めたお金で、スタジオを借り、アルバムを制作しました。レコード会社も自ら設立し、すべての作業を自分の手で行ったのです。CDの売り上げは製作費を回収できる程度だったといいますが、こうして着々と、現在のクレイジーケンバンドが確立していきました。そして2002年、42歳の時にリリースしたアルバム「グランツーリズモ」がスマッシュヒット。この頃から、横山さんへ楽曲提供の話が舞い込むようになり、横山さんは、作曲屋になる長年の夢を、見事に叶えたのです。
「あ、やるときゃやらなきゃダメなのよ。」
CRAZY KEN BAND
あ、やるときゃやらなきゃダメなのよ。 / CRAZY KEN BAND
複雑な家庭の事情で、グレてしまった青春時代。高校は転々として中退。当然、卒業証書はもらっていません。でも、そんな横山さんに、校歌を作曲して欲しいという話が舞い込みました。依頼主は、横浜市立港高校。横山さんが編入する予定だった高校です。学校が生まれ変わり、学校名を「みなと総合高校」に変えることから、新しい校歌の作曲依頼がきたのです。横山さんに決まったのは、生徒たちによる投票。横山さんは、それを卒業証書以上の栄誉だと感じたそうです。その校歌は今、生徒たちによって歌い継がれています。
淋しかった少年時代、そして、なかなか芽がでなかった修行時代も、作曲屋になりたい一心で乗り越えてきた横山さん。『やればできるよ できるよやれば』というフレーズが、今、心に響きます。
今夜は、クレイジーケンバンドの横山剣さんをピックアップしました。

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