しかし、そんな状況の中で、降谷さんは『壁を作っていたのは、自分の方だったかもしれない…』と思うようになります。気付かせてくれたのは、活動して行く中で知り合った、他のバンドマンたち。彼らは、音楽が好きな気持ちや、自分の曲が認められた時の嬉しさを、素直に口にしていました。そんな彼らが、降谷さんには眩しく見えたのでしょう。自分は、バンドが楽しくてしかたないのに、防御線をはっていた。誤解されかねない乱暴な言葉を発して、壁を作っていたのは、自分自身だった…。それからの降谷さんは、素直な気持ちで曲を紡ぐように変わっていきます。すると、先ほどお送りした『陽はまたのぼりくりかえす』がオリコン上位にランクイン。徐々にリスナーに受け入れられるようになるのです。
HIP HOPとロックを融合させた音楽をメジャーにし、ミクスチャー・ロックを牽引する存在となったDragon Ash。1999年、3rdアルバム『Viva La Revolution』はオリコンチャート1位を獲得し、200万枚を超える大ヒットとなりました。しかし、“出る杭は打たれる”もの。さまざまな音楽要素をミックスすることは、批判の対象にもなり、特に降谷さんは、俳優・古谷一行の息子ということだけが取りざたされ、不愉快な思いをすることもありました。『売れたら売れたで、問題が出て来た。だからこそ、Dragon Ashはやめられない』そんな思いが、その後の創作活動を後押ししていきます。アルバムを出すごとに、ガラリとサウンドを進化させ、ラテンの要素なども大胆に取り入れるようになったDragon Ash。気がつけば、こうしたミクスチャー・ロックが当たり前の時代がやってきていました。『百の敵を作ることを恐れていては、千の味方も作れない』。降谷さんは、賛否両論を受けとめ、千以上の味方を作っていったのです。