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THE ONE 音楽界の偉人を毎週1人ピックアップ。アーティストの持つ世界をみつめます

2011年6月19日(日)
越智志帆(Superfly)
「My Best Of My Life」
Superfly
My Best Of My Life / Superfly
151cmという小柄な体からは想像もつかないほど、パワフルでスケール感のある歌声を持つ志帆さん。来週には、3枚目のアルバム「Mind Travel」をリリースし、デビュー5年目の活動をスタートさせます。60年代から70年代のロックを愛し、『東京ドームでライブ』という大きな目標を掲げるSuperfly。その中で、志帆さんは今、どんな愛に包まれているのでしょうか?
『自分の心の底に、モンスターが潜んでいるみたい』日頃は大人しいのに、ステージに立つと大胆でパワフルになる、そんな自分を語る時、志帆さんは、たびたびモンスターの存在を口にします。幼い頃は、引っ込み思案。友達と一緒にいても、自分だけ、遠く離れたところにいるようで、なんとなく居心地が悪い思いをしていました。三姉妹の真ん中で、姉妹の中ではもっとも元気なのに、外に出ると自分を表現できず、モンスターが、外に出たいのに出られないような感覚。“このままでは、自分の個性が生かせない…、そんな風に思い悩んでいたそうです。志帆さんが、人前で歌うことに目覚めたのは中学2年生の時。音楽の授業でゴスペルを歌ったところ、先生から学校のイベントで歌うように勧められ、同級生5人でステージへ。全校生徒の前で披露したのです。すると、ステージとなった体育館は、割れんばかりの拍手!人前で、はじめて自分を表現できた、この時から志帆さんにとって歌は、唯一無二の存在になったのです。
『一人が出せる声は一音だけ。でも、大勢で歌えば、大きな声の束になって力を発揮する』そう思った志帆さんは、高校に入学した頃から、バンドに興味を持ちはじめ、ライブハウスに「バンドメンバー募集!」の貼り紙をして、積極的に活動をはじめます。高校時代は、毎日のようにバンドメンバーと練習する日々。短大に入ると、よその大学の軽音サークルに顔を出すようになりました。ここで知り合ったのが、Superflyの生みの親、多保孝一さん。Superflyは、もともと多保さんがボーカルを務めていたバンドでしたが、自分が歌うことに限界を感じていた多保さんが、志帆さんにラブコール。こうして志帆さんは、Superflyの一員となりました。それまでの志帆さんは、ガールズポップ調の曲を歌っていたそうですが、多保さんと出会い、60年代から70年代のロックに開眼!多保さんがMDに入れてくれた、ジャニス・ジョップリンや、キャロル・キング、ローリング・ストーンズに、どんどん傾倒していきます。それはまるで、音楽にすがっているようだったといいます。“音楽があったから、自分を表現し、人とつながることができた”志帆さんのこの思いは、その後、音楽を吸収するパワーになり、自分の声や歌い方を追求していく、原動力になっていきました。
「ハロー・ハロー 」
Superfly
ハロー・ハロー  / Superfly
2004年、志帆さんの加入により、新しくなったSuperfly。その後、メンバーはそれぞれの音楽を求め旅立ち、気づけば志帆さんと多保さん、二人だけのユニットになっていました。それでも3年後には、見事メジャーデビュー。志帆さんは「東京ドームでライブ!」という夢に、一歩近づいたのです。デビュー当初、ステージで見せたパフォーマンスは音楽関係者の中でも話題にのぼり、志帆さんも自分の中のモンスターを、思いっきり解放して、音楽で多くの人とつながる喜びを実感していました。
ところが、デビューから半年後、志帆さんにとって思いがけない転機がやってきます。多保さんが、Superflyの表舞台から退き、コンポーザーに徹することになったのです。これまで同様、作曲やアレンジを支えてくれても、Superflyは事実上、志帆さん一人になってしまったのです。この時、頭を悩ませたのは、『Superfly』という音楽性。Superflyは、もともと多保さんがライブをする時に使っていたバンド名で、そこには、“クールでカッコイイ音楽”というスピリットが脈々と流れていました。だからこそ、志帆さんや他のメンバーも、そんな音楽を追究してきたわけですが、志帆さん一人になった時、“その音楽性を引き継ぐだけでいいのか?”“そもそも、自分は、音楽で何を伝えらいいのか?”改めて、考える必要が出てきたのです。カッコイイだけでは、20代の女性が抱える悩みや弱さを表現することはできません。この葛藤は、志帆さんの中でしばらく続き、心の澱となって溜まっていきます。さらに、一人になったことで、自分の中にある音楽をスタッフに伝えることなど、やらなければならないことが増えていきました。作詞も、その中のひとつ。特に「愛を込めて花束を」の作詞には、苦い想い出があるといいます。この曲は、Superflyブレイクのきっかけとなった大ヒット。しかし、志帆さんはこの曲の作詞にあたり、技術が追いつかず、すべての言葉を自分で綴ることができなかったのです。そういう曲がヒットしてしまった後ろめたさ…この悔しさが、今も心に残っているというのです。だからこそ、その後は、自分が歌う歌は、100%気持ちをのせられるよう自分で書くことにこだわり、作詞の技術も磨いていきました。一人になって不安はあっても、立ち止まっているわけにはいかなかったのです。
「タマシイレボリューション」
Superfly
タマシイレボリューション / Superfly
そもそも、志帆さんが東京ドームでライブをしたいのも、メジャーでトップになりたいと目標を掲げてきたのも、すべては誰かを喜ばせたいから。高校時代、ライブを見た友人から、「すごく、パワーが出た」と褒められ、はじめて、 取り柄のない自分でも人の心を動かすことができるということに気づいた志帆さん。その瞬間から志帆さんは、誰かのために歌おうと、決意していたのです。一人になっても、Superflyの歌を待っていてくれる人はきっといる。そんな思いがわき起こり、それが自信となって、志帆さんの背中を後押ししたのです。
できるだけ多くの人と繋がりたい。多くの人の笑顔が見たい。その思いが、音楽を続ける原動力となっている志帆さん。5万人以上収容できる東京ドーム公演は、その思いを実現できる最高の場として、今も志帆さんの目標となっています。そのためには、観客のエネルギーを受け止めて、跳ね返せるアーティストにならなければ。志帆さんは、そう思い、今もパワフルに突き進んでいるのです。
今夜は、Superflyの越智志帆さんをピックアップしました。

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