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THE ONE 音楽界の偉人を毎週1人ピックアップ。アーティストの持つ世界をみつめます

2011年7月17日(日)
キマグレン
「あえないウタ」
キマグレン
あえないウタ / キマグレン
アーティスト活動と共に、逗子で、海の家のライブハウス『音霊(OTODAMA)SEA STUDIO』を経営するキマグレン。彼らはいま、どんな愛をもって活動しているのでしょうか。『俺たちって、出会うことが、決められていたんじゃないかな。』15才の時、逗子のスイミングスクールで出会ったKUREIさんとISEKIさん。そんな二人が、「出会うと決められていた」と思うまでには、お互いに、さまざまな出来事がありました。KUREIさんは、リベラルな両親の元で育ち、5才の頃から母親に連れられ、カナダ、アメリカ、ヨーロッパを転々として育ちます。中学生の頃、テレビを見ていて『タスマニア・デビルって、スゴイんだね』と、誰に語るでもなくつぶやいたところ、その数日後、なんの前触れもなく、タスマニアに留学させられた・・・そんなこともありました。財産を残さない代わり、“知的武装”を施す…これが父親の教育方針。頑固一徹の父に、理不尽さを感じながらも、KUREI少年は従うほかなかったそうです。そんな、日本と海外を行ったり来たりの生活の中で、出会ったのがISEKIさん。しかし、知り合った当初は、大勢いるスイミング仲間の一人。特別仲良しではありませんでした。
一方、ISEKIさんは小学4年生の時、家族で行ったカラオケが、歌に目覚めるきっかけ。「歌うのって気持ちいいなぁ」と思い、中学ではギターを練習。学校の催しで「STAND BY ME」を歌ったところ、拍手喝采。“また誰かの前で歌いたい”と、高校からバンド活動を開始しました。大学では授業そっちのけで音楽にのめりこみ、3年で中退。親から家を出て行けと言われ、兄の家に転がりこんでも、バンド活動を続けました。しかし、当時所属していたのは、プロへの誘いもあるほど、将来有望なバンド。練習が厳しく、音楽に対してストイック。ISEKIさんは、自分の作った歌をけなされ、徐々に自信を失ってしまうのです。結局、そのバンドを辞め、友人のレゲエ・バンドに誘われるまま参加し、「気まぐれ」という名前で、ひとりで歌うようにもなりました。そんな時、KUREIさんから、1本の電話。『一緒に海の家やらない?』という誘いに、なんだか面白そうと、二つ返事で引き受けたのです。KUREIさんは、高校からバンド活動を始め、大学卒業後もバンドをやり続けたいと思っていました。しかし、アルバイトでは生活がままならないため、企業に就職。そんなある日、砂浜で寝ころんでいると、ふいに、「海の家って楽しそう。そこでライブをやったら、もっと楽しそう」と思い立ったのです。さっそく、多くの友人に電話をして誘うのですが、断られるばかり。唯一、快く返事をしてくれたのが、ISEKIさんだったのです。こうしてスタートした、海の家のライブハウス。しかし、海の家の経営は、ほんの少し社会人経験があるだけの若者と、就職さえしたことのない若者には、簡単なものではありません。この後、大きな試練が二人を待ち受けていたのです。
「two友」
ゆずグレン
two友 / ゆずグレン
出資者を見つけ、やっと開業した海の家。しかし夏の間オープンし続ける海の家に、毎日、アーティストをブッキングすることは、並大抵のことではありません。音楽業界にコネがあるわけでもなく、オファーはすべて飛び込み営業。アーティストが決まっても、宣伝まで手がまわらず、お客さんは集まりません。出資者からは毎日のように責められ、アルバイトからも不満の声があがります。KUREIさんとISEKIさんが一緒に歌うことになったのも、実は、アーティストをブッキングしきれず、穴埋めするため。2人で出演すれば、とりあえず、地元の友達が集まってくれるかもしれない…そんな想いから。「ライブのグレードより集客人数」。その頃の2人は、アーティストというより経営者としての考えが先にたっていたのです。しかし、これが一層、出資者の怒りを買い、アルバイトからの信頼も失うきっかけになります。周りには、2人の行動が遊び半分にしか映らなかったのでしょう。結局、1年目の海の家は大失敗。2人は多額の借金を抱え、秋を迎えたのです。2年目の海の家は、さすがに開業をためらいました。しかし、このままでは終われないと思ったKUREI さんは、再び、ISEKIさんに声をかけてみるのです。すると、またもやISEKIさんは二つ返事。そう、この頃の2人には辛い時を共に過ごし、やり抜いたものだけに芽生える、強い絆があったのです。さらに、2度目の夏を決意させた最大の理由、それははじめて「キマグレン」としてステージに立った時に見た、観客の涙でした。この涙を見た時から、昔の苦い経験がトラウマとなり「音楽は真剣にやらない」と言っていたISEKIさんの気持ちが変化。「歌で人の心を動かすことができるなら、歌い続けたい…」そう思うようになっていったのです。
「1年目の失敗は繰り返さない」。そうスタートさせた2年目の夏。そんな2人を見守り、アドバイスしてくれる存在と出会い、2人は2年目、3年目の夏を終え、メジャーデビューの機会を得るのです。デビューなど目指していなかった2人ですが、セカンド・シングル『LIFE』は大ヒット。一躍、有名アーティストの仲間入りを果たし、真剣に音楽に取り組む楽しさにも目覚めます。『キマグレンって、ふたりぼっちだなと感じる瞬間が、いっぱいある』という2人。『神様が、本当は一人だった人間を、二人に分けたんじゃないか』そう思うほど、強い絆で結ばれているキマグレン。2人の音楽は、友情を超えた、寛き愛で包まれているかのようです。
「蛍火」
キマグレン
蛍火 / キマグレン
今度の水曜日にリリースされる、彼らのニューシングル「蛍灯(ほたるび)」。この歌詞は、培ってきた“誇り”という“心の中の光”を忘れないで欲しいという気持ちで、震災後にKUREIさんが書き下ろしたものです。アーティストと経営者、二足のわらじを履くことで、両立に苦しみ、誰にも理解してもらえないと思うことが多かったという2人。でも、ラッキーなのは、キマグレンは、ひとりじゃないこと。辛い状況から這い上がるには、どうすればいいのか?2人はお互いをカバーしあい、マイナスをプラスに変えて、アーティストと経営者という立場を両立させています。
そして今年。震災直後は、さすがに海の家をオープンさせるかどうか悩んだそうですが、「もう一度、海を好きになってもらいたい」「海を怖がらないでほしい」という思いと、二人で培ってきた「海の家・音霊(OTODAMA)」という誇りを、ここで失いたくないという思いで、オープンを決意したそうです。常に同じ方向を見て前に進むキマグレン。二人の心の中の光は、これからもずっと輝き続け、海を愛し、夏を愛する人々の心に、光を灯し続けるのではないでしょうか。
今夜は、キマグレンをピックアップしました。

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