アーティスト活動と共に、逗子で、海の家のライブハウス『音霊(OTODAMA)SEA STUDIO』を経営するキマグレン。彼らはいま、どんな愛をもって活動しているのでしょうか。『俺たちって、出会うことが、決められていたんじゃないかな。』15才の時、逗子のスイミングスクールで出会ったKUREIさんとISEKIさん。そんな二人が、「出会うと決められていた」と思うまでには、お互いに、さまざまな出来事がありました。KUREIさんは、リベラルな両親の元で育ち、5才の頃から母親に連れられ、カナダ、アメリカ、ヨーロッパを転々として育ちます。中学生の頃、テレビを見ていて『タスマニア・デビルって、スゴイんだね』と、誰に語るでもなくつぶやいたところ、その数日後、なんの前触れもなく、タスマニアに留学させられた・・・そんなこともありました。財産を残さない代わり、“知的武装”を施す…これが父親の教育方針。頑固一徹の父に、理不尽さを感じながらも、KUREI少年は従うほかなかったそうです。そんな、日本と海外を行ったり来たりの生活の中で、出会ったのがISEKIさん。しかし、知り合った当初は、大勢いるスイミング仲間の一人。特別仲良しではありませんでした。
一方、ISEKIさんは小学4年生の時、家族で行ったカラオケが、歌に目覚めるきっかけ。「歌うのって気持ちいいなぁ」と思い、中学ではギターを練習。学校の催しで「STAND BY ME」を歌ったところ、拍手喝采。“また誰かの前で歌いたい”と、高校からバンド活動を開始しました。大学では授業そっちのけで音楽にのめりこみ、3年で中退。親から家を出て行けと言われ、兄の家に転がりこんでも、バンド活動を続けました。しかし、当時所属していたのは、プロへの誘いもあるほど、将来有望なバンド。練習が厳しく、音楽に対してストイック。ISEKIさんは、自分の作った歌をけなされ、徐々に自信を失ってしまうのです。結局、そのバンドを辞め、友人のレゲエ・バンドに誘われるまま参加し、「気まぐれ」という名前で、ひとりで歌うようにもなりました。そんな時、KUREIさんから、1本の電話。『一緒に海の家やらない?』という誘いに、なんだか面白そうと、二つ返事で引き受けたのです。KUREIさんは、高校からバンド活動を始め、大学卒業後もバンドをやり続けたいと思っていました。しかし、アルバイトでは生活がままならないため、企業に就職。そんなある日、砂浜で寝ころんでいると、ふいに、「海の家って楽しそう。そこでライブをやったら、もっと楽しそう」と思い立ったのです。さっそく、多くの友人に電話をして誘うのですが、断られるばかり。唯一、快く返事をしてくれたのが、ISEKIさんだったのです。こうしてスタートした、海の家のライブハウス。しかし、海の家の経営は、ほんの少し社会人経験があるだけの若者と、就職さえしたことのない若者には、簡単なものではありません。この後、大きな試練が二人を待ち受けていたのです。