第十六話軽井沢クリスマス・ストーリー
早くから宣教師たちが移り住んだ軽井沢は、いわば、日本におけるキリスト教信仰の聖地です。
1921年に開かれた『芸術自由教育講習会』を原点にできたのが、軽井沢高原教会。
その理念は、「遊ぶことも善なり、遊びもまた学びなり」。
文化を育てるのは、遊ぶ心なのだということを教えてくれました。
教会前のツリーは無数のキャンドルで彩られています。
教会の中に響いているのは、ハンドベルの音。
まるで天使が降りてくるのを祝福するような音色が、透き通った空気に溶けていきます。
軽井沢のクリスマスには、奇跡が起こりそうです。
今週は、そんな軽井沢を舞台にした二つのストーリーをご用意しました。
万平ホテルに到着したのは、夜だった。
冷たいものが頬をかすめる。雪だった。
コートを着たまま、ロビーを抜けた。
散々な一日を少しでも忘れたくて、バーに入った。
木のドアを開ける。ふわっとオレンジ色の優しい光に包まれた。
カウンターに座る。店内は混み合っていた。無理もない。
今夜はクリスマスイブだ。
「ジントニックを」
バーテンダーは、ニッコリ微笑んで、うなづいた。
まとまるはずの商談がうまくいかなかった。
わざわざ東京からやってきたのに、あてがはずれた。
この企画を通すことだけが今年最大にして最後のミッションだった。
「そんな飲み方をするな、酒に失礼だ」
隣の紳士が話しかけてきた。ウィスキーをストレートで飲んでいる。
白髪を綺麗に後ろになでつけていた。
「一度、深呼吸してみなよ。大きく吐けば、たくさん入ってくるよ、新しい酸素が」
不思議と嫌な感じはしなかった。横柄のようで気遣いを感じた。
むしろ彼のたたずまいにホッとしている自分がいた。
「ちょっとまあ、その、仕事でいろいろありまして」
素直に言った。
「いろいろあるから仕事なんだ。いいか、人に好かれようと思って仕事するなよ、むしろ半分の人間に積極的に嫌われるように努力しないと、いい仕事なんて、できない」
毅然としていた。なんだか、気持ちがよかった。
トイレから戻ると彼の姿は消えていた。
「ここにいた紳士、常連さんですか?」とバーテンダーに尋ねる。
「え?ここに?いえ、ずっと空席ですよ」
紳士の風貌を伝えると、バーテンダーは、ポツリと言った。
「それってまるで、白洲次郎さんだな」
紳士の声が遠く聴こえたような気がした。彼はこう言った。
「BAR is open!メリークリスマス」
JR軽井沢駅の構内には、サテライトスタジオがある。
地元の人に愛される放送局、FM軽井沢。
その名誉会長を務めるのは、元万平ホテルの会長、佐藤泰春だ。
佐藤の動物好きは有名だった。
特に犬。浅間山を近くに臨む北軽井沢の山中に、約3000坪の邸宅を持つのは、全て犬のためだった。ブルドック、ラブラドール、大中小合せておよそ40頭を飼っている。
もともと犬好きだったが、これほど集まったのにはわけがある。
夏の間別荘で飼われていた犬が、成長し、マンションで飼えなくなる。佐藤を頼り預けるひと、家の前に捨てていくひともいた。
かつては万平ホテルにすみついた野良猫を自費で飼っていたこともある。情に熱い、優しい佐藤の人柄が垣間見える。
それは、軽井沢に何度目かの雪が降る寒い夜だった。
佐藤の家のドアをノックするものがいた。
「はい?」
家人と目を合わす。こんな時間に誰だろうか。
ドアを開けると、外国人の年老いた男性が申し訳なさそうに立っていた。
「牧師さんだろうか」佐藤は思った。
「どうか、されましたか?」
尋ねると、
「大型犬を、散歩させていただけませんか?」
日本語は流暢だった。
「今から、ですか?」
「ええ、今から」
「それはかまいませんが・・・」
悪い男には見えなかった。
佐藤は、何頭かを老人に差し出した。
数時間後、老人は犬を返しにきた。
「ありがとうございました。助かりました。ここの犬は、あれですね、大事にしてもらっていますね。よくわかります。ええ、幸せなワンちゃんたちです」
笑顔で言った。
「困ったものを助ける。弱いものを大切にする。なかなかできるようでできないものです。あなたは、素晴らしいことをしておいでだ。私は世界中を飛び歩いていて、気がついたことがあります。ひとは、全部、自分のしたことを受け取るだけです。プレゼントされるものは、かつて自分が誰かにあげたものです」
翌朝、佐藤はある異変に気がついた。
老人に散歩させた犬たちの首に、鈴がついていた。
それはまるでクリスマスにトナカイがつけるような。
「トナカイが怪我でもして、急きょ、ウチのワンちゃんを借りたんじゃない?」
家人が笑った。
あんがい、そうかもしれない。佐藤も、思った。
大きな犬たちは、うるんだ瞳で佐藤を見た。
まるで昨夜飛んだ夜空を思い出すように。
1921年に開かれた『芸術自由教育講習会』を原点にできたのが、軽井沢高原教会。
その理念は、「遊ぶことも善なり、遊びもまた学びなり」。
文化を育てるのは、遊ぶ心なのだということを教えてくれました。
教会前のツリーは無数のキャンドルで彩られています。
教会の中に響いているのは、ハンドベルの音。
まるで天使が降りてくるのを祝福するような音色が、透き通った空気に溶けていきます。
軽井沢のクリスマスには、奇跡が起こりそうです。
今週は、そんな軽井沢を舞台にした二つのストーリーをご用意しました。
万平ホテルに到着したのは、夜だった。
冷たいものが頬をかすめる。雪だった。
コートを着たまま、ロビーを抜けた。
散々な一日を少しでも忘れたくて、バーに入った。
木のドアを開ける。ふわっとオレンジ色の優しい光に包まれた。
カウンターに座る。店内は混み合っていた。無理もない。
今夜はクリスマスイブだ。
「ジントニックを」
バーテンダーは、ニッコリ微笑んで、うなづいた。
まとまるはずの商談がうまくいかなかった。
わざわざ東京からやってきたのに、あてがはずれた。
この企画を通すことだけが今年最大にして最後のミッションだった。
「そんな飲み方をするな、酒に失礼だ」
隣の紳士が話しかけてきた。ウィスキーをストレートで飲んでいる。
白髪を綺麗に後ろになでつけていた。
「一度、深呼吸してみなよ。大きく吐けば、たくさん入ってくるよ、新しい酸素が」
不思議と嫌な感じはしなかった。横柄のようで気遣いを感じた。
むしろ彼のたたずまいにホッとしている自分がいた。
「ちょっとまあ、その、仕事でいろいろありまして」
素直に言った。
「いろいろあるから仕事なんだ。いいか、人に好かれようと思って仕事するなよ、むしろ半分の人間に積極的に嫌われるように努力しないと、いい仕事なんて、できない」
毅然としていた。なんだか、気持ちがよかった。
トイレから戻ると彼の姿は消えていた。
「ここにいた紳士、常連さんですか?」とバーテンダーに尋ねる。
「え?ここに?いえ、ずっと空席ですよ」
紳士の風貌を伝えると、バーテンダーは、ポツリと言った。
「それってまるで、白洲次郎さんだな」
紳士の声が遠く聴こえたような気がした。彼はこう言った。
「BAR is open!メリークリスマス」
JR軽井沢駅の構内には、サテライトスタジオがある。
地元の人に愛される放送局、FM軽井沢。
その名誉会長を務めるのは、元万平ホテルの会長、佐藤泰春だ。
佐藤の動物好きは有名だった。
特に犬。浅間山を近くに臨む北軽井沢の山中に、約3000坪の邸宅を持つのは、全て犬のためだった。ブルドック、ラブラドール、大中小合せておよそ40頭を飼っている。
もともと犬好きだったが、これほど集まったのにはわけがある。
夏の間別荘で飼われていた犬が、成長し、マンションで飼えなくなる。佐藤を頼り預けるひと、家の前に捨てていくひともいた。
かつては万平ホテルにすみついた野良猫を自費で飼っていたこともある。情に熱い、優しい佐藤の人柄が垣間見える。
それは、軽井沢に何度目かの雪が降る寒い夜だった。
佐藤の家のドアをノックするものがいた。
「はい?」
家人と目を合わす。こんな時間に誰だろうか。
ドアを開けると、外国人の年老いた男性が申し訳なさそうに立っていた。
「牧師さんだろうか」佐藤は思った。
「どうか、されましたか?」
尋ねると、
「大型犬を、散歩させていただけませんか?」
日本語は流暢だった。
「今から、ですか?」
「ええ、今から」
「それはかまいませんが・・・」
悪い男には見えなかった。
佐藤は、何頭かを老人に差し出した。
数時間後、老人は犬を返しにきた。
「ありがとうございました。助かりました。ここの犬は、あれですね、大事にしてもらっていますね。よくわかります。ええ、幸せなワンちゃんたちです」
笑顔で言った。
「困ったものを助ける。弱いものを大切にする。なかなかできるようでできないものです。あなたは、素晴らしいことをしておいでだ。私は世界中を飛び歩いていて、気がついたことがあります。ひとは、全部、自分のしたことを受け取るだけです。プレゼントされるものは、かつて自分が誰かにあげたものです」
翌朝、佐藤はある異変に気がついた。
老人に散歩させた犬たちの首に、鈴がついていた。
それはまるでクリスマスにトナカイがつけるような。
「トナカイが怪我でもして、急きょ、ウチのワンちゃんを借りたんじゃない?」
家人が笑った。
あんがい、そうかもしれない。佐藤も、思った。
大きな犬たちは、うるんだ瞳で佐藤を見た。
まるで昨夜飛んだ夜空を思い出すように。
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