NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

今、仕事も家庭も自分磨きにアクティブな生き様を実践する女性達。そんな女性達がいつまでも輝く心と勇気を失わず、体も心も健康な毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを送るのが、このノエビア カラーオブライフ。「生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと」をテーマにした、トークや音楽、話題、情報などが満載です。

TOKYO FM

NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

唐橋ユミ

今、仕事も家庭も自分らしく、いきいきと生きる女性たち。いつまでも輝く心を失わず、心も体も充実した毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを伝えます。“生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと”をテーマにした、トークと音楽が満載のプログラムです。

Guest市毛良枝さん

市毛良枝さん

文学座附属演劇研究所、俳優小劇場養成所を経て、1971年ドラマ「冬の華」でデビュー。
以後、NHK大河ドラマ『独眼竜政宗』、ドラマ『やまとなでしこ』『白い巨塔』、映画『ラーゲリより愛を込めて』『明日を綴る写真館』など映画・テレビ・舞台と幅広く活躍。現在は、執筆活動や講演も行っている。

これからの夢、年齢にとらわれない生き方

2025/11/29
来年、デビュー55周年を迎える俳優・市毛良枝さんのライフストーリー。
今日は、これまで演じられた役、そしてこれからの挑戦など、お話を伺いました。

◆お嫁さん役から祖母役へ、54年の軌跡
デビューから54年、来年55周年を迎える市毛良枝さん。
「50年でびっくりしましたけど、次の階段ありましたね。あっという間です、本当に」
と振り返ります。

お嫁さん役から母親役、そして祖母役へと役柄も変化してきた市毛さん。
「やっぱり特に子供たちがスターばかり」という共演者リストは、今では孫リストになったのだとか。

しかし、おばあさん役を特に意識したわけではないと言います。
「今回も特に意識したわけではないので、自然に豆原さんと一緒にその書かれている世界を演じました。結果として、普段も孫とおばあちゃんみたいだね、なんて言ってましたけど、でも喋ってる内容は彼が筋肉トレが好きな人で、たまたまそんな話をしてくださったんです。私もちょっとそういう傾向があるので、2人で筋肉談義してました」

◆意外な役柄への挑戦
これまでに演じた役柄の中で、最近特に印象的だったのがラジオドラマでの役。
「最近、めったに私にこないような役があったんですね。ラジオだったんですけど、高飛車ないやな女だったんです」
居酒屋チェーンの会長という設定だったそうですが、
「結構上から喋るんで、それはやってて『私この役楽しい』と思ってやってました。一緒にやってる方も珍しいですよね、こういうのって言ってくださって」と楽しそうに振り返ります。
「顔が映るとなかなかこういう役はいただけないので、声だけだとすごい楽しい」とも。

◆女性の役柄の限界について
「もっとそういう役がたくさんあればいいのに」と思うという市毛さん。

「日本って女性の役割がそういうところに限られてしまって、年をとって、会長になると、すぐ男性だと思っちゃうんですよね。部長って肩書きとかも優先的に男性と思ってしまうような文化があって」

「女性が今これだけ世の中で活躍していても、女性の会長の話とかなかなか来ないので、そういうその家庭の役割になっちゃうんですよね」

私生活では企業家の女性の友人も多いという市毛さん。
「こんなにバリバリ働いてる人がいるのにどうしてドラマの中だけは相変わらずなんだろうなってちょっと思いますね」と語ります。

◆声の可能性、朗読への挑戦
現在、市毛さんが力を入れているのが朗読。
「朗読劇を作ったりしていて、やっぱり声だけっていうのがすごく面白い。顔が映っちゃうとちょっと制限されるというか、なかなか偉そうな役とか超ゴージャスなとかが来ないので。
でも、声だけだとなんとでもできる。私でも180cmくらいの女の人の役ができるわけですね、声だけだったら。そんな可能性がすごく好きなので、ラジオドラマとか楽しくやっております」

◆座右の銘は登山家・田部井淳子さんの言葉
市毛さんに大きな影響を与えたのが、登山家の田部井淳子さん。
「最初に会った時に『やりたいと思ったことをやろうとすればできるのよ』って言ったんですね。『8000メートルの山も一歩一歩なの。一歩一歩行けば気がつけば8000m登れるの』って」

最初は信じられなかったという市毛さんですが、
「やっぱりそうなんですね。8000mだろうと一歩一歩行かなければ誰もそこには到達できない。ずっと付き合いしている中で本当にそうだなって思うようになった」と語ります。

「歩みを止めてしまったらそこで終わってしまうけど、可能性としてあれば行けば、そこに到達できるみたいなことがやっぱりどんどん感じるようになりますね」

◆年齢について
「時間は年齢の分だけみんなに平等に流れていて、肉体と能力の変化はある」と語る市毛さん。

「お世辞も含めて『若いですね』とか『若く見えますね』とかって言っていただいたところで、一緒です。過ぎた時間だけ、気づかない中に色々ありますけれど、でもそれはその年だからなんとかって言ってるとどんどんそちらに引きずられてしまう」

「だから受けてしまうと思えば簡単な気がするんですね。諦めちゃうとそこで止まっちゃう、つまんないなって思うので、無理はない程度に頑張っていきたいなと思っております」

◆西洋建築への興味
昔から西洋建築が好きだという市毛さん。天主堂など、旅して回ることも。
「日本に入ってきた西洋の文化が、かなり正しいままあって、日本風にアレンジしないで、それが今残っている建物とかが大好き」なのだとか。
散歩しながらそういう建物を見つけるとワクワクすると言います。
「東京もまだいっぱいあるんです。そういう古い建物を見つけるとすごく嬉しくなります」

写真はあまり撮らず、「目に焼き付ける」タイプ。
「写真にとっちゃうと写真の方に行っちゃう気がして。自分の中に味わいたい、味わって蓄積したいタイプです」
さらに、音楽も好きな市毛さん。素敵な建物で生演奏など聴けたら、さらにワクワクするのだとか。
「空間が好き。その空間の質が大事、私にとっては」

◆10年後の自分
「10年後・・・ちょっと想像付かないですね。どんな人になってるんでしょうか。まあでもできれば自分の足で立っていたいな。できるならば自分の足で立って自分のことは自分でしていきたいです」と語ります。

「こうなりたいとかこうしたいとか言っていかないタイプで、気がついたら振り返ったらここになっちゃったっていう方ですね、どちらかというと」

止まることなく、新しい扉を開け続ける市毛良枝さん。
趣味の登山のように、まさに「一歩一歩」を大切にされているようです。
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介護とダンスと日々の楽しみ

2025/11/22
今週も俳優の市毛良枝さんのライフストーリーをお届けしました。

◆お母様との13年間の介護生活
2005年から2016年まで、およそ13年間にわたりお母様の介護をされていたという市毛さん。
「2004年に脳梗塞、2005年に2度目も軽かったんですけど、その後ちょっと骨折してしまって、一気にもうちょっと危ない状況になってしまって。そこからもう確実な介護状態になってしまったんです」

100歳で亡くなられるまで、俳優の仕事をしながら、介護を続けられたっそう。
「まあいろんな方に助けていただいたから完全に一人とは言い切れないんですけど、でも責任を持つのは私しかいない状態で。決めるのは私っていう感じでやってました」

特に2005年、もしかしたらこのまま終わってしまうかもしれないという一年が、仕事と介護の両立で厳しかったと振り返ります。
「例えば金曜日に、来週薬どうなってるんだろうと思った時、もう足りなかったりすると土日空いてない。月曜日も仕事だったりすると、月曜日も買いに行けない、火曜日もダメかもしれないってなると、なんで用意しておかなかったかしらみたいな。本当にそういう細かいことで追い立てられるような日々でした」

◆わがままに生きたお母様

介護を通して、市毛さんはお母様から大切なことを学んだと言います。
「人生の後半はわがままに生きて良いんだなって思いましたね。やっぱり社会を構成している年代の時にはなかなかその我儘を通せないじゃないですか。仕事してたりすると自分が我慢することが多い。でも年取るとなかなかそんなにしなくても良くなってきますよね」

娘としては腹が立つこともあったそうですが、逆の立場で見るとこの生き方はいいかもしれないと思うようになったのだとか。
「特にデイサービスなどに行った時に、その場が癒されるって言われるんですね。本当にわがままだったんで私は不思議でしかなかったんですけど」

そんなお母様との日々を綴った「百歳の景色見たいと母は言い」が小学館から11月28日に発売予定となっています。

◆92歳のお母様とオレゴンへ

介護中、市毛さんは92歳のお母様を車いすでオレゴンに連れて行かれたそう。
「それまで一人で海外とかも遊びに行ってたんですけど、もう一人ではいけなくなってしまっただろうと思った時に、行きたいとこあるって聞いたらオレゴンって言ったので、じゃあ行けるようなことを考えようかなと」

オレゴンに連れて行くために、友人に相談したところ、その友人が「私、行こうかな」と言い出し、さらに共通の友達も加わって4人の旅になったそう。

「なんだかとても楽しくて。修学旅行以来の同級生との旅。そこに母が入るっていうだけですから、母にしたら娘の友達ですからもう孫みたいなもんですよね。とても楽しくて、三年続いたんです」

お母様がオレゴンに行きたいと思ったきっかけは、市毛さんが出演した「オレゴンから愛」という連続ドラマ。最初の年はロケ現場を全部見て歩く聖地巡りを楽しんだそうです。

◆健康法は「歩くこと」

体力があるイメージのある市毛さんですが、健康法について聞くと、
「山好きになってから歩くことは好きになったので、都会でも結構歩いてます。歩くことがまあ健康法の一つになるんですかね」

ただし、いわゆるお散歩はあまりしないのだとか。
「用事を見つけてそこまで歩く。例えばその用事が三つぐらいあって場所が違ったら、その全部終わるっていう感じの歩き方なので」

コロナ禍の時は、仕事もちょっと制限していたものの、ダンスを続けるために往復4時間かけて歩いて通っていたそう。
山に行けば一日10時間ぐらい普通に歩くという市毛さん。平らなところだから2時間は全然苦ではないそうです。
「気分的にも色んな道を通りながら行くと、東京でも歴史が感じられたりとか。こんな建物があったとかって言ってると、あっという間についてしまうので。東京で文化散歩をしておりました」

◆介護中に始めた様々な趣味

介護で大変だった時期、市毛さんは自分の体を立て直すために様々なことを始めました。
「山に行けなくなってしまったので、自分の体も心もボロボロになってしまって。これは本当に何かこう真剣に考えないとダメだなと思って」

近所にあったボイストレーニングの教室に通い始めたのがきっかけ。
「30分と書いてあったんで、近いからいけるなと思って。声をとりあえずちゃんとしとこうみたいな感じで」

そこから友達の紹介で社交ダンスを始めたり、ヨガやピラティスをやったりと、デイサービスに行ってくれてる間の短い時間でできることをいくつも始めたそうです。
「60歳で始めました。40から始めたらもうちょっと上手くなったかなと思いますけど、今も続けています」

社交ダンスを通して、自分が正しいと思っていた姿勢が正しくないことを知ったという市毛さん。
「私まっすぐって思ってたけど、まっすぐじゃなかったんです。そのまっすぐがちょっと身についてきたらしくて、こうやれと言われた形ができるようになってきて」

様々な趣味をお持ちの市毛さん。「何一つ諦めることはないと思ってます」と語ります。

◆介護する側へのメッセージ

13年間の介護を経験した市毛さんですが、介護については複雑な思いを抱いています。
「自分では13年やったもののどちらかというと私はそれはお勧めしたくないっていう方向なんですね。肉親がやるっていうのはもう一緒に共倒れになりかねない」

やはり人が入ってくださったりシステムを使ったりして、精神的な意味で家族が支えるのが一番いいのではないかと語ります。

「どっぷり関わってしまうと肉親の人生がゼロになっちゃうんです。一人の人の人生を見送るために次の世代の人生がすべて犠牲になるっていうのは絶対おかしいと思うんです」
特に50代から60代にかけて、仕事をやめてしまったら復職できなかったりする問題も深刻だと指摘します。
「途中で本当に人に助けてっていうのをどんどん発信するようにして、いろんな方に手伝っていただいてやっとなんとかできたので。一人で抱えてはだめっていうのをすごく思います」

市毛さんの本、「百歳の景色見たいと母は言い」(小学館)は、11月28日発売!
ぜひ手に取ってみてください。
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40歳からの挑戦〜登山との出会い

2025/11/15
今週も市毛良枝さんのライフストーリーをお届け!
市毛さんの人生を変えた登山との出会いについて伺いました。

◆40歳で始めた登山
40歳で登山を始めたという市毛さん。そのきっかけは全く偶然だったと振り返ります。
「父が亡くなって、最後の主治医だった先生にお礼に伺った時、たまたま世間話の中で『先生、山いらっしゃる時、私も連れてっていただけませんか』って言ったら『いつにしましょう』って言われちゃったんです」

それまで登山には全く興味がなかったという市毛さん。荷物をたくさん持って、大変で・・・危険な印象しかなかったのだとか。
「1ミリも挑戦するなんてことはなかったんです。なぜ誘ってるんだろう私は、ぐらいの感じで」

ですが、その先生が父の病床で聞かせてくれた登山の話がとても楽しそうだったことが心に残っていたのだそう。
「これを逃すともう行くことはないから、行ってみたいなって本当に思って」

◆初登山から感じた喜び
市毛さんの初登山は北アルプスの燕岳から常念岳への縦走コース。ハイキング程度だと言われて行ったものの、山小屋二泊の本格的な登山だったと笑います。

最初は不安ばかりだったそうで
「歩き出してずっとお休みしないでしょ、山の方って。この人たちは一生歩き続けるのかと思って。ここまで来たら一人で帰れない、泣きそうだったんです。でも
休むとちょっと元気になるみたいなことが分かってきて、楽しくなってしまって。違う景色を見るとすごく元気になるんです」

燕岳の合戦尾根の稜線に出た時には、スキップしそうなぐらい楽しくなっていたのだとか。
「山の景色が見えるだけでなぜ元気になるって、ビックリしませんか。今つらかったこと忘れてしまうんです。それが次々行ける原動力になって」

◆登山は役者の仕事と似ている
当初は正反対だと思っていた登山と俳優の仕事。ですが、ある時、共通点に気づいたのだそう。
「山に行ってる時、自分自身が物語を作りながら歩いているような気がしたんです。同じ道を歩いても行く度に全然感動が違う。出演者も季節も条件も違うので、同じ山に何回行っても違うストーリーが紡がれるわけです」

それは俳優の仕事で求めてきた感動と同じだったのだとか。
「ただ単に肉体のことだけではなかった。心の中に湧き上がってくる別のもの、それはやっぱりストーリーになっていく」

◆キリマンジャロで学んだこと
ヒマラヤやキリマンジャロにも挑戦した市毛さん。キリマンジャロでは高山病の辛さを経験したのだとか。
「散々『高山病になっても寝ないでね』って言われてたのに、ちょっと気持ち悪いなと思った時に横になってしまったんです。寝ると酸素供給量が半分に落ちちゃうんですね」

一緒にいた人に促されて歩いているうちに元気になり、血液を回すことの大事さを実感。
「そこからスポーツの大事さにすごく目覚めました。体で感じました」

◆複数の世界を持つ喜び
登山を通じて、市毛さんは人生観も変わったと語ります。
「自分の世界を複数持てれば、その数だけ新たな可能性や力が引き出される。一つの扉を開けたら、その先にいろんな道が開いていったんです」

いくつもの興味を掘り下げていくことで、残らないものもあるけれど、いつかは残るものもあると感じたと言います。
「やっぱり可能性って広がっていくなって思います。山が繋げた人とのご縁も本当に財産です」

登山によって五感を駆使して感動を重ねていく中で、生きていく上での支えや道筋になったと振り返る市毛さん。
「とても仕事が楽になりました。いろんなこと教えてもらったなあと思います」と語る笑顔がとても素敵でした。

来週も市毛良枝さんのライフストーリーをお届けします
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演劇との出会い、デビューから数々のドラマ出演作

2025/11/08
今週も俳優の市毛良枝さんのライフストーリーをお届け!

◆宝塚への憧れから俳優の道へ
高校時代、宝塚歌劇団に夢中だったという市毛さん。
「学校の席の周りがみんな宝塚ファンだったんですね。話題合わせようと思って観たらドハマリしまして、ボロボロ泣いてしまって」
それがきっかけですっかり宝塚ファンとなった市毛さん。実は、その頃から「オタク」だったと最近気づいたのだとか。

宝塚歌劇団に入りたいと思い、親を説得したものの、ふと考えたところ「何も(練習)してこなかった」ことに気づき、
「その段階で受かるわけないなって思いまして。なんでか本当に気楽に、じゃあ俳優さんになろうかな、みたいな」と気楽に進路を考えたとそう。

◆文学座養成所での出会い
親の反対を押し切って俳優を目指した市毛さんは、文学座の養成所をほぼまぐれで合格したと謙遜します。
養成所では唐十郎さんや寺山修司さんの前衛演劇を見て感動したものの、18歳の自分が倉庫街や港の先端まで足を運んでいたことを今思うと「ちょっと怖い」と振り返る市毛さん。

「あの方たちが正義で、私は本当に紛れ込んでいただけ。今もそう思っております」
と現在も、舞台俳優さんは別格と捉えているんだとか。
実際に、同期の舞台を見に行って打ちのめされ、楽屋に寄ることもできずに帰ってしまったこともあったのだとか。

◆1971年、ドラマデビュー
1971年、木下恵介監督のドラマ「冬の花」でデビュー。準主役のオーディションに落ちたものの、演出家が小さな役をオファーしてくれたのだとか。

「最初だったので、スタッフさんが手取り足取り演技のレッスンをしてくださったのでできてしまったんですね」

しかし二作目からはそうはいかず、打ち上げの度に「皆様ご迷惑をおかけして申し訳ありません」と毎回泣いていたと言います。
数えきれない数の作品に出演されてきた市毛さんですが、「普通の役」をもらうことが多かったと言います。
「逆に言うとすごい人たちばっかりの中にあまりに普通だったから、変に目立ってしまったところもあるみたいです」と当時を振り返ります。

◆印象に残る作品たち
その後、数々のドラマに出演してきた市毛さんの中でも特に印象に残っているのは、ドラマ「間違いだらけの夫選び」。
「初めて役者同士でキャッチボールができた。ものを作る楽しさを知った作品でした」と振り返ります。
さらに、「嫁姑シリーズ」は足掛け10年続いたシリーズ。お姑さん役の初井言榮さんから多くのことを学んだと言います。
「初井さんのお宅に嫁に行ったような気分でした。おひつに移してとか、素敵な家庭生活みたいなことを教えていただいたりとか」
「理想の花嫁ナンバー1」と呼ばれたことについては、「嫁姑シリーズをいただいた勲章であろうと思って、自分としてはあまり関係なかったですね」と振り返ります。

◆若い世代との共演
現在公開中の映画や、NHK BSで放送中のドラマ「就活シェアハウス」では、若い世代の俳優たちと共演中。
世の中は年齢で分断させたがる空気があるけれど、触れ合ってしまえばそんなことないと語る市毛さん。
「今の方は本当にすごいですね。最初からできる。私なんか羞恥心を取るのにものすごく何十年とかかってしまったけれど・・・
孫どころの騒ぎじゃないぐらいの年齢だと思うんですけど、普通に喋ってます」と楽しそうな撮影現場の雰囲気もお話しくださいました。

番組では、市毛良枝さんが出演されているドラマ「終活シェアハウス」の主題歌
DREAMS COME TRUE『サンキュ.』もOAさせて頂きました。

「就活シェアハウス」は、NHK BS 4Kで毎週日曜日夜10時から放送中です。
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楽しかった幼少期、そして44年ぶりの主演映画

2025/11/01
今月は、俳優の市毛良枝さんのライフストーリーをお届けします!

これまで数多くのドラマや映画に出演されてきた俳優の市毛良枝さん。
土曜日の朝は仕事があってもなくても基本的には変わらないのだとか。
「あまり早起きは得意ではないんですが、だいたい7時に起きます」
起きたらまずペットの世話をするのが日課。その後、自分の朝食を作って食べるのだとか。

そんな市毛さんのご実家は、静岡県伊豆の修善寺。
家に温泉があったという恵まれた環境で育ったのだとか。
「朝風呂入って学校通ってました。三つ編みの先が濡れたまま学校に行ったりして」
と当時を振り返ります。

◆大人に囲まれた幼少期
市毛さんは三人兄弟の末っ子。お兄様たちとは年が離れていたため、生まれた時にはすでに二人とも家を離れていたのだそう。周りは大人ばかりという環境で育ちました。
「一つしかないケーキがあっても、誰も取らず、全部自分が食べていいという状況でした。ちょっと逆にさみしいなあと思って。今だに抜けないんですけど、一つあったらそこに居る全員でわけないと気がすまないんです」
兄弟で取り合う暖かさがうらやましく、今でも皆で分け合うのが好きなのだとか。

そして、医者でクリスチャンだったお父様からは大きな影響を受けたと言います。
「父親がちょっとロマンチストだったようで、2、3歳の私を捕まえて『愛とはね』とか『人生とはね』とか言うんです」
その時は意味がわからず涙が出てしまったそうですが、父親が語っていた言葉が今もどこかに根強く残っている気がするのだとか。

◆12歳で東京へ
市毛さんは中学から東京に行くことが生まれた時から決められていたのだそう。12歳で親戚の家に住みながら東京の中学校に通い始めましたが、最初の一年は楽しくてホームシックにはならなかったと言います。
「ちょっとだけ二年目になったときに、母に手紙で『帰りたい』って書いたら、なんかスッゴい長いのが帰ってきてしまって」
母親は、ちょっとドライな子かと思っていたら意外と普通の子でほっとしたと言ってくれたそう。

◆女子校での六年間
東京の女子校で過ごした中学高校の六年間は、市毛さんにとって楽しい、忘れられない時間だったよう。
「女子だけの環境がすごく馴染みましてとても楽しかったです。今でも中学高校の六年間に帰るならもう一度帰りたいと思ってるぐらい」
東京の女の子たちの素直さにも驚いたのだとか。
「可愛いお洋服を着てる子に『可愛いね』って言うと、東京の子は『可愛いでしょ?好きだから買ったの』って言うんですよ。それがすごく逆に新鮮で、こんなに素直に言っていいんだっていうことがとてもしっくりきた気がします」

◆44年ぶりの映画主演、長塚京三さんとの再会
現在公開中の映画『富士山とコーヒーと幸せの数式』で、44年ぶりに映画主演を務める市毛さん。JO1の豆原一成さんとのダブル主演作品で、市毛さんが演じるのは、夫を亡くした祖母・文子。チャレンジ精神旺盛な女性です。

この作品で印象的なのは、長塚京三さんとの共演。50年前に婚約者の役で共演していた長塚さんと、今回は夫婦役で再会。
「運がいいとしか思えないというぐらい。キャスティングに本当に感謝しました」
撮影に入る時、市毛さんは長塚さんが50年前のことを覚えていないだろうと思っていたそうですが、長塚さんも鮮明に覚えていてくださったのだとか。
「『50年前スタートした僕たちは今ここに完結するみたいなことになっちゃったね』みたいなこと言ってくださったんですね。もうぐっときてしまって」

◆学びと挑戦、年齢に関係なく前に進む喜び
そして、この映画のテーマの一つが「学びと挑戦」。
夫を亡くして孫と同じ大学に通い始めるという設定に、市毛さん自身も共感する部分が多かったのだとか。
「年をある程度出てから勉強するっていうことがすごく楽しいと思っている人間なので。新しいことをして変わっていくことって楽しいなという気がして、それはもういくつになっても抑えられるものではない」

この映画を通して、市毛さんは自身の正義感の強さにも気づいたと言います。
「楽しいからといって突っ走ってしまう、危険なことって世の中にいっぱいありますよね。やりながらこれはこういう時が来たら気をつけようと思いました」

母親にも似ているという文子さんの生き生きとした姿。市毛さんの母親も、年齢の関係ないお友達がたくさんいて、人がいっぱいいる中で生き生きと学んで前に進んでいく姿が印象的だったと振り返ります。

映画『富士山とコーヒーと幸せの数式』は現在公開中です。
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