NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

今、仕事も家庭も自分磨きにアクティブな生き様を実践する女性達。そんな女性達がいつまでも輝く心と勇気を失わず、体も心も健康な毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを送るのが、このノエビア カラーオブライフ。「生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと」をテーマにした、トークや音楽、話題、情報などが満載です。

TOKYO FM

NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

唐橋ユミ

今、仕事も家庭も自分らしく、いきいきと生きる女性たち。いつまでも輝く心を失わず、心も体も充実した毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを伝えます。“生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと”をテーマにした、トークと音楽が満載のプログラムです。

Guest石川さゆりさん

石川さゆりさん

1958年(昭和33年)、熊本県熊本市生まれ。
1973年、15歳でシングル「かくれんぼ」で日本コロムビアよりデビュー。
1977年に「津軽海峡・冬景色」が大ヒット。日本レコード大賞歌唱賞受賞し、同年19歳でNHK紅白歌合戦に初出場を果たす。その後、「天城越え」「風の盆恋歌」「ウイスキーが、お好きでしょ」など、時代を超えたヒット曲を次々に世に送り出す。また、演歌の枠を超え、布袋寅泰・亀田誠治・東京スカパラダイスオーケストラ・奥田民生などジャンルを超えたミュージシャンともコラボレーションしている。

大ヒット曲「天城越え」誕生秘話

2026/05/16
今週も歌手・石川さゆりさんのライフストーリーをお届けしました。

◆「好きに唄えばいい」——途方に暮れた天城越えとの出会い
「天城越え」の詞を初めて受け取ったとき、石川さんは途方に暮れたといいます。「何ていう詩なんだろう、自分の中でこれをどういうふうに表現して歌っていいかわからない」——作詞家の吉岡治先生にそう打ち明けると、返ってきたのは「好きに唄えばいい」というひと言。戸惑いながらも、悩みに悩んだ末にたどり着いたのが「演じる」という発想でした。
「自分の中に逆立ちしたってこんな世界はない、歌えないと思った。じゃあ演じることを持ち込んだらどうなんだろうと思ったのが、天城越えの最初のページですかね」。もし私が何々だったら——という『魔法のもし』を手に入れた瞬間、「どんな歌でも何も怖くなくなった」と石川さんは話します。男性にも女性にも、どこにでも飛んで行ける。そう気づいてから、「天城越えが歌いたい」という気持ちが自然と湧き上がってきたのだとか。

◆リリース当初は全く売れなかった
しかし「天城越え」は、リリース直後は全く売れなかったそう。「私が発売したレコードの中で一番伸び悩みでしたね」と石川さんは振り返ります。プロダクション側から「早く新曲を出さなきゃ」という声も上がる中、ディレクターの「この歌をさゆりのもとにしっかり根付かせて、大晦日にはこれで紅白の最後を歌う——それが目的なんです」という言葉のもと、歌い続け、見事、その年、「天城越え」で初めて紅白のトリを務めた石川さん。年明けには口コミで浸透し、曲はじわじわと広がっていったそう。「カラオケで誰にでも歌える歌は作るのをやめよう、さゆりにしか歌えない歌を作るんだ」という制作陣の言葉通り、難しい曲でありながら、今や昭和・平成・令和と三世代を超えて歌い継がれる名曲となっています。

◆詞と曲は骨と肉、歌い手が流すのは血液
デビューから40年近くが経った今、「天城越え」の解釈の変化については、「まず私の年が変わりましたね」と石川さんは笑います。
「詞と曲はボディに対しての肉と骨。では歌い手の役割は何かといえば、血液を流すことだと思うんです。その血液の流れ方、血圧、瞬間の熱——そういうものが歌の中で作っていけたら」と、ご自身の歌唱哲学を語ってくださいました。

◆娘と初めて迎えた年越し——30年目の「あけましておめでとう」
紅白の常連として毎年大晦日をNHKで過ごしてきた石川さん。娘さんが生まれてからも、12時を一緒に迎えたことは一度もなかったそう。
ところがコロナ禍で紅白終了後の打ち上げがなくなり、番組終了後すぐに帰れるようになったある年、「何もないなら迎えに行ってもいい?」と娘さんから連絡が入り楽屋まで迎えに来てくれた娘さんと初めての年越しをしたそう。「生まれて初めて、12時ちょうどに一緒にいてあけましておめでとうって言いながら盛り上がりましたね」。その時すでに娘さんは30代。「そういうものだと思いながらずっと過ごしてきたけど、一緒に12時を迎えたいという気持ちがあったんだなって、その時初めて思いました」と、静かに語ってくださいました。

来週も石川さゆりさんのライフストーリー、お届けします。
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「津軽海峡・冬景色」の大ヒットから20代で迎えた人生の転換期

2026/05/09
今週も歌手・石川さゆりさんをお迎えして、大ヒット「津軽海峡・冬景色」の誕生秘話から、初めての紅白歌合戦、そして結婚・出産後も歌手を続けた決意まで、石川さんのライフストーリーをたっぷりと伺いました。

◆「津軽海峡・冬景色」——歌にしがみついていくだけだった
1977年1月、シングルとしてリリースされた「津軽海峡・冬景色」。実はもともと、阿久悠先生・三木たかし先生による全曲書き下ろしアルバム「365日恋模様」の中の1月〜12月を歌った12曲のうちの一つで、「津軽海峡・冬景色」は12月を担う歌として生まれたものだったとか。「シングル盤になったのは19になる頃でしたね。皆さんに聞いていただいているあの声は、18歳のオリジナルです。』と振り返る石川さん。あの世界観を歌うことに迷いはなかったそうで、「あまり細かいことは何も考えられず、阿久悠先生の詞と三木たかし先生の曲がじゃんと聴こえた瞬間に、すべてがすっ飛んでくっていうのかしら、そんな感じ」と説明します。さらに頭の中には、荒波が岩に打ち砕ける映像が自然と浮かび上がり、「ただ歌にしがみついていくだけ」という感覚で歌い上げたといいます。

◆ニュースにもなった大ヒット
リリース後、「津軽海峡・冬景色」は大ヒットを記録。「NHKの9時のニュースで、そんなタイトルでニュースやっていいのかなと思うくらい」取り上げられ、一つの社会現象となりました。日本レコード大賞歌唱賞も受賞。
ただ、当時はお給料制だったため生活自体は大きく変わらなかったといいます。それでも「皆さんが『この歌大好きです、歌ってます』って声をかけてくださる、それが大きなエネルギーになった」と振り返る石川さん。その後も「能登半島」「暖流」と旅情三部作として立て続けにヒットし、「ベストテンに津軽海峡が入ってる間に能登半島が出て、二つが落ちないうちにまた暖流が入ってきて——一体これは何が起きてるんでしょうね、という年でしたね」と懐かしそうに話してくれました。

◆紅白初出場——「ここだ、私が目指したところは」
そして19歳で、NHK紅白歌合戦に初出場。デビューしたころの同期は、もう先に出場していたことから、紅白は目標の一つでもあったとか。ですが、初出場の際、不思議と全然緊張しなかったそうで、会場の明るさに圧倒されながらも、本番で歌い始めたとき感じたのは「ここだ、私が目指した紅白歌合戦という思いと、なんて気持ちのいいところなんだろう、という感覚」だったといいます。その後も毎年大晦日はその舞台で年を越し、現在の出場回数は48回。女性歌手として最多記録を誇ります。

◆「演歌」という言葉がなかった時代
津軽海峡・冬景色の大ヒットにより「演歌の担い手」として注目を集めることになった石川さん。しかしデビュー当時、「演歌」というジャンル分けは実はなかったといいます。
「私たちがデビューした頃、レコードのジャケットには『流行歌』と書いてありましたね。演歌とかポップスとかいう分け方は、もっと後から出てきた言葉。カラオケが皆さんに歌われるようになってからじゃないかな」と石川さん。「私は演歌も大好き。でも音楽にはいろいろあるから、これしか歌えませんというのはもったいない。いろんな方たちといろんな歌を届けたい」と、そのボーダーレスな音楽観を語ってくださいました。

◆23歳で結婚、歌と家庭の両立を選んで
そして、23歳で結婚、26歳でお子さんが生まれた石川さん。当時は「結婚イコール引退」という風潮が強い時代でしたが、「どうして結婚と同時に引退しなければいけないんだろう」と疑問を感じ、歌手を続ける道を選びました。
「今思うとなんであんなに頑張ったんだろうというくらい、ご飯もちゃんと作ってたし、掃除も洗濯も全部自分でやってましたね。若さの体力ですね」と笑います。それでも、「自分で決める時間というのがうれしくって、つらいと思ったことはなかった」と振り返ります。
さらに、そんな多忙な中でも、石川さんはこっそり車の運転免許を取得したそう。「自分で移動する手段が欲しい!」と、一番身近なマネージャーだけに打ち明け、休みの日は朝6時から教習所へ。最短約3ヶ月で免許を取得したといいます。

「ありがたいことに、やりたいことはやってきたかな、という気がします」と語る石川さん、歌も、家庭も、免許も、ご自身で切り拓いてきた道のりを伺いました。
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15歳でつかんだ夢~「コロムビア・プリンセス」誕生まで

2026/05/02
今月のゲストは、「津軽海峡・冬景色」「天城越え」など数々の名曲で知られる歌手の石川さゆりさん。
今日は、15歳でのデビューから半世紀以上にわたり歌い続けてきた石川さんに、その原点からライフストーリーを伺いました。

◆70歳を迎えた同期たち——堀越学園の青春
最近テレビ番組で久しぶりに野口五郎さんと再会した石川さん。「野口五郎さんと郷ひろみさんは堀越学園で、私が1年生のとき3年生だったんです。そんな五郎さんが『僕、今年70になったんだよ』って言っていて・・・」——去年は郷ひろみさんも70歳の節目を迎えたといい、「時のたつのは速いなぁって」としみじみ振り返ります。専門授業が終わると右側には送迎の車が並ぶ。「みんなそれぞれ仕事に行く迎えの車が来てたりして、ちょっと不思議な学校景色でしたね」。

◆バス停が、私の最初のステージだった
そんな石川さんの音楽のルーツは、熊本の田舎で暮らした幼少期にあります。祖母は芸事が大好きで、母は幼稚園の保母さんとしてオルガンを弾きながら童謡を教えてくれたそうで、歌と音楽が当たり前のように流れている家庭環境でした。
「うちの前がバス停だったんです」と当時のことを説明してくれた石川さん。バスを待つお客さんが集まってくると、祖母が「歌って」と声をかけると切符売り場の窓口がちょうどブラウン管のようになる形で、その中で歌っていたそう。「お客さんはバスを待ちながら、うちのテレビを見たり私の歌を聴いたりしてらっしゃいましたね」と目を細めて笑います。

◆島倉千代子さんの紫の振袖——歌手への夢が芽生えた日
歌手を目指すきっかけは、幼い頃に見た島倉千代子さんのステージ。「母がもう本当に大ファンで、私を連れて見に行ったんです」。昭和30年代の鮮烈な照明の中、紫色の振袖を着て歌う島倉さんの姿。「ああ、ああいうふうになりたいなぁって思ったのが、もしかしたら歌い手になりたいという始まりだったのかもしれない」と石川さんは語ります。

◆他人のハガキで応募して、チャンピオンに
中学3年生のとき、歌の稽古仲間がオーディション番組に応募したものの、夏休みの帰省で行けなくなってしまい、「じゃあそのハガキを私にちょうだい」と譲り受け会場へ。名前を書き換えて出場すると見事合格。第1週、第2週、第3週と勝ち上がり、ついにチャンピオン大会でチャンピオンに。「すっごい、チャンピオンになっちゃったって、そのまま夏休みが終わったんです」と笑います。

◆芸名「石川さゆり」の誕生と、牛乳配達しながらのドラマデビュー
チャンピオン決定後の9月、テレビ局から「10月から石坂洋次郎さん原作のドラマにレギュラー出演してほしい」と告げられました。「私、歌手になりたいんです」と伝えると「お勉強になるからやってごらんなさい」と諭されたといいます。「その時から私は石川さゆりという名前で仕事を始めました」——8月末にチャンピオンになったと思ったら、9月にはもうスタジオに入っていた。「何が起きたんでしょうって感じで」と笑います。
ドラマに出演しながらも、牛乳配達のアルバイトは続けていたところ、配達先で「あなた、最近テレビに出てない?」と聞かれても「ちょっと恥ずかしくて、『出てません』って言ってました。」と笑う石川さん。そんな日々を経て、翌年15歳でシングル「かくれんぼ」として歌手デビューを果たしました。

◆好奇心が連れていってくれた——二葉百合子、三橋美智也への師事
デビュー後、なかなかヒットに恵まれなかったという石川さん。二葉百合子さんや三橋美智也さんの歌謡浪曲・民謡に心を動かされ、それぞれのもとを自ら訪ねたそう。「この歌謡浪曲というのは私もやってみたいんですけど、教えていただけませんか、と言いながら」——ビブラートもファルセットも、歌いながら自分で作っていったといいます。「高めるなんて大層なことじゃなくて、ひとえに好奇心なんだろうと思います。これって『いいな』、私もこういうことってできないかしらって、そういうところだったと思いますね」。

◆新曲「日日呉々と」——宮沢和史さんとともに
4月にリリースされた最新シングル「日日呉々と」は宮沢和史さんの作詞・作曲。長年ともに歩んだ作詞家・作曲家の先生方が旅立っていく中、吉岡治先生の奥様から「これからはあなたが自分でいろんな方と出会って、歌を発信していかなきゃいけないのよ」と言われたことが転機になり、これまでにも色々なアーティストとコラボされてきました。今回の楽曲は、「今どんな歌を皆さん聞きたいのかな、何を私は歌いたいのかな——そういうことをお話しながら書いていただいた」と振り返る石川さん。半世紀以上積み重ねてきた好奇心は、今も新たな音楽を生み出し続けています。

来週は、そんな石川さんの大ヒット曲「津軽海峡・冬景色」誕生のストーリー、伺います。
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