NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

今、仕事も家庭も自分磨きにアクティブな生き様を実践する女性達。そんな女性達がいつまでも輝く心と勇気を失わず、体も心も健康な毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを送るのが、このノエビア カラーオブライフ。「生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと」をテーマにした、トークや音楽、話題、情報などが満載です。

TOKYO FM

NOEVIR Color of Life

EVERY SAT / 09:00-09:30

唐橋ユミ

今、仕事も家庭も自分らしく、いきいきと生きる女性たち。いつまでも輝く心を失わず、心も体も充実した毎日を送るため、各界を代表して活躍する女性ゲストが自らの言葉でメッセージを伝えます。“生きること、輝くこと、そして人生を楽しむこと”をテーマにした、トークと音楽が満載のプログラムです。

Guest財前直見さん

財前直見さん

1966年1月10日生まれ、大分県出身。AB型。1984年、芸能界デビュー。映画『天と地と』や、NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』、NHK連続テレビ小説『ごちそうさん』、ドラマ『お水の花道』など数々の作品で活躍。

今が人生の分岐点

2023/12/30
財前直見にとって、
2023年が人生の分岐点だったという。

「今住んでるのは大分市なんですけど。杵築市の方に、先祖代々の家があって。で、明治時代に建てられた133年前の家を建て壊し、新しく家を建てることになって、思い切って田舎の家を壊し、古い梁とか、昔の木を囲炉裏テーブルに変えたり自分たちの手で作りました」

そして、実家の建て直しには一人息子も協力してくれている。

「自分たちでその家具も手入れしたりとかして。で、私が穴開けちゃったりとか。また、それがこれから息子がこうね。子ども作ったり、孫ができたりした時に、おばあちゃんがこの穴開けたんだよっていう思い出にもなるじゃないですか?なんか俺が作ったんだよ。とも言えるし、なんかそういう思い出が、1つの財産になるって言うんですかね。そういうことができて本当にありがたかったなと思います」

家を建て直した意味についてこうも語る。

「せっかく作った建物が生きないと意味がないし、そこにご先祖さんの土地なので、人がその土地に集まってきて、みんなで楽しくワイワイガヤガヤする方が先祖様も喜ぶかなっていう思いがあります」

今がまさに分岐点だという財前直見。
少し先の10年。
どんな自分でいたいのか。

「ありがとうファイルの一番最後のページに、どんな人生だったって墓石に何を書くって言った時に、またね see youって書いたんですよ。来世でもみんなに会いたいなとか。いろんな意味があるんですけど。なんかで死ぬ時は絶対にあー楽しかったって言って死にたいと思ってんですよ」

大分から東京で俳優に。
そして今は大分の生活を発信している財前直見。
自身の人生を振り返ってどう感じたのか。

「まあいろんなことがあったにせよ。なんか、楽しかったなっていうのが第一印象というか。やっぱり辛いことも、なんか乗り越えてきた自分もいたりとか。なんか、ある意味自分をよしよし、してあげるっていうか。そういうこともやってきたなっていう風に考え深く思いました」
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大分県への移住

2023/12/23
財前直見は出産を機に
自身が生まれ育った大分県へ移住した。

「息子が生まれて、1回夏休みに帰ったら居心地がいいなーみたいな。お仕事をして誰かに預けるとかって思った時に、やっぱり両親、おじいちゃん、おばあちゃんのそばにいた方が、子ども両親もどっちもが win-winだなって言うふうに思って、俳優業は俳優業で楽しんだので、次は子育て楽しもうっていう。近くに温泉とかもあって、近所のおばあちゃん達がすごいかまってくれたりとか。みちょってやるよとか言って面倒見てくれたりとか、なんかそういう環境っていいなっていうことで、もう17年」

子育てと俳優業の切り替えは?

「2時間ドラマが入って来てたのも、1回ストップしてたりとか。連続でやっていたものも1回ストップして、子育てに全部シフト変えたいですって事務所にも言って。まあ、お休みも取ってという形にしたので、子どもってやっぱ可愛いから。初めて寝返り打ったのを目撃する第一人者になりたいっていう。喋ったとか、あと立ったとか。それを、目の前で見たいって言うのがあってこども中心の生活にしました」

3、4年は子育てに集中したい。
その思いを事務所は受け取ってくれた。

「裏山にある竹を切ってきて。竹馬とか、そういうのじぃじが作って。犬2匹いたんで兄弟のように過ごしてたりとか。一緒にほうきっつくったり、ハエ叩き作ったりとかしてました」

息子が成長する日々の中で財前直見が向き合ったのが数々の資格だった。

「社会貢献じゃないですけれども。そういう知識を持ってることが、お役に立てないかなっていう風なことを思ったのと。まあ一番は、息子を塾に入るので、お母さんもお勉強してるのよ、と説得する材料として」

メンタルカウンセラー、上級心理カウンセラー、
行動心理士、シニアピアカウンセラー、
終活ライフケアプランナー、エレガンスマナー。

「俳優をやっているので人の心理っていうことは得意なんじゃないかって思って、その心理的なことを取っていたんですけども、あの周りからやっぱりじぃじ、ばぁばのお友達とかから、ご主人が亡くなった時に銀行口座ストップされたとか、そういう現実的な話を聴くことが多くなって、どんな手続きがあるのかとか。なんか見てた時に就活ライフケアプランナーって何だろうって思って。で、覗いてみたら。なんか、これって結構大事なことだなって思って、で、終活ライフケアプランナーを取ったんですけど」

大分での生活だから見える景色。
生まれ育った場所は俳優としてだけでなく人として成長させてくれる場所でもあった。
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可能性は無限大

2023/12/16
財前直見の役者としての分岐点、映画「天と地と」
この作品に出会って仕事に対する取り組み方にも変化が訪れたという。

「映画でもテレビでも、皆さん、一生懸命作っていらっしゃるので。だから、芝居とか演じるっていうことに、なんかすごく楽しさを覚える、覚えてきたっていうことかな?そういう感じですね」

役者としてのキャリアを積んでゆく中で、
財前直見のイメージも定着してきたという。
おしとやかな令嬢や心に思いを秘めた悲劇のヒロインなどだった。

「陰と陽だったら陰に入るみたいな、お芝居的には難しいんですけれども、しょっちゅうその役ばっかり、こられると、またかっていう感じになっていたんですよ。本当にこう心に秘めた人っていうのが結構続いたので、なんとなくモヤモヤしてました。そこに私のイメージをはめられるっていうのがすごく嫌で。陰に暗い人だったら財前さんっていう感じにオファーが来そうじゃないですか?そこがずっと止められないから。本当の私、そんなじゃないなーみたいな」

ただ仕事は順調で多忙を極めた。

「一番多忙な時って記憶が飛ぶんですよ。で、もう次から次にやらなければならないこととか、セリフを覚えなきゃいけないこととかあって、そういう時だったのかな?この時だったかどうか記憶が定かじゃないんですけど、ある人から言葉を頂いたんですよね。可能性っていうのは、あの無限だと。自分で有限にするな。要するにできないと決めつけてるのは、自分だろって。可能性は無限にあるんだから、自分がそれつけできないってなっちゃうと、それ以上の可能性なくなるだろうっていう意味なんですけど、その言葉がずしっときて。できないって言っているのは自分だ。確かにっていう、なんかいい言葉をいただきました」

その中、転機となる作品に出会う。ドラマ「お金がない!」

「この作品やりますよって言った時は、保険会社の職業ドラマだったんですよ。それで、オファーが来てたんですけど。なんかある時、うちの社長室に皆さんがこう、ずらっとやってきて。何かあったんですか?って言ったら。その最初の企画からちょっと変更になりました。言われて。どういう風に変更になったんですか?って言ったら、あの“お金がない”っていうタイトルなんですよ。貧乏から這い上がっていく、そっちの物語なんだけど。財前さんは貧乏ですって言われて、コメディですって言われたので、すごく嬉しくてね」

さらにドラマ「お水の花道」これも思い出の作品に挙げた

「バブルの時代の華やかなこともあって。何だろう?もともと漫画が原作だったので、お水の花道は。スタッフのみんながすごい、サービス精神旺盛だったんですよ。私が、悩んでる時とか、照明さんがさーってこう、血の気が引く時あるじゃないですか?その時に、ちびまる子ちゃんみたいにここに線を入れてくれてたら、喜んでやってくれた。本当にみんな遊んでました」

現場のみんなで作り上げている。

「作り上げてる感じですね」

30代は役者としては、自分の居場所を見つけた感じだったのか?

「おかげさまで、なんか自分の代表作っていう、俳優業やってきていて、そういう作品にね、みんながみんな出会えるとは限らないので。財前直見と言えばお水の花道ですよね、とかって言われるようになったのが、すごくなんかこう、まあいわゆるノリノリになったかな」

30代は財前直見にとってどんな時代だったのか。

「まあ、バブルみたいにやっぱりこう、夢の世界みたいな。そんな感じがなんか今はしますね」
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天と地と

2023/12/09
財前直見は東京に出て
キャンペーンガールとして活動した。

「最初の頃は、レポーターみたいなことをやらさせていただいて。ずっと、まあ順調には進んではいたんですけど、2年目、3年目ぐらいになったら、ちょっと仕事がなくなるって言うことがあって。どんどん仕事が減っていったんですよね。その時の当時のマネージャーから、ある時、そのもう芸能界やめて、田舎に帰ればっていう、痛烈な一言を言われまして。で、まぁその時までは、目の前にあることを消化していた感じだったんですけどだんだん面白くなってきていた時期ではあったんです。あんた何言ってんのって逆に思っちゃったんですよ」

その一言が財前直見の人生を変え、意識が変わった。
役者の道を目指すことに。

「こうなりたい。ああなりたい。が今までなかったのが、よしじゃあ、主演取れる女優になるぞとか自分に発破をかけられるような努力の方向性もそうなってきてたっていうかね」

役者の現場は空気が違ったともいう。

「その最初の頃ってなんかめちゃくちゃ怖くて。まだフィルムの時代だったんですよ。テープが無駄になるからNGを出したら怒られるっていう。もう、ねーちゃん呼ばわりなんですよ。“ねーちゃん、ねーちゃん。動かないで、ここに立っていて。動かないで!”で、照明さんは、照明さんで。ちょっと、うろうろしていると“なにやってんだー、お前をきれいに見せるために照明を当ててやっているんだろうが!”って怒られて。で、記録さん。記録さんからは、繋がりってあるじゃないですか“私はね、主演しか見ていないだからね。あんたたちは自分で覚えないさいよ”って言われました」

そして、役者として脚光を浴びる映画「天と地と」に出会う。
武田信玄の側室、八重役。
女騎馬武者隊を率いて上杉謙信に堂々と戦いを挑む役だった。

「あの、まず馬に乗れなきゃいけなくて。女騎馬隊っていうので、で周りの女の子たち20人いるんですけど。その子たちは割と乗馬経験のある子たちで、初めてですよね、馬に乗るの。馬から落ちたこともありますし。恐怖に打ち勝つっていうんですかね? そういうことの経験とか、あと何て言うんですかこうセリフって3行ぐらいしかなかったです。その映画の中で。ただ、なんかそれがどういうふうな意味合いを持つのかとか。その間のなんか、こう姿とか。そういうのとか。あと撃たれて死ぬシーンもあって、命をかけるというシーンはじめてだったので」

メガホンをとったのは角川春樹。
注目を浴びたのは馬の上で撃たれ川に落ちる。
そのシーンだった。

「同じことをスタントの方が、私の前にやられたんですけど。スタントの方って、あの余計な動き。打たれましたっていう動きをするって言う。で、私の場合は、うって倒れて、刀がひっかかって、川の流れで流れて行かなくて、とどまっていたので。なんか、すごい、崖の上の方に監督がいたんですけど。“財前よくやった”とか言って声かけてくれたんですよ。それで、角川春樹監督の他の作品にも呼んでいただいたりとかっていうご縁をいただいて。自分の中では、すごいチャレンジとか、こう生きるとか。あと仲間とか。いろんなことを学ばさせていただいたという映画でしたね」

映画・天と地と
財前直見にとっては、どんな作品だったのか?

「もう本当に分岐点になる大きな。本当に女優やってて、ある意味良かったなって思える作品に出会えたと思います」
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1枚の写真

2023/12/02
大分県出身の財前直見
その幼少期とは。

「あの人見知りで母の後ろに隠れてる子です 今そういうイメージがないですよね。まあ周りに自然がいっぱいあったので なんか毎日こう オタマジャクシ 見に行ったりとかそういうことはしてたんですけどもうみんな あの 私の子供の頃を知ってる人たちは先生も含め まさかあの子が芸能界に入るなんて っていうぐらい母の後ろに隠れて 袖の下からこう見てるような子でしたね」

芸能界への憧れは?

冗談で 私 あの女優になるって言ってたことがあったんですよ。それを忘れてて、そしたら知らないところでキャンペーンガールの話にトントントンてなっていくんですけど、、その前に高校3年生の就職活動があって歯医者さんの受付が決まってたんですよ 歯医者さんの受付の就職が決まってる時にスカウトにやって来られてどっからか 写真を入手したらしいって」

地元の歯科医院に勤務する予定がいきなりのスカウト来訪。
財前家は騒然とした。

「スカウトにいきなり来られて、で両親が怒るじゃないですか。うちの娘よりも東京にはいい人 綺麗な人がいっぱいいるのでダメでしょうって。その時にスカウトに来られた方がハミングバードの小田さんっていう方で奥様がボーリングの中山律子さん。中山律子さんが、なんかあった時はうちに泊まらせてあげるっていう話で、最初のオーディションとかがある時は泊まらせてもらったりとかしてたんです」

しかし、財前の両親は芸能界ではなく、
ハミングバードに受付係で就職をという条件でという形で承諾した。
しかし、話はとんとん拍子で進んで行った。

「急にキャンペーンガールの話が決まって、最終審査の4人の中に入ったから東京に来ないかって言われて東京に行ったんですよね。歩いたりして、素人だし絶対受からないと思っていたら合格して。1人だけ選ばれるっていう事は可能性があるから っていうことで 今 所属している事務所を紹介していただきした」

財前直見の芸能人生は激動のスタートとなったのである。
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