プロジェクト概要

太古の昔より、森は動物や植物などたくさんの命を育み、田畑や海、川にたくさんのミネラルをもたらし、地域と暮らしを守ってきました。 東日本震災では津波でコンクリート堤防や松林がことごとく破壊される中、その森や、昔からその地方に根差す、深く地面深くに根を張った潜在自然植生の木々たちは、津波の勢いを和らげました。 関東大震災や阪神大震災では、大火により建物が燃える被害を食い止め、防災林として大きな役割を果たしました。 この「鎮守の森」をモデルとした森をできるだけ多くつくることは、災害の多いこの国に生きていく私たちが、後世に伝え残さなくてはならない貴重な知恵であり、自然と共生していく教訓でもあります。 番組「いのちの森〜voice of forest~」では、「鎮守の森のプロジェクト」が行う活動をはじめ、日本のみならず世界各地の森を守る活動を行う人や団体にスポットをあて、森の大切さについて考えていきます。


今週も東北・宮城県東松島市の「奥松島 縄文村歴史資料館」のレポートです。
日本最大級の貝塚をはじめ、縄文時代の遺跡が数多く残る土地。東松島。
先週は、その貝塚の多くが海のそばではなく、一段高い「台地」のそばにあるというお話。そしてそれらの貝塚は、6年前の津波で流されることはなかったというお話をお届けしました。
過去、東北を何度も襲ったという津波。この地域に残る、その大昔の痕跡と貝塚を調べることで、まだまだ、私たちは学ぶことが多くあるといいます。
資料館の館長・菅原弘樹さんにお話を伺いました。

◆縄文人が住んでいた貝塚には、津波は及ばなかった
東北地方の太平洋側にある貝塚を調べてみると、東日本大震災で津波が及んだ貝塚はありません。それは縄文人が海と山との生活をする上で、一段高い台地の上に暮らしていたからです。里浜の発掘をした時に、低いところに津波の痕跡があり、4600年前と3500年前に津波が来たことを確認しています。今回4つの浜のうち、海辺の3つの浜が流されて、自分たちは助かったのですが、うちの浜だけは他の浜と立地が違っていて、貝塚があって自分たちの住む家があったということに、今回こんなことにあって、改めて気づきました。
里浜の人たちは縄文時代から繋がっていると思いますが、他の3つの浜はずっと安定して住む村は作られなかったようです。塩作りなど、季節的に仕事をするために集まった遺跡はありますが、定住はしなかった。島の中で定住したのはここだけです。それが近世以降に色んな所から人が集まり、漁業を中心とした生活を営むようになり、漁業をする上で便利な、海の近くに村を形成したのではないでしょうか。漁業集落はほとんど低いところにあります。
震災でを経験して思ったのは、自分たちが住んでいる場所がどういうところなのかということ。縄文人はちゃんとそれを意識して高いところで安全な生活を送ってきました。それは学ばなければいけません。私たちは縄文人よりもはるかに多くの情報を持っているのだから、危ないと分かっている土地に住んではいけない。それがあれば地形的なことも繋がるし伝わるし、災害の歴史も伝わると思うんです。


ちなみに、他の貝塚もつぶさに確認すると、内陸へ20キロ30キロ離れたところにも貝塚があります。それは、かつては、そこまで海だったことを表しているんですね。
関東でも、埼玉県の大宮や群馬で貝塚があるそうで、つまりそんな内陸まで海だったということなんです。それが川から運ばれた土の堆積で陸地になっていったんですね。
陸地が海側へ広がると、人々はさらに海に近いところで塩田をやったり、生活をするようになったそうなんです。
さらに、東松島・里浜の縄文人は、栗林を管理をしていたという話がありましたが、この地域の、元々の植物を調べることで、ここで暮らしてきた人々の生活スタイルが、より鮮明になってくるといいます。

◆海岸の松は”最近”のもの
宮戸島は非常に地形が入り組んでいて複雑です。植生をみてみると、縄文時代の山桜があったりします。松島は松で有名ですが、松は新しい植物。平安時代に松島湾は塩作りが盛んになり、陸奥国多賀城という役所の仕事として塩作りをして、沢山の人が動員されましたが、塩に必要なのは海水、煮詰める土器、それから薪です。浜という浜で、海水を煮詰めて塩を作る上で周りの木を伐採して薪にしてしまいました。そうすると禿山となるため、隣の浜に移動して塩作りをする、ということを繰り返すうちに、松島湾の海に面したところからは木がなくなりました。
松島湾は黒い土がなく岩。そして、これだけの塩がる。そういう環境で生えるのは松しかありません。花粉を調べると、丁度その頃に花粉が変わります。それまでは桜やケヤキやナラでしたが、塩作りを境に松に変わっています。
宮戸島・里浜は縄文時代は栗でしたが、その後はケヤキやナラがこの島の植生の中心になっていきました。その木は人々が生活する中で薪に使われたり、戦後すぐまでは山々が生活していく上でエネルギー源として大事で、それがこの島の生活を支えていた一面でもあります。


東松島はじめ「松島」という地名は、松の木という風景から生まれた地名ですが、それはつい最近、平安時代以降の話だったんですね。

最後に、この土地に残る 大昔の人々の生活の名残を見て、奥松島縄文村歴史資料館 菅原館長が思うことを伺いました。

◆縄文人を身近に感じること
縄文人はフグを食べ、ウニを食べ、道具作りでもこだわりを感じます。縄文人は壊れた釣り針も先の部分だけくっつけて修復しています。当時の天然アスファルトを接着剤にしていて、壊れた部分に溝を切って、たすきがけのように糸を巻いて修理するんです。
縄文人は、道具が壊れたら、捨ててすぐ新しいものを作るイメージがあるがそうではないんです。しかしもったいないという感覚は無いわけです。それが当然ですから。エコとかいい出したのは最近のこと。縄文人はあえてエコとは言いません。


今回のお話いかがだったでしょうか。菅原さんのお話はポッドキャストでも詳しくご紹介していますので、こちらもぜひお聞きください!

【今週の番組内でのオンエア曲】
・Lego House / Ed Sheeran
・Hello ! / YUKI
先週に引き続き、東北・宮城県東松島市の「奥松島 縄文村歴史資料館」のレポートです。
日本最大級の「貝塚」がある土地。そしてこの地域の貝塚からは、縄文人が何を食べ、何を考えて生活していたか、まさに彼らの暮らしそのものが詰まっています。
今日も、貝塚から分かる縄文ライフ、一緒に覗いてみましょう!
資料館の館長・菅原弘樹さんに教えていただきました!

◆山と海と共に暮らしていた縄文人
ここの貝塚は、台地の高いところの斜面に形成されています。家の周りの端っこに貝塚が作られているんですが、家の台所のそばでアサリや魚の骨、動物の骨を捨てるという感じなんですね。ですから今回の津波も10m以上きていますが、津波の来ないところに縄文人は住んでいたんですね。縄文人は山のものも大切にしていました。里山・里海という言葉がありますが、まさに縄文人は里山里海を大事にして、その中で自然とともに暮らしていたということなんです。
これだけ貝殻と魚がたくさん出土していると、魚介類だけ食べていた感じがしますが、人骨を調べると山の幸を利用していたということがわかるんです。魚介類は多いですが半分近くは植物質の食べ物を食べていて、土の中の花粉を調べると栗の花粉ばかりなんです。ということはそこが栗林だった証拠です。栗は縄文人にとって重要で、実もそうですが、家の建材としても丈夫でいい材料なんです。竪穴住居は土屋根だとわかっていますが、その土を屋根にかける。その時の柱は栗の木なんです。つまり、縄文人にとって栗は非常に重要だったことが分かります。縄文人はちゃんと栗の木を管理をしていました。下草を切って太陽の光があたるようにして、あまり密生しないようにしていました。密生していると実がつかなくなってしまうから、管理してあげないといけない。遺跡から出る栗は大きさが揃っているんです。また、栗はアク抜きが必要ない。粉にして食べれば保存が効きます。
もう少し後の縄文の中期になると栃の実も利用するようになります。栃の実はかなり食べる部分が多いのですが、アク抜きが必要で、ちゃんとその作業をやっています。縄文人は魚介類、旬の魚を獲っていますが、もう一方でちゃんと山を管理していたことも分かっています。家を高いところに作って、周辺に里山をもって、そこに家を作って生活していたんです。
現在の日本の食文化は、ほとんど縄文人が作った食文化や伝統の上に生活が成り立っていますね。日本の基層文化は縄文だといえます。


我々日本人は4000年前から、ずーっと里山とともに生きていたんですね。
ちなみに、奥松島の縄文人はじめ本州の縄文人は、栗の粉を使ったクッキーやパンを食べていたため、世界の狩猟採集民と比べて、「虫歯率」が高かった、なんて話もあります。
そしてもう一つ。縄文人たちの貝塚は、私たちに大切な教訓を伝えてくれているんです。

◆縄文人の防災意識
貝塚は村の台地の斜面にあります。斜面の下には津波は来ていますが、縄文人が住んでいるのは一段高いところなので津波はほとんど及んでいません。今回も10mの津波が来ましたが、それより一段高い所ということがあったんじゃないかと思うんです。里山・里海を活かした生活、自然と共生する生活をしようと場所を選ぶと、台地の上なんだと思います。それが近世くらいになって、漁師の生活になると山には住まず、海のそば、船のそばに暮らす。今回の津波では江戸時代以降にできた海のそばの集落はみんな流されてしまいました。一方、縄文以来の高台 里浜はほとんど流されなかった。これは里浜だけでなく松島湾全体にいえます。松島湾にはたくさんの貝塚があるが、対岸や松島の貝塚もその時期はどういうわけか一段高いところに移っています。そして同じ時期に低いところに移っています。おそらく気候が寒くなって海が引いたときに少しでも海に近い所によっていったんだと思います。ただそれでも絶対に海のそばではなく一段高い台地の上で生活しているんですが、目の前に津波が来るのを見るとより高いところに。そういう防災意識はあったんじゃないかなと思いますね。


今回のお話はポッドキャストでも詳しくご紹介しています。
こちらもぜひお聞きください!

【今週の番組内でのオンエア曲】
・ドライブ / ホフディラン
・狩りから稲作へ feat.足軽先生・東インド貿易会社マン / レキシ
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