2012年2月29日

2月29日「雄勝町で支援を続ける立花貴さん(2)」

宮城県石巻市雄勝町で震災復興に取り組む立花貴さん。

立花さんは宮城県仙台市の出身で、東日本大震災を機に、雄勝町で給食支援や教育支援などを進めています。
また、立花さんが力を注ぐもう一つの活動が、雄勝町の漁業の復興。
雄勝町の漁師による会社「オーガッツ」を立ち上げています。

◆漁業の復興と「そだての住人」
 雄勝中学校と深く関わる中で、PTA会長の伊藤さんと知り合った。雄勝の漁師の代表の一人で、漁師たちが集まる漁師たちの会社を作りたいという相談を受けた。
 僕(立花さん)も元々、伊藤忠商事に勤務し、独立後は食品流通系の会社の社長をやっていた。食品、流通、メーカー、問屋とのつながりも理解しているので、新しい日本の漁業の形のお手伝いができるのではと思い、引き受けた。
 ただ関わる条件が「漁師であること」だった。漁師はもともと一人一人が個人事業主。雇われるのを嫌い、部外者に対しても抵抗感がある。だから「漁師」で「雄勝の住民」であることが条件だった。そこで雄勝に住民票を移して漁師になり、雄勝にちなんで「オーガッツ」という会社を立ち上げた。買ってくれる人を「そだての住人」として、首都圏や全国の人と漁業、養殖業と取り組んでいる。
 雄勝は少子高齢化、過疎化が進む町。なかなか人は戻らない。ならば、そこで暮らすわけではないけれど、心を置いて、一緒に漁業を育て、町を育てる「そだての住人」があってもいいのでは。
 毎月雄勝でイベントを開催。多いときは首都圏から200人くらいが集まる。養殖業を手伝ってもらったり、ワカメの収穫をしたり。関わることで漁業の大変さ、自然のすごさを知ってもらって、町を活性化していく取組み。
 今「そだての住人」は、2500口(900人くらい)。5万口くらいが目標。これからどんどん一緒にやりたいという人を増やしていきたい。



立花さんの「オーガッツ」が募る、「そだての住人」の参加者には、一口1万円を振り込んでもらい、牡蠣やホヤ、帆立などが収穫ができたら商品を届ける「予約販売」という仕組みです。


明日は、立花さんに「雄勝町の震災復興の課題」「雄勝の子供たちが奏でる復興和太鼓」について伺います。


【オーガッツ official website】

【立花貴さんブログ】



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宮城県石巻市を中心に活動するボランティア団体「石巻2.0」の協力のもと、1泊2日の石巻復興支援ツアーを企画しました!

日程:3月24〜25日

1日目:石巻市内の津波被害の様子や、復興の取り組みを歩いて視察。
2日目:石巻の仮設住宅地域で開催される、石巻2.0 × LUZeSOMBRA PRESENTS「RE-FUTEBOLISTA PROJECT」の第4回フットサル大会。こちらには、中西哲生も参加します。

詳細はこちらをご覧ください。
【「クロノス」×ISHINOMAKI2.0 石巻復興支援ツアー】

2012年2月28日

2月28日「雄勝町で支援を続ける立花貴さん(1)」

宮城県仙台市の出身で大学卒業後、東京で仕事を続けてきた立花貴さんは、東日本大震災を機に、石巻市雄勝町で給食支援や教育支援などの活動を進めています。
なぜ雄勝町で、震災復興に取り組むことになったのか、お話を伺いました。

◆雄勝に関わるきっかけ
 震災の当日は東京にいて、すぐに宮城(の実家)に戻って、母と妹の安否確認をした。安否確認をしたらすぐに東京に戻ろうと思っていたが、実際に現地に入ってみると、津波の危険区域に指定されている地域では、1週間〜10日も水も食料が届かないところがあった。そこで東京の仲間にとにかく水や食料を運んでくれと呼びかけた。そこから炊き出しや福祉の提供を始める中で、雄勝中学校の佐藤校長と出会った。
 佐藤校長は4日間山の中を捜し回って、奇跡的に生徒全員の無事を確認できた。その校長が「とにかく子供たちに腹いっぱいご飯を食べさせてやりたい」「パンと牛乳の朝食や学校給食だけでは足りないから、なんとかならないか」と相談を受けた。
 そこで大規模半壊の自宅(仙台市宮城野区)で100食分給食を作った。母も妹も仕出し屋をやっていて料理ができるので協力してもらった。学校給食を届ける活動から雄勝に関わっていった。


◆子供たちへの支援
 東京に戻ると杉並区和田中学校の元校長・藤原和博先生に呼ばれ、説明をした。藤原先生も宮城、岩手、福島を見て回って、「雄勝が一番状況が厳しいな」という話だった。
 雄勝町は人口の約8割が流出してしまった。もともと人口4300人のところが住民票ベースで1000人に。実際に住んでいる数はもっと少ない。
 学校は小学校も中学校も、屋上を超える津波に襲われた。子供たちも1人を除いて全員避難所生活。
 藤原先生は「この厳しい環境の子供たちに日本で一番豊かな教育をしよう」と話している。いま雄勝中学校は飯野川北高校に間借りをしているが、そこで補習の塾をやっている。



明日は、立花さんが雄勝町で取り組む新しい漁業の形、「オーガッツ」の「育ての住人」についてお伝えします。


【立花貴さんブログ】



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宮城県石巻市を中心に活動するボランティア団体「石巻2.0」の協力のもと、1泊2日の石巻復興支援ツアーを企画しました!

日程:3月24〜25日

1日目:石巻市内の津波被害の様子や、復興の取り組みを歩いて視察。
2日目:石巻の仮設住宅地域で開催される、石巻2.0 × LUZeSOMBRA PRESENTS「RE-FUTEBOLISTA PROJECT」の第4回フットサル大会。こちらには、中西哲生も参加します。

詳細はこちらをご覧ください。
【「クロノス」×ISHINOMAKI2.0 石巻復興支援ツアー】

2012年2月27日

2月27日「たすきリレーで福島を目指す」

「全国たすきリレー」を企画・運営しているJASP(全国学生プロジェクト)で福島大学3年の鈴木慎一郎さんにお話を伺いました。

鈴木さんは福島大学経済学部3年。
「福島のことを忘れないでほしい」「福島のいまを知ってもらおう」という気持ちから、2月13日に沖縄をスタート。
全国およそ30都府県、日本海ルートと太平洋ルートの2ルートでたすきリレーを実施しています。
全国の学生にツイッターなどで呼びかけて協力を求め、2000人近い学生が協力して運営をしています。

日本海側の太平洋側の2つのルートで全国をリレーし、3月11日に福島のゴールを目指します。

【JASP たすきリレー website】

2012年2月24日

2月24日「福島県双葉郡川内村 遠藤雄幸村長インタビュー(3)」

福島第一原発から30キロ圏内にある福島県双葉郡川内村は、1月31日に遠藤雄幸村長が「帰村宣言」を出し、「村に戻れる人から戻る」という基本方針の元、帰村を開始しました。
いま川内村は、役場機能を郡山の仮設庁舎から村へ戻し、学校や診療所を再開する4月へ向け、準備を進めています。

ただ、約2900人の村民のうち、村に戻ったのはまだ250人〜300人。
村の外で避難生活を続ける方の不安を解消するには、まだ多くの問題が残されています。

遠藤村長にお話しを伺いました。



遠藤村長が机の引き出しに忍ばせている、一通の手紙があります。

《千葉県に避難している女子中学生からの手紙》
 村長さん、私は川内村が大好きです。
 大好きな大好きな川内が、なんで、こうなってしまったの?いつも、夜、寝る前に、泣いてしまいます。
 千葉の人は、とても優しいです。こないだも友達と一緒に東京ディズニーシーに行ってきました。
 とても楽しかったです。でも私の川内に戻りたいと言う気持ちは、絶対に変わりません。絶対に!!
 川内、自分の故郷を捨てるなんて、、、絶対にしません。
 これは私の考えですが、大人になったら、川内の「ゆふね」で働いて
 大好きな川内村に住みます。まだまだ先は長いですが、川内に住むことは、絶対に変えません。
 田舎に帰りたいです。村長さんお願いします。



◆遠藤村長“手紙は応援歌そのもの”
 子どもたちは純で無垢。大人が何をやっているのか、何をやろうとしているのか、(大人の)後姿を見ながら考えていると思う。今は色んな保障で、雇用保険や損害補償で仕事がなくても生活している。日中、お父さんやお母さんが借り上げアパートや仮設にいる。子どもたちにどう映っているんだろう。子どもたちは気づいているし感じている。少々辛くてもリスクがあっても、大人の我々ができることをやろうという姿を見せるべきではないか。
 不安の中で育った子どもたちは、その家にとっても村にとっても不幸なことだと思う。そういう子どもたちは将来 川内村に戻ってこない。だとするなら福島で生きる、川内村で生活すると決めたら、津波で命を落とした家族や子どもたちを考えると、生きている喜びを伝えていく。一緒にいる家族の大切さを、しっかり伝える。こういう姿を子どもたちに見せてほしい。
 今こそ手紙を頂いた子どもにしっかり応える絶好のチャンス。今度の震災で生き方まで、価値観まで変わってくる。
 何が大切なのかということ。村って何のために存在するのか。自治体ってどうして存在するのか。除染してお金かけて苦労して、元の生活に戻るにはまだまだ時間がかかる。
 どうしてこんなに辛い思いをしながら川内に戻るのか。川内村の存在って何か。考えさせられた。故郷に戻るって理屈じゃないと、つくづく思う。

2012年2月23日

2月23日「福島県双葉郡川内村 遠藤雄幸村長インタビュー(2)」

福島第一原発の事故による全村避難から10か月。
原発から30キロ圏内にある福島県双葉郡川内村は、1月31日に遠藤雄幸村長が「帰村宣言」を出し、「村に戻れる人から戻る」という基本方針の元、帰村を開始しました。

そして現在、川内村は村民 約2600人のうち、250人ほどが村に戻っていますが、大半の方は、今も村外の仮設住宅などで生活を続けています。また、村にはまだ子どもは一人も帰っていません。4月から帰るという子もいるようですが、それもごく一部に留まる見込みです。
遠藤雄幸村長にお話を伺いました。


◆親御さんが抱える不安
 低線量とはいえ、20年後30年後にどんな健康に及ぼす影響はどうなのかという心配。専門家の間でも低線量被ばくには意見が分かれるところ。学校が戻った時に、戻る人が少なく、複式学級になってしまうのではという教育面の不安。そんなことはさせない。1人でもその学年の先生をつけることでクリアする。
 浪江や富岡、大熊に高校があり、バス通学をしていた。そこは壊滅状態。いわきにサテライトが出来ている。高校卒業するまではこちらにいたいという人もいる。放射線への不安だけでなく、子供の将来や教育環境が、戻りたい気持ちにブレーキをかけている部分がある。



川内村では今週から、学校などの除染で出た汚染土を仮置き場へ移す作業も始まり、学校の再開へ、準備が進んでいます。
しかし親の不安を解消するには、様々な課題をクリアする必要があるようです。

そして、村で人が生活を続けていくためには、もう一つ大きな課題があります。


◆雇用や除染の問題
 働く場所がないと帰れない。雇用は解消されつつある。学校跡地に50人規模の製造業が手を挙げている。水耕栽培でも10人から15人の雇用の確保になる。
 産業構造でいうと畜産林業。経済側面だけでなく文化そのもの。目の前に畑があれば手入れをする、田植えをする。
 経済活動だけではない。避難していると、朝起きた時に、「さあ今日は何やるか」と考える。これは不幸。役場で働く我々はいい。避難している人は朝起きて何をするかがわからない。家に戻れば、畑があれば体が動く。ひとつの運動。
 森林の除染は時間がかかる。木を伐採すればよいものではない。森林の機能は経済だけでない。災害の防止、遊びの空間、山のめぐみ、キノコがとれ、景観となり、観光となる。すべての木を切るという行為は自殺行為。公益的な機能を維持するためには時間がかかる。



川内村は、森林の除染作業、働く場所の問題、そして子どもと親の不安を一つ一つ、あらゆる手立てを講じて解決しようとしています。
ただそれでも、郡山市の仮設住宅で暮らす村民の心境は複雑です。
村民の方にお話を伺いました。

◆川内村民の複雑な心境
 ・診療所にお医者さんが帰ってくれば。年寄りだから。川内のお医者さんが帰らなければ私たちは帰らない。
 ・中学1年生。なるべく村に帰りたいがお兄ちゃんの高校があるから残念。
 ・農家。帰ったってしょうがないでしょ、今の状態では。だからいるだけ。何にもできない。田んぼも畑もできない。除染もしてもらったって帰ったってどうしようもない。その後のことがはっきりしていないから。辛いです。夢にも見ます。




明日も、川内村・遠藤雄幸村長のインタビューをお届けします。



2012年2月22日

2月22日「福島県双葉郡川内村 遠藤雄幸村長インタビュー(1)」

福島第一原発の30キロ圏内、一部20キロ圏内にある川内村は、原発事故直後の昨年3月16日に、村長の避難宣言によって、約2600人の村民ほとんどが村の外へ避難。
避難生活を余儀なくされました。

そして昨年9月。30キロ圏内の緊急時避難準備区域が解除。
すでに帰還の準備を進めていた川内村は、先月31日に「帰村宣言」を出し、遠藤村長は記者会見で、「戻れる人から戻ろう」と村の人たちに呼びかけました。
これは、行政機能を移転した双葉郡9つの町村で初めて、「村へ帰る」意思を示したものでした。

この大きな決断に至った想いを、遠藤村長に伺いました。


◆「帰村宣言」への想い
 川内村は線量が低かった。チェルノブイリで人の住まない場所、廃墟を見てきた。除染しない街の姿を見て、除染すれば戻れると感じた。戻れる可能性があるなら、それを広げたい。そこに人が住んで生活をしていくことが必要。
 3月24、25日で役場を移動。学校の説明会は終了。除染も公共施設や学校は終わっている。
 モニタリングは済んでいるが、寒さと雪で遅れている。3月には子どもたちのいる家庭を優先して除染していく。250人から300人が戻っている。役場機能も本来のものに戻し、行政サービスを展開したいという思いがある。
 (避難生活が)1年近くになり「もう戻りたい」という人もいる。それでも心配という人もいる。三者三様。「帰村宣言」と言いつつも、どう表現するのか。結果、尾ひれのついたものに。



「戻れる人は戻る。心配な人はもう少し様子を見てから戻ればいい」
川内村はこういう基本方針を立てています。帰村を強制するものではありません。
村長自身も、悩んだ末の方針だったと話しています。
それでも帰村宣言に踏み切ったのは、村が村民にとって「故郷」だからだと遠藤村長は考えています。


◆川内村は「故郷」だから
 自分の故郷、我が家に帰るのは理屈じゃない。「戻らない」「戻るのに慎重」だという人にも故郷は必要。
 川内村はいつまでたっても故郷である。消滅していいのか。誰だっていやだという。
 不平や不満だけでは何も解決しないのは自明。国だ県だと言っても時間はかかる。国や県や東電が、前の生活を戻してくれるわけではない。お金の面倒は見てくれるだろうが。
 誰がやるのか、自分の村のことを自分でやる。村をもう一度綺麗にするのは村民。だから戻ってきれいにする。





明日も、川内村・遠藤雄幸村長のインタビューをお届けします。

2012年2月21日

2月21日「WWFジャパン『暮らしと自然の復興プロジェクト』特別授業(2)」

WWFジャパンが取り組んでいる「暮らしと自然の復興プロジェクト」。
これは東日本沿岸部の生態系の回復と水産業の復興を目指すプロジェクトで、宮城県南三陸町戸倉地区と、福島県相馬市松川浦の2カ所がモデル地区に選ばれています。
プロジェクトの一環として、2月8日に南三陸町立戸倉中学校2年生が参加した特別授業が行われました。



教壇に立ったのは、WWFジャパン自然保護室・海洋プログラム担当の前川聡さんです。

◆「震災が海の環境に与えた影響」前川聡さん
 地震と津波が海をどう変えたのか。港が水浸しになるのはそれだけでも大変だが、生き物にとっても大変なこと。波打ち際で、潮が満潮になったり干潮になったりする場所でうまく生活していた生き物は、常に水の中での生活になってしまう。同じようなことが、浅瀬、干潟の生き物にも言える。生き物の住む場所が、今回のことで移動したり、住めなくなってしまったりしている。
 私たちが残したい「未来の南三陸町」とはどんなものか。海が綺麗ならいいのか。もう少しお店ができて便利になればいいのか。そのために私たちは何をしたらいいのか。




地元の海について学んだ戸倉中学の生徒たちからは、様々なアイディアが飛び出しました。

◆「自分たちで何ができるのか」戸倉中学の生徒たち
 ごみはすべて腐るものにする。そうすれば海はきれいになるんじゃないか。
 町の復興のために募金活動を行う。キャラクターを作って売り上げをグッズの売上金を募金する。
 海をきれいにできるように木を一本でも多く植えたい。
 伝統芸能を披露して観光客を増やしたい。観光客を増やせば町のみんなも南三陸町の海や山をきれいにしたいと思うのでは。



今回の授業を受けて、戸倉中学校・谷山知宏教頭は、このように語っています。

◆「暮らしを見直さなければいけない」戸倉中・谷山教頭
 戸倉地区はこの震災で大きな被害にあった。
 子供たちが学習で取り組んでいるのが漁業の復興と町の復興。暮らし全体を見直さなきゃいけないし、訪れる観光客も魅力があるから来るんだということに、気が付いてほしい。これから何回かやっていけば、そういったところにたどり着けるかと思う。






プロジェクトでは、震災による沿岸の水産資源への影響調査を行うなど、今後もさまざまな取り組みを進めていく予定です。

「暮らしと自然の復興プロジェクト」について、詳しくはこちらをご覧ください。
【WWFジャパン「暮らしと自然の復興プロジェクト」】



☆TOKYO FMとJFN38局では、震災後の環境の復興と支援を目的とするライブイベント「EARTH BY HEART LIVE 2012」を実施します。
ライブの収益の一部は、WWF「暮らしと自然の復興プロジェクト」に寄付されます。
出演:フィッシュマンズ/サカナクション
日程:4月15日
会場:さいたまスーパーアリーナ
チケット:5,422円(税込)

今日は、このライブチケットの特別電話予約を実施しています。
電話番号:0570-084-206


【EARTH BY HEART LIVE 2012 officeial site】

2012年2月20日

2月20日「WWFジャパン『暮らしと自然の復興プロジェクト』特別授業(1)」

WWFジャパンが東日本沿岸部の生態系の回復と水産業の復興を目指して行う取組み「暮らしと自然の復興プロジェクト」
宮城県南三陸町戸倉地区と、福島県相馬市松川浦の2カ所がモデル地区に選ばれています。

プロジェクトの一環として、2月8日、南三陸町立戸倉中学校で、WWFジャパンの専門家による特別授業が行われました。
教壇に立ったのは、WWFジャパン自然保護室・海洋プログラム担当の前川聡さんです。


南三陸町戸倉地区は、志津川湾の南に位置する地域。
生物多様性に支えられた豊かな水産資源が、地域産業の柱となってきました。
ただ、養殖業がさかんな一方で、「過密養殖」による生産性の悪化も、地域の課題とされてきました。

◆志津川湾の豊かな自然
 「暮らしと自然の復興プロジェクト」は、自然だけでなく、人の暮らしを元通りにするお手伝いをしよう、というプロジェクト。
 志津川湾は環境省が選ぶ重要湿地500の一つ。アマモやアラメなどの昆布海藻がたくさん住んでいる。またいろんな種類が住んでいることが志津川湾のすごいところ。そのためいろんな魚がとれるし、海がきれい。それだけでなくカキやホタテ、銀ザケなどの養殖も盛んな地域でもある。
 500湿地は、他に陸前高田の広田湾や岩手のリアス式海岸などが登録されている。同じ三陸の海でも登録されている理由がそれぞれ異なる。それを調べることで、志津川湾の特徴がわかってくる。


◆戸倉地区をプロジェクトのモデル地区に選んだ理由
 プロジェクトを行うにあたり岩手から茨城までさまざまな地域を訪問した。その中で戸倉の漁業者の方たちに話を聞いたときに、震災の前から課題と思いながらもできなかったことに取り組もうという話があった。それが水産物の品質を上げるだけでなく環境にも優しい取組みなるということがわかって、戸倉地域の活動が全国に広がるように、応援させていただければと思い、戸倉を活動対象地域に選んだ。





プロジェクトでは、震災による沿岸の水産資源への影響調査を行うなど、今後もさまざまな取り組みを進めていく予定です。

「暮らしと自然の復興プロジェクト」について、詳しくはこちらをご覧ください。
【WWFジャパン「暮らしと自然の復興プロジェクト」】



☆TOKYO FMとJFN38局では、震災後の環境の復興と支援を目的とするライブイベント「EARTH BY HEART LIVE 2012」を実施します。
ライブの収益の一部は、WWF「暮らしと自然の復興プロジェクト」に寄付されます。
出演:フィッシュマンズ/サカナクション
日程:4月15日
会場:さいたまスーパーアリーナ

【EARTH BY HEART LIVE 2012 officeial site】

明日火曜日は、このライブのチケットの特別電話予約を行います。

2012年2月17日

2月17日「かまいしキッチンカープロジェクト」

釜石市の東部地域は飲食店が集中していたエリアです。
しかし津波の被害により、その多くは営業ができない状態となりました。
そこで昨年、岩手県釜石市と釜石・大槌地域産業育成センターが「かまいしキッチンカープロジェクト」をスタートさせました。

事務局の石川学さんにお話しを伺いました。


◆プロジェクトについて
 被災をした飲食店の方々の再起を図る手段として、市の補助金なども導入し、キッチンカー方式で、昨年8月11日から現在6店舗で本格的に営業。
 キッチンカーでの調理には限界があり、被災によって店舗や自宅を失くされた方も多く、加工する場がないので、普段車が止めてある近くにプレハブを作って(調理場として)共有して使ってもらっている。



キッチンカーで営業中の店舗は、地元の食材をふんだんに使った手作り料理が人気の「はまゆい」や、創業56年、中華料理の老舗「新華園支店」など、地元で愛されてきた飲食店が中心です。

ランチ営業は、市内8か所のポイントに6台が日替わりで出かけて、料理を提供。
夜は、6台のうち最大4台が「キッチンカー屋台村」に集合して、営業をしています。


◆キッチンカーで営業
 釜石駅前に大きな仮設の商店街ができて、そちらで(店舗事業を)再開している人もいる。キッチンカーは移動できるのが有利なところなので、キッチンカーを選ぶ人もいる。
 (キッチンカーのオーナーは)初めは不安がかなりあったと思うが、昨年8月11日からチームでやってきて、県内県外たくさんのイベントに声をかけていただき、日が経つに連れてチームとしてまとまりつつある。逆に自分たちでイベントをしかけたり、メニューを増やしたりという動きも。
 キッチンカーのお客さんは、住居を復旧して住み始めている人や、大きなホテルが二つあるので、その宿泊されている方たちがメイン。
 夜は今までのお得意さん、常連さんなどが顔を出してくれている。事業者さんもお客さんも喜んでくれている。




かまいしキッチンカープロジェクトについて、詳しくはこちらをご覧ください。
【釜石復興支援プロジェクト】

2012年2月16日

2月16日「再開を目指す気仙沼『かもめ食堂』(2)」

宮城県気仙沼の「かもめ食堂」は、気仙沼なら誰でも知っているほど、地元で愛されてきた食堂でした。
しかし6年前に経営者が引退し、閉店。
その店舗は、昨年の津波で流されてしまいました。
その後、「かもめ食堂のラーメンをまた食べたい」という地元の方の声を受け立ちあがったのが、東京・葛西のラーメン店「ちばき屋」のご主人で、気仙沼出身の千葉憲二さんでした。

「かもめ食堂」を気仙沼で復活させる前段階として、今年2月、新横浜ラーメン博物館にお店を再開させました。
現在の店舗で従業員を育て、気仙沼の土地のかさ上げが終わる3年後をめどに、最終的には気仙沼に移転して、地元の雇用につなげたいと話しています。


◆雇用を生み出したい
 地元の人たちを育て、雇用を生むような店にしていけばいい。気仙沼のハローワークでも、弟子など興味ある人を募集しているが、失業保険を最後までもらおうとしているため動かない。今は「ちばき屋」の従業員でやっているが、本来ならば気仙沼の人たちが手を挙げてくれれば、僕はウェルカム。気仙沼の人たちのためにやろうと思っているが、気仙沼の人たちが手を挙げてくれないのでは成立しない。それだけ温度差がまだまだあるのも現実。

◆ラーメンを通じて仕事を作る。そして、その先の街づくりへ。
 興味本位でもいい。「千葉さんに習ってみようかな」という人がいれば嬉しい。
 気仙沼でラーメンをやっている人は、みんなお年を召した人たち。2代目はいない。難しいが、若い人が気仙沼ラーメンを見直そうという形で、行くたびに会ってみんなに話すつもり。

 気仙沼一のラーメンにしようと思っている。ほかの既存ラーメン店が、「うちは売れなくなる」という風に思ったら、なんのために行ったか分からない。切磋琢磨しよう。歓迎されるかどうかは分からない。みんなが同じような気仙沼ラーメンで、観光客がふと通ったら秋刀魚の良い香りがする、ラーメン店があると思う街づくりをしよう。



震災で職を失った方の数は、東北全体で12万人。
被災地に雇用を作るには、千葉さんのような県外からの民間の力、そして被災された方が働く意欲を持てるような工夫も必要ではないでしょうか。






【気仙沼かもめ食堂(新横浜ラーメン博物館)】

2012年2月15日

2月15日「再開を目指す気仙沼『かもめ食堂』(1)」

宮城県気仙沼にあった「かもめ食堂」は、昭和19年創業。
港町・気仙沼で、水産加工場で働く人々や、学生たちの憩いの場として、ずっと親しまれてきた小さな食堂です。
去年の震災と津波で、かもめ食堂は建物ごと流されてしまったのですが、「かもめ食堂のラーメンをまた食べたい」という声を受け、お店を復活させよう という動きが始まっています。

その中心にいるのが、東京・葛西の有名ラーメン店「ちばき屋」代表・千葉憲二さん。
気仙沼で生まれ育った千葉さんが「かもめ食堂のラーメン」に出会ったのは、4歳の時だったそうです。


◆かもめ食堂は気仙沼の日常にかかせない店
 55〜56年前は外食なんてありえない。映画を見た帰りにたまたま僕を連れてきた。末っ子だったもんだから、オヤジが僕を可愛がってくれた。帰りにラーメン食べに行くか、と。
 初めて出てきたラーメンに、日本の食べ物じゃないと感じた。日常、働く人たちが、かもめ食堂は「家」と感じるくらい、気を使わず立ち寄れる、そんな店だった。安らぐ。日常の気仙沼に欠かせない店であった。ラーメンの原点はその暖かさ。かもめ食堂のおばちゃん2人がニコニコと三角巾と割烹着で、親指が汁に浸かっても「はいどうぞ」でOK。それも含めてあったかさを感じる。それが原点。いまでもそう思っている。



実はかもめ食堂は、6年前に経営者の方が引退、閉店していたのですが、復活を望む声も多かったそうです。
そんな中、昨年の震災で建物が全壊してしまいました。
千葉さんは元経営者の方の了承を得て、かもめ食堂のラーメンを継ぐ人を育て、地元の雇用を生み出すために、お店の復活へ向けて動き出しています。


◆復活へ向けて
 1〜2年は港の周りは地盤沈下しているし、道路だけはかさ上げしているが、すべてのかさ上げには3年はかかる。
 土地さえあれば(かもめ食堂の復活を)やろうと思っている。そうしているうちにラーメン博物館から「地名と、かもめ食堂の発信を3年間やろう」と提案され、3年で復興のめどがついた時に、移転してやろうという話になった。



かもめ食堂は3年後に気仙沼で再開することを目指し、新横浜ラーメン博物館に、新たな形でオープンしています。





【気仙沼かもめ食堂(新横浜ラーメン博物館)】

2012年2月14日

2月14日「震災被害を受けた海苔養殖の現状(2)」

千葉県船橋市と市川市の沖合にある浅瀬「三番瀬」は、今でも“江戸前”と呼ばれる質のいい海苔やアサリが獲れる漁場です。
しかし去年の震災は、東京湾の漁港にも大きな被害を与えました。

市川市行徳漁港も、堤防の傾き、ひび割れ、そして液状化の被害がありました。
今も一部の堤防は曲がったまま。液状化で使えなくなった建物もあります。

市川市行徳で「三番瀬の海苔」の養殖を続ける福田武史さんが受けた被害について、お話を伺いました。


◆収穫の最盛期を迎えていた海苔。津波で受けた被害
 昨年3月11日、東京・晴海の観測所では津波は1.3メートルだが、船橋では2.4メートル来たという話もある。
 海を見に行くと、海苔の網を固定する竹が陸側に斜めになっていた。海苔収穫は終わりの時期だったが、残り3週間で収穫するはずの海苔は廃棄。あきらめた。(被害額は)資材などを含めると500万円くらい。


◆11か月が経過。直面しているのは「放射性物質に関する風評被害」
 市役所の測定では基準値以下。行政以外の民間測定でも「気にしないでよい」「討論する必要なし」との判定。
 中には敏感になる方もいる。売り上げは相当減っているのは事実。
 地元のイベントで地元のものを、愛着があるからということで、応援で買いに来てくれて励みになっている。ネット販売では遠方の方がメールで、震災の影響を心配して、どうしても食べたいので購入させて欲しいという連絡は頂いている。
 売り上げが少ないということは現状ではダメだということ。
 実はいま大学院に行っている。東京湾の三番瀬の再生化を研究している。研究者だけでなく現場の意見を尊重するのも大事。どうせなら自分が研究者になってしまえと、4月から研究をしている。経験したことを何かしら役に立てられればと思っている。



風評被害は、海を職場にする漁師にとって、深刻な問題。
「しっかり検査をして、きちんとしたデータを持っていることしか方法はない」と、福田さんは語っていました。





【福田海苔店 official website】

2012年2月13日

2月13日「震災被害を受けた海苔養殖の現状(1)」

東京湾、千葉県の船橋市と市川市の沖合には、三番瀬と呼ばれる浅瀬が存在します。
実はこの海域は、昔から質の良い海苔やアサリが獲れる漁場として知られていて、「江戸前の海苔」は今もこの三番瀬で獲れています。
市川市行徳で海苔の養殖を続ける福田武史さんに、三番瀬の歴史、そこで獲れる海苔の特徴を伺いました。


◆質の良い海苔が採れる三番瀬
 ここは行徳漁港。ディズニーランド、新浦安の駅の近く。行徳の組合で6世帯。最盛期は150世帯ほどあったが、今は激減。
 三番瀬は豊かな海で、40年前はカレイやカニ、アサリがザクザクいた。今は埋め立てや水の流れで環境が変わり、アサリの生息量もだいぶ減っているが、川と海水の混ざった栄養豊富、味は格別。そんな水産物が獲れる。
 船橋・浦安では200年以上前から海苔漁をやっていた。市川は塩づくりが盛んだった。「市川塩浜」といった地名にも残っている。明治4年の台風で塩田が壊滅。海苔づくりに移行したという歴史がある。
 最盛期は港からすぐ見えるところに海苔の網が密集していた。市川にも生産者も150人ほどいたが20年〜30年前に廃業。
 父は3年前に他界したが、生涯現役で60年以上続けていた海苔漁師。一代でやめるつもりだったが、美味しい海苔を失うのはもったいないし、自分が食べたかったということで、兄と私で後を継いだ。
 意外と地元の人も、美味しい海苔の存在を知らない。住んでいる人にも誇りに思って欲しいと思っている。自分たちの近くの海でこれだけ美味しいものが獲れるということを知って欲しいと仕事をしている。
 味付け海苔なのかと言われるほど甘みが強い。穴が開いていることもあるが、生海苔は薄いため穴が開く。それだけ柔らかく甘みがある。



海苔は11月〜3月が収穫の時期。あと一か月ほどで新海苔のシーズンは終わります。
明日は、東京湾の震災被害、そして11か月が経過した現状について、福田さんに伺います。



【福田海苔店 official website】

2012年2月10日

2月10日「唐桑半島 鱈まつり」

牡蠣の養殖でも知られている宮城県気仙沼市は、生鮮カツオの水揚げ日本一を誇る港町。
昨年、東日本大震災でその漁業は大きな打撃を受けました。

2月12日(日)、気仙沼市唐桑町で開催されるのが「唐桑半島 鱈まつり」です。
このイベントについて、唐桑町観光協会会長・こはつゆうじさんに伺いました。

◆鱈まつりへの想い
 1月中旬〜2月中旬は鱈の最盛期。脂が乗って一番いいとき。それをタラフク味わってもらいたい。地元を元気づけ、支援してくれた皆さんに、鱈汁や牡蠣の炭火焼きをごちそうする。
 「唐桑半島 鱈まつり」では、郷土芸能の虎舞や崎浜地区の大漁唄込みなども行なわれる。
 第1回は震災前の昨年2月に開催された。全国の皆さんに感謝する気持ちがいっぱいあるが、浜に活気が見られないので、その活気を呼び戻す意味でも、今回開催することにした。
 牡蠣だけでなく「マダラ」もこの時期の気仙沼の特産品。寒いこの時期は鱈の味噌汁がおいしい。鱈鍋、切り身にした揚げ物、刺身。白子や卵(たらこ)もおいしい。
 気仙沼、唐桑は海とともに生きてきた。だんだんと海の色も青くなってきたので復興の証も見えてきた。ぜひ震災を皆さんに見てもらいたい。がれきの焼却などもお願いしたい。



【唐桑半島 鱈まつり】
開催日時:2月12日(日)朝9時〜午後2時まで
会場:唐桑半島ビジターセンター前駐車場
※鱈汁、牡蠣の炭火焼きが振る舞われる予定

2012年2月9日

2月9日「郷土芸能の復興へ向けて・宮城県南三陸町の『鹿躍』」

西暦1700年以前、元禄時代よりも前から伝わる郷土芸能、宮城県南三陸町の「鹿躍」は、震災後、昨年7月から活動を再開しました。
今年もお盆や秋の奉納へ向けて、準備を進めています。

南三陸町・行山流 水戸辺 鹿躍保存会会長・村岡賢一さんにお話を伺いました。


◆震災後の「鹿躍」ができたこと
 鹿躍は、8頭の鹿…鹿の格好をした踊り手が踊りを繰り広げる。供養をするために造られたものと考えられている。
 私たちの地区の小高い丘の公民館が、津波の避難所に指定された。そこで鹿躍の練習をしていた。センターに衣装から何からあった。津波はそこまで来たため、骨組みだけで、伝統芸能どころではないとあきらめていた。
 現地に出向いたとき、太鼓が一つ見つかり、もったいないと骨組みのセンターに置いておいた。2〜3日ごとに一個ずつ拾い集めていたが、徐々に荷物が増えていった。近所の人たちががれきから見つけて、集めてくれていた。そこで奇跡的に、一通り踊れるだけの衣装や鹿頭が見つかり、水洗いをして干した。

 登米市で、桜の季節が終わったころ葉桜祭りが行われ、「避難者の方も鹿躍はどうですか」と要請。どうかと思ったが、避難している中学生に聞いてみたら「やります」と言われた。元気な声に押されて葉桜祭りで踊ったところ、お客さんも涙を流して楽しんでくれた。踊る方も涙を流して踊った。
 鹿躍は、震災復興にも、亡くなった人の供養にしても、こういう時のためにあったのかなと思った。医学も何も発達していない時代に、人の生死、色んなものを作り上げる時に、鹿躍で勇気づけ、元気づけていたのではないかと思った。





南三陸の鹿躍は、300年前に歴史が一度途絶えています。
しかし、南三陸をルーツとする岩手県一ノ関の鹿踊りを「逆輸入」して、最近復活したばかりでした。
そして今また、その一ノ関から衣装や鹿頭などの支援を受け、南三陸鹿踊は、ふたたび再生しようとしています。

2012年2月8日

2月8日「郷土芸能の復興へ向けて・岩手県大槌町『虎舞』」

岩手県大槌町に伝わる「虎舞」は、およそ250年前、徳川綱吉の時代に岩手県沿岸部に伝わった郷土芸能です。
この大槌の虎舞は震災後様々な支援を受け、昨年9月23日(秋分の日)、地元の神社で恒例の「奉納の舞」を行い、再生へ向け歩みを続けています。

震災直後からの経緯を、大槌町・向川原 虎舞 風虎会・岩間美和さんに伺いました。

◆200年以上の伝統がある「虎舞」を続けたい
 「虎舞」は勢いを表す虎の動きを表している。太鼓、笛、お囃子と掛け声で、威勢の良い形でやる。釜石、大槌、山田、大船渡にあるが、所有していた大太鼓、笛、衣装がすべて流され、焼けて無くなった。うちの家族も亡くなった。会の存続、継承の気分にもなれなかった。
 5月に復興イベントで虎舞を要請され、寄せ集めでイベントをやった。電気のない倉庫で話し合った。
 虎舞を追悼で舞った時に、自分たちの代で消したくない、継承したものを続けたいと思った。20〜30才の、舞手としては脂の乗った連中が、どうしてもお祭りに参加したい、やりたいと訴えてきた。足りないものを作り、支援先を探した。袢纏も支援者が無償で協力してくれた。そのつながりで、支援が続き、形にすることができた。
 たまたま奇跡的に神社だけが被災しなかった。何もない街に神社だけがあり、そこにみんなが集まり出会いの場になった。自分たちのモチベーションも上った。見に来た人に「祭りが観れて良かった、虎舞が観れて良かった」と声をかけてもらった。やって良かった。





虎舞の由来は「虎は子どものために、千里の路を一日で往復する」という言い伝えから。沿岸部の漁師たちが、無事に家族の待つ港に帰ってこられるように、という思いが込められています。





【大槌町の虎舞は今後、以下の場所で披露される予定です】
●4月7日 東京・池袋西口公園
●7月28日・29日 東京・明治神宮

2012年2月7日

2月7日「郷土芸能復興支援プロジェクト(2)」

岩手・宮城・福島では、地震・津波・原発被害の影響で、200を超える郷土芸能が被害を受けました。
しかしそこから復活しようと、郷土芸能の再生へ一歩を踏み出した地域もあります。
その動きを、全日本郷土芸能協会事務局・小岩秀太郎さんに伺いました。

◆毎年の行事を続けること
 1月4日、石巻市雄勝地区の「春祈祷」という獅子舞の行事があった。その行事を全体的に受け持つ神社の若い宮司さんが「ぜひ春祈祷をやりたい。いつもやっている正月行事で、地域が集まるキッカケにもなる。しかし獅子頭がない」と話していた。
 そこで郷土芸能復興支援プロジェクトが取り次いで、東京の太鼓屋さん、お祭り用具店が獅子頭を気持ちよく貸してくれた。それを中心に春祈祷を行なった。
 8割が被災、地域は誰も住んでいない状況、神社はプレハブ。その中にぎゅうぎゅう詰めになり、農業の出来の占い、獅子舞の行事、頭噛みなど、毎年やっていたことをやった。
 毎年やっていたことを、いつもと違う形とはいえ、やる。笑顔ができる。改めて見直す機会になった。獅子頭はもっと大きかったことも気付いた。もっとちゃんとやらなければと考えるようになった。「毎年欠かさなかった行事をできたことが、次につながる。今まで思っていなかったことをもう一度再確認できたということは、今年できて良かった」と宮司さん。


◆郷土芸能が果たす役割
 郷土芸能をいろいろ見ていると、今まではそれを単品で見ていた部分も多い。ステージでやる機会も増えて「意味」を考えなくなっている。今回の沿岸地域の行事を見ると、そこに暮らす人々にとって郷土芸能は必要なものだと思った。彼らの自尊心、愛郷心は震災以降に高まったのは間違いない。そういうことならば、郷土芸能が果たす役割は
これから先もあるんだろう。協会としてのあるべき姿も考えさせられたし、気持ちを新たにした。




【社団法人全日本郷土芸能協会】

2012年2月6日

2月6日「郷土芸能復興支援プロジェクト(1)」

東北各地に根付く「郷土芸能」の多くが、昨年の震災で大きな被害を受けました。
その復興・再生へ向けた動きを全日本郷土芸能協会事務局・小岩秀太郎さんに伺いました。

◆被害を受けた郷土芸能
 郷土芸能協会でまとめたものでは、宮城、岩手の被災地では200くらいずつ、福島県では原発の被害があり、沿岸、内陸も合わせると300のうち、7〜8割は被災しているということになる。
 郷土芸能は、衣装があり道具があり、太鼓や笛、獅子舞、伝統を守るうえで必要な巻物などが流された。人的被害もあった。人が亡くなると、その人が持っていた歌がなくなる。
 モノもそうだが、伝承もなくなるという言い方ができる。



例えば岩手県大船渡市の「浦浜念仏剣舞」や「鹿子おどり」は、亡くなった方や先祖を供養する、お盆の行事として沿岸部に伝わってきたもの。
また、秋には、大槌や釜石などに伝わる、虎の被り物で踊る「虎舞」、宮城県石巻市雄勝地区、南三陸の「法印神楽」といったものも被害を受けています。

実はこうした郷土芸能は、国や県の指定を受けていないものもあり、すべてを把握するのが難しく、過疎化や高齢化によって伝統を受け継ぐ人も減っていました。
そこに震災が追い打ちをかけた形となっています。

この震災を契機に、生まれ育った地域の伝統を守ろうという声が高まっています。


◆伝統を守ることで出来る意味
 活動再開したい、道具1つあれば何かやると言っている人は6割から半分。
 沿岸部では、郷土芸能をやらなければいけないと思っている人たちが多かった。お祭りも、若い人たちがずいぶんやっている。「虎舞」も若い人たちが盛んにやっており、それを観る小さな子どもたちもカッコいいと言っている。地域がバラバラになった中、郷土芸能やお祭りをやると人を集めるきっかけになる。物はないが、お酒を飲む場になりたばこを吸う場になり、集まった中で話が広がる。
 芸能だけでなく地域のコミュニケーションづくり、公民館を立て直そう、NPO法人を作ろうというところまで話が広がる。そういう意味では生活の一部としても大事で、地域が保たれていく意味でも大事だということに気づかされた。




【社団法人全日本郷土芸能協会】

2012年2月3日

2月3日「福島県相馬市の現状・立谷秀清市長インタビュー」

福島県相馬市は、東日本大震災の地震とその後の津波で甚大な被害を受けました。
死者・行方不明者は450人を超え、津波による家屋などの流出は1000棟を超えています。
また、福島第一原発の事故による健康や産業への影響も、市が直面する課題の一つです。

福島県相馬市の立谷秀清市長に、相馬市の現状を伺いました。


◆相馬市が抱える問題
 放射線障害の問題がある。相馬は比較的線量が低いので避難を指示されることはなかったが、それでも市民、特に子供さんを持つご家庭の不安がある。この不安に応えるためには、除染、健康調査、甲状腺に対する直接の対応も考えていかなければならない。
 第二次産業はほとんど復活したが、第一次産業については相当時間がかかる。
 漁業の問題は、政府が決めたベクレル値だけでは解決しない。相馬の漁業で取れる魚のベクレル値は政府が決めた100ベクレルより相当低い。しかし消費者の心理は別。これがどの段階で復活できるか。
 今後農業がどういう経過を辿っていくか、読めないところがある。
 雇用、住宅などを中心に、我々もいろんな戦略を立てるが、「こうすれば大丈夫」という将来展望を提示することができないでいる。その分、市民が不安を感じていると思う。これが一番の問題だと思う。


◆住宅の復興計画
 復興計画はたくさんあって、例えば高台移転がある。最初にアンケート調査をやったが、「これはだめ」「こういう傾向がある」というのと、おひとりおひとりがどう考えているかは別問題。
 一戸一戸面談調査しないといけない。12月に相馬市の職員が、仕事が終わってから被災者を訪問し、聞き取り調査をした。気の遠くなるような作業だが、引き続き必要だと思う。
 復興住宅の一番最初の建築物が3月中にできる。集合住宅。孤独になった方がたくさんいる。一戸建ての公営住宅に入るのではなく、皆さん共同生活で助け合って暮らしあってもらいたいと思い、共助住宅=「相馬長屋」を建築中。
 第一棟目ができるのを契機に、その後も作っていかなければいけないと思っている。



【福島県相馬市 web site】

2012年2月2日

2月2日「荻上チキ・災害時のメディアの役割(4)」

メディア論などを専門とする評論家・荻上チキさんに「災害時のメディアの役割」についてお話を伺っています。

インターネットメディア、そして地元のFMや新聞などローカルなメディア。
震災時に情報を共有するためには、それぞれの特性を生かすことが必要と語る荻上さん。
その為に、こうしたメディアだけでなく、もう一つ重要な要素があるとおっしゃっています。


◆居場所を作る
 ネットを使えばコミュニケーションはできる。被災した人でも、ネットを通じて遠くの人たちとコミュニケーションをすることでストレスが軽減されるというケースもある。ただ、日常生活のコミュニティが存在しないと日々、摩耗してしまう。被災した人たちの<居場所を作る>のは重要な問題。
 仮設住宅の住人と、その地域の住人のコミュニケーションの場を作るのは大きな課題。それを解決するために行われていたことは「お祭り」。避難生活を送る方と地元の方を交えたイベント。芸能人を招かずとも、ギターを弾いたりカラオケ大会をやったり、出し物をやったり…そしてお酒を飲んで交流する。
 居場所を作る。それが不安感の共有、情報共有に繋がる。


◆ネットやメディアが発達しても、必要なもの
 どの避難所や仮設住宅でも、ベンチなどを置くことで、避難生活を送る者同士が日常的にお茶のみ話ができる。そうしたところで情報交換を日常的にしながら、避難生活のストレスを軽減する役割を「場所」が担っていた。
 人と人とを繋げる人がいないと、ニーズ、物資などの情報を声を大にして言ってくれる人がいなくなる。
 避難生活をしている人同士で目立つのが、女性同士は仲良しだが男性同士は孤立するパターン。そこでおせっかいな人が間を取り持つ。御用聞きのようなおせっかいさん。それがコミュニティでもSNSでも必要になってくる。
 人間のコミュニケーションの能力は、どんなにネットが普及して、メディアが発達しようとも、最後は重要。インフラがどれだけ発達しても、入口と出口は人間同士のコミュニケーション。ニーズや役割、居心地はそれで決まる。そうした役割は見落とせない。


【荻上式BLOG】

【Twitter:荻上チキ(@torakare)】

2012年2月1日

2月1日「荻上チキ・災害時のメディアの役割(3)」

メディア論などを専門とする評論家・荻上チキさんに「災害時のメディアの役割」についてお話を伺っています。

荻上さんは、東日本大震災ではソーシャルメディアだけでなく、既存の“身近なメディア”も重要な役割を担った、と考えています。
“身近なメディア”とは、地元の新聞などローカルなメディアです。

◆地域メディアの重要性
 被災地の中の人たちにしてみれば、隣の避難所はどうなっているのか、救援物資は次にいつ来るのか、遺体安置所はどこで、どういう遺体が上がっているか、どこの仮設住宅に自分の友人がいるのかなどの生活情報が重要。それは全国メディアの不得意な部分。地域に密着したメディアの役割が必要になってくる。壁新聞や地元メディア(ラジオや新聞)が、地元の住民・被災者を対象にした報道が重要になる。こうしたものは全国紙などが代わりになることはできない。地域メディアの重要さは見直されなければいけない。被災直後テレビがつかずラジオもない状況で立ち上がった人はたくさんいる。

◆“ハイテク”が良いわけではない
 被災地にも新聞記者がいて(彼らも被災者だが)、「何かしなければ」と、分かる範囲の情報を書いて壁新聞という形で貼ったり、コピー機などが復活したらビラとして撒くことで正確な情報を共有しようという動きがあった。紙や口コミなどローカルなメディアが役に立った。ハイテクであれば良いわけではなく、ニーズに適切に応えられる。

◆メディアが打撃を受けた場合
 メディアであればフル活用すべき、というのが今回の震災から得られた教訓。どんなメディアが壊れるとも限らない。
 東京直下型地震が起きた場合、報道するべきメディアが打撃を受ける、報道関係者も被災者となり報道できない、ということも考えられる。「被災地の外から被災地に入って、被災者にこそ情報を届けるために、地元の放送局を回復するための仕事を手伝う」「地元の新聞社を手伝うために記者を送る」ということも起こりえた。こうした考えはどの地域で震災が起きても役に立つ発想ではないかと思う。




【荻上式BLOG】

【Twitter:荻上チキ(@torakare)】

パーソナリティ:中西哲生・高橋万里恵

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