2013年2月28日

2月28日 原発事故被害者を守る法律の現状〜河崎健一郎弁護士3

原発事故による放射線の不安を抱えながら暮らす人々のための、「法律の今」をお伝えしています。

避難指示は出ていないものの、放射線量が高いとされる地域から「自主避難する人」「留まる人」、それぞれの権利を認め、国の支援を求める法律、『原発事故子ども・被災者支援法』。この法律が成立したのは、去年6月。すでに半年以上が経過していますが、政府による具体的な計画は昨年の解散総選挙なども影響して、遅れています。

早急に決めるべき課題、政治に求められるものについて『福島の子どもたちを守る法律家ネットワーク』の河崎健一郎弁護士に伺いました。

◆政治のリーダーシップ
これから決めなければ行けないことは大きく2つ。まず誰を対象にするのか。対象区域を年間放射線量1ミリシーベルト以上にするのか、どこの地域が含まれ、どれくらいの対象者数になるのか、その人数はどうやって捕捉するのかを決めなければいけない。法律は6月に成立したが、基本方針がまだ出来ていない。

もう一つは具体的にお金をつけること。直接の担当者は復興庁だが、避難により離れて暮らす家族のための移動交通費は国交省、子どものための移動教室や保養は文科相が関わる。健康調査は厚労省や環境省。それら関係部署に対して復興庁がリーダーシップを取って取りまとめるのも重要だが、復興庁に対する政治的なリーダーシップも必要。超党派で合意して作った法律、しっかり予算をつけて迅速にやるよう「尻を叩く」役割が政治に求められている。


最後に、河崎弁護士からメッセージです。


◆法律を育てていく発想
あまり法律を読むことは日常生活では無いと思うが、原発事故子ども被災者支援法という法律があることを知って欲しい。福島第一原発の収束作業だけでも何十年も掛かる。散らばった放射性物質を片付ける中で、ある程度の被ばくは不可避的に発生する。震災から1年後に基盤としては良い法律が出来た。これを育てていく発想が必要。この問題を知って頂き、一人でも多くの人に伝えて欲しい。
            

2月28日、国会では安倍総理の施政方針演説があります。景気やTPPも大事ですが、「福島と、原発の被災者をどう救済するのか」、具体的な文言はあるのでしょうか。


2013年2月27日

2月27日 原発事故被害者を守る法律の現状〜河崎健一郎弁護士2

原発事故による放射線の不安を抱えながら暮らす人々のための、「法律の今」をお伝えします。

避難指示は出ていないものの、放射線量が高いとされる地域から「自主避難する人」「留まる人」、それぞれの権利を認め、国の支援を求める法律、『原発事故子ども・被災者支援法』。

去年6月に成立したこの法律、現段階ではまだ具体的な施策は決まっていません。法律の条文に書かれた理念を、どう実行していくか。政治の力が問われています。すぐにでも内容を詰め、実行すべきポイントを『福島の子どもたちを守る法律家ネットワーク』(通称称SAFLAN)の河崎健一郎弁護士に挙げて頂きました。

◆“理念”を“実行”へ
この法律を今後、具体的に運用する際に求められるポイントは以下の4つが挙げられる。
?避難者の住宅支援。現在は災害救助法による住宅支援はあるが、震災から2年が経過して、災害救助法の適用に限界が出てきた。別のシステムが必要。
?福島に残った人たちに対するケア。除染も必要だが、子どもたちが屋外で遊ぶ機会が減っている。
肥満度や運動能力の低下などが数値で出てきている。子どもは屋外の広いところで遊ぶのが当然。そこですでに色んな取り組みがはじまっている。学校ごと2週間ほど移動教室として山形や新潟にいくという取り組みをやっている学校、保養キャンプという形で、様々な地域(福島の線量の低い地域や他府県)に行く取り組みもされている。ここに予算をつけることが重要。
?離ればなれになっている家族の支援も必要。父親は福島で働き、母親は避難しているという場合もある。往復の交通費について、全額ではなくても一定の補助があることが大事。
?健康診断。すでに被ばくしているという前提の中で、健康に不安を抱えている人が多い。しかし検査の順番が回ってこない、内容が不十分といったことがある。こうしたケースについて、福島県以外の人も国のお金で検査を受けられるようにするのが重要。


明日も、原発被災者を救済する法律の「いま」をお伝えします。

2013年2月26日

2月26日 原発事故被害者を守る法律の現状〜河崎健一郎弁護士1

今朝は、原発事故による放射線の不安を抱えながら暮らす人々のための、「法律の今」をお伝えします。

お話を伺ったのは、『福島の子どもたちを守る法律家ネットワーク』、通称SAFLAN(さふらん)の河崎健一郎弁護士。サフランは、福島をはじめ、放射線の不安を抱える多くの人たち、特に子どもたちのための、国や政府の支援を訴え、政府や国会議員に対し様々な働きかけを行っています。

その結果、去年6月の国会で全会一致で成立したのが「原発事故子ども被災者支援法」です。

◆原発事故子ども被災者支援法
政府が原発事故の後に出した基準は、年間20ミリシーベルトで、これを越える地域については政府が避難勧告している。しかし、元々この国の放射線被ばくの基準は、「一般の人は年間1ミリシーベルトを越えてはいけない」というものだった。これはICRPの国際基準でもある。

しかし、1ミリシーベルトから20ミリシーベルトの「間にある地域」は多い。福島県の中通りや、栃木県の那須塩原、千葉の柏や松戸、埼玉県の三郷や宮城県の一部などが入ってくる。これらの地域の人たちが、「住んでいてもいいのか」と自分の判断で避難している場合も多い。こうした人たちに対する法律の手当てが必要だと訴え、原発事故子ども被災者支援法が成立した。ただし、避難した人たちの支援だけではいけない。圧倒的に多数の人たちは避難せずに残っており、その間に感情的な対立が起きている

「あいつらは避難した。」「あの人たちはなぜあんなところで子育てをしているんだ」という対立が大きな問題に。この法律は、避難せず留まる人、避難した人、避難したが帰ってくる人も支援するために作られた。



この『原発事故子ども被害者支援法』は、成立から8ヶ月が経過していますが、実はまだ具体的な動きははじまっていません。これについては、明日のこの時間にお送りします。

2013年2月25日

2月25日 気仙沼の「カニ物語」

宮城県気仙沼から、水産加工業の復興を目指して立ち上がった新たなビジネスの話題です。

今月22日、『かに物語』という、インターネットショッピングサイトが立ち上がりました。これは、気仙沼の水産加工会社がスタートさせたもので、ディープシ―レッドクラブ(まるずわいがに、オオエンコウガニ)と呼ばれるカニと、その加工品を扱っています。先日、東京都内でこのオンラインショップで扱う商品の試食会も開かれました。

◆幻のカニ・ディープシ―レッドクラブ
【参加者・お客さんの感想】
毛ガニっぽく細かいが、それがギュウっと詰まっていて食感も良い。大味じゃない。おいひい、ふがふが。溶かしバターとレモンを絞って食べる方法など新しいカニとの付き合い方ができるきっかけをもらえた。

【ディープシーレッドクラブとは】
スペインでは人気のカニ。日本ではなじみがないが、溶かしたバターが非常に合い、洋風な食べ方が適している。が、見た目が悪い。色は赤でなく茶色。日本ではあまり受け入れられていない。アメリカやヨーロッパでは評価が高いのに流通していないカニ。食べれば美味だということを発信していきたい。

ディープシ―レッドクラブは“幻の蟹”とされ、日本で扱っている会社は非常に限られています。その一つが、「かに物語」を運営する、気仙沼のカネダイという水産加工会社。水産食品部の熊谷公男さんに伺いました。


◆気仙沼からオンラインで全国へ
気仙沼は遠洋マグロ船の基地。我々も遠洋マグロ船を持っており、遠洋へ出ていた。40年前、遠洋に出たナミビア沖で、若かりし頃の社長がディープシ―レッドクラブの存在を知った。この、すごく美味なカニを、日本でも食べてもらおうと、販売を続けていた。カネダイは15の営業所が全て被災。40年前から獲り続け、国内で唯一当社が扱っているこのカニは商売になると考え、2011年11月、復興屋台村・気仙沼横丁に「かに物語」を出店。お店で出しているのはビスク、クラブケーキ、フレンチカレー、カニの足だけの部分を殻つきでカットして盛ったセクション盛り。オンラインショップで販売するのは、冷凍商品と、カニ物語の店舗で出している料理のレシピ。白ワインに合うのでカジュアルに日常的にカニを食べる日を提供していきたいと思っている


オンラインショップ「かに物語」で扱っている商品の一つ、「クラブケーキ」は簡単に言えば「カニのメンチカツ」。これは、カニにお礼を言いたくなるくらい美味しいです。また、欧米では普通の食べ方として知られる、溶かしバターと絞りレモンという食べ方も、カニを抱きしめたくなるくらい美味しいです(試食した番組スタッフ談)


気仙沼の復興商店街にある「カニ物語」の店舗は、2015年には閉鎖される予定。気仙沼の水産加工の将来を考え、インターネットを利用したビジネスに取り組む必要があるということで、オンラインショップがスタートしたということです。

"幻の蟹 Deep Sea Red Crab(オオエンコウガニ/まるずわいがに)"




カニ物語 (株)カネダイ

2013年2月25日

2月22日 福島の女の子たちによる任意団体、ピーチハート(5)

今週は、“福島”で生まれ育ち、様々なことに思い悩みながら生きる女性たちの いま をお伝えします。

将来、結婚や子育てしたいと考える、福島の20代・30代の女の子たちによる任意団体、ピーチハート。

仕事や恋愛、自分の将来や福島の未来。彼女たちは、そうした悩みを共有しながら、それぞれの生き方を模索しています。

自主避難先から福島に通うという選択。
復興のため福島に戻る選択。
線量の低いとされる地域で支援活動を続ける選択。
お互いの選択を尊重しあいながら、前に進みはじめています。

福島市出身・佐藤詩織さん26才。彼女が選んだのは、福島の子どもたちのために生まれ育った土地で生きていくという選択です。

◆福島で生きていきたい
「放射線が放射線が」といわれてだいぶ経過してしまった。私は福島で生きていきたいと決めている。放射線の情報を全くシャットアウトするつもりはないが、「安心だ」と言われるものは信じて、地場産のものを食べて地元を応援していきたい。「放射線で可愛そうな福島」ではなく、“良い土地・福島”として見て欲しい。そのためにはまず自分が、「放射線怖い、放射線怖い」と言わない。最初は怖かったし、放射線は目に見えないから背中が寒いような気は確かにする。震災直後の当時は、学習塾に勤めていて、受験を控えた子どもたちをケアしなければと思い、職場に戻った。それからは必死。教え子たちをある程度見送って、改めて私はこの土地にいたいと感じた。そこで、チャイルドラインという活動を知り、子どもの心に寄り添う仕事へ行こうと転職。ようやく自分の生き方を考えるターニングポイントに来たなと感じている。この世界で、子どもや若い世代、次の世代を助けながら、活動拠点は福島でありたいという思いは強くなるばかり。


                  
福島の女の子たちによる任意団体、ピーチハートのイベントに参加していた佐藤詩織さんのお話でした。佐藤さんは塾の先生を経て、悩みを抱える福島の子どもたちをサポートするフリーダイヤル『チャイルドラインこおりやま』の職員として、県内で働き続けています。


2013年2月21日

2月21日 福島の女の子たちによる任意団体、ピーチハート(4)


今週は、“福島”で生まれ育ち、様々なことに思い悩みながら生きる女性たちの いま をお伝えします。

将来、結婚や子育てしたいと考える、福島の20代・30代の女の子たちによる任意団体、ピーチハートが定期的に行っている『fukufukuガールズカフェ』というイベントは、福島の女の子たちが、「ガールズトーク」をしながらこれからの生き方について話し合い、一緒に考えるというイベントです。

先日、福島市で行われたfukufukuガールズカフェでは、福島第一原発 1〜4号機が立地する、大熊町出身の大学生、高橋惠子さん(福島大学2年生)も参加していました。現在 県内の大学に通っている彼女は、いま、自分がおかれている状況を、どう感じているのでしょうか。

◆不幸だとは思いたくない
現在は、両親・妹・祖父祖母の6人家族。私以外はいわき市の仮設にいる。震災当初は山梨県まで避難し2か月は山梨にいた。福島市は放射線量がものすごく高くなり、福島大学に進学してよいのか迷ったが、自分の身に降りかかったことを見過ごしたら人生後悔すると思い、福島大学に進学を決めた。推薦入試の当時、2010年9月にプロトニウムを燃料とするプルサーマル計画がはじまるとニュースで知り、プルサーマルと原発について調べレポートを提出し推薦入試を受けた。書いた内容は〈こんな避難計画では爆発事故が起きても逃げられない〉というもの。本当にそうなってしまった。
今は大変だが自分を不幸とは思いたくない。自分の人生のネガティブな出来事も、自分を変えれば新しい何かが生み出せるのではないか。それが人生。だから不幸だと思いたくない。みじめになってしまう。


高橋さんは現在、大学院への進学を目指していて、被災者の福祉や、防災都市に関する研究をしたいと話しています。

ピーチハートのサイト

2013年2月20日

2月20日 福島の女の子たちによる任意団体、ピーチハート(3)

今週は、“福島”で生まれ育ち、様々なことに思い悩みながら生きる女性たちの いま をお伝えします。

将来、結婚や子育てしたいと考える、福島の20代・30代の女の子たちによる任意団体、ピーチハート。以前、番組では、メンバーのこんな言葉を紹介しました。「福島の女の子たちは、恋愛と、結婚と、放射能が同じテーブルの上に乗っている」。

中心メンバーの一人、日塔マキさんも、原発事故のあと、こうした現実に直面した一人です。

◆恋愛と放射能
郡山市から千葉県に自主避難したが、福島の情報発信をするための会社を作り県内に戻ることに。でも、郡山は線量が高かったため、不便だがなるべく線量の低い場所として、現在は福島県猪苗代町で一人暮し。家族は「あなたの判断にまかせる」と言ってくれた。ただ、当時は結婚を考えていた彼は、仕事もあるし辞めて避難するわけにはいかず、本当は一緒に避難したかったが一人で避難する判断をした。何があるか分からないし、最善の選択をした。遠距離恋愛しながら、ゆくゆくはどこかで一緒に暮らすつもりで 避難を決めた。
その後、福島の情報発信をする会社やピーチハートの活動について、
「そういうのは心とお金に余裕がある人がやればいい」と彼に言われ、お付き合いできないと思い別れた。その言葉はショックだったが、それを聞けて良かった。それが彼の本心の全てではないと思う。でも、普通の人も動き発信する必要があるし、そういう時代じゃないのかと考えていたため、
その言葉で、彼に魅力を感じなくなった。私が変わってしまっただけなのだが、まあしょうがないかな。今は普通に友達として付き合ってます。でも、そういう問題がたくさんあることにその時点で気が付けてよかったかなと思っている。うん。いいかな。


日塔マキさんは震災後、『女子の暮らしの研究所』というプロダクションを設立。ピーチハートとは別に、福島の女の子たちが、女子のチカラで福島をPRする活動を続けています。福島の問題を、声を荒げて訴えるのではなく、女の子らしく発信するプロジェクトで、福島の伝統工芸品をアレンジしたアクセサリーなども販売する予定だということです。

詳しくは『女子の暮らしの研究所』フェイスブックページで。

ピーチハートのサイト

2013年2月20日

2月19日 福島の女の子たちによる任意団体、ピーチハート(2)

今週は、福島で生まれ育ち、様々なことに思い悩みながら生きる女性たちの今をお伝えします。

将来、結婚や子育てしたいと考える福島の20代・30代の女の子たちによる任意団体、ピーチハートは、南相馬市出身で、復興のため東京から福島に戻ることを決めた鎌田千瑛美さん、北海道に自主避難する道を選んだ宍戸慈さんという、福島出身の2人の呼びかけで、おととしの秋に立ち上がりました。

そのきっかけは、原発事故を境に、福島の女性たちが直面する、放射線への不安です。ピーチハート・共同代表 鎌田さんに伺いました。

◆不安を不安で終わらせない
たぶん心の中では「福島に戻りたい」ということは決まっていたと思う。でも不安があった。
その不安を“不安で終わらせない”ことが出来たのは、宍戸慈ちゃんに会ったから。彼女はとても勉強をしていて、放射能について色々教えてくれた。それをきっかけに私も勉強をして、自分なりのリスクの管理、放射線と向き合うきっかけを与えてもらえた。個人的には食べ物に気を付けることを心がけている。福島市は空間線量が高く外部被ばくは避けられないが、内部被ばくを避けることは食生活のケアでできる。それを自ら実践して、県内に住む人に伝えられるのではないか。とはいえ「これがいいよ」、と私が言っても、それぞれの考えがあるから強要はしない。ピーチハートのメンバーの一人は食品測定やベクレル検査の体制を勉強しに行っている。そうした知識を前提に「このくらいの線量であれば大丈夫じゃないか」といった話しあいを持つきっかけが必要。原発事故から2年が経過。放射能を気にしすぎる生活はストレスがかかるので、時間の経過とともに、気にすることを放棄する人が増えた。当たり前じゃないことが当たり前になり、駅前で線量が0.6という数値を出しているのを見ても「ああ0.6なんだ」で終わってしまう。だからといって気にしすぎるのも精神的によくない。具合が悪くなるという人もいるから強制はできない。でも、気づいてもらえることは気づいてほしい。できることをできる範囲でやった方が良い。明日 放射能がなくなるわけではない。30年以上かかる話。ならば息が長くできることをみんなで考える必要があると思
う。


他のメンバーの方からもお話を伺ったのですが、「放射線のことを“考えたくない” “忘れたい”“めんどくさい”と考えている女の子もいる」そうです。

そもそも原発事故がなければ、抱える必要もない悩み。でも、現実と向き合わなければいけない辛さ。そればかりを考えてはいられないけど、出産前の女性として不安は解消したい。だから「息が長くできることを続ける必要がある」。これが福島の女性の今です。

明日は、福島の女の子たちが向き合う“恋愛”について伺います。

2013年2月18日

2月18日 福島の女の子たちによる任意団体、ピーチハート(1)


今週は、“福島”で生まれ育ち、震災と原発事故を境に、様々なことに思い悩みながら生きる女性たちの いま をお伝えします。

焦点を当てるのは、ピーチハートという任意団体。
20代から30代、恋愛や仕事に思い悩む普通の女の子たちの集まりです。

中心メンバーは5人。近い将来 結婚や子育てをしたいと考える福島の女の子たちに呼びかけ、“fukufukuガールズカフェ”というイベントを定期的に開いています。

これは簡単に言えば“ガールズトーク”のイベント。福島の女子たちが、素直に今の想いを語り合える場所です。その現場で、ピーチハート共同代表の鎌田千瑛美さんに伺いました。

◆福島の女子が自分らしく生きるため
fukufukuガールズカフェもこれで7回目。今回は「ハッピーな恋愛診断講座」ということで、東京からゲストを呼び、みんなの恋の悩みを分析しよう主旨。これまでも料理教室やピラティス講座などを通じて、女子力を高めつつ、集まった仲間と本音で話し合う場づくりを目指してきた。「最近の恋愛どうよ」という話から、彼氏とともに福島で生きることの悩みをざっくばらんに話し合う機会作り。<自分らしく生きる>がテーマ。悩みを吐き出すことも出来なかった子もいれば、悩みを打ち明け、仲間が見つかり行動につながる子もいる。福島のこと、結婚と出産、生きていくことの悩みときちんと向き合う女性を増やしていきたい。


共同代表のお一人、鎌田千瑛美(かまだちえみ)さんは、震災当時は東京で暮らしていましたが、震災を機に福島へ戻ってきました。
福島で生きることに対する悩みや不安。それを共有できる仲間の存在が、この活動のきっかけになったと話しています。

◆福島へ戻る女子と、自主避難する女子
福島県南相馬市の、海の近くで育った。地元の高校を卒業後は東京の大学に進学、そのまま東京で就職した。震災直後は、東京から福島を支援していたが、やれることの少なさや東京との温度差、風評被害などたくさんの課題を抱えた福島の状況を見て、いてもたってもいられず戻ってきた。でも、なかなか福島へ戻ることに踏み切れない自分がいたのも事実。将来は子供を産みたいと思っていたし、孫に何かがあったらどうしようという不安も抱えていた。そんな悩みを抱える中で共同代表の宍戸慈ちゃんと出会った。彼女はこれから北海道に自主避難をするところで、一方 私は福島に戻ろうと考えていた。状況も考え方も放射能の捉え方も違う2人なので、最初は言い合いになることもあった。でも、状況や考え方が違うからといってケンカをしても意味がない、本音で福島の人たちが一緒に考えていく必要があると考え、ピーチハートが立ち上がった。


ピーチハートは、鎌田さんと宍戸慈さんが共同代表を務めています。宍戸さんは原発事故の後、福島を離れ“自主避難”することを選択。現在は、札幌で生活をしながらピーチハートの活動に参加しています。自主避難を選んだ宍戸さん、福島で生きる道を選んだ鎌田さん、そしてそのほかのピーチハートのメンバーに共通するのは、女の子として「将来、子育てをしたい」という、ごく当たり前の考えです。

原発事故から丸2年。女の子たちの放射線との向き合い方ははどう変わってきているのでしょうか。明日も、ピーチハートのメンバーが語る福島の女の子たちの 今 をお伝えします。

ピーチハートのサイト

2013年2月15日

2月15日 福島・浪江町 橘さん家族の今(5)

東日本大震災から3年目を迎える、福島の家族の今。
今週は、双葉郡・浪江町を離れ、郡山市で避難生活を続ける橘弦一郎さんと一家に焦点を当てています。

橘さん夫妻は、福島第一原発事故を受け一時 滋賀県に避難。しかし夫・弦一郎さんは復興のため福島県に戻ることを決意し、奥さんの綾子さんも弦一郎さんについていく選択をしました。

震災直後の混乱と不安の中、お2人は郡山市の借り上げ住宅で生活をはじめ、そして2011年9月、妻・綾子さんの妊娠が判明します。

◆無事に生まれることだけを祈って
結婚して5年目にしてようやく授かった命。心から嬉しいという気持ちはあったが、なにせそういう状況、体が被ばくしている「であろう」体に授かった命は大丈夫なのかという不安に常に襲われ手放しで喜べない状況だった。無事に生まれてきてくれるんだろうか、五体満足で生まれてきてくれるんだろうか。いま避難生活だけど大丈夫なのか。でも命を消すことは頭の中にはなく、無事に生まれてくることだけを願うことしか出来なかった。なんとか健康な子が生まれ来るといいねという話し合いはもった。この時に生まれてきてくれたのは、何らかの意味があるんだろうなと思って愛おしく思っています。大変な妊娠生活でしたけど。


こうして無事出産を果たした綾子さん。今回の電話取材も9ヶ月のお子さんを膝の上で寝かしつけながら、応じてくれました。

ただ、復興のために飛び回る夫・弦一郎さんは、毎日帰宅が遅く、綾子さんは日常のほとんどを、お子さんと二人きりで過ごしています。

◆子どもと2人きりの日々
日中は家事をしながら息子と遊んで一日が終わる。10時に夫が帰ってくるのでご飯の支度をする。その繰り返し。通勤がなければ息子といられる時間も長く持てるのだが。夫が帰ってくる頃にはもうウトウト寝ている。私も話し相手が息子しかいないし、答えも返ってこないので一方的に話しかけているような状態。辛いです。いくら可愛くても本当にやんちゃ盛りで目が話せない状況なので、もし友達がいれば子育ての相談が出来るがそういうお友だちもいない。解決策が見いだせないままイライラして「そういうことしないで!」と怒ってしまうこともある。優しくなくてゴメンねと思いながら、息子と過ごしている。


双葉郡浪江町を離れ、避難生活を続ける、橘弦一郎さん・綾子さん夫妻に焦点を当ててお送りしてきました。

お子さんと2人きりの日常。そのストレスを感じているという綾子さんですが、夫・弦一郎さんが、唯一の休日である水曜日を利用して「子どもにつききりで面倒を見てくれて、私に自由な時間を作ってくれるのが、唯一の救い」とも話しています。

また、綾子さんはもう一つの切実な悩みがあると話しています。綾子さんの父親が入院され、その看病をするため、お子さんを預ける保育所を探しているんだそうです。 ただ、満1才に満たないお子さんを預かる保育所は少なく、この取材をした先週の時点では、保育所はまだ決まっていませんでした。

本当の自宅に帰ることが出来ず、こうした生活を送る家族は今も大勢います。浪江町から県外・県内に避難している人の数は今年1月現在で、2万1170人となっています。

『LOVE&HOPE』。来週月曜日は、福島県の 20代の女性たちがそれぞれの生き方を考えるための集まり、ピーチハートの活動をお伝えします。

2013年2月14日

2月14日 福島・浪江町 橘さん家族の今(4)

東日本大震災から3年目を迎える、福島の家族の今をお伝えしています。

郡山市で避難生活を続ける橘弦一郎一家。原発事故直後、夫の弦一郎さんは、奥さんの綾子さんとともに浪江町を離れ、滋賀県の親族の元に避難したのですが、すぐに福島県に戻ることを決意。
地元の不動産会社に勤める弦一郎さんは、避難住民の住まいをサポートするため、福島に戻ることを決めたと話しています。

そして、奥さんの綾子さんも弦一郎さんとともに、福島に戻ることを選択。3人は、震災後に生まれた9ヶ月のお子さんと郡山市で生活を送っています。福島に戻った当時のことを、綾子さんはこう振り返ります。

◆不安の中の決意
最初に浪江から避難する時点で被ばくをしていたと思う。原発は4月中旬になっても落ち着かず、どうすれば解決できるのかを模索している状況。まだまだ放射能も飛んでいた。特に郡山は数値が高いと報道されており、子どももいない私の体はどうなっちゃうのか、郡山にいて、また何かが起こったら逃げられるのか、色んな不安が襲った。かといって滋賀県に残るという選択肢は持てなかった。緊急自体の中、夫は私を助けてくれたし、色んな決断をして支えてくれた。恩返しをするなら今しかないかなと思って一緒に(福島に)戻ろうと決めた。でも何も物がなくて、持ち込んだのは長座布団3枚、コタツ布団1枚くらいだった。テレビも冷蔵庫もなく2人で震えながら寝た。当時、物資の流通が戻っていなかったので郡山のお店には物が不足していた。どうやって生活しよう、自分で戻ると決めてとりあえず来たはいいが大丈夫なのか。毎日そんなことを思いながらちょっとずつ生活用品を揃えていった。とりあえず「生きなきゃ」と。


そして夫・弦一郎さんは、避難住民のために毎日往復5時間かけて、南相馬まで通勤する生活を始めます。震災直後の混乱の日々を、弦一郎さんは、「死にたいと思ったこともある」と振り返っていますが、同じ頃、綾子さんは何を想っていたのでしょうか。

◆夫の苦悩
結局、(不動産会社の)スタッフは避難生活となり、みんな退社してしまった。そのため夫が一人で1日100件の借り上げ住宅などの問い合わせに対応していて精神的なストレスがあったと思う。体一つで100件。その大変さから精神的なストレスで表情が消えていき、今まであんなにニコニコしていた人が表情がまるで無くなった。帰ってくればため息しか帰ってこない。私の知っている夫じゃないと思った。そうとうやられていると思った。特に何をしているわけじゃなかったので、私も一緒に南相馬に行こうかと提案した。せめて事務所の掃除でもしようかと。何が出来るわけではないが、ちょっとでも気分がほぐれればいいなと思って、話し相手をしていた。



明日は、9才のお子さんと避難生活を続ける“母親”として、橘綾子さんの今の心境をお伝えします。

2013年2月13日

2月13日 福島・浪江町 橘さん家族の今(3)

今週のこの時間は、東日本大震災から3年目を迎える、福島の家族の今をお伝えしています。

双葉郡浪江町の、立ち入り禁止区域にご自宅のある橘弦一郎さんは、9ヶ月のお子さんと奥さんと郡山市で避難生活を続けています。橘さんは元々、浪江町の不動産会社の社員で、現在は南相馬市にある支店まで、クルマで通勤しています。距離にして片道90キロ、往復5時間以上の道のりです。
また、橘さんは浪江町だけでなく、原町の商工会青年部にも参加していて、商工会の会合で夜遅くなることも多いようです。こうした生活を続けている理由を、橘さんは「復興のため」だと話します。

◆当事者としての責任
原町商工会議所青年部や、青年会議所にも入っている。なぜそんなにいっぱい入るのかというと、福島県に住む人じゃないと大変さは分からない。郡山から南相馬に通勤していることについても、なぜ?と聞かれる。特に東京の人は、「南相馬原町に家族で住めばいいじゃないか」「郡山で仕事を見つければいいじゃないか」という。でもそれが出来ないからやっている。家族がバラバラに暮らし父親だけが福島にいる人も、色んな思いや状況があってそこにいる。それは当事者じゃないと分からない。だから当事者である若い世代が集まって、俺たちでこういう街作りをしていくと話し合っている。色んな団体の青年たちと意見交換をしながら進んでいきたいから、色んな団体に入っている。
浪江町の商工会青年部に入った時、そんなものに入ってどうするのだという気持ちはあった。家族サービスが出来なくなったりボランティアの仕事が忙しくなるなら、どうでもいいのではと思った。そんな中、商工会青年部の先輩に言われたのが「家族サービスも大切だが、家族だけが良くなって幸せになっても地域や雇用が衰退したら、給料ももらえない。子どもの教育にも良くない。地域があって生活があるんだ」と言われ、地域おこしの大切さを知った。楽しく町おこしをして、子どもたちが福島県出身を誇れる街を目指している。それが復興のための第一歩なのではないか。


今回の取材は郡山市にある、ふくしまFMのスタジオで取材をしたのですが、橘さんはその日も、よる8時過ぎに取材を終えたあと、浪江町の商工会青年部の会合に向かっていきました。

橘さん自身、変えることの許されない新居のローンを払い続けている“当事者”です。当事者として復興の先を見据え、橘さんは今日も懸命に動き続けています。

明日も、浪江町から避難生活を続ける、橘弦一郎さん一家の、いまをお伝えします。


橘弦一郎さん(ふくしまFMにて)

2013年2月13日

2月12日 福島・浪江町 橘さん家族の今(2)

今週のこの時間は、東日本大震災から3年目を迎える、福島の家族の今をお伝えします。

橘弦一郎さん(39)は、震災後、自宅のある双葉郡浪江町(ふたばぐん・なみえまち)を離れ、9ヶ月のお子さんと奥さんの3人で、郡山市で避難生活を続けています。不動産会社に勤務している橘さんは浪江町民の、「少しでも地元に近い場所で暮らしたい」という要望に応えるため、そして福島の復興のために、県内で働く道を選んだと言います。

一方、奥さんの綾子さんも、橘さんを支えるため、一緒に郡山で暮らすことを選択しています。福島で働くこと、そしてご家族について橘さんの考えを伺いました。

◆家族の救い
子どもは避難地・郡山のアパートに住んでいる。震災直後の9月に台風15号による洪水があった。避難しろという防災無線があったが、すでに避難先にいる。どこへ避難したらいいか分からない。水かさが150cmまで上がり所有するクルマが2台水没した。東日本大震災で辛い目に合い、さらに辛い目を受けた時に、子どもが出来たという報告を妻から受けた。それが唯一の救いだった。妻の友人も県外に避難しており、福島にとどまることについて「大丈夫なのか」と心配してくる。でも妻は何も私には言わない。私の友人、仲間も、夫だけ福島に戻って仕事をしている人が多いが、それでも妻は福島についてきてくれた。ありがたい。放射能は目に見えないから、できれば福島から離れて暮らしたいのは本音。でもそれでは福島は復興していかない。ずっと福島で育ってきたのだから、子どもにも福島の素晴らしい部分を伝えていくためには、復興が最優先。私がここにとどまって頑張らなければ行けないと思っている。

  
こうして橘さんは現在も、勤め先のある南相馬市の不動産会社まで、郡山から毎日クルマで通勤しています。距離にして片道90キロ、往復5時間ちかい道のりです。

「復興のため」とはいえ、なぜこうした暮らしを選んだのでしょう。そこに、橘さん考える復興の意味、故郷に対する思いがあります。これについて詳しくは、明日のこの時間お伝えします。

2013年2月11日

2月11日 福島・浪江の橘さん家族は今(1)

今週は、東日本大震災から3年目を迎える、福島の家族の今をお伝えします。

お話を伺ったのは、橘弦一郎(39)。双葉郡浪江町川添から避難し、現在は郡山市の借り上げ住宅で、奥さんと9ヶ月のお子さんと暮らしています。川添は福島第一原発20キロ圏内、年間放射線量は20ミリシーベルト超で、浪江町によれば、来年度から居住制限区域に再編される見込みです。

橘さんご夫妻は原発事故直後、滋賀県の親族の元に避難したのですが、1ヶ月後には福島に戻ることを決意。勤め先である不動産会社の南相馬支社で仕事を再開したと言います。

◆福島へ戻る決意
滋賀県に避難していたが、その間にもお客さんから毎日70〜80本の電話が集中してかかってきた。二度と福島県に戻らないつもりだったが、お客さんが困っているのを聞いて、俺は知らないとは言えず、反対を押し切って2011年)4月12日に郡山から不動産会社の南相馬原町支店を再開した。戻った当初は毎日死にたくてしょうがなかった。地域の人のため、お客さんのためにと思ってはいたが、毎日苦情しかない。家賃を払わず逃げていった奴をつかまえてくれとか、その相手に電話すると「放射能の被害で逃げているのに家賃とはなんだ」。毎日毎日一人で怒られ続けた。うちからお店まで90kmを通勤して辛い思いをして、夜中の1時2時に帰ってくるという生活の中ノイローゼに。毎日崖の下に飛び込みたいという気持ちでいた。その後スタッフが1人増え、
震災の中で繋がりもできて、今は通勤は大変だが戻ってきて良かったという気持ちでいる。ずっと、浪江焼きそば太国という町おこし活動をやっていた。町おこしをする地域があるから仕事が出来る。子育ても出来る。今まで地域に根ざして仕事をしてきたのに、震災だから知らないよ、逃げてもしょうがないじゃないか、とは言えなかった。こういう状況だからこそ、困っているなら少しでも助けになりたかった。地域おこしをやっていたからこそ、そういう気持ちになった。


郡山から南相馬市原町の不動産会社に通勤を続ける橘さんは、浪江町から避難した方の間で、「避難先の風土が体に合わない。浪江と同じ沿岸部・浜通りに戻りたい」という声が、年配の方を中心に非常に増えていると話しています。橘さんは、出来るだけ地元の近くに戻りたいという要望を受け、浜通り・南相馬でアパートやマンションの案内を続けています。しかし、需要に対して供給は追いついていません。南相馬・原町のアパートは、300人待ちという状況になっています。

また、橘さん自身も、浪江町に新居を建てた直後に被災。現在も、避難生活を続けながら自宅ローンを払い続けています。

明日も、浪江町から避難生活を続ける、橘弦一郎さん一家の「いま」をお伝えします。


橘弦一郎さん(ふくしまFMにて)

2013年2月8日

2月8日 被災地の医療の現状、放射線の影響〜南相馬市立総合病院・原澤慶太郎医師(5)


福島県・南相馬市から、被災地の医療と放射線問題の現状をお伝えしています。

人口の大幅な減少。若い世代の流出と急激な高齢化。仮設暮らしのお年寄りの健康問題や看護師不足と、南相馬市の医療現場が抱える問題は、将来、日本が直面する問題の縮図だと市立総合病院の医師・原澤慶太郎さん。

原発事故の影響を受けた地域の将来を考えた時に、医療関係者がやるべきことは何か。原澤さんは、子どもたちの教育を挙げています。

◆これからの放射線教育
お年寄りのことも大事だが、これから仕事をしたり大学へ進学する子供たちの事も考えないといけない。南相馬から千葉や横浜に避難していて、戻ってきた方々の話を聞くと、小学校3年くらいのお子さんが「うまくなじめなかった」という。セシウムだなんだと言われ、いじめられ、福島の人間だというだけで、お友だちのお母さんから何かを言われたという話が漏れ聞こえてくる。偏見や差別に対して、彼ら彼女ら立ち向かい、自分を守るためのスキルを大人が与えて上げるのが大事。

WHOの言葉「ライフスキル」のように、アフリカではエイズの知識を子どもたちに与えること、東南アジアでマラリアを防ぐために蚊帳を使うことが、命を守るスキルになる。福島の子どもたちは、被ばくの知識をきちんと自分の言葉で語れることが、大人になるために必要なスキル。彼らが正しい認識を持って大人になり、この町を作らなければいけない。否定的な人もいるが、この町の子どもたちこそが誰よりも放射線の知識に詳しくなって欲しい。それが将来的に自分たちを守ることになる。多少難しい話もあるが、分かるようになるまで、自分の言葉で語れるようになるまで積み重ねる作業が絶対に必要。
今年3月からはじまるが、南相馬市の中学生、高校生に対してそうした被ばくの知識を深め、自分の言葉で後輩に語れるようなプロジェクトをやっていこうと思っている。あとは彼女たちがきちんと
毎年ホールボディカウンターの検査を受けることも大事。その歴史を積み重ねていくしかない。


 
2月28日には、南相馬の中高生のための、被ばく医療と性教育のイベントが市内で行われる予定です。放射線や被ばくの問題だけでなく、南相馬の地域住民たちの“心の問題”にもっと目を向ける必要があります。医療に関わる人の力、そして教育の力が今後も必要です

2013年2月7日

2月7日 被災地の医療の現状、放射線の影響〜南相馬市立総合病院・原澤慶太郎医師(4)

今週は、福島県・南相馬市から、被災地の医療の現状をお伝えしています。

南相馬市は、現在も一部の地域への立ち入りが制限されています。こうした地域では、病院が移転や閉鎖を余儀なくされ、震災前から医療現場が抱えていた問題に、追い打ちをかけています。

南相馬市立総合病院の医師・原澤慶太郎さんに伺いました。

◆看護師が足りない
お年寄りは南相馬に全部帰ってきたと考えるとユーザー数は変化していない。その中で、看護師の数が足りない状況が続いている。医師は、県外、県立医大からも来たため、14人から20人前後に増えているが、看護師は増えない。南相馬市立総合病院は、3階から6階まで病床が4フロアあるが、看護師の数が足りないため、5階まで、4フロア中3フロアしか開けられていない。ベッド数は看護師の数で規定されているため、看護師の数が揃わないと、病院にベッドがあっても稼働させることが出来ない。募集はかけているが、若い女性の看護師はあえて南相馬を選ぶことはなかなか難しい。40才〜50才で一度リタイアしたベテランの方々に来て頂くというのも一つの方法ではないかと思っている。


また原澤さんは、「患者は大勢いるが、これ以上 負担を増やしてしまうと、看護師がやめてしまう。一人やめると他の看護師の負担がさらに増える。負の連鎖が起こるため、無理はできない」とも話しています。

一方、開業医、つまり町の診療所の負担も深刻です。

◆地域医療へのしわ寄せ
南相馬に残った開業医たちにしわ寄せが来ているのは事実。(放射線の問題で)小高地区の住民が鹿島地区に移転しているため、南相馬市の北側3分の2に、人口がシフトしている。そのため開業医の先生たちにしわ寄せが来ている。非常に外来は混んでおり病院待ち時間も問題になっている。産婦人科も足りないし地域で開業医をしている高齢の先生方も、患者数の増加を受けて「ちょっとしんどい」と話している。小児科は子どもが減ったため閉院。震災の混乱の中で、一部の方々に仕事が押し寄せ、それが続いている。



地方の医療従事者不足は、被災地だけではなく高齢化が進む日本全体が考えなければいけない問題です。明日は、南相馬市の若い女性への放射線教育など、今後の取り組みについてお伝えします。

2013年2月6日

2月6日 被災地の医療の現状、放射線の影響〜南相馬市立総合病院・原澤慶太郎医師(3)

今週は、福島県・南相馬市から、被災地の医療の現状と放射線問題の今について、お伝えしています。

南相馬市立総合病院の医師、原澤慶太郎(はらさわ・けいたろう)さんは、仮設住宅で暮らす2500世帯全てを訪問し、現在も往診を続けています。休暇を利用して、仮設の集会所でお年寄りの健康相談もボランティアで行っています。こうした活動を通じて見えてきたのが、住民たちの心の問題です。

◆「寄り添う」という医療
心の問題は多岐にわたる。津波でご家族を亡くされた人もいれば、漠然とした放射能の不安に怯えている方もいる。自宅の放射線量が高く帰宅のメドすら立たない人もいる。母親の中には、「ここで本当に子どもたちを育てて良いのか」と悩んでいる方もいる。私たちは線量データの集積、内部被ばく検査の結果から、南相馬市で子どもを育てることに全く問題は無いと考えているが、こうした問題は今後も続く。
我々医師は、心のケアという形でそうした方々に寄り添うしかない。多くの方が、コミュニティの繋がりと、被災体験を共有することで乗り越えてくことができるが、我々がやるべきことは、鬱の方々を専門医につなぐこと。僕らがサポートすれば心の問題を乗り越えられそうな人を見つけてあげないといけない。


また、こうした心の問題は女性よりも男性の方が、顕著だと言います。

◆女性は強いが、男性は…。
お父さんたちの方が助けてもらうのが下手だと思う。自分から「助けてくれ、困っている」と言いにくい。仕事で一家を支え、お米など人の口に入るものを作っていた男性が、仕事を全て失い、アイデンティティが傷つけられている。一方女性はたくましく、一種の才能のようなものがある。集まって楽しそうにする力が女性にはある。では、どうやったら男性が出てきてくれるのか。何人かの男性から「日曜大工みたいなことならやってもいいぞ」という話があったので、地元工務店、木工所に掛け合い、場所・指導を提供してもらう形で毎週日曜日に“大工仕事をやる会”を1月から実施している。阪神淡路大震災の時、高血圧や糖尿病をもつ高齢の男性がコミュニティから孤立してしまい、孤独死に至るというケースがたくさんあった。同じ過ちを繰り返さないためにも、早い段階からそうした男性に関わりたい。


男性の心のケアを目的としたこの取り組み、“引きこもりのお父さんを引き寄せようプロジェクト(HOHP・ホープ)”は、当初は日曜大工講座からスタートして、将来的にはデザイン家具の販売を目指すということです。

明日は、南相馬市立総合病院をはじめ、被災地の医療現場が抱える、看護師不足などの問題についてお伝えします。

2013年2月5日

2月5日 被災地の医療の現状、放射線の影響〜南相馬市立総合病院・原澤慶太郎医師(2)

今週は、福島県・南相馬市から、被災地の医療の現状、そして放射線問題の今について、お伝えしています。

南相馬市立総合病院は、福島第一原発から23キロの位置にあり、原発事故以降、放射線被ばくに関する医療の最前線と言われています。実際この病院では、市民のための「放射線・健康カウンセリング外来」を無料で行っており、内部被ばくを検査するホールボディカウンターも、2台設置されています。

この病院で地域医療に携わる、医師の原澤慶太郎さんは、南相馬市民の放射線の影響、健康状態について、こう話しています。

◆内部被ばくの影響は
体の問題と心の問題、両方あり両方が密接に絡み合っている。東大医科研の坪倉先生を中心に、内部被ばくの検査については早い段階から調べており、市のホームページにも公開しているが、内部被ばくをしている人はどんどん減っている。今は3%前後が検出されるのみに留まっている。子どもはほとんど検出されていない。
そもそもセシウム自体は尿から出ていく。その減る時間は年齢と性別によって全然違う。代謝の活発な赤ちゃんであればあるほど早いし、お年寄りは減るのに時間がかかる。若い方は数か月で出ていくが、年配の方は半年から1年かかってやっと半分くらいになる。新規にセシウムを取り込んだり、食べるようなことをしなければ最終的には全部出ていく。これがセシウムの体の中での動き。南相馬の方々も、原発事故直後は(内部被ばく)が6割が検出されたが、食べ物に気を付けて定期的にホールボディカウンターを受けることでセシウムの検出量が減っていき、今は3%しか検出されないようになった。検出される人の食事を調べると、山菜を取って食べていたりする。何かしら食事に問題があることが分かってきた。そうした人には個別指導することで、被曝する人は減っている。内部被ばくに関しては、私たちは付き合い方が確立しつつあるのが南相馬の実情。その中で問題になっているのが、原発事故で仮設住宅に避難している70代〜80代のお年寄りが、今までは畑仕事をしていたが、東電からの補償金をもらい運動をせずに暮らしていること。当然、高血圧や糖尿病など慢性疾患が出てくる。実際に外来でもそうした薬の増量が必要になってきている人もいる。被爆の問題も精神的な意味でいろいろあるが、命に係わるのは高血圧や糖尿病の方が大きな影響があるかも知れない。


明日は、今日の話題に関連して避難住民の心の問題についてお伝えします。



2013年2月4日

2月4日 被災地の医療の現状、放射線の影響〜南相馬市立総合病院・原澤慶太郎医師(1)

今週は福島県・南相馬市から、被災地の医療の現状、放射線問題の今についてお伝えします。

南相馬市立 総合病院の医師・原澤慶太郎さんは、2011年11月に千葉県の病院から南相馬市立総合病院へ出向した。仮設住宅で暮らす2500世帯全てを訪問し、在宅医療科を設立するなど、南相馬市の地域医療に力を注いでいます。

◆南相馬を選んだ理由(南相馬市立総合病院・原澤慶太郎医師)
南相馬市立総合病院は、福島第一原発から23キロ、日本の総合病院では最も原発に近いところに位置する南相馬で一番大きな基幹病院。人口7万人が、現在4万人になっている。日本は超高齢化先進国と言われ、2025年には40万人〜50万人が介護難民化するという。その問題解決にあたりたいと考え、外科医から地域医療に転職。その中で震災が起きこの病院に赴任した。南相馬は原発事故で若い世代が流出、急激に街が高齢化した。これは日本の首都圏の高齢化の縮図。急速に高齢化する時、あらゆるインフラが追い付かず、医療や行政も変化に対応できなくなる。実際に南相馬市でも看護師が足りなくなり、ショートステイなど介護福祉関係のサービスも足りない状況が続いている。そうした変化をどう乗り越えていくかを考えるのは仕事としてやりがいがある。もう一つは原発事故の問題。被爆の現状と、我々がどうこの問題をどう乗り越えていくか、強く関わることができる。だから南相馬への出向を選んだ。



原澤医師は現在、病院勤務とは別に、仮設住宅の集会所で、避難者の健康状態をヒアリングする「お話会」という活動もしています。まだ30代の若いドクターですが、高齢化・看護師不足・放射線を抱える南相馬市での医療に携わることで、被災地だけでなく日本の医療が将来を考えています。

明日は、南相馬市の仮設住宅で暮らす避難者の方の健康問題、そして放射線の影響についてお伝えします。

2013年2月1日

2月1日 宮城県気仙沼市唐桑町の「からくわ丸」〜“よそもの、わかもの、ばかもの”の被災地支援〜(5)


宮城県気仙沼市の唐桑地区で展開されている街づくりプロジェクト「からくわ丸」。中心となっているのは代表の加藤拓馬さん、24歳です。唐桑の住民と一緒に、地域の魅力を掘り起こす「からくわ丸」の活動。加藤さんが見つめているのは、唐桑の「復興」と「未来」です。

◆「自分たちの街の魅力を知る」が「復興のスタートライン」
去年の2月から発行しているフリーペーパーがある。名前は「けっから」。どうにかしてこの地域の人たちが前向きになれる話題を提供したいと思い、唐桑の中で頑張っている人をピックアップして唐桑の人に紹介する。すると「どこどこの誰々さんはこういうことしてるんだ」と思って、「じゃあ私もこういうことできるかもしれない」と思ってくれるかもしれない。震災を機に家が流されて別の場所で避難生活を送っている人が、唐桑のいまの写真を見て、「すごく唐桑に帰りたくなった」と涙を流しながら読んでくれたりする。
仮設住宅も区画整備もどうなるかわからない、まだまだ復興なんて進まない状況の中で、「まち歩きをしながら古井戸を見つけて感動している」なんて、(からくわ丸は)すごく平和なことやってるなと思われるかもしれない。でも、なんでこういうことを丁寧にやらなiいといけないかというと、「自分たちの街が好き」だとか、「自分たちの街にはこういうものがあるんだよ」というのがわかっているのと、わかっていないのとでは、復興のカタチが全然変わってくると思うから。自分たちがいまやっていることが、復興の前提の基礎づくりになればいいと思っている。住民が自分たちの街を誇りに思える、「唐桑にはなにもない」じゃなくて「唐桑にはこういうものがある」と思えれば、これからの復興にもっともっと住民の主体性が出てくると思う。そこが今年、来年あたり、すごく重要。そういったことが住民の人たちと一緒に確認できるかどうかが、今後の復興に大きく影響してくるんじゃないかな、という気持ちでやっている。


「けっから」とは、唐桑の言葉で「くれてやるから」「あげるから」という意味。「からくわ丸」の活動報告やフリーペーパー「けっから」は、「からくわ丸」のオフィシャルサイでチェックできます。

からくわ丸サイト

パーソナリティ 鈴村健一

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