2018年1月31日

1月31日 ふたば未来学園(3)

今週は、福島県立「ふたば未来学園」からのレポートです。

原発事故の影響で避難と休校を余儀なくされた双葉郡の5つの高校の受け皿として、2015年に開校。この春、一期生およそ150人が卒業します。学校が目指したのは、知識の詰め込みではなく「答えが出せない問題に自ら取り組む力」を育てること。
「ふたば未来学園」一期生の古市香菜子さんは、授業で福島の風評被害や風化について学びました。

◆どうイメージを払拭していくかということに切り替えて
ふたば未来学園高校3年、楢葉出身の古市香菜子と申します。学校で行われている「未来創造探求」という授業ではいくつかの班に分かれて、福島の現状や課題をどう解決していくかという授業。わたしはそこで、SNSなどでの福島のイメージを自分たちで模索して、悪いイメージをどう変えていくかなど、生徒自身で話し合ってツイッターのアカウントをつくって、自分たちの日常を配信していくということをしました。最初は根拠のない噂や誹謗中傷がありましたが、その現状はもうどうしようもないから、その現状からどうイメージを払拭していくかということに切り替えて、一年から二年にかけてその活動を行いました。最近のエゴサーチでは否定的な意見より肯定的な意見に変わったので、自分たちがやっていることは社会に対する影響が大きいんだなと感じました。


震災当初、古市さんは町役場で働く父親が、避難者への対応で板挟みになっていることに違和感を抱いていました。「同じ被災者なのに、なぜ父が責められなければならないの?」そして、古市さんはいろいろ考えたうえでいわき市内の進学校ではなく、ここ「ふたば未来学園」への進学を選びました。
「自分たちの手で、ふるさとの未来を切り拓きたい。」その想いが、古市さんの背中を押しました。

◆復興していることをしっかり認識してほしい
わたしは避難してわかったことだが、楢葉が住みやすい町だったということと、この学校の一期生ということで、自分たちで一から復興に携わる学校をつくっていけるということに魅力を感じて、この学校を選びました。勉強はもちろんですが、海外研修で学んだことが多い。NYにいって、福島の原発の話をしたときに「原発事故ってあったの?」と言われて、「あ、こんなにも知られていないんだ」と思って。福島の原発事故のことは世界中の人が知っているのが当たり前だと思っていたのが、ちゃんと一から知ってもらわなきゃいけないんだな、と感じました。伝えるということも、震災があったことを伝えるのは大切だけど、そこから福島がさまざまな復興活動など行っているので、復興しているんだよということをしっかり認識してほしい。原発事故とかがあって、「かわいそうだね」というイメージを持たれると思うが、原発事故にくっせず様々な活動を行っている人もいるので、そういうこともちゃんと知ってほしいと思います。


古市さんはタイやアメリカでの海外研修で語学を学んだり、現地の学生との交流を経験しました。
「福島のことを伝えるにはどうしたらいいと思う?」と質問すると、「経験したこと、ありのままの情報は相手にちゃんと伝わる。発信し続けていくしかない。」と答えてくれました。4月からは東京の大学に進学することが決まっています!

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今週お送りしている福島の現状、そして「ふたば未来学園」の取り組みについて、あなたからの感想もお待ちしています。住所・氏名・連絡先を明記の上メッセージフォームからお送りください。抽選で5名の方に、3000円分の図書カードをプレゼントします。

2018年1月30日

1月30日 ふたば未来学園(2)

今週は、福島県立「ふたば未来学園」からのレポートです。
福島県双葉郡広野町にある「ふたば未来学園」。原発事故の影響で避難と休校を余儀なくされた双葉郡5つの高校の受け皿として、2015年に開校しました。双葉郡出身の生徒たちは、それぞれ避難や仮設での生活を経験。学校近くの寮で高校生活を送る生徒も多くいます。そして一期生およそ150人が、この春卒業を迎えます。

開校から3年。副校長の南郷市兵さんは子どもたちが持つ可能性に、日々驚かされたと言います。

◆世界の課題を解決できる力が育っている
すごいなと思ったのは、授業でも演劇をやりましたけど、それにすごく可能性を感じたのか演劇部が途中で立ち会がって、自分たちの被災体験を親にも言えなかったことを語り合って、実話をもとにした舞台を作り、県でも優秀賞をとって東京にも公演をしにいきました。そのうちの一部のメンバーとその後うちの学校の研修でアメリカに行く機会があって、難民の問題を世界中の生徒たちと議論する機会があって。その中で英語力はそこまでなかったかもしれないけど、ある子は涙を流しながら、自分の避難体験とシリア難民のふるさとを追われているという状況を重ね合わせて、その方々のためにいま自分たちはなにをしなければならないかを話し合ったりして。僕たち学校をつくったときに、福島の課題だけでなく、世界の課題を解決できる力を育てたいと思い描いてはいましたが、実際に子どもたちがそれを切り開いていった姿に本当に驚きました。その視点が学校全体に共有されて、学校の思想というか、福島が世界に果たしていくべき役割の思想にもなっています。それは教員が作ったものではなく、子どもたちが地域や世界でプロジェクトをやる中で見出してきたもの。「ふたば未来学園」の伝統が確実に作られていると思います。


そんな生徒たちの取り組み、世界へ発信してきたことなどを報告するため2月10日(土)、東京・渋谷の「国連大学」で行われるイベント「アップデイトふくしま」に南郷先生も参加します。

◆この7年でアップデイトしていること
今度2月10日東京で「アップデイトふくしま」というイベントに登壇させていただく。いま福島から発信されている情報は、わたし個人的な受け止めとしては「風評払拭」とか「福島のいまを伝えたい」という話が非常に多いと思っています。でもふたば未来学園の生徒たちがいま考えていること、福島で(さまざまなことを)経験したからこそ、世界の難民問題にいまこう立ち向かいたい、であるとか、エネルギー問題にこう向き合いたいという、福島から新しい社会を作っていく「芽」というものが、日本や社会をアップデイトしていくという気持ちとか行動が、若者の中からでてきているんだということを、ぜひ伝えたい。たぶん彼らは7年前に思ったことを、忘れるのではなく、心の奥底に持ちながら、考えをアップデイトし続けていると思うので、そんな生徒たちの姿を東京で皆さんにお伝えできたらなと思っています。


2月10日(土)、東京・渋谷区の「国連大学」で行われる「アップデイトふくしま」は福島のいまと課題を知るためのパネルディスカッションで、高橋万里恵さんも司会を務めます。現在、ウェブサイトで参加者を募集しています。

「アップデイトふくしま」詳しくはコチラから

2018年1月29日

1月29日 ふたば未来学園(1)

今週は福島県双葉郡広野町にある高校「ふたば未来学園」からのレポートです。

福島県双葉郡には、以前5つの高校がありましたが、震災と原発事故の影響で避難を余儀なくされ、それぞれ新入生の受け入れを中止。昨年3月、在校生の卒業とともに、5つの高校はすべて休校しました。そんな双葉郡全体の高校生の受け皿として2015年に開校したのが「福島県立ふたば未来学園」です。地域との関わりを重視し、海外研修を取り入れるなど、生徒の自主性を重んじたユニークなプログラムが注目を集めています。
     
開校から3年。一期生がいままさに進学や就職に向けて頑張っているところです。副校長の南郷市兵さんに話を聴きました。


◆教科書に書いてない、課題に一歩踏み出す力を
ふたば未来学園が開校した経緯としては、地域にあった高校が震災で避難して休校になる中で、この地域にどういう高校が必要なのかという根源的な問いを地元の人たちみんなで議論したことが発端でした。わたしたちが育てなければいけない力の一番大切なところは、教科書に書いてある知識も重要だが、この復興の未来をどう作っていくのか、大人も正直誰も正解がまだこの福島見いだせていないところがありますが、解が見えなくても一歩踏み出す力、また世界中の人の力を借りていかなければいけませんから、世界と共同して、たとえ言葉や文化が違っても一緒になにかを進めていく。将来的に子どもたちが必ずここに残って復興を続けるということではなくて、世界中に飛び出していって活躍してほしいと思ってやっています。
わたしたちのカリキュラムの中核は、課題解決力やコミュニケーション力など「こうやってやるんだよ」と教えることができないので、とにかく実践するということに重点を置いて、一期生の生徒たちは、週4時間ぐらい地域に飛び出してさまざまな復興のプロジェクトにそれぞれ取り組んできました。

生徒たちの大きな成長変化、驚かされたことは、それぞれ地域で取り組んできたプロジェクトの中で「コミュニティ再生をやる」と言っていた生徒が、ある日農家から耕作放棄した畑を借りて、一人で雑草を抜いて、一人で畑を耕し始めたんです。結局彼がやりたかったのは、復興事業でこの町に来ている人たちと、地元の人とがあまりコミュニケーションの場がなかったので、そういう人たちを「食」「食べ物」でつなぐイベントができないか、ということでした。普通大人だったら、イベントの企画をして、役場や農協に話したりと考えるだろうけど。そこを畑の草抜きから始めるとは!でも結局彼がそうしたアクションを起こしたことで、一人じゃなく10人、20人を巻き込んで、みんなしょうがないから手伝ったんだと思うが、しかも「農作物をつくるのにいっさい作り方をインターネットで調べない」というルールを自分たちで決めたんです。そうしたら農家にやり方を聞かなきゃいけない。でもそうすることで、農家のみなさんに可愛がられて、農家を巻き込んでファーマーズマーケットを開催しました。口数が少なくてめそめそ泣いてばっかりいる、頼りがいのない子だったんですけどねえ(笑)。


一期生の3年生はおよそ150人。そのうち75%が進学を目指し、25%は就職。また2019年4月からは、中高一貫の学校として、新たな一歩を踏み出す予定しています。『LOVE&HOPE』 明日も「ふたば未来学園」からのレポートです。


2018年1月25日

1月25日 宮戸つばめ食堂(4)

今朝も宮城県東松島市の食堂、「宮戸つばめ食堂」についてお届けします。

日本三景「松島」の一部でもある「奥松島」の宮戸島にオープンした、地域で唯一の食堂「宮戸つばめ食堂」。隣町の東松島市小野で、ベーカリーカフェ「ル・ニ・リロンデール」を営む横山淑恵さんが、週末の金、土、日だけ開いているお店です。

今朝は気になるのは「宮戸つばめ食堂」のメニューについて。

◆ダントツ人気「豚バラキムチ牡蠣鍋うどん」
やっぱりここに来た方に奥松島の食材を楽しんでもらえるメニューを意識しているので、今は3種類で、「つばめ定食」と「豚バラキムチ牡蠣鍋うどん」と「バターチキンカレー」で、市内の食材を使ったメニューをいろいろ提供しています。今いちばんダントツ人気なのが「豚バラキムチ牡蠣鍋うどん」で、牡蠣は宮戸の室浜産のすごく大粒の牡蠣を3つ入れていて豚バラは市内のお肉屋さんのを使ったり、定食の味噌汁も地元のお味噌を使ったりとか。やっぱり外から来た人ってその土地の美味しいものを食べたいじゃないですか。そういったものをここで出したいと思いますね。もともと料理人じゃないんで、料理に自信がない分、食材の力を借りてるというか(笑)。やはり美味しい食材をいかに美味しく使うかってたぶん育ててる人とか作ってる人に聞くと、“こうやると美味しいんだよ”とかあるので、そういった話はいろいろ聞きに行ったり、あと美味しい食材を使って料理してるんだから、美味しいものと美味しいものを組み合わせたら美味しいものが出来るに違いないっていう食材の力を借りてますね。あともともとカフェをやってるので、定食じゃなくてもカフェメニューというのもありまして、カップルとかで来られるときに男性は定食メニューで、お連れの女性はカフェメニューとドリンクとかもあるので両方楽しめるようにしてます。


そんな「宮戸つばめ食堂」がある復興再生多目的施設「あおみな」は、目の前が奥松島の海で「嵯峨渓遊覧」の船乗り場もあり、そして奥松島の絶景が一望できる大高森の登山口の向かいという絶好の場所にあります。さらに夏にはサプライズ企画も考え中なんだそう・・・

◆無人島に夏だけオープンする浜カフェ
いちばんいい季節は夏だと思うんですけど、夏はシーカヤックで無人島まで・・・松の生えた島がいっぱいあるので、ちょっと10分くらいで無人島に降り立って、ぼーっとして、また次の無人島に行ったりとか、なんていいんだ〜ってすごい思って。その浜で“浜カフェ”をやりたくて、シーカヤックで行きつく無人島があるんですけど、そこ、島の人に“道路で裏から入れるよ”って聞いたので、シーカヤックで無人島に着いた人が、移動式のカフェがあって、そこでちょっとひと休みしたり、お食事をしてまた行くっていう、近くに「松島自然の家」っていう施設があるので、そういった方々とコラボしてそういう行事とかイベントとかもして、地元の人ももちろん観光客の人にも喜んでもらって、また来ようってたくさんの人がいつも来てくれて活性化する場所になりたいなあと。なので飲食店だけではなくてそういったイベントとかもやっていきたいなと思ってます。


宮戸島唯一の食堂、「宮戸つばめ食堂」は、毎週末、金、土、日にオープン。場所は宮戸島の復興再生多目的施設「あおみな」の中です。

横山さんのもう一つのお店、隣町・小野の手作りパンのお店「ル・ニ・リロンデール」は、月曜から日曜までお休みなしで営業中です。

2018年1月24日

1月24日 宮戸つばめ食堂(3)

今朝も宮城県東松島市の食堂、「宮戸つばめ食堂」についてお届けします。

日本三景「松島」の一部でもある「奥松島」の宮戸島にオープンした、地域で唯一の食堂「宮戸つばめ食堂」。隣町の東松島市小野で、ベーカリーカフェ「ル・ニ・リロンデール」を営む横山淑恵さんが、週末の金、土、日だけ開いているお店です。

宮戸島出身の横山さんは東京の大学を卒業後、そのまま東京で就職。12年間を東京で過ごしていましたが、東日本大震災を機にUターンしてお店を開きました。震災前とは一変した故郷の今の様子を、横山さんはどう見ているのでしょうか。

◆この町の持っている素材がすごくいい
最寄りの駅が野蒜駅。そこから車で10分くらいなんですけど、野蒜もそうですけどやっぱりまだまだ工事中というか、海岸もずっと堤防工事してたりするので。宅地ももとあった場所にはまったく建てられなくなってしまって新しい場所に山を切り拓いて新しい宅地が出来たんですけど、前の景色はもう無いけれども新しい場所でみんな頑張っていくしかないかなと気持ちを切り替えて次に向かって頑張っていくのかなって感じはします。昔のきれいな景色も大事なんですけど心の中にしかないですからね。牡蠣やってる人も宮戸で牡蠣やってるけど住んでるところは車で離れたところなんで、なかなか残る人と戻る人は高齢者の人が多いですよね。若い人は戻ってこないっていうか。でもやっぱり何年か住んで仕事を始めたりしていくと、同じ志を持った人がたくさんいるなっていうか、若い人はやっぱりこの町の持ってる素材がすごくいいので、食材だったり景色だったり、そういったところをもっと市内の人市外の人、県外の人にもっと知ってもらって、いろんな人がたくさん来て、経済的にもにぎわい的にも活性化していくといいなってみんな思ってるんだって思って、なんでやっぱりたまに疲れちゃったりすると、そういった人たちがいっぱいいるんだと思うと、みんなでそれを叶えていきたいなって思いますね。


新しく高台に野蒜駅が出来たり、宮戸島の月浜海水浴場が再開したりと少しずつ復興は進んでいるものの、震災前は毎年5万人近くが訪れたという東北最大級の
野蒜海水浴場はまだ再開のめどが立たず、かつての宅地も野ざらしのまま。そんな町で飲食店を営むのはかなりのチャレンジだと思うんですが、そもそも宮戸に飲食店が少ないのは、もう一つ理由があるんだそうです。

◆海を見ながらコーヒーを飲むのがいまの夢
ここって海水浴とか浜がいっぱいあるので、夏は観光客の方けっこういらっしゃるんですけど、冬は観光客の方激減するんですね。そういった中でほかの飲食店さん、気にしてたのが、冬、集客が見込めるのか?っていうところで、市からお声がかかった時に誰も手を挙げなかったのかなって思ってて。でもカフェやってて思ったんですけど、そんなに東京みたいに娯楽が溢れた町じゃないので、一日なにをして過ごすか?と遠くのカフェに行ったりとか、美味しいものを探してドライブしたりみたいな休日の過ごされ方をする方が居るので、いい場所があれば冬でも来てくれるんじゃないかなって経験上思ったんですね。ここいま店の前工事現場なんですけど震災復興系の資材置き場になったりしていて、来年度にはこれがぜんぶ撤去されると店の目の前が海になるので、より良い景色がお客さんぜったい喜んでくれるっていうか自分がすごい見たいので、そこで海を見ながらコーヒーを飲むのがいまの夢ですね。震災で海が嫌いだっていう人もいると思うんですけど、私なぜか海すごく見てるだけで癒されるっていうか、いつまでも見てられると思いませんか?



隣町の小野という場所で、ベーカリーカフェ「ル・ニ・リロンデール」を営みながら、週末に宮戸島で「宮戸つばめ食堂」を開いている横山さん。
ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。

2018年1月23日

1月23日 宮戸つばめ食堂(2)

今朝も宮城県東松島市の食堂、「宮戸つばめ食堂」についてお届けします。

日本三景「松島」の一部でもある「奥松島」の宮戸島にオープンした、地域で唯一の食堂「宮戸つばめ食堂」。隣町の東松島市小野で、ベーカリーカフェ「ル・ニ・リロンデール」を営む横山淑恵さんが、週末の金、土、日だけ開いているお店です。

宮戸島出身の横山さんは、東京の大学を卒業後、そのまま東京で就職。12年間を東京で過ごしていましたが、東日本大震災を機にUターンを決意しました。

◆つばめ食堂開店前は東京に居た
震災がなかったらずっと東京に居たと思うんですけど、でも地元に帰りたい帰りたいとすごく思って、で仕事も忙しいのでなかなか実家にも帰れなくって、震災の直後ほんとうに家族と連絡が取れなくなって、“みんなもしかしたら・・・”って思ったんですね。“東京で一人になってしまった・・・”って思ったときに、“何でもっと帰らなかったんだろう”って思ったんですよ。で、落ち着いて、みんなが無事だったっていうのを知って、ちょっとこう、傷ついた姿を見た時にやっぱり自分ってこんなきれいな自然の中で生まれ育ったのをあらためて知って、そういった人たちや環境によって今の自分が出来てるんだって思うと、そういった人たちに今は自分が何かしら恩返しがしたいなって思ったときに、いまお店でパンも焼いてるんですけど、朝から散歩とかウォーキングとかランニングしてて、パンの焼ける薫りとかコーヒーの薫りがして来たらそれだけでちょっと幸せになれるんじゃないかなと思って今の仕事を始めたんですが・・・もともとはマスコミをやってたんですよ(笑)。ハードワークだったんでいま頑張れるっていう。で、取材で何回か帰ってくるじゃないですか。もう取材で帰ってきたくないんですよ。こう、東京からちょっと被災地に行って、聞かれたくもないことを聞いて帰って、切り取ったことだけを・・・なんかちょっとしたすごく葛藤があったんですよ、はたして正しいことをしてるのかなと思って。そういうのもいろいろあったんですけど。


ということで横山さん、じつは東京でテレビのお仕事をされ取材で故郷を訪ねることもしばしばあったとのこと。そうした中での葛藤もあって帰郷を決意、飲食店経営も経験がない中でカフェを開き、そして先月は食堂も開きました。ここまでの手ごたえはどうなんでしょうか?

◆やりたいことがあったらすぐやろうと決めた
けっこう疲れる(笑)・・・疲れるんですけど、震災の時すごく思ったことがあって、私の家族はみんな無事だったんですけど、明日もしかしたら日常が日常でなくなったり、明日もしかしたら命が無くなるかもしれないってあの時みんな思ったと思うんです。もうやりたいことがあったらすぐやろうって決めたんですよ。それまでってけっこう慎重にっていうか、“いつかやろう”とか、“定年したらやろう”とか思ってたんですけど、やりたいことがあったらすぐやろうって決めたんです。でチャンスがもう目の前にあったんで、やってしまおうと思いました。疲れるけど、来た方が“美味しかったよ”とか、隣同士で近所の方が話してる姿を見てるだけでその疲れは一気に癒されるというか、少しでも地元の人のためになってるかもしれないって思うと、“よしまた明日も頑張ろう”っていうか、“もっともっと喜んでもらえるために頑張ろう”って思うので、身体は疲れるんですけど心の面でどんどん頑張れるって思いましたね。


隣町の小野という場所で、ベーカリーカフェ「ル・ニ・リロンデール」を営みながら、週末に宮戸島で「宮戸つばめ食堂」を開いている横山さん。
ぜひ足を運んでみてはいかがでしょうか。


2018年1月22日

1月22日 宮戸つばめ食堂(1)

今週は、宮城県東松島市の食堂、「宮戸つばめ食堂」についてお届けします。

日本三景「松島」の一部でもある「奥松島」。美しい海岸線と松が繁る小島が浮ぶ風光明媚な場所として知られています。その主要部でもある宮戸島には、震災後、地域の女性たちが切り盛りする食堂「げんちゃんハウス」がありましたが去年春に閉店。“民宿以外で飲食できるお店がゼロ”という状態が続いていました。そんな宮戸島に、先月15日待望の食堂「宮戸つばめ食堂」がオープン。オーナーの横山淑恵さんに伺いました。

◆海の見える飲食店、震災後に夢が叶った
松島は全国的にも有名な観光地かと思うんですけど、ここは奥松島と呼ばれていて、有名な松島は「表松島」と言われるんですけどこっちは「奥松島」で、松が生えた島がいっぱい浮んでいて、それは松島と似ているんですけど・・・ま個人的な意見なんですけど・・・松島はちょっと洗練されたきれいな景色だと思うんですけど、こっちってけっこう荒々しい自然の雄大な海の景色が楽しめる場所というか。あと船着き場があって「嵯峨渓遊覧」っていう奥松島を小舟で進むものがあるんですけど、海にある洞窟とか島の近くに行けたりとか。あとお店の道路はさんで向かい側に大高森という歩いて10分くらいの小山があって、そこを登りきると奥松島のきれいな景色が一望できる素敵な場所です。で、3月くらいに唯一合った食堂が閉まって、そのあとは民宿とかたくさんあるんですけど、こういった食堂という形の飲食店はまったく無かったんで、地元の方がご飯を食べる場所がないとか、奥松島の観光に来た方が立ち寄って食べるところが無いというのは聞いていました。私も実家が近いのでよく来てはいたんですね。海すごくきれいなので見てるだけで癒されるんで。ただやっぱりきれいな海を見ながら美味しいコーヒーを飲んだり美味しい食べ物を食べたりする場所があるともっといいのにな・・・っていうのは地元民としても思っていて、海が近いから海産物、今だと牡蠣とか海苔とか美味しいのがすごくあるので、そういった魅力も楽しめたらより奥松島を好きになってもらえるんじゃないかなと思って。震災をきっかけに飲食店を始めたんですけど、震災前、東京に居たんですね。で震災があってからすごく地元に帰りたくなって、で、日常の中で小さな幸せを・・・日常が日常でなくなった部分が震災だったので・・・小さな幸せを日々毎日ちょっとずつ、地元の故郷の人たちに提供する方法ってなんだろうなって思ったときに、簡単に、“美味しいもの食べると人ってすぐ幸せになる”って思って、私は海の傍で育ったので、夢は〔海の見えるところでカフェを開くこと〕だったんですね。で4月に東松島市の小野というところでカフェを開いて、そこは海、近くないんですよ。なかなか震災後、海の近くに新しい建物建てるとかけっこう基準が厳しくなって出来なかったんですね。その時ここの施設まだ無かったんですけど、たまたま市の方から、“ここの物件空いているので、市内の飲食店さん、誰かやりませんか?”って声がかかって、それで私は、“海も見えるし”と思ってここのお店を始めました。



「大高森」登山口の目の前に、復興再生多目的施設の「あおみな」が去年完成。その一角に「宮戸つばめ食堂」はあります。
「宮戸つばめ食堂」は、現在、金、土、日のみの営業。

宮戸つばめ食堂facebookはこちら

2018年1月19日

1月19日 仙台市荒浜「海辺の図書館」(2)

今朝は引き続き、宮城県仙台市、荒浜地区で活動を続ける「海辺の図書館」のレポートです。

仙台市の中心部から車で20分程の距離にありながら、いまだ野ざらしの景色が広がる荒浜。もとは美しい浜辺と松林が広がる風光明媚な場所でした。
災害危険区域に指定され人が住むことは出来ませんが、この場所にふたたび人が集い、震災前の人の営みや文化を元の住民と交流しながら“本を読むように”体験するのが「海辺の図書館」です。図書館とはいえ、本が置いてあるわけではありません。2014年の立ち上げから数人のメンバーと共に、波の音が聴こえるベンチでの読書会やまちあるきイベント、音楽会やBBQイベントなどを開催しています。

そもそもこの荒浜がどんな町であったのか?館長の庄子隆弘さんに伺いました。

◆震災前の荒浜の暮らし
あそこは800世帯あって、それだけの人が住んでいたんですよね。海があって、海の恵みを受け、その手前にある松林で採れるキノコや松ぼっくりを燃料にして何かするとか、そういった暮らしに私も小さい頃から常に触れていた。なぜ触れられていたかというと、そこに住んでる人たちの顔が見えている。いまそういった部分が無くなっているところが多くて、コミュニティというものが見直されてる部分があるかと思うんですけど、それは決してユートピア的なものではなく、もちろん煩わしさとかもあるから今の都市生活をしてる人たちが捨ててきたものが、なにかいいバランスで私の時は残ってたなと思うんですね。あとは気候がいいってみんな言う、私もそう思うんです。震災後に訪れた私の友人なんかも“リゾートみたいだね”って言うんです。青空があって、広い土地が・・・下にある瓦礫さえ見なければ・・・本当にリゾート地に来てるような感じだという、まさにそうなんだよねという魅力があったかなと思います。


大手書店の図書館部門で責任者を務めながら、生まれ育った荒浜の魅力を伝えていこうと「海辺の図書館」の活動を続けている庄子館長。その背中を押している原動力についても伺ってみました。

◆そこの場所に自分が居たいと思い続けること
よく“なんでやってんの?”って言われるんですけど、今の原動力は、“荒浜に訪れている人の多さ”ですね。世間から言われているような「風化」であったり、“震災なんか忘れられてるよ”っていう声を感じられないんです私あそこに居て。みんな常に怒ってるし笑ってるし考えてるし。そういった人たちが集まっているところで、その場所に身を置くことが心地いいんですやっぱり。だから残しておきたいというところがあって、なによりそこの場所に自分が居たいって思い続けてることじたいが原動力になってますね。

やはり荒浜に人が来て欲しい。来てまずいちばん最初に行って欲しいのが、海ですね。震災遺構の荒浜小学校からバスで降りて、おそらく降り立った時に、“大変なことがあったんだな”って最初に思うかもしれないです。で、まだ基礎が遺ってる部分のところを歩きながら、堤防を上って、見える景色っていうのが、やっぱりすごい、ほかでは見られないかなって思います。広がりっていうか、荒浜の魅力と分かってもらえると思いますね。

荒浜地区は、今後、公園や商業、農業のエリアとして整備され、いまはまだ更地です。住民はすでに集団移転が進められています。間もなく7年が経つ仙台市、中心部のすぐ近くの町でもこの状態という現実があります。

海辺の図書館

2018年1月18日

1月18日 仙台市荒浜「海辺の図書館」

今朝は宮城県仙台市、荒浜地区で活動を続ける「海辺の図書館」についてお届けします。

仙台市の中心部から車で20分の若林区荒浜。ここは仙台市内唯一の海水浴場「深沼海岸」に面し松林が繁る風光明媚な場所でしたが、間もなく震災から7年が経つ今もなお建物も松林もまばらな、野ざらしの景色が広がっています。

震災後、災害危険区域となって人の居住が出来なくなった荒浜で、震災前の人の営みや文化を元の住民と交流しながら“本を読むように”体験するのが今日ご紹介する「海辺の図書館」です。館長の庄子隆弘さんは、荒浜に生まれて育ち、大手の書店で図書館業務の責任者を務めている方。2014年にこの「海辺の図書館」を立ち上げました。

◆そこにいる人たち一人一人が本のような存在
私自身が荒浜で生まれ育って、東日本大震災で自宅が流され、家族が亡くなったりは無かったんですけど、しばらくは仮設住宅で暮らしながら生活再建でバタバタしている状態でした。その中でも私の仕事、図書館ということで、何かできないかと考えながら2014年までは日々の生活や仕事に忙殺されていました。それでも荒浜の何も無くなってしまったところに週に一回は行っていたんです。もちろんそんなに人がいるわけでもなく、復旧工事の車両とかそういったのしかなくて、“これからここどうなっていくんだろう”っていうのを見ながら。自分の家の建っていたところも床が残ってたりしてたんですけど、その自分の家の跡のところで、天気のいい日に鳥の鳴き声とか、波の音だったり、日差しだったり、そこで本を読んでたらふとなんか、“こういうところで本を読んでいるの気持ちいいなあ”って思ったんですね。津波で何も無くなってしまったし、自分のものも何も全部なくなったんだけど、ちょっと周りを見ると、今お手伝いをしている「荒浜再生を願う会」という団体の荒浜に同じく住んでいる貴田さんがそこに建物を建てたりとか、あとピザ釜があったり、“あ、なんかやってる人がいる”と。で、ちょうどそこに居た貴田さんと話をして、“津波で大変だったけど荒浜ってこんなとこだったんだよね〜”みたいな話をしながら、なんかこうやって人に話を聞いてることっていうのも、本を読んでるみたいに、なんか荒浜のことを知るっていうことが出来るんだなって思ったんですね。そのきっかけで、荒浜の方たち、そこに集まってきてる人たちがいるっていうことが分かり、じゃあ図書館っていうキーワードで、荒浜で自分が出来ることあるんじゃないかなっていうふうに思ったのがきっかけですね。なんかこの荒浜って本も建物も無いんですけど、図書館っぽいなって思ったんです。そこにいる人たち一人一人が本のような存在で、そこを訪れる人たちは、荒浜に居る人たちであったりとか、自然環境と出会うことで図書館に居るのと同じような体験ができるのかなと思ったんですね。


2014年に立ち上がった「海辺の図書館」。元住民の方と交流しながら、まちあるきの会や音楽イベント、石窯ピザ作りやBBQ、そして波の音が聴こえるベンチでの読書会など、さまざまなプログラムを実施しています。2月4日には「海辺の音楽会in荒浜ハマレレ」も開催されます。

明日も「海辺の図書館」館長、庄子隆弘さんのお話し、お届けします。

2018年1月17日

1月17日 やさしい日本語(3)

引き続き、災害が起きた時の外国人の方とのコミュニケーション方法、「やさしい日本語」についてお伝えします。

「避難所があります」 「高台に避難してください」 ではなく、 「あっちに逃げよう」。
こういう風に、やさしい日本語に言い換えるだけで、外国人の方に「伝わる」ことが数多くあります。日本在住外国人、およそ250万人のうち、英語が母国語の人の割合はたった1%。無理に英語を使うより、やさしい日本語のほうが通じるケースは本当に多いと言います。

23年前の阪神淡路大震災をきっかけに開発され、全国に広がっている「やさしい日本語」。これまでの災害経験から、様々な「言い換え例」が、インターネットにもアップされています。NPO「多文化共生リソースセンター東海」の土井佳彦さんに教えていただきました。

◆コミュニケーションが外国人との「共助」に繋がる
(※聞き手:高橋万里恵)
土井:災害があったときにはいろんな特別な言葉が出てくるんですね。避難してを、「にげて」と言い換えたり、災害で電気が止まったりガスが止まったりしますが、停電という言葉を使わず、「電気が止まる」と言い換えるとか。あとはそういうのをひっくるめてライフラインと呼びます。ライフラインがストップした、ライフラインが復旧したと言いますが、「電気、ガス、水が止まりました」と言い換えてあげるというのは覚えておいたほうが役に立つと思います。単純に言葉の言い換えだけじゃなくて、文化的な背景の違いもあります。地震が起きたときに、早く学校に避難してくださいという言い方をされます。日本人は学校の中に体育館があってそこが避難所になっていて、避難所に逃げると誰でも食べ物がもらえて寝泊まりできて、しかも無料だということは分かっている。だから学校に避難しろというのは「安全な場所に逃げようね」ということなんですが、そんな国はなかなかないんですね。災害が起きた時は、本当に屋外で着の身着のままで寝る感じだと思うんです。学校は外国人の方にとって多くの場合、子どもたちが勉強しに行くところなんですよね。だから「学校に避難しろ」と言われても、なんでこんな大変な時に学校に行って子どもでもないのに勉強するの、それどころじゃないよねと思うんです。。学校=避難所で安全です、と結びつかないと、地震が起きてもそもそも学校に避難しようということがないんですね。そこはやっぱり日本ならではの身の守り方なので、言葉と同時に文化的な背景も含めて共有していくのが大事かなと思いますね。

ーーーー例えばやさしい日本語を使うようになったとして、その行動が次のアクションにつながったり、そういう可能性もあるなと思ってらっしゃいますか。

やさしい日本語で情報が理解できれば、次の行動を自分たちで選択できるようになるというのがあります。東日本大震災では、やさしい日本語でコミュニケーションをとれた外国人の方々が、被災者というだけではなくて避難所の運営の中に関わる支援者にもなっていったんです。例えば避難所でボランティアが皆で炊き出しをしたり掃除をしたりしますよね。その時に「炊き出し」と言ってもわからない。でも「みんなでご飯作るよ」と言えば、僕も参加する、ということになる。「朝の一斉清掃の時間です」と言われても何だかわからない。「掃除するんだよ」とひとこと言えば、ああ手伝いますねと、外国人の方も一緒に活動することができます。救援物資の仕分けをする時も、「水とトイレットペーパー分けようね」と言い換えて、みんなで集まってやることができたそうです。外国人を支援するツールというだけじゃなくて、外国人の方々と一緒に何かをするためのツールとして、彼らをエンパワーメントしていくツールとしてもやさしい日本語は前よりももっと注目されているんじゃないかと思いますね。


ちなみに、日本は高齢化が続いていますが、日本で生活する「外国人の方」に限ると、平均年齢も若いといわれている。
つまり、若くて体力のある人たちが多いく、意思の疎通がとれれば、災害時はとても頼りになる助け合う関係ができると言います。大事なのは、災害が起きる前から、ご近所の外国の方とも、やさしい日本語も活用してコミュニケーションを取っておくことかもしれません。

やさしい日本語、いまはインターネットで検索すると様々な情報が出てきますし、自治体や各地のNPOなどが普及活動をしています。この機会にチェックしてみてください。
★多文化共生リソースセンター東海のサイト

あしたは仙台市荒浜からのレポートです。

2018年1月16日

1月16日 やさしい日本語(2)

引き続き、災害が起きた時の外国人の方とのコミュニケーション方法としての「やさしい日本語」についてお伝えします。

日本在住およそ250万人の外国人。そしてまもなく年間3000万人を超えるといわれる訪日外国人。災害が起きた時、こうした方々と意思の疎通を図れることが、重要な時代になりました。そこで考案されたのが「やさしい日本語」です。例えば・・・避難してください、ではなくて、「あっちに逃げよう」 と言い換えるなど、やさしい日本語でコミュニケーションを取ろうという動きが、全国的に広まっています。

とはいえ、本当にやさしい日本語が外国人の方に通用するのか。カタコトでも、英語で語り掛けた方が可能性はあるのではないかと思う方がいるかもしれません。「やさしい日本語」の普及に取り組むNPO「多文化共生リソースセンター東海」の
土井佳彦さんに伺いました。


◆英語が母国語とは限らない
(※聞き手:高橋万里恵)
ーーーー自分の知っている英語を絞り出して、でもうまく伝わらないこともたくさんあると思うんですが、そもそも日本語って伝わるものですか。

例えば日本に暮らしている外国人の方であれば、むしろ英語よりも日本語の方が自分はどちらかというとわかるという人も大勢いらっしゃると聞いています。国立国語研究所が出した調査結果によると日本に暮らしている外国人で英語ができる人は44%くらい。日本語ができる人は62〜63%という結果もあって、結構日本語ができる人が多いと言われています。直近の数字だと日本在住の外国人の数は247万人で、出身の国・地域の数では大体194カ国なのですが、そのうち英語がネイティブの人は1%くらいです。母国語が英語ですという人はそのぐらいなんですね。そうするとやっぱり誰もが、英語が完璧にわかるわけではなく、“そこそこわかる”程度。極端な話、カタコトの英語なら伝わる。ならば同じようにカタコトの日本語も伝わる。ということでやさしい日本語だったり、やさしい英語がとても大きなコミニケーションツールになると思います。

ーーーー私たちが日本語で伝える時、これなら伝わるだろうと勘違いしている言葉もたくさんありそうですね。

何気なく使っている日本語が相手にとってわかりにくいという事はよくあります。例えば、あるブラジル人のお母さんが教えてくれたんですが、子どもが学校に通っていて、お腹が痛くて学校休みたいというので、学校の先生に電話をしたそうなんです。担任の先生に「子どもがお腹が痛いから休みます」と伝えたら先生は、「腹痛で欠席ですね」と言ったんです。「腹痛じゃないんです、お腹が痛いんです。欠席じゃなくて休みます」。お母さんはそう言ったそうです。意味は同じですよね。こちらはお腹が痛いと言っているのに先生は「腹痛」と返してくる。普段の仕事や生活で使っている言葉が違うので、こっちは普通に喋っているつもりなんだけど相手にとっては難しいなんて事はいろんな場面であるんだろうなと思います。

ーーーー先ほどやさしい日本語の言い換え例の表を見てなるほどと思ったのは、私たちはクルマのエンジンを「切る」と言いますが、切る、では伝わらないんですよね。エンジンを止めてくださいと言わないと伝わらないんだというのが、なるほどなと思いました。

そうですね。「切る」という言葉には、ハサミでものを切る、縁を切るなどの意味で使います。できればあまりそういうたくさんの意味を持たない言葉を使うほうがよいですね。

一方、これが、漢字圏の国、中国や台湾の方の場合はまた違います。筆談など文字で伝える場合は、漢字で書いてあげる方が伝わりやすいそうです。「高台に避難」も漢字圏の人なら理解できることが多いと言います。逆にひらがなだと、中国・台湾の方は、なかなか理解するのは難しい。確かに言われてみればそうですね。つまり、相手によって、伝わる方法を色々と、言葉を変えて何度も語り掛けてあげるのが「やさしさ」ということなんですね。あしたも「やさしい日本語」についてお伝えします。

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2018年1月15日

1月15日 やさしい日本語(1)

今週は、コミュニケーションによる、「防災・減災」に関する情報です。

例えば、地震や大規模な火災など、大きな災害が発生したとします。あなたは避難所へ行こうと考えました。すると、最近、ご近所でよく見かける外国人の方が、路上でどうしていいかわからず困っていました。国籍は分かりません。さて、あなたは何語で語り掛けますか?

いかがでしょう。
「とにかく手を引っ張って避難所へ連れていく」などの方法もありますが、答えの一つとしていま注目されているのが実は日本語なんです。正しくは「やさしい日本語」と呼ばれているもの。これ、すでに全国的に普及活動が進んでいます。どういうものなのか。「やさしい日本語」の普及に取り組むNPO「多文化共生リソースセンター東海」の土井佳彦(よしひこ)さんに伺いました。



◆阪神淡路大震災を教訓に生まれた「やさしい日本語」
(※聞き手:高橋万里恵)
ーーーやさしい日本語は、災害がきっかけで開発されたものと聞きましたが。

今から22年半前になりますが、阪神淡路大震災が起きたのを覚えていらっしゃると思うんですね。この当時、兵庫県内には10万人ぐらいの外国人の方が住んでらっしゃったんです。100カ国くらいのたくさんの方が住んでいたんですが、この時日本社会には災害が起きたときに外国人の人にいろんな国の言葉で情報提供するというのが考えとしてなかったんです。それで、ボランティアの人たちが中心となって、英語ができる人や中国語ができる人がサポートをしていたんですけど、どうやったって追いつかない。その中で、当時アメリカではプレーンイングリッシュ(平易な英語)を使って、アメリカ国内に大勢いる移民の方や中学生でもわかる簡単な英語でコミュニケーションをとろうという動きが既にあったんです。それを日本の研究者が見つけて、プレーンイングリッシュがあるのならプレーンジャパニーズ、つまりやさしい日本語というもの考えてみようという動きが始まりました。普段もそうなんですが、災害の時は特殊な言葉をよく使ったりしますよね。外国人だけじゃなくて子どもやや高齢者、いろんな人にわかりやすい日本語を使っていこうというのが、阪神淡路大震災をきっかけに生まれたと聞いています。

ーーー実際、阪神淡路大震災や東日本大震災などで外国の方がうまく情報を得ることができなかったケースが多かったんですか。

災害の時に初めて聞く言葉があります。例えば「避難」、「炊き出しをする」。外国人の方は、なんだろう?と思うわけですよね。私が実際に被災した外国人の方から聞いたのは、自分の町が被災してできるだけ遠くに行こうと思って駅に行ったら、ラジオで「電車は“ふつう”です」と言っていた。普通だったら大丈夫だと思って駅に行ったら、電車が動いていない。普通じゃなかったの? と思ったと。彼らにとって「ふつう」というのはノーマル、普通という意味で理解していますが、ここで言う”ふつう“は「不通」、つまり動いていないという意味ですよね。同じ言い方なんだけれども意味が違うということで戸惑ったという話は阪神淡路大震災の時にもあったそうですし、熊本地震の時にも同じことが地元の新聞に掲載されていました。

ーーー例えば「逃げてください」などを伝えたい時に、やさしい日本語は有効?

やさしい日本語のコンセプトとして、やさしさと言うのは相手によって変わるというのがあります。例えば「避難してください」と言って分りましたと逃げる外国人もいます。でも、言ってもわからない場合は、「逃げてください」とか別の言い方をしてみる。そうするとわかるかもしれない、というふうにいろいろ言い方を変えていこうと言う事なんですね。言葉で行ってわからなかったら手を引っ張ってでも逃げるという気持ちを持ってもらったほうが良いかと思います。


例えば「避難」ではなく「あっちに逃げよう」、「炊き出し」ではなく「ごはんがあるよ」。
私たち日本人の多くは英語は「かたこと」しか話せませんが、「やさしい日本語」は上手に話せます。それなら無理に得意でない英語を使うより、やさしい日本語のほうが良い場合が多いということなんですね。ちなみに、日本在住の外国人はおよそ250万人いますが、英語がネイティブの人の割合はどのくらいかというとたった「1%」です。つまり日本在住外国人との共通言語は、英語ではなく「やさしい日本語」の場合が多いことになります。

あしたも「やさしい日本語」についてお伝えします。

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2018年1月12日

1月12日 平成30年浪江町 成人式 鈴木酒造

今週は、7年ぶりに地元で開かれた、福島県浪江町の成人式の様子をお届けしています。

浪江町の成人式の会場に、鈴木酒造店、鈴木大介さんの姿がありました。鈴木さんは、浪江町・請戸地区出身。震災と原発事故の影響で、いまは山形県長井市で酒造りを続けています。

鈴木酒造店では震災前から新成人に、祝い酒を振る舞ってきました。鈴木さんは式の当日早朝、山形県で日本酒を車に積み込んでふるさと浪江に。紅白のラベルを施した日本酒2本が新成人に振舞われました。

◆親御さんと飲んで震災前の日常を思い出してほしい
「おめでとうございます」「ありがとうごまーす。おいしくいただきまーす。」
「震災前からやっていたが、震災後はちょっとでも親御さんたちとこのお酒を飲んでもらえれば、震災前の日常を思い出してもらえるんじゃないかなという気持ちで。浪江の空気感を持って、それぞれの場所に戻ってもらえればと。ちょうどいまの新成人が震災のとき中学校1年生だったのかな。近所の子もいたので、懐かしくて。元気にしている姿を見て励みになるなと。強いなあと。自分たちは浪江の人たちに力をもらっているので、恩返しのような気持ちですね。


式の後鈴木さんが向かったのは、浪江町の請戸地区です。海のすぐ近くにあった自宅と酒蔵は、津波で全て流されました。周囲は「災害危険区域」に指定されて、いまは住宅などを建てることはできません。自宅と蔵の跡地には、草が生えた平らな土地が広がっています。

◆天気を読むのも酒造りの仕事のうち
あれがちょうど阿武隈の山並み。山の見え方とか雲とか風向きで、だいたい次の日の天気がわかる。ここは漁師町で、子どものころから漁師さんたちが当たり前に話していることを聞いて育ったから、自然と身体に入っています。酒造りは天気を読むのも仕事のうち。
ここ浪江町請戸にいた生活が人生のほとんどだったから、山形県長井市は今日は雪だったけど、こちらに来て晴れているので、空気の乾燥度合いとか、そういったのを見て、ここは自分の感覚のランドマークだなというところはあります。いまはなんにもないですけどね。ここは標高が低いので、お米をふかすという作業にはすごくいい環境で。(自転車ですれ違った地元の方に)あ、こんにちは!今の方は漁師さんです。あの漁師さんも港まで家が近かったけど、復興住宅に移って自転車で4キロぐらいかけて船まで通っているんです。ちょうど港に並ぶ漁船の竹の赤い旗が見えますが、1月2日の船の出初式にもうちの酒をお持ちしたり。船を清める作業にもうちの酒を使ってくれていたので。出初式はすごくにぎにぎしくて、人口の少ない地区だが、その日だけは朝4時くらいから人が歩いていているような感じで。縁起物なので、その出初の船に乗るとすごくいいということで。必ず天気がいい。ここ請戸が晴れていると、山形は雪。これは絶対。山形で雪の日に福島の天気をみるとやっぱり晴れてるな、と。


今シーズンは、山形県長井の蔵で、浪江の米と水を使った酒造りにもチャレンジしているそうです。前を向いて、一歩ずつ。

2018年1月11日

1月11日 平成30年浪江町 成人式 二十歳のことば(4)

今週は、福島県浪江町の成人式のレポートです。

震災と原発事故の影響で避難先で開かれてきた福島県浪江町の成人式が、先日7年ぶりに地元で開かれました。参加者は町の新生人のおよそ6割にあたる、114人。晴れ着に身を包み、それぞれさまざまな思いを抱いて、式に臨みました。

◆請戸に戻って自分にできることで返していきたい
畑中美咲です、菅沼遥香です。浪江町請戸地区出身です。
菅沼「いま大学生で保育士を目指しています。」
畠中「わたしも大学に行っていて、管理栄養士を目指して頑張っています。家が海から近いので、全部流されて、家はもうないです。」
菅沼「私たちの小学校の同級生が二人、被害にあって。6年間クラスが一緒だったので、二人とも仲良くて、悲しかったです。」
畑中「もともと高校にいって就職するんだと思っていたんですけど、震災があったから、地元に戻って自分にできることで返していきたいです。」
菅沼「わたしは保育士になりたいので、小さい子供に伝えていくというか、自立できるような子どもたちに育てていきたいなと思います。」


海沿いの請戸地区は、津波で350戸ほどあった集落のほとんどが被害を受けました。また、原発事故の影響で全世帯が避難を余儀なくされた地域です。
畑中さんは、請戸で300年以上続く伝統芸能「田植え踊り」の踊り手さんでもあり、2月に地元の神社で奉納される「安波祭」にも参加したい、とも話してくれました。

◆親が喜ぶことが私の幸せ
浪江町高瀬地区の増田温佳です。いま家族は郡山でわたしは上京しました。好きなことばっかりやって生きてたんですけど、将来のこととかなにも考えてなくて。デザインの勉強をずっとしていて、資格があるわけではないし、そろそろあきらめなきゃと。二十歳になってやっと、いまやっていることが将来につながらないとわかって、これから専門学校に行くと決めました。来年から歯科衛生士の資格をとるために学校に行って、将来は家族が浪江から離れられないといってずっと福島県にいるので、わたしも戻れたらいいかなと思ってます。家族にとりあえず感謝して恩返ししたい。親が喜ぶことは、わたしが幸せになることだから、自分のことを考えて生きていきたいです。


『LOVE&HOPE』 明日は福島県浪江町の成人式で「祝い酒」を振舞っていた地元の酒蔵のレポートです。

2018年1月10日

1月10日 平成30年浪江町 成人式 二十歳のことば(3)

今週は、福島県浪江町の成人式のレポートをお届けしています。

1月7日に浪江町地域スポーツセンターで行われた浪江町の「成人式」。取材の窓口になってくれた浪江町役場の木村郁也さんは、自らが二十歳の新成人でした。
成人式のあと、浪江地区と大堀地区の新成人には「タイムカプセル」の引き渡しが行われました。当時、小学6年生。震災が起こる一年前に、木村さんがタイムカプセルに入れていたのは「二十歳の自分」にあてた手紙でした。

◆「あなたの夢はなんですか?」二十歳の自分へ
えーこれ、なに!?これ、恥ずかしめっちゃ!ええっと。
「20歳の自分への手紙。いまあなたはなにをしていますか。僕は剣道が大好きです。マラソンもやっています。指導してくださる先生方がいるから、試合でも優勝したりしています。あなたはどうですか。剣道かマラソンは続けていますか。剣道は警察官になるために始めました。あなたの夢は、もしくはなっているのはなんですか。ぜひこの手紙を読んで、お母さんにお世話になったことなどを思い出してください。」

母「思い出してください、お母さんに世話になったこと(笑)」
息子「あれえ〜」
母「なんか“ありがとう”を聞いてないかな?」
息子「ありがとうございます!」
母「マラソンを続けてほしかったかな。」
息子「マラソンと剣道、どっちもやってないね。あ、これはお母さんからの手紙だ」

母「ふみやへ。小さいころからよく動き回る子でしたね。9か月で歩いてびっくりさせられました。妹が生まれてからは、小さいながらよく面倒を見てくれて、本当によいお兄ちゃんでした。お母さんはいつも安心してふみやに妹のことをお願いできました。今のまま優しいふみやでいてください。これからもなにごとも一生懸命なふみやでいてください。ふみやはお母さんの自慢の息子です。
追伸。ふみやのお嫁さんになる人は幸せだなと思います。お母さんが結婚したいくらいです。お母さんより。」

母 普通に浪江で育っていくんだなと思っていたので、まさか震災が起こるなんて。浪江にいたらできなかったこともあるので、悪いことばかりじゃなかったかなと思う。子どもは強いですね。町を残すために頑張ってもらうしかないですね。



『LOVE&HOPE』 明日も福島県浪江町の成人式の様子をお届けします。

2018年1月9日

1月9日 平成30年浪江町 成人式 二十歳のことば(2)

今週は、福島県浪江町の成人式のレポートです。

震災以来、全町民避難が続いていた浪江町では昨年4月、一部の地域で避難指示が解除されました。そこで今年は、震災以降7年ぶりにふるさと浪江町で「成人式」が行われました。今回、成人式の取材の窓口となってくれたのは、浪江町役場・教育委員会・生涯学習課の木村郁也さんです。なんか若いな〜、フレッシュだな〜、と思って聞いてみたら、なんと木村さん自身が、二十歳の新成人でした!

◆福島駅伝を役場の立場からサポートしていきたい
出身は浪江町の権現堂地区で、いま浪江町役場の教育委員会に勤務しています。震災当時は中学校1年生で、ちょうど卒業式が終わった日で、浪江中学校の友達は県外に、遠いところでは大阪や愛知に避難する方もいて、部活が一緒で仲が良かった友達も震災以来会っていない人もいるので、今回浪江で成人式ができるということで特別な思いでみんなに会えるじゃないかと思っています。
避難して3年目に、初めて浪江の町内に立ち入りをしたとき、浪江の一大イベントで「十日市」というお祭りがあって、十日市をやってた通りを車で通ったときにすごく閑散として廃れてしまっていたのがすごくショックだったのがあって。あとは市町村対抗の福島駅伝にずっと参加していましたが、いま務めている役場の教育委員会生涯学習課のみなさんがサポートしてくださったお陰で、震災後も参加し続けることができたんです。避難などで選手集めなども大変だったと思う中ずっと声をかけてくれて、震災後も途絶えることなく出ることができたので、福島駅伝はこれからもずっと関わっていきたいなと思ったので、浪江町の役場が就職先として自分には合っていると思いました。


お話に出てきた「福島駅伝」は、福島県内の市町村対抗の駅伝大会。木村さんは中学高校と陸上部でこの福島駅伝にランナーとして参加してきました。いまは「チーム浪江町」をサポートする形で関わっているそうです。

そして成人式の後、浪江地区と大堀地区の新成人には、タイムカプセルの引き渡しも行われました。

◆8年前に埋めたタイムカプセル
小学校6年のときに埋めたタイムカプセルを引き渡しがあります。なにを入れたんだろう。たぶん手紙かなんかを入れたんじゃないか。二十歳になった自分への手紙。(逆に小6の自分に手紙を書くとしたら?)まあ、震災があるということも当然わかっていなかったので。震災があったけど、いろいろ支えをいただいて、なんとか生活を送れているよと。あとは親への感謝。当時は反抗ばっかりだったので、そこは感謝しないと伝えたいです。これからは成人式を境に親孝行もできたらなあと考えています。


昨年4月、一部の地域で避難指示が解除されて、現在500人ほどの町民が町で生活を始めています。けれども、およそ180人いる元同級生のうち、浪江町で暮らすのは、木村さんただ一人。今後も同級生などが集まって、浪江の話をする機会をつくっていけたらと話してくれました。

明日はお話にあった、木村さんが小6のときに埋めたタイムカプセルの中身が明らかに!?

2018年1月8日

1月8日 平成30年浪江町 成人式 二十歳のことば(1)

今週は、福島県浪江町からのレポートです。

<成人の日誓いのことば>
誓いのことば。あれから7年が経とうとしている今、わたしたちはようやく浪江町へ帰ってくることができました。生まれ育った浪江の町で盛大な式を挙行していただけますことを大変幸せに思います。みなさんは20年間に、どのような人生を歩んできましたか?決して楽しいだけの2O年間ではなかったのではないでしょうか・・・

今日は「成人の日」ですが、福島県浪江町では昨日「成人式」が行われ、県の内外から100人を超える新成人が集まりました。浪江町は、原発事故の影響で町内全域に避難指示が出されていましたが、昨年4月、一部の地域で避難指示が解除されました。そこで今年は、震災以降初めて町内の会場で成人式が行われることになりました。

式典で「誓いのことば」を読み上げたのは、浪江町大堀地区出身の山本幸輝さん。震災当時は中学1年生でした。いまは埼玉に暮らし、東京の大学に通っていますが、ふるさと浪江には強い想いがあります。

◆アイデンティティが壊れるのが怖い
震災前から浪江には南相馬と相馬市一緒にやる「相馬野馬追」という祭りがある。父と祖父が関わっていたので、そこでのコミュニティが強くて、浪江にどうしても未練があるというか。このままなくなってほしくないという思いがありました。
いまは東京の大学に通っていますが、この浪江でどんなことができるのかなと思ったときに、「都市を考える」ということをできたらいいなと思って、そういうことを勉強したくて。なんか浪江で楽しい生活を送れるような町にしたいなと。今日来た友人120人のうち何人かと一緒に。浪江を作っていけるような友達が一人でもいればうれしい。浪江にすごく可能性を感じるというか。できあがっている都市を考えるより、「とにかくやりたい!」という気持ちというか若さを持ち続けたい。

明るいと言われるが、考えることはネガティブなことも多い。最悪のことを考える。なんで浪江でやりたいのかという話で、「可能性があるから」という話もしたが、一番は「アイデンティティが壊れるのが怖い」ということもあって。浪江という町がもしかしてなくなったときに、じゃあ俺どこ出身なんだろうみたいな。浪江がなくなったら、自分のアイデンティティがなくなっちゃうんじゃないかというような怖さもある。浪江がこのままだとやだな、浪江をもう一回どうにかしたいなと言う気持ちは、そこから来たりしている。ある意味ネガティブから来ているところもある。どちらかというと自分の性格としては、そっちがメインかなという気持ち。


山本さんが生まれ育った浪江町大堀地区は「大堀相馬焼」という焼き物で知られる地域。震災前町内には3つの中学があったが、避難のため、友人も各地に移り住んだ。成人式で7年ぶりに顔を合わせる同級生もいると話してくれた。

現在東洋大学国際地域学部に通う大学2年生。都市の在り方について学んでいる。将来の具体的な進路はまだ決まっていないが、浪江の復興や活性化の役に立ちたい、とも語ってくれた。

『LOVE&HOPE』 明日も福島県浪江町の新成人の声をお届けします。

2018年1月5日

1月5日 宮城県名取市閖上「ゆりあげ港朝市」

今週は東北各地のお正月風景、お伝えしております。きょうは宮城県名取市閖上から。

名取市の沿岸部・閖上という地域は、日曜・祝日に開く、朝市が昔から有名な場所です。


およそ40年前に始まった、この「ゆりあげ港朝市」は、お隣、仙台などからもお客さんがやってくるほど、賑わいを見せています。地元の方にとっては、昔っからずっと続いている日曜の朝の風景です。そしてこの週末、こちらでは今年最初の朝市、新春朝市を迎えます。ということで、この朝市の名物ボス。ゆりあげ港朝市 協同組合 理事長の櫻井広行さんに伺いました。


2011年の東日本大震災では壊滅的な被害を受けた朝市は、櫻井さんと朝市のメンバーたちの復興を推し進める努力によって、たった2年という早さで同じ居場所に復活。櫻井さんによれば、「震災前より、お客さんの数は1.5倍に増えている」そうで、その集客力をいまもずっとキープしています。これは、朝市の
営業時間を午前13時まで延長したことだけでなく、お買い物以外の楽しみ・・・例えばお昼ご飯を食べたり、遊びに来たり、家族で楽しめる仕掛けを試行錯誤したことが繁盛だと言います。また、2年という早さで営業を再開したことが、地元の復興機運を高めたことも言われています。

そして今度の7日(日)、8日(月・祝)が今年最初の朝市! 7日(日)は、祈願祭や太鼓演奏もあり、先着2000人にお汁粉を無料で配布、みかん50箱分のみかんまき、紅白餅によるくじびき、そして毎週やっている恒例の炉端焼きももちろんあります。この炉端焼きは、敷地内の炭火焼スペースで、お店で買った魚介類などをその場で焼いて食べられるサービス。ホタテや殻付きの牡蠣、イカ、エビなどなど、海鮮バーベキューが楽しめちゃいます。

そして震災からまるもうすぐ丸7年。町の再生、住民の生活再建について櫻井さんは「公営住宅もできて準備は終わったので、あとは住民が自分の力で移動するか。5000人弱いたが帰還するのは2000人。ゆりあげに新しく暮らしてくれる若い人たちを迎えて新しい町づくりをしないと。昔のままでは寂れていってしまう。仙台空港と仙台の間というとても条件の良い場所。その魅力に気づいていない人が多かったが、しっかり活用していきたい。」と話しました。

ゆりあげ港朝市の新春朝市は、1月7日(日)あさ6時ー13時、8日(月)同時間となっています。
詳しくは、ゆりあげ港朝市HP をご覧ください。

2018年1月4日

1月4日 宮城県石巻市 金華山黄金山神社

今週は東北各地のお正月風景をお伝えしています。
今朝は、奥州三大霊場のひとつ、宮城県石巻市の、金華山黄金山神社 権禰宜の西村強さんにお話を伺いました。

金華山黄金山神社は、牡鹿半島の南端に浮かぶ島、金華山で、今からおよそ1260年前に開かれた霊場。明治のはじめまでは女人禁制だったという神聖な場所です。東日本大震災の時は、激しい揺れと、地鳴り、海鳴りが響き渡り、津波の前には潮がひいて牡鹿半島までの約1キロが地続きなったことでも知られています。

“3年つづけて参ると一生お金に困らない”というご利益があることを以前番組でもお伝えしましたが、この3が日は、たくさんの初詣客で賑わったようです。


金華山黄金山神社へは、鮎川浜か、女川から出る定期船で渡ります。鮎川浜からは15分、女川から35分程度。
ふだんは日曜日のみの運行ですが、お正月の間は特別運行されます。今日も鮎川浜からは1便運航。そのほか海上タクシーでも渡ることが出来ます。


明日は宮城県名取市の「ゆりあげ港朝市」、7日に行なわれる「新年初市」についてお届けします!

2018年1月4日

1月3日 福島県いわき市「いわき・ら・ら・ミュウ」

今週は東北各地のお正月風景をお伝えしています。
今朝は福島県いわき市小名浜の“海と魚のテーマパーク”「いわき・ら・ら・ミュウ」からのレポートです。

隣には水族館の「アクアマリンふくしま」、目の前には太平洋という絶好の場所にある、
観光物産センター「いわき・ら・ら・ミュウ」では、元日からこの3が日は新春イベントを開催中です。

今朝は「いわき・ら・ら・ミュウ」の小玉浩幸さんに電話でお話伺いました。

◎「いわき・ら・ら・ミュウ」、お車の方は、常磐道「いわき湯本インター」から約20分。電車の方は、常磐線「泉駅」からバスで約20分。


『LOVE&HOPE』、明日は宮城県石巻市、奥州三大霊場のひとつ、金華山黄金山神社と電話を結びます。

2018年1月2日

1月2日 宮城県女川町 獅子踊り

今週は東北各地のお正月風景をお伝えしていきます。
今朝は、新しい年を迎えた宮城県女川町からのレポートです。

女川町に古くから続く「獅子振り」。各集落の神社でお正月の「春祈祷」が行われ、町じゅうで獅子舞が行われます。
今朝は女川の鷲神(わしのがみ)地区、熊野神社で獅子振りをする岡裕彦さんに電話をつなぎます。

年が明けて、一軒一軒の家を回って、大黒様・恵比寿様を家にお呼びして楽しいお正月を過ごしましょうというお手伝いをするのが、獅子振り。一軒 40分くらいかけて獅子振りをします。今日(2日)午前中は鷲神地区の住宅、午後は駅前の商店街で獅子を振ります。


明日は、福島県いわき市、“海と魚のテーマパーク”、「いわき・ら・ら・ミュウ」からのレポートです。

2018年1月1日

1月1日 宮城県南三陸町神割岬の“初日の出” 

今週は東北各地のお正月風景をお伝えしていきます。
今朝は、宮城県南三陸町、“初日の出”の名所からのレポートです。
南三陸町と石巻市の県境にある「神割崎」。ここは宮城県を代表する景勝地で、二つに割れた奇岩と押し寄せる荒波が迫力満点な場所です。

全国の「白砂青松百選」にも選ばれ、2月と10月には岩の間から日の出を望むこともできます。近くには展望台もあって、例年、太平洋から昇る初日の出を観にたくさんの方が訪れますが、今朝はその神割崎の展望台に、南三陸町戸倉出身の大学生、小野寺翔さんが行っています。

翔くんは戸倉中学校2年で被災。地元の高校を卒業後、神奈川の大学に進学。在学中、同世代の大学生を地元に案内し視察ツアーを主宰したり、町の伝統芸能の水戸辺鹿子躍(みとべ・ししおどり)を踊り手として伝えるなど、故郷とのかかわりを大切にされてきています。現在は、地元で林業に携わりたいという目標が決まり岐阜県の専門学校で学んでいます。

今朝は小野寺翔さんに、神割岬の初日の出直前のレポートを電話で伺いました。

神割岬の日の出、参考サイト

パーソナリティ 鈴村健一

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