2015年6月15日
6月15日 東松島月浜 「汐さいの宿 ちどり館」
今朝は、JR仙石線の全線復旧を受け、宮城県東松島市の観光名所“奥松島”からのレポートです。
お話を伺ったのは、『汐さいの宿 ちどり館』のご主人・鈴木一男さん。ちどり館は、東松島市「宮戸島」の南端にある 旅館です。この界隈は、月浜という海水浴場、松島と並び称される「奥松島」の絶景。海水浴や潮干狩りも楽しめる観光地で、震災前は26軒の民宿・旅館がありました。しかし現在は、ちどり館ふくめたった5軒。宮戸島全体で、8割の家屋が津波によって流されたと言います。
津波発生当時のことを鈴木さんはこう振り返ります。
◆島は30日間孤立
震災の時わたしは家にいなかった。観光のあさり取り・潮干狩りの準備をしている最中だった。このへんの人たちは地震と言えば津波と言う意識があって、私の場合はまず孫を案じた。孫を案じてすぐお家に帰って、子どもたちはいるかと聞いたが「まだ来ていない」といった。そこで学校へ行ったら校庭に子どもたちが雪の降る中、立っている人もいれば泣いている人もいた。校長先生の判断が良かったんだよね。校庭は高台にあって「ここが最終的な避難所なので子どもたちは帰しません」と判断した。それが良かった。その後家に帰ったら、ちどり館の前の駐車場に小雪がちらつくなか、年寄りからなにからみんな集まっていた。私は防災の役員もしていたので、とっさに感じた。これは寒いから・・・と思ってうちからバスを持ってきて、駐車場でエンジンをかけて暖を取ってもらった。私のバスには年寄りばかり26人ほどバスに乗せた。そしてすぐ走って学校の前まで行った。あと30秒か1分遅かったらダメだった。もう少しで坂を上りきるというところで、大浜から黒いものがきた。最初は津波だとは思わなかった。もし登り口で30秒くらい遅れていたらバスも流されただろう。金曜日だったので日曜日分の民宿用の仕入れも終わっていたから食べ物も豊富だった。冷蔵庫のものをあけて持ってきて食べてしのいだ。それですごく助かった。一番良かったのは、縄文村がある里浜の被害が少なかったこと。あそこの人たちが米などを持ってきてくれたことで私たち避難民は食べることができた。
こうして宮戸島では、およそ1000人の住民が助け合い避難したことで、たくさんの方が一命をとりとめたことで知られています。鈴木さんのご家族・・・奥さん、息子夫婦、3人のお孫さんも無事でした。
ただ、お話にあったように、助かったご家族もあと少し遅れていたら、どうなっていたかは分からないと言います。
◆息子夫婦は宿の屋根の上にいた
うちの息子たちが屋根の上にいた。PTAの会長をしていて、学校に行ったら子どもたちが泣いて騒いでいる状態だった。うちは民宿だからと毛布を取りに来たら、玄関で地鳴りがしてみたら津波だったそう。調理台を駆けあがったら廊下から水がどーっと入ってきて、そこを超えて出窓に登った。そこから普通なら考えられないが、雨どいに手をかけて70kgの身体で登ったっていうんだから。そして屋根に上がったところに津波がぶつかってきて、それを一波も二波も目撃している。だから今でも「海は嫌だ」という。私より息子の方がそういう経験をしている。私も民宿を再開するなんて考えられなかった。どうやって暮らしていくのかを考えるばっかしで。
この宮戸島は、島に繋がる橋が被災したため、30日間 本土と分断された状態になってしまったそう。鈴木さんはじめ、住民の方は まだ冬の厳しい寒さが続く中、分担して、避難生活をやりくりしていたと話します。そんな避難所での生活は120日間にわたったということです。
あすも、宮戸島『汐さいの宿 ちどり館』 鈴木一男さんのお話です。
汐さいの宿 ちどり館
お話を伺ったのは、『汐さいの宿 ちどり館』のご主人・鈴木一男さん。ちどり館は、東松島市「宮戸島」の南端にある 旅館です。この界隈は、月浜という海水浴場、松島と並び称される「奥松島」の絶景。海水浴や潮干狩りも楽しめる観光地で、震災前は26軒の民宿・旅館がありました。しかし現在は、ちどり館ふくめたった5軒。宮戸島全体で、8割の家屋が津波によって流されたと言います。
津波発生当時のことを鈴木さんはこう振り返ります。
◆島は30日間孤立
震災の時わたしは家にいなかった。観光のあさり取り・潮干狩りの準備をしている最中だった。このへんの人たちは地震と言えば津波と言う意識があって、私の場合はまず孫を案じた。孫を案じてすぐお家に帰って、子どもたちはいるかと聞いたが「まだ来ていない」といった。そこで学校へ行ったら校庭に子どもたちが雪の降る中、立っている人もいれば泣いている人もいた。校長先生の判断が良かったんだよね。校庭は高台にあって「ここが最終的な避難所なので子どもたちは帰しません」と判断した。それが良かった。その後家に帰ったら、ちどり館の前の駐車場に小雪がちらつくなか、年寄りからなにからみんな集まっていた。私は防災の役員もしていたので、とっさに感じた。これは寒いから・・・と思ってうちからバスを持ってきて、駐車場でエンジンをかけて暖を取ってもらった。私のバスには年寄りばかり26人ほどバスに乗せた。そしてすぐ走って学校の前まで行った。あと30秒か1分遅かったらダメだった。もう少しで坂を上りきるというところで、大浜から黒いものがきた。最初は津波だとは思わなかった。もし登り口で30秒くらい遅れていたらバスも流されただろう。金曜日だったので日曜日分の民宿用の仕入れも終わっていたから食べ物も豊富だった。冷蔵庫のものをあけて持ってきて食べてしのいだ。それですごく助かった。一番良かったのは、縄文村がある里浜の被害が少なかったこと。あそこの人たちが米などを持ってきてくれたことで私たち避難民は食べることができた。
こうして宮戸島では、およそ1000人の住民が助け合い避難したことで、たくさんの方が一命をとりとめたことで知られています。鈴木さんのご家族・・・奥さん、息子夫婦、3人のお孫さんも無事でした。
ただ、お話にあったように、助かったご家族もあと少し遅れていたら、どうなっていたかは分からないと言います。
◆息子夫婦は宿の屋根の上にいた
うちの息子たちが屋根の上にいた。PTAの会長をしていて、学校に行ったら子どもたちが泣いて騒いでいる状態だった。うちは民宿だからと毛布を取りに来たら、玄関で地鳴りがしてみたら津波だったそう。調理台を駆けあがったら廊下から水がどーっと入ってきて、そこを超えて出窓に登った。そこから普通なら考えられないが、雨どいに手をかけて70kgの身体で登ったっていうんだから。そして屋根に上がったところに津波がぶつかってきて、それを一波も二波も目撃している。だから今でも「海は嫌だ」という。私より息子の方がそういう経験をしている。私も民宿を再開するなんて考えられなかった。どうやって暮らしていくのかを考えるばっかしで。
この宮戸島は、島に繋がる橋が被災したため、30日間 本土と分断された状態になってしまったそう。鈴木さんはじめ、住民の方は まだ冬の厳しい寒さが続く中、分担して、避難生活をやりくりしていたと話します。そんな避難所での生活は120日間にわたったということです。
あすも、宮戸島『汐さいの宿 ちどり館』 鈴木一男さんのお話です。
汐さいの宿 ちどり館