2015年3月23日
3月19日 女川町づくり-須田町長4-
今週は宮城県女川町の町づくりについて、須田善明町長のインタビューをお伝えしています。
ま、女川町の高台からは、震災前より200m内陸側に建つ、新しい女川駅の完成した姿を見ることができます。21日(春分の日)、JR石巻線は、最後の不通区間だった浦宿―女川間の運転を再開。石巻線は全線が開通します。そして、新しい女川駅舎から、列車が走り出すのもいよいよ明後日です。
◆女川駅完成を前に
ようやく造成のグレーの色と土の色しかなかったところに、新しい女川駅と「ゆぽっぽ」という温浴施設が合築で、坂茂さんの設計で完成。お風呂部分には日本画家・千住博さんのタイルアートが。千住さんに、「お風呂だから富士山がいいんです」と頼んだら富士山を書いてくださった(笑)そして女川の子どもたちが全国から集めたタイルアートの「花」に、千住さんが木の枝を描きそれを張り付けた。千住さんとJR九州の観光列車 七つ星を手掛けた工業デザイナー水戸岡鋭治さんにやって頂いた。絶対に火事を起こせない施設になったなと(笑)
それは置いておいて、土色だったところに新しい色が付いた。これは我々にとって意味のあること。それと同時にそこは元々の被災跡地で住宅があった場所。そこに周辺の切土を盛り土造成して駅とJRの線路がある。その前面に商店街がこれから順次建築されていくことになる。今見ると区画道路や宅地ができつつあり、まさに町が立ち上がる姿が目の前に現れてきた。本当にこれは感慨深いこと。
その一方で、丸4年経ってここまできたという現実もある。町びらきは駅周辺で行うが周りは依然として造成中で、ダンプや重機がバンバン走っている。高台の団地についても、宅地供給率はまだ2割程度。公営住宅の入居率も3割程度という数字なのが現実。この27年にだいぶ加速するとは思っているが、町の再建・新生に向かってやっていきたい。そのうえで展開する、舞台の上でなにをなしていくか。我々の生き様や日常があってこそ始めて「町」になっていく。今回は町づくり会社が中心になって駅前近辺のエリアマネジメントを行っていく。にぎわいの核を作っていく。公民連携事業でスタートすることになる。ただ、どういう手法でやったら成功するのかは分からないわけです。そんな方程式があればとっくに使っている。だから我々のやることだって正解かどうかは分からない。それにチャレンジすることでちゃんと良い答えを出していかなければいけない。行政や民間が、ということではなくて、一体となってこれから新しい町がいいものになるように取り組んでいければと思っている。
女川では「復幸まちづくり女川合同会社」という会社が立ち上がり、水産など食のブランド化による復興を目指す動きも始まっています。この町づくり会社をはじめ、女川の町づくりの中心にいる若い世代。女川では「責任世代」と呼ばれ、これから10年20年と町を担う人たちです。その一人・須田町長が考える「20年後」とはどんなものなのでしょうか。
◆20年後・・・_
20年後・・・いまから数えると62歳になる。ここにずっといるのか、あるいは別の仕事に就いているのかは分からない。あるいは町づくり会社の社長になっているかもしれない。分からない中で、いまやっていることがいずれ、それぞれにとって将来への何かしらの糧になると思う。とにかく今は納得いくように全力を尽くすということ。というのはもう少し加えると、当たり前のものが4年前に一瞬にして奪われた。
きのうまで電話で話していた人間が、もう電話で話せない。あした自分がどうなっているか分からない。残念ながら私の同期は先般の交通事故で亡くなってしまったんですが、あしたが当たり前にあるかどうかは本当に分からない。だれにとっても。それを我々は最悪の形で経験させられた。だからこそ将来を見据えつつ、将来へ向かって「いま何をなすべきか」をとにかく全力で取り組むだけ。答えはあとから出てくるんだと思います。
21日に JR石巻線が全線復旧、駅舎が開業する宮城県女川町から須田善明町長のインタビュー、お伝えしました。
ま、女川町の高台からは、震災前より200m内陸側に建つ、新しい女川駅の完成した姿を見ることができます。21日(春分の日)、JR石巻線は、最後の不通区間だった浦宿―女川間の運転を再開。石巻線は全線が開通します。そして、新しい女川駅舎から、列車が走り出すのもいよいよ明後日です。
◆女川駅完成を前に
ようやく造成のグレーの色と土の色しかなかったところに、新しい女川駅と「ゆぽっぽ」という温浴施設が合築で、坂茂さんの設計で完成。お風呂部分には日本画家・千住博さんのタイルアートが。千住さんに、「お風呂だから富士山がいいんです」と頼んだら富士山を書いてくださった(笑)そして女川の子どもたちが全国から集めたタイルアートの「花」に、千住さんが木の枝を描きそれを張り付けた。千住さんとJR九州の観光列車 七つ星を手掛けた工業デザイナー水戸岡鋭治さんにやって頂いた。絶対に火事を起こせない施設になったなと(笑)
それは置いておいて、土色だったところに新しい色が付いた。これは我々にとって意味のあること。それと同時にそこは元々の被災跡地で住宅があった場所。そこに周辺の切土を盛り土造成して駅とJRの線路がある。その前面に商店街がこれから順次建築されていくことになる。今見ると区画道路や宅地ができつつあり、まさに町が立ち上がる姿が目の前に現れてきた。本当にこれは感慨深いこと。
その一方で、丸4年経ってここまできたという現実もある。町びらきは駅周辺で行うが周りは依然として造成中で、ダンプや重機がバンバン走っている。高台の団地についても、宅地供給率はまだ2割程度。公営住宅の入居率も3割程度という数字なのが現実。この27年にだいぶ加速するとは思っているが、町の再建・新生に向かってやっていきたい。そのうえで展開する、舞台の上でなにをなしていくか。我々の生き様や日常があってこそ始めて「町」になっていく。今回は町づくり会社が中心になって駅前近辺のエリアマネジメントを行っていく。にぎわいの核を作っていく。公民連携事業でスタートすることになる。ただ、どういう手法でやったら成功するのかは分からないわけです。そんな方程式があればとっくに使っている。だから我々のやることだって正解かどうかは分からない。それにチャレンジすることでちゃんと良い答えを出していかなければいけない。行政や民間が、ということではなくて、一体となってこれから新しい町がいいものになるように取り組んでいければと思っている。
女川では「復幸まちづくり女川合同会社」という会社が立ち上がり、水産など食のブランド化による復興を目指す動きも始まっています。この町づくり会社をはじめ、女川の町づくりの中心にいる若い世代。女川では「責任世代」と呼ばれ、これから10年20年と町を担う人たちです。その一人・須田町長が考える「20年後」とはどんなものなのでしょうか。
◆20年後・・・_
20年後・・・いまから数えると62歳になる。ここにずっといるのか、あるいは別の仕事に就いているのかは分からない。あるいは町づくり会社の社長になっているかもしれない。分からない中で、いまやっていることがいずれ、それぞれにとって将来への何かしらの糧になると思う。とにかく今は納得いくように全力を尽くすということ。というのはもう少し加えると、当たり前のものが4年前に一瞬にして奪われた。
きのうまで電話で話していた人間が、もう電話で話せない。あした自分がどうなっているか分からない。残念ながら私の同期は先般の交通事故で亡くなってしまったんですが、あしたが当たり前にあるかどうかは本当に分からない。だれにとっても。それを我々は最悪の形で経験させられた。だからこそ将来を見据えつつ、将来へ向かって「いま何をなすべきか」をとにかく全力で取り組むだけ。答えはあとから出てくるんだと思います。
21日に JR石巻線が全線復旧、駅舎が開業する宮城県女川町から須田善明町長のインタビュー、お伝えしました。