2015年1月21日
1月21日 阪神淡路大震災遺児 小島汀さんのメッセージ
今週は「あしなが育英会」が主催する講演会の模様から、阪神淡路大震災の震災遺児のメッセージをお届けしています。
阪神淡路大震災の遺児・孤児はおよそ600人。
「あしなが育英会」は「神戸レインボーハウス」を拠点に、子どもたちの遊び相手となり、成長を見守ってきました。
小島汀さんは、3歳の時に兵庫県芦屋市で被災し、お父さんを亡くしました。
◆東北に生き続ける理由
わたしは3歳のときに阪神淡路大震災にあって、わたしのお父さんは圧死で亡くなった。直後わたしは3時間後に救出され、斜め向かいに教会があって当時わたしの祖父母が住んでいて牧師をしていたので、教会は建物が無事で避難所になった。
お母さんは腰の骨を折って顔も血まみれで救出されたので、すぐに兵庫県の上の病院に運ばれた。なのでお兄ちゃんとわたしは震災後1年10カ月ほど、その教会で生活した。
自分のお父さんが亡くなったんだということを始めて自分の中で感じたのは、小学校1年のときの授業参観。お母さんがなかなかこなかったときに、「ああ、お父さんがいないからお母さんが働かなきゃいけないんだな」と気づいて。それから、友達がお父さんの話をしていたり、家族でどこかに行ったという話を聞いたときに、すごく寂しさを感じた。
震災を経験したのは3歳のときだったが、その時のトラウマが残っていて、トイレに一人で入れなくて扉を開けっ放しにしていたりとか、暗いところも苦手で映画館とかもいけない状況が続いていた。いまでも地震には敏感で不安に襲われることがある。小学生のときって皆簡単に「死ね」とか言ったりするけど、それが自分に向かって言われているように感じたり。恐怖感を感じて家に帰って、お母さんンの前で大泣きしたりしたこともある。そんなときにレインボーハウスに行くと、同じような経験を持つ友達に出会って、自分も頑張っていきたいなと思うようになった。
それからボランティア活動が楽しいことになり、環境防災科に通うことになってからも、どこかで震災や災害があると駆けつけるようになった。最初は行ったさきで自分になにができるんだろうと疑問を持ち続けていたが、東日本大震災の後釜石に行かせてもらって、そのときかけてもらった言葉が、「助けてあげないといけない、と負担に思わず、こうして東北に足を運んでもらうだけで、わたしたちも19年間経ったら、こんなふうに元気になれるんじゃないかと感じてそれが希望になり、支えになる」と言ってくれた人がいて、すごく元気づけられた。自分にしかできないことは、お父さんを亡くした経験を持って、寄り添うこと、隣にいてあげることだと思って、いまも東北に行き続けている。
阪神淡路大震災の遺児のメッセージ。今日は23歳、小島汀さんのお話でした。
小島さんは高校は環境防災科に進み、その後大学に。この春に就職することが決まっています。あしなが育英会を通じて、四川大地震など海外の災害の被災者とも交流を重ね、東日本大震災以降は東北でもボランティア活動を続けています。
阪神淡路大震災の遺児・孤児はおよそ600人。
「あしなが育英会」は「神戸レインボーハウス」を拠点に、子どもたちの遊び相手となり、成長を見守ってきました。
小島汀さんは、3歳の時に兵庫県芦屋市で被災し、お父さんを亡くしました。
◆東北に生き続ける理由
わたしは3歳のときに阪神淡路大震災にあって、わたしのお父さんは圧死で亡くなった。直後わたしは3時間後に救出され、斜め向かいに教会があって当時わたしの祖父母が住んでいて牧師をしていたので、教会は建物が無事で避難所になった。
お母さんは腰の骨を折って顔も血まみれで救出されたので、すぐに兵庫県の上の病院に運ばれた。なのでお兄ちゃんとわたしは震災後1年10カ月ほど、その教会で生活した。
自分のお父さんが亡くなったんだということを始めて自分の中で感じたのは、小学校1年のときの授業参観。お母さんがなかなかこなかったときに、「ああ、お父さんがいないからお母さんが働かなきゃいけないんだな」と気づいて。それから、友達がお父さんの話をしていたり、家族でどこかに行ったという話を聞いたときに、すごく寂しさを感じた。
震災を経験したのは3歳のときだったが、その時のトラウマが残っていて、トイレに一人で入れなくて扉を開けっ放しにしていたりとか、暗いところも苦手で映画館とかもいけない状況が続いていた。いまでも地震には敏感で不安に襲われることがある。小学生のときって皆簡単に「死ね」とか言ったりするけど、それが自分に向かって言われているように感じたり。恐怖感を感じて家に帰って、お母さんンの前で大泣きしたりしたこともある。そんなときにレインボーハウスに行くと、同じような経験を持つ友達に出会って、自分も頑張っていきたいなと思うようになった。
それからボランティア活動が楽しいことになり、環境防災科に通うことになってからも、どこかで震災や災害があると駆けつけるようになった。最初は行ったさきで自分になにができるんだろうと疑問を持ち続けていたが、東日本大震災の後釜石に行かせてもらって、そのときかけてもらった言葉が、「助けてあげないといけない、と負担に思わず、こうして東北に足を運んでもらうだけで、わたしたちも19年間経ったら、こんなふうに元気になれるんじゃないかと感じてそれが希望になり、支えになる」と言ってくれた人がいて、すごく元気づけられた。自分にしかできないことは、お父さんを亡くした経験を持って、寄り添うこと、隣にいてあげることだと思って、いまも東北に行き続けている。
阪神淡路大震災の遺児のメッセージ。今日は23歳、小島汀さんのお話でした。
小島さんは高校は環境防災科に進み、その後大学に。この春に就職することが決まっています。あしなが育英会を通じて、四川大地震など海外の災害の被災者とも交流を重ね、東日本大震災以降は東北でもボランティア活動を続けています。