2015年1月19日
1月19日 阪神淡路大震災遺児 中埜翔太さんのメッセージ
1995年1月17日、兵庫県南部を震度7の地震が襲いました。阪神淡路大震災です。あれから20年。先日1月17日(土)には各地で「追悼の集い」が行われました。この震災の犠牲者は、6434人。また、親を亡くした子どもたちも600人を超えました。
そんな震災遺児・孤児をサポートしてきたのが、「あしなが育英会」です。「神戸レインボーハウス」を拠点に子どもたちを見守り、寄り添ってきました。
今週は「あしなが育英会」が主催する講演会の模様から、阪神淡路大震災の震災遺児のメッセージをお届けします。
今日は、神戸市東灘区在住の中埜翔太さん、23歳です。中埜さんは、震災でお母さんを亡くし、おばあちゃんに育てられました。
◆20年前のあの日・・・
20年前の阪神淡路大震災のとき、3歳でお母さんを神戸市の灘区で亡くしました。1月17日朝は僕とお母さんで朝4時ぐらいに起きて、灘区のおばあちゃんちに行って、おばあちゃんと話しているときに地震がきて。真っ暗になってなにも見えなくなって。怖くて。おばあちゃんと自分は近かったので、おばあちゃんが僕に手を伸ばして「耳ある?目ある?鼻ある?」って、身体をさわって聞いていたのを覚えている。どれくらい時間がたったかわからないが、上がぱーっと明るくなって、見たら、作業着来たお父さんが仕事の途中で駆けつけてくれて。そのときの作業着姿のお父さんの姿はいまでも覚えている。
お母さんとは遊園地とかいっぱい行ったと後から聴かされるが、お母さんの顔も写真でしか覚えてないし、遊びにいったのも覚えてなくて、それはちょっと残念。
震災が起きてお母さんが亡くなってからは、お父さんが精神的に参っていたので、それを見かねたおばあちゃんが無理やりお父さんから引き取ってくれた。おばあちゃんは4人子育てしてて、あと一人くらいは全然いけるやろと、僕を引き取ってくれた。いまになるまでずっと育ててくれた。放任主義で、やりたいことを後悔しないようにしなさいと常々言っている。それでも、いろんなところに行って、経験していろんな人と会ってこいといつも言っていて、とにかく外に出そうと、おばあちゃんはしてくれてた。東日本大震災の遺児になったお子さんの保護者さんも、とにかく楽しい経験をいっぱいさせてあげてほしいと思う。
震災から20年たって、区切りという人もいるかもしれないが、何年たってもあまり変わらないような気がする。1月17日の僕の過ごし方は、5:46の震災発災時間に合わせて、神戸の三宮の東遊園地の追悼式典に出て、そこでお母さんの名前が書かれている名板のところに行く。そこで産んでくれたお母さんに感謝を改めてする日。
今週は阪神淡路大震災、遺児のメッセージ。今日は神戸市東灘区の中埜翔太さんのお話でした。
中埜さんは東日本大震災のときには、「これまでの恩返しがしたい」と、「あしなが育英会」の派遣で何度も東北に。震災遺児の心のケアにあたっています
明日は阪神淡路大震災の遺児で、今年新成人となった、20歳の女の子の声をお届けします。
そんな震災遺児・孤児をサポートしてきたのが、「あしなが育英会」です。「神戸レインボーハウス」を拠点に子どもたちを見守り、寄り添ってきました。
今週は「あしなが育英会」が主催する講演会の模様から、阪神淡路大震災の震災遺児のメッセージをお届けします。
今日は、神戸市東灘区在住の中埜翔太さん、23歳です。中埜さんは、震災でお母さんを亡くし、おばあちゃんに育てられました。
◆20年前のあの日・・・
20年前の阪神淡路大震災のとき、3歳でお母さんを神戸市の灘区で亡くしました。1月17日朝は僕とお母さんで朝4時ぐらいに起きて、灘区のおばあちゃんちに行って、おばあちゃんと話しているときに地震がきて。真っ暗になってなにも見えなくなって。怖くて。おばあちゃんと自分は近かったので、おばあちゃんが僕に手を伸ばして「耳ある?目ある?鼻ある?」って、身体をさわって聞いていたのを覚えている。どれくらい時間がたったかわからないが、上がぱーっと明るくなって、見たら、作業着来たお父さんが仕事の途中で駆けつけてくれて。そのときの作業着姿のお父さんの姿はいまでも覚えている。
お母さんとは遊園地とかいっぱい行ったと後から聴かされるが、お母さんの顔も写真でしか覚えてないし、遊びにいったのも覚えてなくて、それはちょっと残念。
震災が起きてお母さんが亡くなってからは、お父さんが精神的に参っていたので、それを見かねたおばあちゃんが無理やりお父さんから引き取ってくれた。おばあちゃんは4人子育てしてて、あと一人くらいは全然いけるやろと、僕を引き取ってくれた。いまになるまでずっと育ててくれた。放任主義で、やりたいことを後悔しないようにしなさいと常々言っている。それでも、いろんなところに行って、経験していろんな人と会ってこいといつも言っていて、とにかく外に出そうと、おばあちゃんはしてくれてた。東日本大震災の遺児になったお子さんの保護者さんも、とにかく楽しい経験をいっぱいさせてあげてほしいと思う。
震災から20年たって、区切りという人もいるかもしれないが、何年たってもあまり変わらないような気がする。1月17日の僕の過ごし方は、5:46の震災発災時間に合わせて、神戸の三宮の東遊園地の追悼式典に出て、そこでお母さんの名前が書かれている名板のところに行く。そこで産んでくれたお母さんに感謝を改めてする日。
今週は阪神淡路大震災、遺児のメッセージ。今日は神戸市東灘区の中埜翔太さんのお話でした。
中埜さんは東日本大震災のときには、「これまでの恩返しがしたい」と、「あしなが育英会」の派遣で何度も東北に。震災遺児の心のケアにあたっています
明日は阪神淡路大震災の遺児で、今年新成人となった、20歳の女の子の声をお届けします。