2014年6月10日

6月10日 冨沢酒造の挑戦2

今週は、福島の造り酒屋が切り開く「未来」にスポットを当てています。

福島県双葉郡で300年続く造り酒屋、「冨沢酒造」の20代目当主を父親に持つ、冨沢真理さんのインタビューです。

福島第一原発1号機に続き、3号機でも水素爆発が起きた2011年3月14日。着の身着のままで避難した真理さんとご家族は、ようやく、いわき市の親せき宅に身を寄せることができました。

その時、先に避難していた長男の守さんと、妹・真理さんが考えたこと。それは、2人が生まれ育った酒蔵のことでした。

◆「白富士酵母」を繋ぐために
兄が見つかって合流したときに、家を続けるよねと聞いたら、「うん」と兄がいった。じゃあやろう。酒造免許を取りに行こう、我が家に伝わるものを全部取りに行こうと、雨合羽をきて酒造免許と家に伝わるものを、双葉の酒蔵から全部持って帰って来た。戻って、その酵母を父に見せたところ、避難のショックで廃人のようになっていた父は、「酵母の匂いだ」とはじまり、「これじゃないんだよ、本当にうちの大事な(酵母)は」と。一番重要な酵母、白富士酵母を持って帰ってこられていなかった。うちのオリジナルの、代々味をつないできた酵母。蔵に住んでいる家付き酵母を更新して繋いできたもの。実はそのオリジナルのありかは父しか知らないため、私たちは残っていた酵母を全部持ってきたと思っていたが、大事なものを蔵に残していた。しかし4月22日、「今夜0時に(双葉町が)警戒区域に設定されます。そうなると一切入ることができません」という朝のニュースが。ご飯食べながら家族でびっくりして、何事という感じだったが、警戒区域になってしまった。入れてもらおうと町や東電、県にも再三電話で掛け合ったが「難しい、お宅一軒を認めることはできない」と。それでも、双葉に戻るため各所に電話をしていると、国の人が電話に出てくれて、冨沢酒造の味を繋げるものだからなんとかならないかと相談した「事情は分かりました、歴史をつなぐということで私が協力しましょう」と、国が動いてくれてOKがでた。そして6月7日、双葉町に入ることに。一級放射線技師が3人つき、「クルマから降りるときに線量が高かったら戻りましょう、蔵の中が線量が高くても戻ります。酵母の線量が高かったら持ち出すことはできません」と言われた。でも、それを全部クリアできて、試験管内に残していた酵母123本のうちで1本だけ元気なものもあった。これをどうにか助けようとしていたら、花春酒造が「うちでやってみるか」と声をかけてくださり、2年の約束で酒蔵のタンクを借りて日本酒を仕込むことができた。


富沢酒造の日本酒「白富士」の酵母は、わずかですが奇跡的に、原発事故の影響を受けていなかったんです。そして2011年の冬、会津若松の酒造メーカー『花春酒造』の協力で、冨沢酒造は、白富士酵母による酒造りを再開したのですが、期間は2年間。その先はまた別の協力してくれる酒蔵を探す必要がありました。

しかしこの酒蔵探しは、なかなかうまくいきませんでした。そこで、冨沢酒造・真理さんと兄・守(まもる)さんが選んだ方法とは・・・。この続きは明日お伝えします。

冨沢酒造Facebook

2014年6月9日

6月9日 冨沢酒造の挑戦1

今週は、福島の造り酒屋が切り開こうとする「未来」にスポットを当てます。

享保元年・徳川吉宗の時代から300年続く造り酒屋、「冨沢酒造」。
お話を伺ったのは、冨沢真理(とみさわ・まり)さん・30歳。冨沢酒造の20代目当主を父親に持つ真理さんは、家族経営の小さな酒蔵で、企画・営業を担当しています。

まず、真理さんとご家族が目の当たりにした、2011年3月の、震災とあの事故を振り返って頂きました。

◆「40分後にこの町は閉じます」
私たちの酒蔵は福島県双葉町新山という地域、原発からは3.5キロ地点にあります。
もうSF映画、電線はスパーク、ゴジラが通った後みたいになっている。家に帰ったら全員が無事で、倒壊もせず、蔵の張りが一本抜けただけだからとにかく片づけをしてお酒を助けてあげようという作業をして震災当日は終わった。次の日になって、町中から人が逃げ始めた。ただ「安全です、安心です、家の中に避難してください」と言われたので、蔵をかたずけることに。ただ長男だけは「万が一の時のために逃がそう、みんなが逃げるんだったら逃げる方向に逃げよう」ということで、兄にお酒を一式持たせて逃がせた。
私と認知症の祖母と両親が残って片づけをしていた。ちょうど2時半過ぎ、外で洗い物をしていたら、建物がぴいんと音叉のように共振し始め、砂利を落とすような音がジャラジャラジャラとしはじめた。
しばらくすると屋根に砂がさらさらさらと降って来た。その当時は何も知らなかったが、ちょうど第一原発の水素爆発があった。夜になって父親と祖母を逃がそうと。夜の7時すぎに後ろのお年寄りたちに言いに行ったら、もぬけの殻だった。町中を叩いて歩いたが誰もおらず、そこではじめて逃げ遅れたことが分かった。たまたま装甲車が目の前を通り、助けを求めたところ、そこで「退避命令が出ているのに何をやっている、40分後にこの町は閉じます。30分後に出る自衛隊の車両が最後の車両なのでそれについて逃げてください」と言われ、持って逃げられるのは祖父の車椅子、おむつ、毛布を祖母にかけて・・・母がトラック、、私が乗用車を運転して自衛隊の車両に囲まれて街から出たのが12日。そこからずっと避難している状態。


こうして冨沢さん一家は、2011年3月12日に避難したのですが、避難所は、被ばくを理由に受け入れてくれなかったそうです。そのため一家は、親戚を頼り14日にいわき市に入りました。家族が福島第一原発で水素爆発が起きたのを知ったのはこの時。親せき宅のテレビで、原子炉建屋が吹き飛ぶ映像を見て茫然とした、と真理さんは振り返っています。

先祖代々の酒蔵を置き去りにして、苦渋の避難をした冨沢酒造は、その後すぐ、酒造りの再開へ向けて奔走することになるのですが・・・この続きは、明日お伝えします。
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パーソナリティ 鈴村健一

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