2013年10月3日
10月3日 福島の声を聞こう4
今朝も引き続き、作家・渡辺一枝さんが東京で続ける、福島の今を伝えるイベント『福島の声を聞こう』からのレポートです。
先日、イベント会場で体験を語ったのは、南相馬市の上野敬幸さん。福興浜団として、いまも被災地のがれき撤去、行方不明者の捜索を続けている方です。上野さんのご自宅は、南相馬市の沿岸部・萱浜。
ここは、福島第一原発から、およそ22キロ地点にあります。
津波で、ご家族4人を流された上野さんご夫妻は、その直後に起きた原発事故にも、大きく翻弄されました。
◆最後の別れもできなかった
当時、お腹に子どもがいた嫁さんには、3号機が爆発したため心配で茨城の親戚を頼って避難してもらっていた。お姉ちゃん(長女)はその時にもう見つかっていた。日にちは覚えていないが、3月14日か15日に。
だから嫁さんは、お姉ちゃんの顔もお袋の顔もほとんど見ることなく避難して、火葬に立ちあうことも出来なかった。当時8才だった永吏可(えりか)との別れもできず、骨を拾ってやることも、抱きしめてやることも出来なかった。そういう苦しみ、辛さが起きたのは原発のせいだと思っている。自分のお腹を痛めた子どもが亡くなっただけでも当然辛い。最後の別れや抱きしめる事もできず避難したのを考えればすごく辛かっただろうと思う。嫁さんと同じような経験を、20キロ圏内の人たちはみんな経験している。どんな想いでずっと離れていなければいけなかったのか。一番つらい思いをしたのは、20キロ圏内で家族を亡くした方だと思う。そういう意味では東京電力への怒りは当然感じる。
上野さんの奥さんはその後、無事に女の子を出産。女の子の名前は、倖吏生(さりい)ちゃん。この名前は津波で流されたお2人のお子さんから一文字ずつもらったものです。倖吏生ちゃんは9月に、満2才を迎えています。
明日も、上野敬幸さんのお話をお伝えします。
先日、イベント会場で体験を語ったのは、南相馬市の上野敬幸さん。福興浜団として、いまも被災地のがれき撤去、行方不明者の捜索を続けている方です。上野さんのご自宅は、南相馬市の沿岸部・萱浜。
ここは、福島第一原発から、およそ22キロ地点にあります。
津波で、ご家族4人を流された上野さんご夫妻は、その直後に起きた原発事故にも、大きく翻弄されました。
◆最後の別れもできなかった
当時、お腹に子どもがいた嫁さんには、3号機が爆発したため心配で茨城の親戚を頼って避難してもらっていた。お姉ちゃん(長女)はその時にもう見つかっていた。日にちは覚えていないが、3月14日か15日に。
だから嫁さんは、お姉ちゃんの顔もお袋の顔もほとんど見ることなく避難して、火葬に立ちあうことも出来なかった。当時8才だった永吏可(えりか)との別れもできず、骨を拾ってやることも、抱きしめてやることも出来なかった。そういう苦しみ、辛さが起きたのは原発のせいだと思っている。自分のお腹を痛めた子どもが亡くなっただけでも当然辛い。最後の別れや抱きしめる事もできず避難したのを考えればすごく辛かっただろうと思う。嫁さんと同じような経験を、20キロ圏内の人たちはみんな経験している。どんな想いでずっと離れていなければいけなかったのか。一番つらい思いをしたのは、20キロ圏内で家族を亡くした方だと思う。そういう意味では東京電力への怒りは当然感じる。
上野さんの奥さんはその後、無事に女の子を出産。女の子の名前は、倖吏生(さりい)ちゃん。この名前は津波で流されたお2人のお子さんから一文字ずつもらったものです。倖吏生ちゃんは9月に、満2才を迎えています。
明日も、上野敬幸さんのお話をお伝えします。