2017年2月14日

2月14日 女川のグラフィティライター D-Bonsさん2

昨日に引き続き、宮城県女川町のグラフィティライター・D-BONS、通称ボンちゃんのインタビューです。
女川や石巻で、スプレー缶のアート「グラフィティ」による表現活動を続けていたボンちゃん。

東日本大震災後でご自宅を流され、避難生活をする中、「師匠」である東京のグラフィティライターにボンちゃんがリクエストした支援物資が、スプレー缶でした。そして、女川へ駆けつけた師匠から受け取ったスプレー缶で、再びグラフィティを描きはじめたと話します。

◆色がなくなった町に色を
高橋:スプレー缶が届いて、そこから一番最初に描いたものはなんですか。
ボン:9月か10月くらいの石巻の野外イベントでのライブペイントだったんですけど、よく使われた言葉ですが「絆」という漢字をスプレーで書いたんですね。その人のことがやっぱり頭に浮かんだし、俺が18才で出会って10年位の関係があって、俺がダメになりそうな時にスプレー缶を持ってきてくれて絵が描けるようになったというのは、本当にすごい繋がりというか絆を感じると思ったので、あまり意識せずにできたなというのはありますね。ライブペイントのときって見られて描いているので、描いている過程もすごく大事にしていて。普段 絵を描く時はボードを真っ白に下塗りするんですが、あえてその時は黒く下塗りしたところから初めて、どんどん色がついていくという。真っ黒だったキャンバスがどんどん色が明るくなっていくというイメージで描いたのを覚えていますね。
高橋:町は瓦礫というか色が無くなったところに色を付けていくイメージだったんですかね。
ボン:俺の気持ちもあっただろうし、あの当時はただ明るい絵というのは描けなくて。リアルなところは大事にしなきゃなと。あの当時はみんな気を張って行きていたからそれをちゃんと表現したかったなと。震災から1年〜3年くらいは画風が今までで一番変わった時期かもしれないですね。悲しみとかネガティブな部分もある絵をどんどん描いていて。でもそこじゃないなと。それでどんどん明るい色が増えていって。2年めくらいに牡鹿半島の大漁旗プロジェクトというので依頼されて参加したんですけど、その時に漁師さんが使っているコンテナにボランティアさんたちと一緒に絵を描くという。大漁旗をモチーフにして魚や七福神を描くという。俺はそれまで全然魚なんて描いていなくて。ずっと女川にいたのに。逆に言うと当たり前すぎて、魚なんて描く必要ないと思って、というかそれすら考えていなかった。でもこれって「オリジナル」なんじゃないかと。俺が女川で生きてきて、そこから自然に出るものってそういうものだと思うし。これだ!と思って魚を描くようになって。大漁旗には描かせないのは波なんです。当時の波っていうと津波を連想しちゃうし最初は躊躇したんですけど、漁師さんに相談したら「全然かまわないから描いてくれ」と。「俺らは別に海を憎んでいない」と。やっぱりそうなんだよなと。そこから波を描くようになって、そのプロジェクトはいい経験が出来たと思っていますね。




そしてボンちゃんは、震災後に「本当に自分がやりたいことをして生きていきたい」と、会社をやめ、グラフィティ、デザインなどを本業にすると決意。女川駅前のプロムナードに、「シュガーシャック」というバーもオープン。バーの経営者であり、グラフィティライターとして活動を続けています。

パーソナリティ 鈴村健一

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