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5月29日はロシア5人組のバラキレフの命日

17/05/29


こんばんは。今夜もお聴きいただきありがとうございます。

5月29日はロシアの作曲家、ミリイ・バラキレフ(1837-1910)の命日です。19世紀半ばから20世紀にかけて活躍し、「ロシア五人組」(バラキレフ、キュイ、ムソルグスキー、ボロディン、リムスキー=コルサコフ)のまとめ役として知られています。バラキレフは、オーケストラ作品のほか、ピアノ曲を多く残しています。その人生と作品をご紹介しました。

<プレイリスト>
M1 バラキレフ 《ひばり》
演奏)アレクサンドル・パレイ(ピアノ)
・1864年の作品。
・ロシア国民楽派の父であったグリンカ(1804-1857)が作曲した歌曲集《ペラルブルグ》より第10曲<ひばり>のフレーズをもとに、バラキレフがピアノ曲に編曲した作品です。
・「ロシア国民楽派」の祖であるグリンカは、バラキレフにとって尊敬する存在であり、5人組は「グリンカの精神を受け継ぐ」ことも標榜していました。そこでバラキレフは、グリンカの残した哀愁のある歌曲、ヴァイオリンなどでも演奏される「ひばり」をピアノの独奏曲に編曲することを思い立ちました。

M2 バラキレフ 《ピアノ協奏曲第1番》 
演奏)アナスタシア・セイフェトディノーヴァ(ピアノ)、ドミトリ・ヤブロンスキー指揮、ロシア・フィルハーモニー管弦楽団
・18歳の作品

M3 バラキレフ 《東洋風幻想曲「イスラメイ」》                                 
演奏)ミハイル・プレトニョフ (ピアノ)
・1869年の作曲。コーカサス地方への旅行中、トルコ・イスラム系諸民族の民俗音楽に接したバラキレフは、その音楽をもとに作曲を行いました。難曲として知られ、当時、名ピアニスト、ハンス・フォン・ビューローが、「あらゆるピアノ曲の中で一番難しい」と言ったとされます。また、モーリス・ラヴェルは友人に、《夜のガスパール》の作曲の目標は、「《イスラメイ》以上の難曲を書き上げること」だと伝えたと言われています。

● バラキレフの生涯は・・・
1837年、誕生。幼少から楽才を示し、貴族学校に通いながらピアノを学ぶ。
1855年、ペテルブルクへ渡り、グリンカと出会う。その後、キュイ、ムソルグスキー、リムスキー=コルサコフ、ボロディンと出会い、「力強い一団=5人組」を結成する。この頃、《ピアノ協奏曲第1番》を作曲。
1862年、バラキレフの発案により無料音楽学校が開設される。
1868年、バラキレフは校長に就任。
1869年、《イスラメイ》完成。パトロンとの軋轢から音楽学校を辞し、70年代には心身の危機に陥る。
1872年、すべての音楽活動から一時的に身を引くが、77年頃から再び楽壇に姿を現すようになる。
1881年、校長に復職し、指揮活動も再開。宮廷合唱団の楽長(82年〜94年)なども務めるが、晩年には彼の影響力は薄れ、引きこもった生活のなかで旧作の改編に専念した。1884年頃からマズルカの作曲を行う。1886年、《マズルカ第4番》
1902年、《イスラメイ》の改訂
1910年、5月29日没。享年73歳。


● バラキレフの作曲した作品は・・・
・交響曲2曲(非常に筆が遅く、交響曲第1番の完成に実に33年かかっています。かの有名なブラームスの交響曲第1番の21年を優に凌ぐ年月です。)交響詩3曲、室内楽曲や声楽曲も作曲。そして、ピアノ協奏曲2曲、ピアノソナタ2曲、7つのマズルカ、7つのワルツ、3つのノクターン、3つのスケルツォがあります。ピアノ曲は、ショパンの影響が大きいように思われます。

バラキレフといえば「イスラメイ」が代表作ですが、その生涯は、ロシア五人組のまとめ役、音楽学校の校長など社会的な役割も果たした人です。いろいろな面に興味をもっていただけたのではないでしょうか?

来週は、6月生まれの作曲家に注目します!誰でしょうか?