平野ノラさんがバレーボールとミュージカルを語る(2018/09/29 放送)
今週は、芸人の平野ノラさんをお迎えしました。
1978年10月20日、東京都・葛飾区生まれのノラさん。ご本人曰く“バリバリの体育会系”とのことで、小学校4年生の時に地元にあったバレーボールのクラブチームに入ったそうです。
「うちの母親がママさんバレーやってて、それがきっかけでそのクラブチームに行くんですけど、まぁ厳しくて。テレビで特集も2回ぐらいされてるんですよ。で、全国で何度も優勝してて、決勝がテレビ放映されて。そういうとこの常連で、めちゃくちゃ厳しくて。そこに入っちゃったもんで、小学校4年生から6年生まで3年間…振り返ったらこの時期が一番つらかったです」。
「私の1個上の代は男女アベック優勝して。私は一応、5年生でベンチには入れたんですよね、6年生がメチャクチャ強くて。でも、私が6年生の時は全国大会にも行けなかったんですよ。いつも勝ってるチームに都大会で負けたんですよ。悔しかったですね」。
全国から選手が集まってくるような強豪チームでレギュラーになったノラさんですが、それでも将来、バレーボールで生きていこうとは思わなかったとか。
「もう小学校5年生の時点でわかりましたね。才能がないっていうの。めちゃくちゃそのクラブチームの練習量はすごかったんで、そこで耐えたことはもちろん財産になっているんですけど、バレーボールで生きていくのは無理だって小学校5年生の時に判断できましたね。マジでやってればわかるんですよ」。
1978年10月20日、東京都・葛飾区生まれのノラさん。ご本人曰く“バリバリの体育会系”とのことで、小学校4年生の時に地元にあったバレーボールのクラブチームに入ったそうです。
「うちの母親がママさんバレーやってて、それがきっかけでそのクラブチームに行くんですけど、まぁ厳しくて。テレビで特集も2回ぐらいされてるんですよ。で、全国で何度も優勝してて、決勝がテレビ放映されて。そういうとこの常連で、めちゃくちゃ厳しくて。そこに入っちゃったもんで、小学校4年生から6年生まで3年間…振り返ったらこの時期が一番つらかったです」。
「私の1個上の代は男女アベック優勝して。私は一応、5年生でベンチには入れたんですよね、6年生がメチャクチャ強くて。でも、私が6年生の時は全国大会にも行けなかったんですよ。いつも勝ってるチームに都大会で負けたんですよ。悔しかったですね」。
全国から選手が集まってくるような強豪チームでレギュラーになったノラさんですが、それでも将来、バレーボールで生きていこうとは思わなかったとか。
「もう小学校5年生の時点でわかりましたね。才能がないっていうの。めちゃくちゃそのクラブチームの練習量はすごかったんで、そこで耐えたことはもちろん財産になっているんですけど、バレーボールで生きていくのは無理だって小学校5年生の時に判断できましたね。マジでやってればわかるんですよ」。
それでもバレーボールで中学校に進み、キャプテンも務めたというノラさん。高校ではバレーボールをやるつもりはなかったそうですが、結局はスポーツ推薦で進学することになり、そこでもまたキャプテンになったんだとか。
「小学校、中学校とバレーしかやってなくてまったく勉強してなかったんです。正直に言います。どの高校にも行けなかったんです」
「葛飾区の中でいちばん低い学校ありますね。ヤンチャな人しか行けないような高校ですよ。でも私、高校はもうバレーボールやめて遊びたいなと思ってたんで、進路相談の時、先生に『あそこの高校に行きます』って言ったら『いや、平野さん、あなたの成績ではそこは行けません』って言われて。私は初めて『おったまげー!』って言いましたね」
「そこも行けませんなの。私ビックリしちゃって。行けないんだと思って。げろげろですよね、ホントに。それでもう『わかりました。バレーやります』って。バレーやるしかなかったんですよ」。
そして、ノラさんは高校3年生の時のこんなエピソードについて話してくれました。
「そんなだったから赤点を取るわけですよね。赤点取って追試のテストで合格しなかったら留年するよって言われて初めてホントにヤバイと思って。留年なんかしたら大変だと思って、数学をめちゃくちゃ友達に教えてもらって勉強するんですよね。で、勉強したら追試で99点とったんですよ。そん時に初めて、勉強ってやればできるんだと思って。それを私は今、リスナーの人に言いたいです(笑)。私でもできたんだから」。
そんなノラさんがエンターテイメントの世界を意識するようになったきっかけはミュージカルだったそうです。
「先輩に歌えって言われて歌ったりとか、人前で何かやったりっていうのは、バレーボールをやってる中で少しずつ平気になってくるわけですよ。で、中学の時にミュージカルの『アニー』の映画を観たんですね。それで衝撃を受けて、こんな小さい子がこんな歌って踊ってなんて素晴らしいんだ!と思って、ミュージカルをやりたいと思うようになるんですね」
「で、文化祭とかで独りよがりの『アニー』とかをやるわけですよ。自分でアニーやりたいって言って。歌いたい、踊りたいっていうのがあって。卒業アルバムにその時の写真が載ってるんですけど、私以外のみんなは全員顔が死んでるんですよ。何やってんだ…みたいな顔してるんですよね」。
そうやってミュージカルの楽しさに目覚めたノラさんですが、そこからお笑いを目指すようになるまでには高校を卒業してからの紆余曲折があったとか。
「ぶっちゃけ遊びたいし、そういう芸事もちょっとやりたいしっていうんで、まずフリーターになるんですよね。それで、専門学校みたいなところにいったん行きたいなと思って、ミュージカル学校みたいなところにちょっと行くわけですね。でも、見学に行ったら自分の腰ぐらいの身長の女の子が歌って踊って…それを見て、ミュージカルスターになるにはもう遅いんだ…って気づくんですね」
「それで、今度は劇団やっていた友達に呼んでもらって、ちょっとやってみたら?なんて言われて、劇団に一回、客演で出るんですけど、そこでもやっぱり演技は下手なんですよね。でも、アドリブで言ったりすることに対してめちゃくちゃウケけるわけですよ。だけど、劇団員の人にめちゃくちゃ怒られるわけですよ。台詞にないことを言うなと。お前だけ目立ってもしょうがないんだと」
「それで、あぁ団体に向いてないんだなと思って。でも待てよ?と。そしたら自分のネタを作って、こういうものが面白いっていうのを自分で作って見せてみればいいんだって。で、これはなんだ?と思ったらお笑い芸人だって。そこで初めてお笑いを意識するんです。それが23ぐらいですかね」。
そして、お笑いの道を目指したノラさんですが、なかなか上手くいかなかったとか。
「お笑い芸人募集とか、あとバンド募集とかそういう雑誌があって。それのいちばん後ろに『お笑い芸人相方募集』っていうのがあって、それを見て。で、一人で行くのは怖いんで、劇団員の男の子を誘って、ついて行ってもらって」
「でも、その中では女性もいなかったし、この人と組みたいっていうのもいなくて。そうこうしているうちに24才になって。もう後1年しかないっていうんで、一人でちょっとやってみようと思って、ネタも書いて。それで、ワタナベエンターテインメントの当時のネタ見せオーディションみたいなところに飛び込むんですよ」
「で、行くんですけども、まぁホント、全然うかんないんですよ。全然ウケなくて、自分でも頭真っ白になっちゃって。『貴女はちょっと向いてないかなぁ』って。で、私、もう心が折れてしまって、向いてないんだぁって。何年かけても相方もできないし、一人でやる気もないし…っていうんで、そこで(いったん)諦めるわけです」。
来週も引き続き、平野ノラさんをお迎えして、その後の挑戦について伺います。お楽しみに!